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<前編>では、「知る」ということについて、特に八幡と由比ヶ浜の関係から、彼らが互いをどのように「知って」いったのかを見てきた。
<後編>においては、さらに八幡と雪乃の関係から「知る」ということを見つめ、『俺ガイル』第1章で「知る」ということがどういう意味をもっているのかについて考察してゆく。
Ⅲ. 八幡と雪乃の関係
ⅰ. 「知る」以前 ーー「きっと俺と彼女はどこか似ている」ーー
八幡と雪乃の出会いも、もちろん入学初日にまで遡るのだが、ここでは彼らが初めて部室で顔を合わせた後について重要な点を確認しておこう。
その重要な点とは、奉仕部で雪乃と一通りの会話をした後、八幡が「きっと俺と彼女はどこか似ている」((『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.70))と感じた点だ。以下に重要な箇所を引用しておこう。
自らに決して嘘をつかない。
その姿勢だけは評価しないでもない。
だって、それは俺と同じだから。
(中略)
――きっと俺と彼女はどこか似ている。柄にもなくそんなことを思ってしまった。
――今はこの沈黙すら、どこか心地いいと、そう感じていた。
――少しだけ、自分の鼓動が速くなるのを感じた。振動の刻む律動が病身の速度を追い越してもっと先へ進みたいと、そう言っている気がした。
――なら。
――なら、俺と彼女は。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.70より引用)
平塚先生曰く、「雪ノ下雪乃は持つ者であるがゆえに、苦悩を抱えている」*1。もちろん「それを隠して、強調してだましだまし、自分と周りをごまかしながらうまくやることは難しくないはず」*2だ。
しかし、雪乃はそれをしない。「自らに決して嘘をつかない」。八幡は雪乃のその、欺瞞のない姿を自らに重ねて、「俺と彼女はどこか似ている」と考えていたわけである。
ところが、この点にこそ綻びがあった。後に明らかになるように、八幡は雪乃のことを何一つ「知らなかった」のである。
ⅱ. 「知る」転機――「雪ノ下雪乃ですら嘘をつく」――
a. 壊れる「雪乃」像
八幡が雪乃を「知る」転機は、4巻終わりで迎えに来たハイヤーや5巻終わりの陽乃との会話から、八幡をはねた車に雪乃が乗っていたということが、間接的に判明したことにより訪れた。
事故で八幡を知っていたであろう雪乃が、八幡のことを「あなたのことなんて知らなかった」*3と言った、由比ヶ浜も事故の被害者だったという話題が上がっていたのにも関わらず、雪乃は何も言わなかった、その事実に、八幡は何とも言い難い気持ちを覚える。
そうして、八幡の抱いていた「自らに決して嘘をつかない」という雪乃像は壊れ、「俺は何も見てはこなかったのではないだろうか」と、雪乃のことを「知らなかった」自分に気づく。
では、比企谷八幡は。
俺は何も見てはこなかったのではないだろうか。
彼女の行動やそこに至る心理が何となく理解できるときは確かにある。だが、それは気持ちを理解できることとイコールではない。
ただ環境や立ち位置が類似しているから、そこから類推することができて、それがたまたま近似値となっているだけのことにすぎないのだ。
(中略)
俺が見てきた雪ノ下雪乃。
常に美しく、誠実で、嘘を吐かず、ともすれば余計なことさえ歯切れよく言ってのける。寄る辺がなくともその足で立ち続ける。
その姿に。凍てつく青い炎のように美しく、悲しいまでに儚い立ち姿に。
そんな雪ノ下雪乃に。
きっと俺は、憧れていたのだ。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』p.218より引用。太字は筆者による)
ここで重要なのは、引用文の太字部分からわかるように、八幡は雪乃の行動や心理を理解することができても、気持ちを理解しているわけではないと考えている点である。
なぜそれが重要なのかというと、気持ちを理解していなかった点にこそ、八幡と雪乃の関係の齟齬の原因があるためであり、もっと言うと、八幡が「心理を理解することに長けていても心情は理解していない」*4という点こそが、9巻の「本物」というテーマにつながるからだ。
以上のように、「自らに決して嘘をつかない」という雪乃像が壊れることによって、八幡は雪乃のことを「知らなかった」ことに気づき、ここから彼らは互いを「知る」方向へと向かっていくことになる。
しかしながら、読み返してみると、そもそもこの八幡と雪乃のすれ違いはすでに1巻から予期されていたのだということがわかってくる。そもそも彼らは始まりからして間違っており、彼らは決して似てなどいなかったのだ。この点は重要であるので、一度立ち止まり、1巻を振り返ってみよう。
b. 予期されていたすれ違い――変わりたい雪乃と変わらない八幡――
八幡が雪乃と「ちっとも似ていない」*5ことに気が付いたのは6巻のことであったが、そもそも彼らの「違い」は1巻の時点から明らかになっていた。
彼らの決定的な違いがわかるのは、八幡が部室を初めて訪ねてきたときのことだ。以下の箇所は、八幡と雪乃の関係を考察するに当たって、いや、『俺ガイル』という物語全般に渡って、非常に重要な箇所である。
「あの……さっきから俺の更生だの変革だの改革だの少女革命だの好き勝手盛り上がってくれてますけど、別に求めてないんですけど……」
(中略)
「傍から見ればあなたの人間性は余人に比べて著しく劣っていると思うのだけれど。そんな自分を変えたいと思わないの? 向上心が皆無なのかしら」
「そうじゃねぇよ。……なんだ、その、変わるだの変われだの他人に俺の『自分』を語られたくないんだっつの。だいたい人に言われたくらいで変わる自分が『自分』なわけねぇだろ。そもそも自己というのはだな……」
(中略)
「変わるなんてのは結局、現状から逃げるために変わるんだろうが。逃げてるのはどっちだよ。本当に逃げてないなら変わらないでそこで踏ん張んだよ。どうして今の自分や過去の自分を肯定してやれないんだよ」
「……それじゃあ悩みは解決しないし、誰も救われないじゃない」
救われない、とそう口にしたときの雪ノ下の怒った表情には鬼気迫るものがあった。
(中略)
だいたい「救う」だなんて一介の高校生が言う言葉じゃないだろう。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』①p.41~42より引用)
まずもってここに、八幡と雪乃の決定的な違いが見受けられる。
その違いとは、一言で言うなら「変わりたい雪乃」と「変わらない八幡」という違いである。八幡も雪乃も、「自らに決して嘘をつかない」という点では一致していたが、彼らには「変わりたい」か、「変わらない」かという決定的な方向性の違いがあったのだ。
雪乃は「変わりたい」、あるいは他人を「変えたい」。雪乃は「自らに決して嘘をつかない」。だから、「優れた人間ほど生きづらい」*6と感じれば、優れた自分は貫いたまま「人ごと、この世界を」*7変える。しかも、そのときに欺瞞は許さないから、「飢えた人に魚を与える」のではなく、「魚の獲り方を教える」*8。
ここで注意したいのは、第1章(1~6巻)の時点では雪乃自身の「変わりたい」という願望は明らかにならない点だ。第1章で見える雪乃像は、八幡を通した完璧な像であり、だから変えられていくのは雪乃以外の人物たちである。
しかし、巻が進むにつれて、実は変わりたいのは雪乃自身なのではないか、ということが明らかになってくる。「……それじゃあ悩みは解決しないし、誰も救われないじゃない」という言葉の裏には、自分自身が救われたいという思いがあるのであって、それが9巻の「いつか、私を助けてね」*9という縋るような思い(悪く言えば依存)につながってくる。このことは今考察するにはあまりにも余白がないので、後の機会に記事にする。
他方、対する八幡は、自己変革など「別に求めてない」(=「変わらない」)。だからこそ彼は4巻でも、6巻でも、自分のやり方を貫いた。「正々堂々、真正面から卑屈に最低に陰湿に」*10というやり方を。「本当に逃げてないなら変わらないでそこで踏ん張んだよ」という言葉を体現するように。
以上のように、八幡と雪乃とでは、「孤高を貫き、己が正義を貫き」*11、「自らに決して嘘をつかない」という姿勢は共通していも、「変わりたい」か「変わらないか」という向かうべき方向性が全く違っていたのである。
そのような違いは1巻から明白に打ち出されており、ここに八幡が雪乃とがすれ違う綻びが見えていたと言えるだろう。
それでは、そんなお互いの違いによる綻びに亀裂が走った後、いったい八幡はどうやって雪乃を「知った」のだろうか?
それを知るには、まず6巻における八幡と雪乃の関係性の変化を追う必要がある。
ⅲ. 「知る」――「俺と彼女はちっとも似ていない」――
a. 乱れる雪乃像――6巻における雪乃の変化の理由――
――雪ノ下雪乃ですら嘘をつく。
そんなことは当たり前なのに、そのことを許容できない自分が、俺は嫌いだ。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』p.224より引用)
こうして八幡のもっていた「自らに決して嘘をつかない」という雪乃像は壊れ、初めて自分自身をも嫌いになりそうになる。
また、それにとどまらず、6巻ではさらに雪乃像が崩れてゆく。
「でも、お前のやり方は間違っている」
「……じゃあ、……正しいやり方を知っているの?」
声が震えていた。
「知らねぇよ。だけど、お前の今までのやり方と違ってるだろうが」
「……」
今までずっと雪ノ下のスタイルは一貫していた。助けを求められても無闇矢鱈と救ったりしなかった。手助けこそすれ、最期は必ず本人の意思にゆだねてきた。
でも、今回は違う。一から十まで雪ノ下がやって、おそらくは本人の言う通り、こいつは最後に何とかしてしまうだろう。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.197より引用)
「飢えた人に魚を与える」のではなく、「魚の獲り方を教える」はずだった、そのはずだったのに、雪乃は独りで何とかしようとしていた。「人ごと、この世界を」変えるはずだった雪乃は、他人を変えることを諦め、相模の欺瞞を許してしまっていたのだ。
この雪乃の変化はなぜ起きたのだろうか?つまり、なぜ雪乃は、5巻を過ぎて急に6巻で「やり方」を変えたのだろうか?
これに関しては、細かく解説すると1記事は優に超えるし、第2章以降の話も絡んでくるので、ここでは要点だけ述べておく。
思うに、雪乃の変化が起きた理由は、八幡のやり方=独りでも誰かを救ってしまうやり方を見て、自分も独りで誰かを救いたい、ひいては自分も「変わりたい」という思いが働いたからだと考えられる。
まず前提として、雪乃は実家で母親から管理され、抑圧され、姉に外向きの立場を奪われてきたという事実がある。そこで雪乃に芽生えたのは、誰にも依存せず、自立したいという思いだったと推測できる。
そう考える理由も端折ることになるが、例えば独り暮らしを始めたことや、誰かを救うために奉仕部を立ち上げたことなどが、雪乃が自立したいと考えていた証拠だと言える。
そうした思いを抱えた中、雪乃は八幡に出会う。千葉村では、八幡が自分を曲げない斜め上の解決法で、独りで問題を解消する姿を目にする。その後、夏休みに自宅に軟禁状態となった雪乃は、そこでまた、無力な自分、自立していない自分をより強力に自覚することになったのではないだろうか。
事故のことがバレて部室にいづらいという表面的な理由もあるが、自立した自分に変わりたい、誰にも依存せず独りで問題を解決したい、そんな思いが八幡のやり方を見ることでさらに強く働いた結果が、あの雪乃の変化につながったのではないだろうか。
その査証として、「……本当に、誰でも救ってしまうのね」*12や「あなたを見ていると、無理して変わろうとするのが馬鹿らしいことに思えてくるわ」*13という発言が挙げられる。「無理して変わろうとするのがばからしく思えてくる」ということは、反対に、雪乃自身は変わろうとしていたということを意味するのではないだろうか。
以上のことから、雪乃は管理されてきた自身の境遇に加えて、八幡のやり方を間近でみることによって、自立したい=依存したくない=独りで問題を解決したいという思いを強くした結果、「やり方」を変えたのだと考えられる。
そのように「やり方」を変えた雪乃を見て、八幡のイメージしていた雪乃像は、一度壊れることになる。しかし一度崩壊した雪乃像も、またいずれ像が結ばれることになる。
b. 再び結ばれた雪乃像――「ああ、まったくそうだ。雪ノ下雪乃って奴はこういう人間なんだ」――
八幡の中で再び雪乃像が結ばれることになるのは、文化祭終盤、相模が行方をくらませた後である。相模捜索のため、時間を稼がなければいけない局面で、雪乃は陽乃に駆け引きを持ちかける。
「ペナルティーはないわ。……でもメリットはある」
「どんな?」
(中略)
「この私に、貸しを一つ作れる。」
(中略)
「……雪乃ちゃん、成長したのね」
「いいえ………」
対して、雪ノ下は微笑んだ。
「私はもともとこういう人間よ。十七年間一緒にいて見てこなかったの?」
(中略)
――ああ、まったくそうだ。雪ノ下雪乃って奴はこういう人間なんだ
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.301~302より引用)
ここで八幡は雪乃を「こういう人間なんだ」と思っているわけだが、いったいどういう人間だと思っているのだろうか?
これを言語化するのは難しいが、一言で言うなら、ここで八幡が結んだ雪乃像は「強い雪乃像」だと言える。
やり方を変え、どこか弱弱しくなっていた雪乃も、八幡と由比ヶ浜の訪問、それからスローガン決めでの一件を経て、相模をうまくコントロールしながら、文実の仕事を歯切れよくこなしてゆく。
ここでまた、雪乃は以前のような「孤高を貫き、己が正義を貫き、理解されないことを嘆かず、理解することを諦める」、「寄る辺がなくともその足で立ち続ける」*14、そんな「強い雪乃像」を取り戻したと言える。
そのように、以前から抱いていた雪乃像を取り戻したからこそ、八幡は「雪ノ下雪乃って奴はこういう人間なんだ」と思えたのではないだろうか。つまり、以前から抱いていた雪乃のイメージ、あるいはその補強版のイメージだからこそ、八幡はその「強い雪乃像」を結びなおせたのだと言える。
しかしお気づきかもしれないが、それは虚像でしかない。「強い雪乃像」は、たくさんの問題を孕んでいる。
これについては別の考察で見ることにして、差し当たっては、八幡がその虚像をどう確立したのか、どのような点で雪乃を「知った」と考えたかを見ていこう。
c. 「……でも、今はあなたを知っている」
「雪ノ下雪乃ですら嘘をつく」、それを許容しきれなかった八幡が、その嘘つきの雪乃像を解体し、さらに新たな雪乃像を結び直したのは、6巻の終わりになってのことである。
まずもって八幡は、雪乃と自分との違いを認めた上で新たな関係を結ぼうとしている。ここは1巻との対比になっている重要な場面なので引用しておこう。
何の変哲もない、いたって普通の教室。
けれど、そこがあまりにも異質に感じられたのは一人の少女がそこにいたからだろう。
斜陽の中で、静かにペンを走らせている。
世界が終わったあとも、きっと彼女はこうしているんじゃないか、そう錯覚させるほどに、この光景は絵画じみていた。それを見たとき、俺は身体も精神も止まってしまった。
――不覚にも見惚れてしまった。
(中略)
――そう。
――俺と彼女はちっとも似ていない。
――だからだろうか、こうして交わす言葉がいつも新鮮で心地いいと、そう感じていた。――祭りの余熱が身体の中で燻っているのを感じた。問い直して、新たに導き出した答えはちゃんと結論になっている。
――なら、
――なら俺と彼女は。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.349より引用)
ここは綺麗に1巻p21およびp70の描写と対句になっているのだが、大きな違いは、1巻では「きっと俺と彼女はどこか似ている」となっている箇所が6巻では「俺と彼女はちっとも似ていない」となっている点である。
ここにおいて八幡は、きちんと雪乃と自分が「似ていない」ということを認めている。八幡が雪乃と過ごした半年近い期間が、彼にそれを認めさせたと言えるだろう。
そしてさらに、「雪ノ下雪乃ですら嘘をつく」という八幡の理解は、雪乃自身にそれを問い直して、雪乃自身が新しい答え・正しい答えを提示することで、新たな雪乃像を結ぶ。
「そうよ。虚言は吐かないもの」
(中略)
「いや別に嘘ついてもいいぞ、俺もよくついてる」
むしろついてついてつきまくる。それが私だ。
「知ってるものを知らないつったって、別にいいんだ。許容しないで、強要するほうがおかしい」
(中略)
「……嘘ではないわ。だって、あなたのことなんて知らなかったもの」
いつかのやりとりの焼き直しのように思えた。
けれど、違うのはここから先。
雪ノ下が顔を上げた。
俺を真正面に見据え、微笑んだ。
「……でも、今はあなたを知っている」
(中略)
俺も、雪ノ下も、お互いのことを知らなかった。
何を持って、知ると呼ぶべきか。理解していなかった。
ただお互いの在り方だけを見ていればそれで分かったのにな。大切なものは目に見えないんだ。つい、目をそらしてしまうから。
俺は。
俺たちは。
この半年近い期間をかけて、ようやく互いの存在を知ったのだ。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.351~354より引用)
こうして比企谷八幡は、雪ノ下雪乃を「知った」。
言うまでもなく、「あなたのことなんて知らなかった」とは、存在として八幡を認知してはいたかもしれないが、八幡がどういう人間でどういう在り方をしているのか、その内実を「知らなかった」ということだ。
雪乃は、半年近い期間をかけて、八幡の在り方を、生き方を見ることで、その内実、人間性を知った。だから半年近く過ぎた「今はあなたを知っている」と言える。
そのような意味で「知る」という用語を使っているのだから、「知らなかった」というのは「嘘」ではないでしょ?というわけだ。言葉遊びのようなものだが、人間らしいロジックだ。これにやられた八幡は、「ようやく互いの存在を知った」と感じているわけである。
だが、前述したように、ここには問題がある。ようやく結んだ虚像は決して実像ではない。改めて彼ら彼女らが「知る」をどう捉えているのか、そこにどんな課題が残されたのか、それを次に見て第1章の考察の幕を下ろすことにしよう。
Ⅳ. 「知る」ということ
ⅰ. 『俺ガイル』における「知る」の意味
『俺ガイル』において、「知る」という言葉はどういう意味を持っているのだろうか?
まずそれは先ほど引用した「……でも、今はあなたを知っている」という単語からうかがえる。
すなわち、そこで「知る」という単語は、一般的なその人の存在を認識しているという意味ではなく、その人がどういう人間なのかの内実・人間性を理解するという意味で使われていた。
しかし『俺ガイル』において「知る」という言葉は、それ以上の意味を含んでいると考えられる。
例えば、『俺ガイル』における「知る」という言葉を考えるのに、5巻の以下の場面が参考になる。
「まぁなんだ。事故のこともあいつの家のことも知らぬ存ぜぬでいいんじゃねぇの」
オープンにしていないこと。雪ノ下にとって触れてほしくないことは触れないでいるべきだ。
分かり合うことなんてできないし、分かったふりをされれば腹も立つ。無関心でいることがありがたい場合なんていくらだってある。
(中略)
「知らないままで、いいのかな……」
由比ヶ浜は得心いかない様子で、俯き足もとに目をやった。
(中略)
「知らないことが悪いことだとは思わないけどな。知ってることが増えると面倒ごとも一気に増えるし」
知ることはリスクを背負う行為に外ならない。知らなければ幸せなことはたくさんある。人の本当の気持ちなどその最たるものだろう。
(中略)
「でもあたしはもっと知りたい、な……。お互いよく知って、もっと仲良くなりたい。困ってたら力になりたい」
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』p.207より引用。太字は筆者による)
ここにあるように、まさに「知ることはリスクを背負う行為に外ならない。知らなければ幸せなことはたくさんある」。そして「人の本当の気持ちなどその最たるものだ」。
これこそ『俺ガイル』における「知る」を体現した言葉に他ならない。「もっと知りたいな」と言う由比ヶ浜は、「待たないで、……こっちから行く」*15わけで、何と言っても第2章からは、「知る」を上のように定義した八幡自身が、「リスクを背負」って、「人の気持ち」を知ろうとする。
つまり、言い換えれば『俺ガイル』における「知る」とは、他人の気持ちを知る覚悟をすることに他ならない。それはすなわち、他人に踏み込んでいくということである。「リスクを背負」ってまで、他人のことを知りたいと思うことである。
この「知る」の定義は、第2章自体がその査証となっているのだが、それは『俺ガイル』についての次の考察で見ることとしたい。
しかしその前に、「知る」ことが孕む、あるいは第1章が抱えている問題を確認しておこう。
ⅱ「知る」こと(第1章)で残された課題
a. 「知る」ことで結ばれる虚像
第6巻まで来てようやく、彼ら彼女らは互いを「知った」わけだが、そこにはたくさんの問題が偏在している。
例えば、「知る」ことによる弊害は6巻ではっきりと示されている。
俺は。
俺たちは。
この半年近い期間をかけて、ようやく互いの存在を知ったのだ。
名前と断片的な印象だけが占めていた人物像を、まるでモザイク画のように一つ一つ欠片を埋めて、虚像を作り上げることができた。
きっと実像ではないのだろうけど。
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.354より引用。太字は筆者による)
そう、彼ら彼女らが作り上げた像は、実像ではない。それは虚像である。だから八幡は「由比ヶ浜結衣は優しい女の子だ。そう勝手に決めつけていた。/雪ノ下雪乃は強い女の子だ。そうやって理想を押し付けていた」*16と、そう回顧することになる。
いつだって虚像を作り上げてしまうから、彼ら彼女らは間違え続ける。はたして人が人を本当に「知る」ことなどありえるのだろうか? これが問題として明るみに出るのはまだ先の事だ。
差し当たっては、もっと先に綻ぶ問題を見ておこう。
b. 「君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ」
その問題は6巻終盤に、平塚先生によって明らかにされる。
「比企谷。誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」
ほのかに香る煙草の匂いと、それに似合わぬ柔らかな指先。湿り気を帯びた瞳は心まで見通しているようだった。
「いや、べつに傷つくってほどのもんでも……」
「……たとえ、君が痛みに慣れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気づくべきだ、君は」
(『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.344より引用)
これはすぐに、第7巻で綻んでしまう問題だ。
前述するように、「知る」とは、他人の気持ちを知る覚悟をすることだ。「リスクを背負」ってまで、他人に踏み込んでいくことだ。そして人の気持ちに踏み込むということは、傷つく、痛みを伴うことになる。
そう、「誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をすること」*17だ。でも、それでも八幡は「本物」を求める。そこに、第2章の主題がある。
ようやくお互いを「知った」彼ら彼女らは、ここからお互いに踏み込んでいく。互いの気持ちを理解しようとしたその先に一体何があるのだろうか? 「本物」とは、いったい何だろうか?
それを考えるのを、今後の課題としたい。
Ⅴ. おわりに
『俺ガイル』は文学だ。
少なくとも僕はそう思っている。大げさだろうか? 僕も少なからずそう思うけれど、『俺ガイル』には確かに、他にはない批判意識と文学としての美しさを兼ね備えているとも思う。
前にもつぶやいたけれど、僕が特に大切だと思うのは彼ら彼女らの人間関係の在り方だ。「本物」という新しい、あるいは人間古来の関係性、そこに、現代に欠けた共同体形成のヒントがあると、今の僕は感じている。
僕が『俺ガイル』のどのような点に問題意識を感じているのか、それがこの一連の考察を通じて明らかになればなと思う。そして何より、この考察を通じて、より多くの人に『俺ガイル』という作品を楽しんでいただけたらなと思う。
『俺ガイル』にもいろいろな楽しみ方があると思う。ただ僕は、他の人と何となく共有できない楽しみ方をしているかもしれないと思うことがある。でもそれは、僕ではない誰かも感じていることかもしれない。
そんな誰かにこの考察が届くことを祈っている。
最後までお読みいただきありがとうございました!
<参考文献>
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①~⑭』(小学館, 2011-2019)
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*1:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.69
*2:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.69
*3:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.81
*4:詳しくは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p225~226 「……よく見ている。キミは人の心理を読み取ることには長けているな」、「けれど、感情は理解していない」周辺参照
*5:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.349
*6:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』p.68
*7:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.69
*8:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』p.87
*9:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p.342
*10:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている⑥』p.324
*11:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』p.218
*12:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.339
*13:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.214
*14:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑤』p.218
*15:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑥』p.255
*16:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑪』p.316
*17:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p.232