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【俺ガイル完 4話】感想・考察 「共依存」とは何か ――「本物」との距離――

Ⅰ. 「共依存っていうのよ」

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「共依存っていうのよ」(『俺ガイル完』4話より, Ⓒ渡航、小学館/やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完, 2020)

「共依存っていうのよ」

彼女が囁く、その言葉はどんな本物よりも真実めいた冷たい響きを持っていた。*1 

共依存は『俺ガイル完』において非常に重要なテーマだ。

しかし共依存という言葉はいかんせんわかりにくい。言葉自体は誰でも聞いたことがあるかもしれないが、内実を説明するのは容易ではない。

今回はその共依存という言葉から出発して、4話を中心に俺ガイル完の核心に迫っていきたい。

先走って言ってしまえば、共依存という言葉は、「本物」という言葉と響き合い、俺ガイル全体のテーマを浮き彫りにするような言葉だと考えられるのだ。それくらい今回の考察は重要なので、筆者も気を引き締めて書いていきたいと考えている。

 

 

Ⅱ. そもそも「共依存」とはどういう意味か

ⅰ. 原作での定義

そもそも共依存とはどういう意味だろうか?

原作では、例えば以下のような説明がなされていた。

言葉の意味自体はうっすらと把握している。自身と特定の相手が互いの関係性に依存し、またその関係性に囚われていることに対して嗜癖(しへき)している状態と物の本で読んだことがある。

[……]

共依存の共依存たる所以は依存する側にあるのではなく、依存される側にあるのだと。曰く、他者に必要とされることで自分の存在価値を見出し、満足感や安心感を得ていると。*2

つまり共依存とは、互いに依存しあっていることを好ましいと思っている状態他者に必要とされることに存在価値を見出す状態だとまとめられるだろう。

 

ⅱ. 厚生労働省による定義

原作での定義を確認することは、原作ではどう捉えられているかを確認する上で大切だが、念のため一般的な定義も確認しておきたい

例えば厚生労働省による健康情報サイト「e-ヘルスネット」には以下のように記されている。

共依存(きょういぞん)
依存症者に必要とされることに存在価値を見いだし、ともに依存を維持している周囲の人間の在り様。*3

ここでも「依存症者に必要とされることに存在価値を見いだ」すことと、原作と同じようなことが書いてある。

では、八幡たちの関係性はそのような共依存だと言えるだろうか?

 

Ⅲ. 彼ら彼女らの関係は「共依存」か?

ⅰ. 八幡が雪乃に「承認」されてきたのは確かなこと

では彼ら彼女らの関係性というのは共依存と言えるだろうか?

たしかに八幡は文化祭や生徒会選挙、クリスマスイベントなど、ことあるごとに斜め上の解決方法を繰り出し、その度に雪乃によって何らかの「承認」を得てきた

例えば文化祭では八幡は雪乃に「今はあなたを知っている」と認知され*4、修学旅行では「あなたのやり方、嫌いだわ」と拒絶され*5、生徒会選挙では「わかるものだとばかり、思っていたのね」と失望され*6、クリスマスイベントの最中には「いつか、私を助けてね」と希求された*7

そのように、八幡が雪乃に何らかの形で「承認」されてきたのは確かなことだと言える*8

 

ⅱ. それを「共依存」と言うのなら……

そもそも八幡は、初めは半ば強制的に奉仕部に連れて来られたのであって、いつも奉仕部に行かなければいけない理由や義務はどこにもない。それなのにいつしか、彼は自然と奉仕部へ足を向けるようになっていた

だからたしかに、八幡は文化祭、修学旅行、クリスマスと時を重ねるごとに奉仕部の関係性を重んじるようにはなっている。あるいは八幡は、その関係性に自分の存在価値を見出し、雪乃や由比ヶ浜に必要とされることに満足感や安心感を得るようになったとも考えられる

もしそうだとするならば、それはそのまま共依存の定義に当てはまる。「他者に必要とされることで自分の存在価値を見出し、満足感や安心感を得ている」という共依存の定義そのものに当てはまる。

だからもしそれを「共依存」と言うのなら、たしかにそれは間違っているとは言い切れないかもしれない。

 

ⅲ. 「違い」があるはず……

しかしそんなのよくあることではないか?誰かに必要とされたいと思ったり大切な誰かのためにその関係性を優先したりするのはよくあることではないだろうか?

もしそのような人と人との関係を、何でもかんでも「依存」と言ってしまったら、すべての関係性が「共依存」になってしまう。

だからそこには何か違いがあるはずだ。すなわち、大切な人を優先する関係性と、共依存の関係性には、何か違いがあるはずなのだ

ではその「違い」とはいったい何だろうか?

 

ⅳ. 自立しているか否か(自他の境界線が分かれているか否か)

その「違い」にはいろいろな答え方ができるが、俺ガイルのテーマに則して言うのなら、その「違い」とは自立できているか否かだと考えられる。自立できていれば人は他人に対して依存せずに、純粋に他人を助けることができる。

言いかえればそれは、自分と他人の境界がはっきりと引かれているか否かということでもある。

例えば共依存においては自分と他人の境界が曖昧になるとよく言われる。共依存の状態にあると、例えば、依存している人の調子が悪いと自分も調子が悪くなったり、依存している人の評価がそのまま自分の評価になったりする。

反対に、共依存の関係でないならば、自分と他人はある程度はっきりと分けられている。相手の機嫌が悪くても、それは相手の問題だと割り切れるし、他人の評価は自分の評価と必ずしも一致しない。

 

ⅴ. 俺ガイルの場合

では改めて俺ガイルの場合はどうだろうか?八幡や雪乃は、依存せずに自立できているだろうか?

まず雪乃は、自立しきれていない人間として描かれているが、しかしまた、自立しているとみなせる側面もある(自立している面に関しては俺ガイル完2話の考察を参照されたい)。したがって雪乃が完璧に八幡に依存しているかというと、必ずしもそうとも言い切れないと考えられる

次に八幡は、上に記述したように、文化祭や修学旅行などを通して雪乃に依存してきたようにも見えるが、しかし彼は「本物」を求めているという点で依存しているとは言い切れないと考えられる。

ここには説明が必要だ。というより、むしろここにこそ、「共依存」と「本物」との距離という一つの対立的テーマが浮かび上がってくるのである。

 

 

Ⅳ. 「共依存」と「本物」との距離

ⅰ. 「共依存」と「本物」との近さ

アニメだけを見ていると、「共依存」という言葉はわりと唐突に出てきた印象を受けるが、雪乃の依存体質というのは原作でじわじわと示唆されてきたことであり、その意味で「共依存」という言葉が出てくるのは自然な流れではある(とは言えさすがに「共依存」が発話されるとウッとなってしまうのだが)。

そして何よりも、「共依存」という関係性は、俺ガイルの重要概念である「本物」という関係性と深い関連がある。その意味でも、「共依存」という言葉が出てくるのは自然なことである。

では「共依存」と「本物」にはどのような関連があるのだろうか? 八幡は「本物」の内実を以下のように述べていた(少し長いが、俺ガイルの核心部分なのできちんと引用しておきたい)。

俺は言葉が欲しいんじゃない。俺が欲しかったものは、確かにあった。

それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、話したいとか、一緒にいたいとかそういうことじゃない。俺はわかってもらいたいんじゃない。自分が理解されないことは知っているし、理解してほしいとも思わない。俺が求めているものはもっと過酷で残酷なものだ。俺はわかりたいのだ。わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

けれど、もしも、もしもお互いがそう思えるのなら。

その醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら。

そんなこと絶対にできないのは知っている。そんなものに多が届かないのもわかっている。

手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない。

でも、嘘みたいに甘い果実なんかいらない。偽物の理解や欺瞞のある関係ならそんなものはいらない。

俺が欲しいのはその酸っぱい葡萄だ。

[……]

「俺は、本物が欲しい」*9

ここにある言葉だけで説明するなら、「本物」とは、「わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい」という「その醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性」であると言えるだろう。

これは一歩間違えると、共依存になってしまう。なぜなら、相手のことを「完全に理解したい」と思うと同時に、相手側にも「その傲慢さを許容」してほしいと望むということは、相手を支配したいという想いにつながるからだ。

そして「相手を支配したい」という想いは、相手を支配するために「相手を依存させたい」という想いにつながる。そしてそれを相手が受け入れる、つまり「依存させられたい」と考えるならそれはもう共依存だと言える。したがって八幡が「本物」と呼ぶ関係性は、実は共依存の関係性に近いと考えられる

 

ⅱ. 「本物」の対立項としての「共依存」

しかしながら結局、「共依存」と「本物」とは厳密には違う。というよりも、「本物」を「共依存」とは違うと言いたいからこそここで「共依存」という言葉が登場するのだ

ここにおいて、『俺ガイル完』のテーマが浮き彫りになってくる。つまりそのテーマというのは、「共依存」を乗り越えて「本物」という関係性を追求するということだ

言いかえればそれは、「本物」と「共依存」の違い、あるいは「本物」という「言葉」にできないような関係性を、しかし逆説的なことに「言葉」を駆使して追求する、ということである

そこで重要になってくるのが、「言葉」という概念だ。

 

ⅲ. 「言葉」の暴力

「言葉」というのは、関係性を規定する

「恋人」と言ったら、デートするとか手をつなぐとか、普通の「恋人」がしそうなことを想像してしまうし、「共依存」といったらずぶずぶの関係を想像してしまう。あるいは当事者たちも、「恋人」なんだから~しようよ、などと言って言葉に関係性を操られてしまう。

だから「言葉」を関係性に当てはめるというのは危険なことだ。「言葉」は毒のように他人のイメージを蝕み、自分たちさえ、「言葉」にあわせて関係性を変化させてしまう。

 

ⅳ. 「言葉になんて、なりようがない」

だからこそ八幡は、基本的には「言葉」を拒絶する。

上に引用した箇所にあったように、「本物」についてさえ「俺は言葉が欲しいんじゃない」ということが前提になっている。つまり「本物」というのは、言葉にならないような、八幡にとっての理想の関係性を、かろうじて言葉に押し込めたものなのだ

だから八幡は「共依存」という、「本物」を邪魔する「言葉」と闘わねばならない。八幡の理想の関係性を「共依存」だなんて言わせないために、「本物」を追求しなければならない

「言葉になんて、なりようがない。大事なことだから言わないんだ。[……]」

[……]

共依存だからだなんて最高にわかりやすい。頼られて俺の存在意義を確かめることができるなんて言いやすい。俺自身簡単に納得できる。だが、それは答えではない。共依存は仕組みだ。気持ちじゃない。言い訳にはなっても、理由にはなってくれない。*10

共依存はあくまで「仕組み」なのだ。そしてそこにこそ「共依存」と「本物」の違いがある。

 

ⅴ. 「共依存」と「本物」の違い

八幡が求めたのは「心理」ではない。彼はいつしか平塚先生に「君は人の心理を読み取ることには長けているな」「けれど、感情は理解していない」と言われた*11

そこで彼が学んだのは、「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすること」*12

八幡は他人を「心理」で理解したいのではなく、「感情」で理解したいのだ。奉仕部の面々と関わって初めて、他人を「心理」ではなく、「感情」から「大切だ」と思えたから、彼は「本物」を求めたのだ

 

だから「共依存」と「本物」の違いは、端的に言うなら「心理」か「感情」かの違いだ。

誰かを依存させて、そこに自分の存在意義を見出すというプロセスの中には、どこを見渡しても本物の「感情」なんてありはしない。「心理」は行動の理由にならず、「感情」だけが理由になりえるのだ。

もっと言うと、「共依存」には相手への思いやりがない。「共依存」で満たされるのは、結局はむなしい自分の承認欲求だ。そこには「誰かを大切に思う」という「感情」は入り込まない

だからこれから八幡は「共依存」と闘い、「本物」を求める。

 

ⅵ. 自覚の問題

ではこれから八幡はどのように「共依存」と闘ってゆくのだろうか?

そこで問題となるのは、雪乃が八幡に依存していると自覚してしまっているということである。

「じゃないと、私、どんどんダメになる。……わかっているの、依存してること。あなたにも由比ヶ浜さんにも、誰かに頼らないなんて言いながらいつも押し付けてきたの」*13

したがって、差し当たっては雪乃がその「依存している」という自覚をどう覆せるかが問題となる。

雪乃からすれば、「自立」のためには「依存している」という自覚を払しょくしなければならないし、八幡からすれば、「本物」を求めているからには雪乃に「依存」せず、また雪乃に「依存」させないようにしながら雪乃を助けなければならないわけである。

そのために比企谷八幡にできることは何か。彼はどのような策をとるのか。それは今後の展開で明らかになるだろう。

 

Ⅴ. 雪ノ下家と「共依存」

ⅰ. なぜ陽乃はわざわざ「共依存」という言葉を当てはめたのか?

ところでなぜ陽乃はわざわざ「共依存」という言葉を当てはめたのだろうか?

陽乃とて、奉仕部の関係性が「共依存」だと言い切れないことはわかっているだろうし、わざわざそんな意地悪を言ってかき乱す理由もよくわからない。

この人はマジで暇なのか?というくらい陽乃はわざわざ高校生に食ってかかるわけだが、それはどうしてなのだろうか?

 

ⅱ. 陽乃のアンビバレントさ

これは過去の考察でも繰り返し述べていることだが、陽乃にはアンビバレントさ(両面性)が見て取れる(詳しくは1話の考察2話の考察を参照されたい)。

つまり、陽乃は奉仕部をかわいがると同時に邪魔しているし「本物」を求めていると同時に「本物」から遠ざけようとしている

4話に限って言えば、やはり陽乃には妹である雪乃を可愛がると同時に憎むような気持ちがあることが見て取れた。

八幡に「共依存っていうのよ」と言った後、陽乃は以下の場面で次のように言っていた。

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どこか寂しげな陽乃(『俺ガイル完』4話より, Ⓒ渡航、小学館/やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完, 2020)

「だけど、その共依存も、もうおしまい。雪乃ちゃんは無事独り立ちして、ちょっと大人になるんだよ」

[……]

「あいつは……、何を諦めて、大人になるんですかね」

彼女とよく似た微笑が、くしゃりと悲しげに歪んだ。

「……わたしと同じくらい、たくさんの何かだよ」*14

1話の考察で述べたように、「諦める」という行為は、主体的に行ったことに対してしかできない行為である。

したがって、ここで言われている「諦める」という言葉には、雪乃がいままで主体的に何かをしたことがなかった(いつも誰かに依存してきた)から「諦める」ことができないのに対して、陽乃は家業などすべてを自主的にやってきたからこそたくさんのことを「諦めて」きたという対比が読み取れる。

それを踏まえると、ここでの陽乃の表情も非常に複雑なものに見えてくる。

すなわち、陽乃は自分を追いかけてくる妹を可愛いと思うと同時に、いつまでも自立できない妹を憎んでもおり、しかしさらに今自立してゆく妹にどこか寂しさを感じているのではないだろうか

俺ガイル完では頻繁に登場する陽乃は、かなり複雑な想いを抱えており、読み切れない人間でもある。今後のアニメでも彼女は重要な立ち回りをするので、注目して見ていきたい。

 

ⅲ. DV彼氏、雪ノ下母

それから「共依存」などと言う言葉が出てきたり、雪乃が自立うんぬんで悩んでいる元凶は、明らかに雪ノ下母にあると考えられる。

というのは、ほかならぬ雪ノ下母こそが依存させることが得意なDV彼氏のような存在だからだ。

例えば11巻(アニメ2期11話)での、バレンタインイベントの後の雪乃とのやり取りなどは、DV彼氏そのものだ。

「あなたを信じているから、自由にさせていたけれど……。いいえ、私の責任、私の失敗ね」*15

人を責めておいて、その責が自分にあると転化する、まさにメンヘラのやり口そのものだ。「お前は俺がいないとダメなんだよ!」と言って人を殴っておいて、後から「ごめんね……痛かったね……」と言ってくるDV彼氏と大差がない。

そのような母の下で十何年間も生きてきたのだと考えると、陽乃や雪乃があのような性格になるのもうなずける。

家庭環境というのは千差万別であって、デリケートな問題でもあるのだが、現実的に重要な問題でもあり、雪ノ下母について考えていくことも大切だと考えられる。今後も注目したい。

 

Ⅵ. 由比ヶ浜と「本物」

ⅰ. 由比ヶ浜は何に悩んでいるのか

4話は由比ヶ浜の独白が印象的な回だった。これまでの考察ではあまり由比ヶ浜に触れられていないので、ここで少しふれておきたい。

そもそも由比ヶ浜は何に悩み、どうして涙を流したのだろうか?

先に結論から言えば、由比ヶ浜は「全部ほしい」という叶わない願いを抱いているからこそ悩み、苦しんでいるのだと言える。

 

ⅱ. 「全部ほしい」とはどういうことか?

「全部ほしい」というのは、11巻(アニメ2期12話)で由比ヶ浜が言った言葉だ。

「全部ほしい」というのは端的に言えば、八幡と親密な関係を結びたいと同時に、雪乃とも友愛を保ち、さらに同時に奉仕部3人の仲の良い関係性も継続したいということだと考えられる

しかしそれは現実的には不可能である。もし由比ヶ浜が八幡とより親密に、例えば仮に恋人のような関係になったら雪乃は離れてゆくし、雪乃の八幡への願いを尊重すれば、雪乃は八幡から手を引かざるを得ないからだ。

 

ⅲ. 「何もできなかった」

だから由比ヶ浜は、「本物なんて、ほしくなかった」*16とつぶやく。

なぜなら「本物」は「全部ほしい」などという欺瞞を許さないからだ。八幡の言う「本物」の関係性は、由比ヶ浜の望むような、その場しのぎの幸福が続くような関係性を許容できない。由比ヶ浜の願いと八幡の願う「本物」は一致しない。

そして結局、4話の最後で「あたしは何もできなかった」と独白することになる。「全部ほしい」と願った結果、いろいろな願いでがんじがらめになって、彼女は身動きが取れなかった。

はたして由比ヶ浜の幸せはどこにあるのだろうか。

 

 

Ⅶ. おわりに

今回は俺ガイル完4話について、「共依存」を中心に考察した。

書きたいことが多く、かなりとっ散らかった記事になってしまった。あまり納得がいっていないので後で書き直すかもしれない。

本当を言うとまだ言いたいことがあり、例えば、平塚先生の「言葉にしてくれ」というセリフは非常に示唆的だ。

というのは、「言葉」は「共依存」以上に重要なテーマだからだ。「言葉」にできない関係性を、逆説的なことに「言葉」を駆使しながら追求する、それが『俺ガイル完』で行われていくことだ。

ともかく、「言葉」の問題はどのみち後で考察することになるだろうから、今回はここで記事を終えたい。

最後になるが、ここまで読んでいただいた読者の方に感謝申し上げたい。

<参考文献>

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①~⑭』(小学館, 2011-2019)

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*1:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』p. 346

*2:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』p. 346。太字は筆者による

*3:共依存 | e-ヘルスネット(厚生労働省)より、最終閲覧日 : 2020.8.1

*4:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p. 352参照

*5:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑦』p. 254

*6:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑧』p. 332

*7:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p. 342

*8:念のため註をつけておくと、肯定されるばかりが「承認」ではない。拒絶されることや失望されることも、負の側面ではあるが、それは立派に存在を認められるということ、「承認」されることにほかならない

*9:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』pp. 253-255

*10:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』p. 353。太字は筆者による。

*11:航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』pp. 225-226

*12:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p. 232

*13:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』p. 339。太字は筆者による。ただし、アニメではちょうど「……わかっているの、依存してること」という部分だけがカットされている。それがどういう意図でカットされたのかは定かではないが、しかし雪乃が依存を自覚しているというのはいずれにせよ確かだと考えられる。

*14:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』pp. 347-348

*15:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑪』p. 219

*16:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』p. 99