0.0.0 はじめに
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。10 (ガガガ文庫)
本記事では俺ガイル10巻について考察・解説を行う。
俺ガイル10巻については、主に以下のような点が論点になると考えられる。
- 「手記」とは何なのか?何のためにあるのか?
- 陽乃の「見つけてくれることを、かな」というセリフはどういう意味か?
- なぜ葉山隼人は文理選択の答えを言わなかったのか?
- 葉山の「気づいてないのか?」というセリフはどういう意味か?
- 最後の陽乃の「あれは信頼とかじゃないの。……もっとひどい何か」とはどういうことか?
以下では、以上5点の疑問に答えることを中心的な目標にしつつ、そこから派生する問題についても考えていきたい。
- 0.0.0 はじめに
- 1.0.0 「手記」とは何なのか?あるいは何のためにあるのか?
- 2.0.0. 「見つけてくれることを、かな」とはどういう意味か?
- 3.0.0. なぜ葉山隼人は文理選択の答えを言わなかったのか?
- 4.0.0. 「気づいてないのか?」とはどういう意味か?
- 5.0.0. 最後の陽乃の「あれは信頼とかじゃないの。……もっとひどい何か」とはどういうことか?
- 6.0.0. おわりに
1.0.0 「手記」とは何なのか?あるいは何のためにあるのか?
1.1.0 元ネタは『人間失格』
俺ガイルにおける「手記」の元ネタは、太宰治の『人間失格』にある。というのは、『人間失格』が「はしがき」、「第一の手記」、「第二の手記」、「第三の手記」、「あとがき」という構成からできているからだ。
俺ガイルにおける「手記」は、元ネタが『人間失格』であることを知らなくても読めないことはないのだが、知っているとより深く「手記」を理解することができる。
したがって以下では『人間失格』の内容も簡単に確認した上で、俺ガイルの「手記」について考えてゆきたい。
1.2.0 『人間失格』における「手記」
俺ガイルにおける「手記」と『人間失格』との関係を知るには、そもそも『人間失格』における「手記」とはどのようなものかを最低限知る必要がある。
『人間失格』における「手記」は、主人公である葉三の手記であり、そこには「自分」という一人称で、葉三の人生が記してある。
ポイントだけおさえて要約すると、「第一の手記」には「自分」が人とまったく違う感覚を抱いているのが怖くて「道化」を演じ始めたこと、「第二の手記」には「自分」の「道化」が見抜かれたこと、「第三の手記」には自分が「人間、失格」だと悟るまでの過程が描かれている。
ここからわかるように『俺ガイル』は「道化」など、『人間失格』から影響を受けた点が多く見られるが、今回は10巻に的を絞って考察を進めてゆきたい。
1.3.0. 俺ガイルにおける「手記」と語り手の曖昧さ
1.3.1. 俺ガイルの「手記」におけるポイント
では俺ガイル10巻における「手記」とは何なのか?
俺ガイルの「手記」におけるポイントは整理すると以下の2つに分けられる。
- 語り手が誰であるのかということが意図的にわかりにくくされている点
- 語り手はいずれも『人間失格』の話をしつつ、それを語り手自身の話と絡めている点
この2点について考えてみよう。
1.3.2. 語り手が誰だか意図的にわかりにくくされている
まず一つ目のポイントについて考えてみよう。
俺ガイルにおける「手記」は、語り手が誰だか意図的にわかりにくくされている。
このことは、「手記」の一人称には(引用を除いて)「自分」しか使われておらず*1、それぞれの手記に「或いは、それは誰の独白でもない」、「もしくは、それは誰しもの独白でもある」、「であるならば、それは誰の独白だったのか」という副題がついていることからわかる。
ではなぜわざわざ語り手をわかりにくくしているのだろうか?
1.3.3. 「手記」の内容は八幡、葉山、陽乃の全員に当てはまる
結論から言えば、「手記」の語り手がわかりにくくされているのは、「第一の手記」から「第三の手記」のすべての内容が、八幡、葉山、陽乃の三者それぞれに当てはまるからだ。
一見すると、「第一の手記」は八幡のこと、「第二の手記」は葉山のこと、「第三の手記」は陽乃ことを指しているように思えるのだが、そうではない。
つまり、手記と人物は一対一対応ではなく、例えば「第一の手記」に書いてあることは八幡だけでなく葉山にも当てはまるし、あるいは「第三の手記」に書いてあることは陽乃だけでなく八幡にも当てはまるのだ。
より具体的に言えば、「第二の手記」に書いてある「だから期待していた […] 邪悪に人一番敏感なあの人なら、もしかすると自分のことを見つけてくれるのではないかと」という記述は、葉山が八幡に「自分を見つけてくれるのではないか」と期待していたとも読めるし、陽乃が八幡に「自分を見つけてくれるのではないか」と期待していたと読むことができる。
あるいは「第三の手記」にある「本物なんて、あるのだろうか」という疑問は、陽乃が抱えている疑問であると同時に、八幡が抱えている疑問でもある。
このように「手記」に書かれた内容はいろいろな人(とくに八幡、葉山、陽乃)に共有されているからこそ、「手記」の語り手はわざとわかりにくくされていると考えられる。
1.4.0. 手記の内容について
1.4.1. 「第一の手記」の内容
次に「手記」の内容について具体的に考えてみよう。
「第一の手記」のポイントは、語り手が『人間失格』には自分の本性が書かれているのかもしれないと考えている点である。
では『人間失格』に書かれた「本性」とは何か? ここは大いに考察の余地があるのだが、非常に簡単にまとめれば、「自分」が他人とまったく違うと感じていること、他人への恐怖を隠すために道化を演じていたことだと言えるだろう。
人を疑ってかかる八幡の姿勢は葉三の初期の姿勢そのものだし、「道化」を演じて周りをごまかそうとした葉山や陽乃の姿も葉三に重なる。
真面目に考察すれば俺ガイルの登場人物たちと『人間失格』の登場人物の類似点は非常に多くあり、ここにはまとめきれないが、差し当たっては『人間失格』に八幡や葉山、陽乃らの「本性」の一部が描かれているということが理解いただければよいだろう。
1.4.2. 「第二の手記」の内容
「第二の手記」のポイントは、、そして語り手が「道化」を見抜いてほしいと考えている点にある。
ここで「道化」を見抜いてほしいと願っているのは、まずもって葉山である。なぜなら葉山は「邪悪に人一倍敏感な」八幡にだけ、「君が思っているほど、いい奴じゃない」と伝えるからだ(そしてこれこそが、「見つけてくれることを、かな」の答えなのだが、それについては詳しく後述する)。
そしてもちろん、「自分のことを見つけてくれるのではないかと。見抜いてくれるのではないかと」期待していたのは葉山だけではない。
「強化外骨格」で武装した陽乃も、「本物」を望む八幡も、「つよい女の子」だと思われていた雪乃も、「やさしい女の子」だと思われていた由比ヶ浜も、自分のことを見つけてくれることを、見抜いてくれることを願っていたと言えるだろう。
1.4.3.「第三の手記」の内容
「第三の手記」の語り部はまずもって陽乃だ。
彼女は「信頼されている」と思うたびに「裏切ることは許さないと心中で嘯」いていただろうし、まさに「じぶんの悪性に気づけばこそ、それを必死で糊塗しようと」した結果「強化外骨格」を身にまとったのだろう。
そして今、陽乃は目の前に「本物」を提示されたからこそ、「内側に入り込んでまた試したいと、壊してみたいと思って」おり、だから八幡たちに執拗に介入するのだろう。そうして彼女は問うのだ、「本物なんて、あるのだろうか」と。
しかし問うているのは彼女だけではない。八幡も、雪乃も、由比ヶ浜だってその形を問い続けている。
1.5.0. 「手記」の役割
以上のことをまとめれば、「手記」は俺ガイルの登場人物たちの、ときに共通し、ときに共通していない心情を吐露するもの、あるいは代弁するものだと考えることができる。
だからそれは誰の独白でもなく、誰しもの独白でもある、非人称の独白とでも言うべきものだ。
そして大事なのは、それが非人称であるからこそ、「手記」に書かれた悩みというのは俺ガイル全体の「悩み」にもなり、あるいは読者も共有できる悩みにもなるということだ。
「恥の多い生涯」を送ってきたのは、「人間、失格」なのは、彼ら彼女らでもあり、私たちでもあるのだ。
2.0.0. 「見つけてくれることを、かな」とはどういう意味か?
2.1.0. 「本当の自分」を見つけてくれることを期待していたということ
「そっか。隼人も期待してたんだね」
「何を」
[……]
「見つけてくれることを、かな」
(私航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』pp.275-276)
次に「見つけてくれることを、かな」という陽乃の意味深なセリフについて考えてみよう。ここで気になるのは、結局葉山は「何を」見つけてくれることを期待していたのか?ということだ。
結論から言えば、葉山は「本当の自分」を見つけてくれることを期待していたのだと考えられる。
以下に読解の手順を述べる。
2.2.0. 葉山は文理選択を言わないことで何かを期待していた
まず、上の会話の文脈として、葉山が文系と理系どちらを選んだのかを言わなかったというやり取りがある。
そこで陽乃が納得したように「そっか。隼人も期待してたんだね」というからには、陽乃はここで、葉山は文理選択を言わないことで何かを期待していたと解釈したのだと考えられる。
では葉山は文理選択を言わないことで何を期待したのか?
2.3.0. どういう人間かを考えてほしい
真っ先に思い浮かぶのは、「文系」と「理系」どちらを選んだのかを見抜いてもらうことを期待したという答えであるが、これは少しズレる。なぜなら「文系」、「理系」という選択肢自体は当てずっぽうでも言えるわけで、そんな単純なことは誰にでも言い当てられるからだ。
そうだとするならば、葉山は文系か理系かという結果ではなくて、むしろそれを通して他のことを理解してほしかったのではないかと推測できる。
それはつまり、「文系」か「理系」かということを考える過程で、葉山隼人はどういう人間か、どちらをどういう理由で選ぶのか、あるいはなぜ文理選択を言わないのかというそのこと自体を考えてほしいということである。
したがって、葉山隼人は、彼がどういう人間かということを考えてもらうことを望んでいたのだと考えられる。
2.4.0. 「第二の手記」という手がかり
さらにここで、この会話の直後に「第二の手記」が挿入され、「だから期待していた[……]もしかすると自分のことを見つけてくれるのではないかと。見抜いてくれるのではないかと」という独白が挿入されていることを思い出そう。
このことと、葉山が文理選択を言わないことで自分がどういう人間かを考えてもらうことを期待していたという推測を併せて考えれば、葉山隼人は文理選択を言わないことによって、「自分のことを見つけてくれるのではないかと。見抜いてくれるのではないかと」期待していたのだと考えられる。
2.5.0. 「本当の自分」
ただし葉山隼人が見抜いてほしいのは「みんなが望む葉山隼人」ではない。彼は、彼だけが自分を「いい奴じゃない」ことを知っていた。
彼はその「いいじゃ奴じゃない」葉山隼人を、みんなが期待しているような「理想の葉山隼人像」とは異なった「本当の自分」を見つけてくれることを期待しているのだ。
したがって、「見つけてくれることを、かな」とはどういう意味かという疑問に対しては、葉山隼人は「本当の自分」を見つけてくれることを期待していたと考えられると答えることができるだろう。
3.0.0. なぜ葉山隼人は文理選択の答えを言わなかったのか?
3.1.0. 「言わない」ということ自体が葉山隼人に期待された答えだったから
「それしか選びようがなかったものを選んでも、それを自分の選択とは言わないだろ」
そう言われてようやく理解に至る。葉山は自分の進路を言わなかったのではない。
言えなかったのだ。言わないと言うことさえも、彼の意志ではない。
昔から人の期待なり、希望なりに答え続けた結果、それに即した行動しかとれなくなっていた。最適解以外の答えを持つことを許されなかった。
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』pp.334-335)
なぜ葉山は文理選択を誰にも言わなかったのか?その疑問に対する答えの重大なヒントが上の引用した箇所にある。
答えから言えば、葉山が文理選択を誰にも言わなかったのは、「言わない」ということが葉山隼人に期待された行動だったからだと言える。
これについては足りない部分を補う必要があるので以下で説明する。
3.2.0. 「みんなの期待」に応えるために
まず、前提として葉山隼人はみんなから良い人、できる人というレッテルを張られ、そのような期待や希望に葉山自身も答え続けてきた。つまるところ、「みんなの期待する葉山隼人」こそが葉山隼人のアイデンティティなのだ。
だから文理選択に関しても、葉山隼人はみんなの期待に応える。そしてそれは文理選択を言わないことと同義である。
なぜなら、葉山が「文系」あるいは「理系」という答えを口にしてしまったら、周りの人はそれによって自分の文理選択を、ひいては人生を左右されるかもしれないし、葉山と文理選択が異なることによって傷つく人間がでてくるからだ。
したがって、「みんなが期待する葉山隼人」を叶える最善の策は、文理選択を言わないということになる。
3.3.0. 7巻であらわになっていた「選ばない」という性格
以上のような葉山の「選ばない」という性格は、実は7巻ですでに明確に描写されている。以下の箇所である。
葉山隼人は誰かが傷つくことを良しとしない。葉山が動けないのは、きっと彼以外の誰かが傷つくことを知っているからだ。
その一歩を踏み越えてしまえば誰かが傷つき、何かが壊れる。
それを守ろうと苦悩する者を、踏み込まないでいることの正義を誰が否定できるだろうか。
俺たちの時間は、高校生という期間はわざわざ言うまでもなく、限られている。
笑ってしまうくらいに狭い世界の中で、どうしようもないほど短い時間の中で、俺たちは生きている。
それを惜しむことを誰が責められるだろうか。
失うまでもなく、わかる。
すでに、俺のやるべきことは決めた。
葉山隼人は選べない。あまりにも多くのものを持っていて、どれもこれも大切だから
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑦』p.244)
ここは葉山隼人という人間を理解する上で非常に重要な箇所である。誰も傷つけたくない、誰も失いたくない、だから選ばない。それが葉山隼人だ。
それに対して八幡は選べない。選択肢がないし、一つのやり方しか知らなかったからだ。
この箇所は葉山と八幡の対比が色濃く表れている部分であり、また、俺ガイルを彩る「限られた高校生活」という制限が非常にうまく描写されている箇所でもある。
ともかく、だから葉山は文理選択を言わない、「選ばない」のだ。
4.0.0. 「気づいてないのか?」とはどういう意味か?
4.1.0. 雪乃は陽乃の影を追わなくなっただけで、自立はしていないということ
「やっぱり、彼女は少し変わったな……。もう陽乃さんの影は追ってないように見える」
[……]
「……けど、それだけのことでしかない」
「いいんじゃねぇの、それで」
[……]
「……気づいてないのか?」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』p.333)
ここで疑問となるのは、いったい八幡が何に「気づいてない」のかということだ。
これも答えから言うと、雪乃は陽乃の影を追わなくなっただけで、自立はしていないということに、八幡が気づいていないということになる。
これについてはこれ以上の説明が難しい。というのは雪乃が自立していない、ないしは依存体質らしきものを抱えているというのは11巻以降でより明確になることだからだ。
したがって今はこれ以上の説明は控えたい。きちんと説明するために11巻以降の解説でこれについて触れたいと思う。
5.0.0. 最後の陽乃の「あれは信頼とかじゃないの。……もっとひどい何か」とはどういうことか?
5.1.0. 陽乃は、雪乃の八幡に対する関係を信頼ではなく依存だと考えているということ
「……信頼っていうか、そういうんじゃないでしょ、あれは」
「なーんだ、自分でわかってるんだ」
[……]
「そう、あれは信頼とかじゃないの。……もっとひどい何か」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑩』p.340)
ラストで陽乃は以上のように言うわけだが、「あれは信頼とかじゃないの。……もっとひどい何か」とはどういうことだろうか?
これは陽乃は、雪乃の八幡に対する関係を信頼ではなく依存だと考えているということだと考えられる。
これについても、陽乃がそう考えているらしいという明確な根拠は11巻以降にあり、「依存」については丁寧な記述が必要であるため、これ以上の説明は個々では控えたい。
ただ一つ言えるのは、あくまで「陽乃が」雪乃の態度を依存だと捉えているだけであって、客観的に雪乃の態度が依存だと言えるか否かというのはまた別の問題だということである。
あくまでここでは陽乃が、雪乃の態度を、信頼よりも「ひどい何か」、すなわち依存だと考えているということしか言えない。
6.0.0. おわりに
今回は俺ガイル10巻について考察・解説した。
3期放映直前に急いでこれを書いているため、最小限の考察にとどまってしまったことが悔やまれる。
とくに10巻は10巻だけでは説明しきれない点、とくにアニメ3期の範疇を加味した方がよい点が多くあり、説明不足になってしまった点も多かった。これについてはアニメ3期の考察とともに解決していきたい。
まだきちんと3期の考察記事を書けるかどうかはわからないのだが、筆者としてはできる限り放映中にいっしょに書いていきたい所存だ。
ひとまず今回はこれでご容赦いただきたい。そしていつもながらお読みいただいた読者の皆様に感謝申し上げたい。
<参考文献>
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①~⑭』(小学館,2011-2019)
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*1:「引用」というのは、「第三の手記」における「私は信頼されている。私は信頼されている」という太宰治『走れメロス』からの引用を指す。つまりこの引用における「私」を除けば「手記」には「自分」という一人称しか出てこない。したがってより正確に言うならば、「手記」においては語り手の一人称が「自分」としてしか語られないということになる。