Ⅰ. 言葉への批判意識
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (14) (ガガガ文庫 わ 3-24)
言葉一つじゃ足りねぇよ。
本音も建前も冗談も常套句も全部費やしたって、伝えきれる気がしない。
そんな単純な感情じゃない。たった一言で伝えられる感情が含まれているのはまちがいない。けれど、それを一つの枠に押し込めれば嘘になる。
(中略)
こんな言葉でわかるわけない。わからなくていい。伝わらなくても構わない。
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』p.398より)
この言語への批判意識が、『俺ガイル』の核心部分だと思います。
疑り深い人は「言葉」の裏を読みたくなる。すると人の心理が見えた気がして、その人を「知った」気になる。そうして人を「知る」と今度は心理だけではなく感情が伝わってくる。そうするともう「うわべ」だけでは我慢できない。だから「本物」を、もっと深いつながりを求める――
それが彼ら彼女らが一年をかけてやってきたことだと、私は思います。
だからこの終わり方は、結果だけ見れば当然の帰結だとは思います。しかしここまでの筆致で、リアルな等身大で、絶妙な「青春ラブコメ」を書いた作品が他にあったでしょうか?
私はないと思います。だから私は『俺ガイル』が本当に素晴らしい作品だと思っています。
今読み終わったところなので、考えもまとまっておらず、一発書きなのですが、いまここで感じていることをメモさせてください。
- Ⅰ. 言葉への批判意識
- Ⅱ. 「言葉」とは殺害行為である
- Ⅲ. 雪ノ下陽乃は「本物」を求めたか?
- Ⅳ. 雪ノ下雪乃は救済されたのか?
- Ⅴ. <追記2019.11.26>俺ガイルの結末にある意味絶望している話
- Ⅵ. 終わりの始まり
Ⅱ. 「言葉」とは殺害行為である
ⅰ. 「言葉」という殺害行為
言語化というのは、基本的に殺害行為です。
ある感覚、ある感情を言葉にすると、その感覚や感情はある意味死にます。
例えば、「犬のふわふわした温かみのある触感」と書いたとき、読み手はリアルな毛並みや体温を想像するでしょうが、そこにあった本当の犬の感触を言葉だけで完全に再現することはできません。
そのように、本当にそこにあったはずのリアルな「感覚」というのは、言葉で完全に再現することは不可能です。だから言葉はその意味で「殺害行為」だと言えます。
他にも例えば、「彼と彼女は恋人だ」と言えば、聞き手は各々の想像する「恋人」という概念にその二人をおしこめるでしょう。「恋人」は「普通」デートをするとか、キスをするとか、そういう「恋人」という言葉の枠に二人を当てはめようとするでしょう。
でも、実際には二人はもっと特殊な関係かもしれません。「普通の恋人たち」のようにデートはしないかもしれない、キスもしないかもしれない、傍から見れば仲が悪く見えるかもしれない……そういう独自の関係性は、「恋人」という言葉に押し込めた途端に捨象されてしまいます。
(この言葉の問題についての詳細は 僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて - 野の百合、空の鳥 参照)
ⅱ. 関係を名付けてほしくなかった
だから、『俺ガイル』では「普通に」告白してほしくなかった。「普通の恋人」になってほしくなかった。
なぜなら、『俺ガイル』で求められている「本物」というものは、言葉にできない関係性、言葉にしがたい関係性だと思っていたからです。
端的に言えば、いわゆる「誰々エンド」というのは全くナンセンスだということです。なぜなら「誰々エンド」という言葉で語れるくらいの関係が「本物」のはずないからです。八幡は絶対にそんな関係を選び取らないからです。
実際、彼らが得た関係はそんな既存の言葉に簡単に当てはめることのできないものでした。
その証拠として、例えば一色に「お二人はどういう関係になるんですか」と聞かれたときに、「どう、なるんですかね……」、「こういうのは説明が難しいのだけれど……」と雪乃と八幡が逡巡している場面が挙げられます。
これは照れ隠しなどでは決してなく、言葉で説明できない関係性だということを2人も自覚していたからだと考えられます。
また、嬉しかったのは由比ヶ浜もそのような2人の言葉にならない絶妙な関係を察知していたという点です。
由比ヶ浜はラストで「あたしの好きなひとにね、彼女みたいな感じの人がいるんだけど」と、「みたいな」と言っていて、彼らの関係がはっきりと「彼女」という言葉にできるものではないと察していると考えられます。
以上のように、言葉に批判意識をもちながら、言葉にならない関係性を、「本物」を、彼ら彼女らが求めていたということを確認できた点が、最終巻で本当に良かったと思える点でした。
ⅲ. 『俺ガイル』は共同体論である
私は『俺ガイル』は共同体論だと思います。
人と人がどれほどの関係を結べるか、どこまで深く付き合えるか、人と人との間にどれほどの可能性があるのか、それを真摯に探究したのが『俺ガイル』だと思います。
だから、彼ら彼女らが最後まで彼らなりの「本物」を求めていたことが、私にとっては救いでした。その点で、最終巻は本当に良かったです。
Ⅲ. 雪ノ下陽乃は「本物」を求めたか?
ⅰ. 「舞台装置」?
それに加えて良かったと思ったのは、陽乃の扱いです。
『俺ガイル』でずっとネックだな、と思っていたのは陽乃の扱いでした。彼女だけが少し浮いていて、彼女だけがずっと舞台装置っぽいなという感じがしていたからです。
「舞台装置」というのは、陽乃が作品の都合のいいように「アンチテーゼ」として利用されていた感が大きかったということです。
しかしそれも最終巻を読み、さらに考察を深めていくことでかなり解消されたように思いました。
ⅱ. 人間味のある陽乃
というのは、最終巻ではとくに陽乃が舞台装置ではなく、一人の人間として機能していたと思ったからです。
「ちゃんと決着つけないと、ずっと燻るよ。いつまでたっても終わらない。わたしが二十年そうやって騙し騙しやってきたからよくわかる……。そんな偽物みたいな人生を生きてきたの」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑭』p. 289より)
このあたりに陽乃の人間味が垣間見えていました。
しかし単純に人間味のあるところが描かれたから良かったというわけでもなく、むしろこれで、陽乃の人間としての「底」がある程度見えてしまったという感じがしなくもありません。
というのは、これだけだと陽乃が「うわべ」の代表格、あるいは捻じ曲がったシスコンというふうに読めなくもないからです。
ⅲ. 陽乃=「うわべ」の代表・捻じ曲がったシスコン
1.「うわべ」の代表
「うわべ」の代表格というのは、『俺ガイル』において陽乃は強化外骨格みたいな「うわべ」を駆使して、「うまくやって」生きてきた人間の代表として描かれているということです(ただもちろん彼女には「裏の顔」もあってそれゆえに彼女は苦悩しているわけですが)。
陽乃は父親の仕事を手伝う過程で、「うわべ」をうまく使って人と良好な関係を結び、また、その「うわべ」によって何でもできる「雪ノ下陽乃」像を構築してきたのだと考えられます。
ここにひとつ陽乃の「底」があります。つまり、陽乃がそうした「うわべ」だけで生きてきた人間なら、彼女はある意味で「偽物」の人生を歩んできたわけで、そういう意味で、陽乃は八幡の言う「本物」に近いものにすら触れたことがないと考えられるからです。
<追記 2020.7.14>
しかしむしろここに陽乃が「本物」を求める理由があるわけで、このことによって陽乃はより舞台装置ではなく一人の人間として描かれていると今では考えています(詳しくはアニメ俺ガイル完1話の考察参照)。
2. 捻じ曲がったシスコン
「捻じ曲がったシスコン」というのは、陽乃が雪乃のためにわざと嫌がるような行動をとり続けているという読み(解釈)のことです。
この解釈では、陽乃には、自分の通る道を綺麗にたどる雪乃を本当にかわいいと思いながらも、彼女に違う道を歩んでほしいという願いがあった、と読むことができます。
あるいは、「うわべ」の人生しか選べない自分を自己批判し、それとは違う「本物」を彼女も求めていて、その「本物」の夢を雪乃に託したと読むこともできます。
どちらかというと個人的には、陽乃も「本物」を心の底で求めていた、そしてその実現を雪乃に託したという読みの方がしっくりくる気がします。
<追記2020.7.14>
陽乃の雪乃に対する感情はそんな生半可なものではないように今では思います。
なぜなら陽乃は雪乃に「偽物」の人生を突き付けられると同時に、いわば自分の人生をまるごと否定されたようなものだからです。
だからここの読みは甘いと今は思います。これについては追い追いアニメ俺ガイル完の考察とともに記事にするつもりです。
Ⅳ. 雪ノ下雪乃は救済されたのか?
ⅰ. 「雪ノ下雪乃の救済」というテーマ
雪ノ下雪乃の救済というのが後期『俺ガイル』のテーマでした。
「救済」というのは、9巻で「いつか、私を助けてね」という雪乃のセリフに起因しています。
ⅱ. 「いつか、私を助けてね」とはどういうことか
そもそも「助けて」とはどういうことかというと、依存してしまう自立できない私を助けてねということです(もちろん助けを他者に求めてしまう時点でむしろ依存しているわけですが)。
雪乃が依存体質であることは13巻でも陽乃から指摘がありましたが、1巻から雪乃はそのような面を見せていました。
というより、それこそが雪乃が奉仕部を創った理由だと考えられます。
ⅲ. 雪乃が奉仕部を創った理由
そもそもなんで雪乃が奉仕部を創ったかというと、依存せず自立したいからだと考えられます。
ただそれはいわば隠された理由(はっきりと書かれてはいない理由)であって、彼女が言葉で言っている理由は違います。
彼女が口で言っていた理由は、「持っているもの」が損をする世界はおかしいから、「変えるのよ、人ごと、この世界を」というものでした。
ではどういうふうに変えるかというと、魚の獲り方が分からない人=自立できていない人に、「魚の獲り方を教える」というやり方で「自立」をうながすのでした。
つまりみんなが「自立」して、皆が「持っているもの」に近くなる世界を目指していたわけです。
ⅳ. 「持っていない」
ただそれは、雪乃がある意味で「持っていない」ことの裏返しだと考えられます。
たしかに雪乃は何でもできます。勉強もスポーツも、容姿も端麗。そういう意味では「持っている」人間です。
しかし、それは「依存」の延長線上として得てきたものです。というのはそれらは誰かに与えられたものを完璧にやり遂げて得たものにすぎないからです。
ⅴ. では誰が救われたかったのか
この点で雪乃は「自立」できていないと言えます。しかしだからこそ雪乃は奉仕部を立ち上げたと考えられます。
すなわち、雪乃は誰かから与えられたことを完璧にこなすのではなく、自分から主体的に何かを成し遂げる経験をするために奉仕部を立ち上げたと考えられるのです。
したがって、人に「自立」をうながしながら、本当に「自立」したかったのは雪乃の方だったのではないでしょうか。人に救いの手を差し伸べておきながら、本当に救われたかったのは雪乃自身だったのではないでしょうか。
ⅵ. 「別のものが欲しかった」
おそらく、生まれてからずっとなんでも完璧にこなしてきた雪乃は、それでも常に自分の上をいって何でもそつなくこなす陽乃にコンプレックスを抱いていたのでしょう。
というよりも、陽乃に自分のアイデンティティを奪われてきた(消されてきた)という言い方の方が正確かもしれません。
完璧にやる陽乃がいる、親から必要とされているのは陽乃だ、では自分(雪乃)の居場所はどこにあるのか……と、雪乃はそう考えていたのではないでしょうか。
そうして彼女は「なんで私はそれを持っていないんだろうって、持っていない自分に失望」*1した。だから、「別のものが欲しかった」。
そして雪乃は奉仕部を創った。姉が持っておらず、自分だけが持っている、雪乃自身のアイデンティティ、それが奉仕部だったのではないでしょうか。
そのように奉仕部は、雪乃が自立してできるのだということを示す証のようなものだったと考えられます。
ⅶ. 救済は果たされたか?
だから、雪乃が最後に救済されるのか? ということが『俺ガイル』の1つの大きなテーマでした。雪ノ下雪乃は「自立」という奉仕部設立当初の目的を達成出来たのか、それが1つの大きなテーマだったわけです。
では14巻で雪乃は「救われた」でしょうか?
私は救われたと思います。というのは、雪乃は彼女の意志で父親の仕事を手伝いたいということを伝えたし、また、八幡を選ぶという選択もしたからです。
父親の仕事を手伝うというのは、一見陽乃の後追いのようにも思えますが、これは雪乃の意志だと解釈してよいのではないでしょうか。
というのは別に誰にそうなれと言われたのでもなく、彼女自身が言ったことだからです。
それよりも、「わからない」といっていた雪乃が八幡を自分で選択し、そのことを由比ヶ浜にきちんと自ら打ち明けたことは、明確な「自立」(誰から与えられたわけでない主体的な選択)と言ってもよいのではないでしょうか。
これも一見すると、雪乃が八幡への依存を深めたように見えるのですが、「ちゃんと言うわ」と自ら気持ちを口にする選択は、依存ではないでしょう。
以上のことから、雪ノ下雪乃の救済という大きなテーマは果たされたと、今のところ私は考えています。
<追記>ここの読みは甘かったと思います。雪乃は一時的に「救われた」に過ぎないというのが今の読みです。
Ⅴ. <追記2019.11.26>俺ガイルの結末にある意味絶望している話
わけあって、俺ガイルの結末に絶望しています。詳しくは以下のツイートをご覧ください。
相変わらず俺ガイルの感想を見たり聞いたりしているのですが、14巻で八幡が本物を見つけたという解釈は、私の解釈から言うと絶対に違うのではないかなと思いました。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25日
私は「本物」は、そこに究極的に近づくことはできても原理的には到達不可能なものだと思っていて、八幡が最後にたどり着いた雪乃との関係性は、あくまで「本物」までの一過程にすぎないと考えています。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25日
何も言わなくても分かり合える、その関係性の一形態として、八幡は雪乃の人生を歪める許可をとろうとした。人生を分け合った。でもそれはそれでしかなくて、それが「本物」の到達ではない。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25日
大事なのはむしろその後で、その人生を分け合った関係性で、果たして「本物」に近づけるのかということ。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25
場合によってはその関係性は、人生を歪められた挙句他者に依存してしまう、まさに「共依存」のような関係へと堕ちてしまうこともあるだろう。
そしてもちろん場合によってはうまく関係を構築して、「本物」に近づくこともできるだろう。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25日
でも問題は、その「うまく関係を構築する」というのはどういうことかということ。「本物」に近づくには果たしてどういう関係をもてばいいのかということ。
ここに、私にはある種の絶望があって、「本物」を担保するものなんてあるのか、ひいては「本物なんてあるのだろうか……?」という疑問にたち戻らざるを得なくなった。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25日
「本物」なんて、あるのだろうか。
— 才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) 2019年11月25日
まとめると八幡たちは「本物」に到達したわけではなく、その途上であるということに気が付いたので、そこにある種の絶望があるという話なのです。
しかしその経過が見事なのであって、またその経過自体を「青春」と名付けることもできるでしょう。
問題はやはりでは「本物」を求めた先に、14巻で八幡と雪乃がたどり着いたその先に何があるのかということです。
例えば人は「恋人」のように親密になっていろいろなことを知った後に互いを嫌いになるということもあるわけで、もちろん八幡と雪乃は「恋人」ではないのですが、では彼らが結んだある種の関係の先にももっと多くの困難が横たわっているのではないかということは思わざるを得ないということです。
Ⅵ. 終わりの始まり
もしも言葉がなかったら、私たちはどういう存在になっているのだろうか。言葉のおかげで私たちは、現にあるような存在になっている。言葉だけが、限界で、もはや言葉が通用しなくなる至高の瞬間を明示するのである。
(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』酒井健 訳(ちくま学芸文庫,2004) p.470)
いささか大げさかもしれませんが、『俺ガイル』はこれに非常に近いところまでいったと思います。
言葉は無力です。言葉には限界があります。しかし言葉はそれが表現しようとするところに究極まで近づき、その当のものを指し示すことができます。そこに言葉の力があります。
『俺ガイル』が「本物」という言葉で語ろうとしていたことは、そのようなものなのではないでしょうか。
<追記>
後から見返すとかなり甘いところもあったように思います。甘いところはアニメ3期1話ごとに考察を書きながら、さらに深く考えていきたいと思います。
<参考文献>
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①~⑭』(小学館, 2011-2019)
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*1:『俺ガイル⑨』p. 346