野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

 

 

 

僕が「赤」だと思っているその色は、実は「青」?

 具体的な話からはじめよう。

 こんな話を聞いたことがないだろうか?

 僕はいつもリンゴを見て「赤」だと思っているけれど、君はそのリンゴを僕が「青」と認識する色で見ている可能性がある、という話だ。

 このとき、君にはリンゴが僕の言う「青」という色で見えているけれど、君はそれを「赤」と呼んでいる。そして僕もそれを「赤」だと言うから、そこには齟齬は生じない。

 そしてこれは僕と君の間だけの問題ではなく、すべての人の問題かもしれない。実はリンゴがみんなそれぞれ違う色に見えている可能性がある。でも誰も他人にはなりようがないから、それを「赤」と呼ぶ限り、誰にもほんとうのところはわからない

 これは有名な話だから、どこかで聞いたことがあるかもしれない。哲学の用語で言うのなら、これは「逆転クオリア」と呼ばれる思考実験に近い。「クオリア」というのは主観的に感じる感覚の「質」のことだけれど、「逆転クオリア」では例えば、色覚のとが入れ替わっている(逆転している)ことが想定される。

 今日僕がしたいのは、この「逆転クオリア」と似たような話だ。でも僕がしたいのは「感覚」の話じゃない。「言葉」の話だ。

 先に要点を言っておくと、この「逆転クオリア」と同じようなことが「言葉」の次元でも起きているんじゃないか、もしそうだとしたら、「言葉」は無力だし、あるいは有力とも言えるんじゃないか、と、そういうことになる。

 今日はそういう話をするから、アニメや漫画の考察を期待していた人には申し訳なく思う。だけどこれはとても大切な問題だ。アニメとか漫画とか小説とか、その根本にある「言葉」の問題だ。きっと生涯無関係でいられるけれど、絶対どこかでみんなに関係している問題だ。大切なことだから、今日はすこし僕の考えを聞いてほしい。

 

 

問題意識はどこにある?

 どうして僕がこんな「言葉」のことを問題にするのか、それを初めに語った方がわかりやすいだろうから、そのことを話そう。

 これについては僕の以前のツイートがわかりやすいからそれを貼ることにする。

 例えばそういうことだ。

 あるいは、もっとわかりやすい次元の話から始めてもよいかもしれない。

 例えば、僕が「頭が痛い」と言ったとしよう。

 君が「どれくらい痛いの?」と聞くと、僕は「足の骨を折ったときくらいの痛みだよ」と言ったとする。もし君が足の骨を折ったことがあるなら、「そうか、それは痛いだろう。お気の毒に」と言うかもしれない。

 でもちょっと待ってほしい。どうして頭の痛みが、足の骨の度合いではかれるだろうか?あるいは僕の痛みが、ほんとうに君に理解できるのだろうか?痛みの度合いなんて、人それぞれじゃないのか?

 つまり一口に「痛い」と言っても、その「痛み」は人それぞれだし、君は僕になれないのだから、その「痛み」の程度なんて知りようがない。あるいは逆に、僕も君になれないから、君のほんとうの「痛み」なんて僕は知りようがない。

 一言で言えば、「痛み」なんて人それぞれということだ。

 このことからまず、「言葉」は無力だ、ということが言えそうだ。なぜなら、「痛み」の程度なんて人それぞれで、ほんとうの「痛み」は理解しようがないのだから、「痛い」という「言葉」を使ったところでほんとうのことは伝わらないからだ

 この「痛み」の例では、そういうふうに、ほんとうの感覚なんて伝わりっこないというレベルで、「言葉」は無力だ、と言える

 でももちろん、これに反論することもできる。

 だって、ほんとうの感覚なんて伝わりっこない、とは言っても、僕が「痛い」と言わなきゃ、僕が「痛い」と思っていることが君には伝わらないからだ

 要するに、言わなきゃわからないこともある、ということだ。僕が「痛い」という言葉を使わなければ、君は永遠に僕が「痛い」ということには気づかないだろう。

 この意味で、言葉は有力だ、と言える。つまり、ほんとうのところは伝わらなくても、「言葉」があることではじめて相手に感覚が伝えられるという意味で、「言葉」は有力だと言える

 おおよそ以上のようなことが、僕が問題にしていることだ。ある意味では「言葉」は無力だし、ある意味では「言葉」は有力だ、ということだ。

 だけど事はそう単純じゃない。事はもっと複雑だ。

 

箱の中のカブトムシ

 さっきの「痛み」の例で言うと、「言葉」が無力か有力かで言えば、僕は正直「有力」の方に軍配が上がるのではないかと思う。

 僕は今回どちらかと言うと、「言葉」の無力さの方について書きたいと思っているから、有力さの方は放っておきたいのだけれど、なかなかそうもいかない。

 なぜなら言葉はやはり有力だからだ。僕は「言葉」が無力だと思っていると同時に、同じくらい有力だとも思っている。今回は無力さに少し傾けて書くけれど、僕が同じくらい「言葉」は有力だと思っていることは、きちんと強調しておきたい

例えばさっきの「痛み」の話で言うと、やっぱり「痛い」って口に出して言うことは大事だ。とくに目に見えない部分、例えば胃とか頭とか、そういうものの痛みを伝えるとき、「痛い」って「言葉」はとても便利だ。

 だから、言葉が無力だという主張に対しては、「ほんとうの痛み」はたしかに誰にもわからないけれど、そんなこと言ってたらどうしようもないし無意味だ、という反論もある。

 例えばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという人が、そんな反論をした人の一人だ。

 彼は「箱の中のカブトムシ」という思考実験で、私的言語(=他人には伝わらない完全に私だけの言語)、つまりここで言うところの「ほんとうの痛み」を否定している。

 「箱の中のカブトムシ」とは、以下のような思考実験だ。

  1. ある共同体に属する人々が、みんなおのおの「カブトムシ」の入った箱を持っているとする。
  2. ただしそのとき、誰も他人の箱の中を覗くことはできず、みんなはそれぞれ自分の箱に入ったカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシが何であるかを知る。
  3. この共同体の人々が「カブトムシ」という言葉を使っても、それは何も指し示さない。なぜならそれぞれの人の箱に入っているものは、全く異なっている場合もあるし、それが常に変化していたり、箱の中が空だったりすることもあるからだ
  4. だから結局、「カブトムシ」という言葉はその共同体において通じるけれど、おのおのの箱の中身は全く関係ない*1

 こうしてウィトゲンシュタインは、私的言語を否定しているけれど、「カブトムシ」を「痛み」で言い換えると、さっきの話になる。

 つまり人々はおのおの、それぞれ異なった「ほんとうの痛み」を抱えているけれど、「ほんとうの痛み」がどのようなものであるかは、公的なコミュニケーションをとる上では全く無意味だということになる。

 確かにそうだろう。

 だって、「俺のほんとうの痛みはお前の思っている1000倍は痛いんだ!もっとやさしくあつかえ!」などと言っても、「いや、お前のほんとうの痛みなんてわからん。もしかしたら俺の思っている痛みの方が痛いかもしれないだろ!」となるからだ。

 でもその「ほんとうの痛み」を、公的コミュニケーションをとる上では全く無意味だ、と単純に切り捨ててよいのだろうか?

 僕が感じているこの「痛み」は、誰のものでもないこのわたしの「痛み」は、切り捨てられてよいのだろうか?

 

 

「差延」

 やっぱり事はそう単純じゃない。

 僕が感じる「ほんとうの痛み」は、「痛い」という「言葉」によって意味を捨象されてしまっているかもしれないからだ

 もっと簡単に言うとこういうことだ。

 僕が「痛い」と言ったとき、君が「痛い」という言葉で想像する「痛み」をはるかに超えるくらい僕は「痛い」と感じているかもしれない、ということだ。

 でも、だったら「ものすごく世界一痛い」とか言えばいいだろ、とそういうことになってしまう。だからこの場合、「痛み」という例はふさわしくない。

 例を変えよう。このとき挙げる例は「言葉」にしにくいものであるほどよい。

 例えば「好き」という感情を例にとってみよう。

 僕が君のことを「好き」と言ったとき、君が僕の「好き」を「友達として好き」だと解釈したなら、僕がほんとうに思っていた「恋人以上の好き」という気持ちは切り捨てられてしまう

 あるいはちょっと違う種類の例で、「犬」というのを考えてみよう。

 君が「うちの犬がね、死んじゃったの」と言い出したとしよう。そうすると僕は(かわいそうに……)と思うかもしれない。でもそのとき、ほんとうに君が思っているような悲しみは伝わってこない。君がほんとうに思っている、君の飼い犬に対する愛着、長年一緒に過ごしてきてはぐくんだ愛情、やわらかい毛並み、あたたかな体温、そういうものは全部「犬」という「言葉」にした瞬間、すべてそぎ落とされてしまう

 この意味で、「犬」という「言葉」は、君が思い描いているいろんな意味を捨象してしまう

 こういう風に、ときに自分が思い描いているものごとと、書かれた「言葉」にはある種のギャップが生じる。このギャップを、ジャック・デリダ「差延」*2と呼んだ。

 デリダのすごいところは、この「差延」が「痛み」のような個人個人の「感覚(クオリア)」だけでなくて、「言葉」のすべてにおいてあるんじゃないか、と言ったところだ。

 デリダの言わんとするところは、少し雑に言ってしまえば以下のようなことだ。

  1. 私たちが思い描いていることは、人それぞれ全くことなるかもしれない。
  2. しかし我々は「言葉」を介してしか、思い描いていることを共有できない。
  3. つまりみんながどんなに違うことを思い描いても、結局は「言葉」に回収されて、絡めとられてしまう。

 デリダの「差延」は、さっき言ったようにすべての「言葉」において成り立っているから、例えばそれは感情や感覚だけでなく、物理的な事物においても成り立つはずだ。

 例えば僕が「電車」と言ったら君は何を想像するだろうか?山手線のあの緑色の電車だろうか?あるいは京浜東北線のあの水色の車両だろうか?

 結局、僕や君がどんなイメージを思い浮かべたとしても、「電車」という書き言葉にしてしまうと、絶対にそのイメージと「電車」という書き言葉の間には差異が生じてしまうだろう。

 デリダはそういうことを問題にした。

 僕もそういうことを問題にしているのだけれど、とりわけ僕が問題として意識しているのは「人間」に関することについてだ。

 

「言葉」では表しきれない関係

 話は一周する。

 もう一度僕のツイートを見てほしい。

 今まで読んできた人ならば、僕の言っていることがより伝わるのではないかと思う。

 上のツイートの場合は「恋愛」という言葉の無力さ男女の関係について述べているけれど、もちろん他の関係でも同じことが言える。

 例えば男同士がくっついていたり、多くの日々を一緒に遊んでいたりすると、「ゲイ」と言われることがある。

 この場合は、完全なる誤解なので、少し事情が異なるけれど、同じような問題が生じる。

 もしも仲の良い男同士が「ゲイ」だと言われたなら、そのときそこにあるはずの友情や、友愛や、絆、言い難い関係というのは「ゲイ」と言われることでそぎ落とされてしまうのではないだろうか。このとき、その関係性を的確に表現できない「言葉」は無力だと言える。

 また、この場合はもっとより大きな問題も生じる。

 「ゲイ」という言葉で君は何を想像するだろうか?「ゲイ」という言葉は、ときにそこに肉体関係があることを想起させることもある。

 もしも「ゲイ」という言葉がそのような作用を発揮したなら、それは当人たちを傷つけることにつながるかもしれない。そのとき「言葉」は無力を通り越して、ある意味で「有力」な刃物になる。

 そのように考えれば、「言葉」が関係性を表すのにいかに「無力」であるか、そしてときに危険な「無力さ」を示すかがわかってもらえるだろう。

 「ゲイ」の例は誤解だし極端だけれど、それと同様のことで、「言葉」の無力さが、人間の関係を形容することに失敗し、ときに人を傷つけるというのはほかにもあるのではないだろうか。

 

「言葉」では表しきれない感情

 あるいは「言葉」の無力さと有力さについては、「言葉」が感情を指し示すときに顕著だ。

 例えば「エモい」という「言葉」がある。ある、というか誕生した(?)の方が正しいのだろうか。

 「エモい」が語彙力低下の象徴である、というような話を最近聞いた。それはたしかにそのような側面もある気がする。個人的な感触では、やっぱり読書量の減少が語彙力を低下させる要因になっている気がしないでもない。

 しかし「エモい」という言葉は、ポジティブに捉えれば、「言葉」の有力さを示す例だと言える。

 例えば「エモい」という言葉でしか表現できない感覚、感情があるとしたらどうだろうか?「エモい」という言葉は、既存の、例えば「うれしい」とか「きもちいい」とか「興奮する」とかそういう「言葉」で表現すると取りこぼしてしまうような感情を拾っているのではないだろうか

 完全に個人的な感覚の話だが、僕は「エモい」という言葉を、そういう、「エモい」でしか表現できないなんかわかんないけど脳汁が出るような言いようのない感覚を味わったときに使っている。

 あれ……そういうふうに言葉にできている時点で「エモい」は言いようのある言葉になってしまうのか……?

 しかしでも「興奮する」とか「うれしい」とかで今まで捨象されていた感覚を、「エモい」が少しでも拾っているのなら、やっぱり「言葉」は有力だとポジティブに捉えられるのではないだろうか。

 

「言葉」では表しきれない「人間」

 「エモい」という「言葉」は有力かもしれないけれど、やっぱり僕は言葉の無力さを感じることの方が多い。

 まとめてしまうと、それはやっぱり「言葉」が「人間」を形容するときに特に感じる。

最近思うのは、それぞれ固有の、みんな違うはずの「人間」が、どうして「大きな主語」でまとめられてしまうのか、ということだ。

 例えば、ついったらんど*3に存在する似非「フェミニスト」*4という人々がそれに当たる。

 彼ら彼女らの一部は、なぜか主語を「男は~」という「大きな主語」にしてしまう。 

 そうするとその「大きな主語」にくくられない「少数派の男」が、それに反駁する。しかしその「少数派の男」とやらも、「女は~」という「大きな主語」を使いだして、さらに反駁される。そうして不毛な議論が日夜繰り広げられている。

 もちろん、科学的に「男性的な傾向」、「女性的な傾向」というのは存在するかもしれない。しかし「すべての」男性、「すべての」女性に当てはまる普遍的な規則は存在しえないだろう。

 もちろん、何か議論を円滑にすすめるために、どうしても「大きな主語」を使わなければならないときもある。しかし、すべてを一緒くたにまとめてしまう「言葉」の暴力は、無力さ有力さ以前の問題であるように思う。

 そのような問題は別として、より小さなレベルで、「大きな主語」にからめとられてしまっている「人間」がいるように思う。

 可能性としては、きっとLGBTなど、かつてマイノリティとされて人々がそれにあたるのだろう。

 例えばさっき例に挙げた「ゲイ」という関係、あるいは「人間」がこれに当たる。

 大切なのは、「言葉」が無力だからといって、その無力さにすべてを投棄してしまわないことだと思う。

 「言葉」は今まで見てきたとおり、関係性や人間を表すのに無力であることもあるけれど、その関係性や人間を救うことができるのも「言葉」だけではないのだろうか

 形容しがたい「人間」が、ときに権利を認めてもらったり、理解はしなくとも認めてもらったりできるのは、うまく表現できない「言葉」で、それでも極限まで頑張って表現するときだけではないのだろうか

 だから僕はウィトゲンシュタインとデリダの間に立つ。

 デリダの言うように、きっと「ほんとうのところ」「言葉」の間にはギャップがある。でもウィトゲンシュタインの言うように、人間が人の間で生きるためには公的な「言葉」しか有効でない。

 だから僕は、無力でかつ有力な「言葉」で、それでも頑張って表現をするべきなのだと思う。

 「言葉」で無力にされてしまう「ほんとうのところ」に、それでも「言葉」で肉薄していくべきなのだと思う。

 人が共生するには、理解はできなくとも、「言葉」を介して認め合うことが必要であると、僕は思う。

 

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

 どうだっただろうか。

 僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて、僕は「言葉」で表現してみた。

 うまく伝わっただろうか。

 君がこれを読んで、「言葉」は無力だなとか、やっぱり「言葉」は有力だなとか、何か「言葉」について考えてくれたらうれしい。

 つたない「言葉」だけれど、僕はこれをつかって、これからも生きていこうと思う。

 

<参考文献>

逆転クオリア - Wikipedia

私的言語論 - Wikipedia(箱の中のカブトムシの項目あり)

差延 - Wikipedia

*1:私的言語論 - Wikipedia参考

*2:もちろん僕はデリダの「差延」をきちんとは理解していない。デリダの言っている「差延」はもっと広い意味で使われていると思うし、その意味を僕はこの文脈では汲み取れない。だから雑な扱いになってしまうけれど、ここではそういうギャップとして、「差延」を使わせてもらいたい。

*3:仮想世界

*4:そもそも「フェミニスト」は、女性の権利をおだやかに拡大させようとか、女性にやさしい男性を指すはずで、ネットにはびこっている女性を絶対的優位に立たせようとしている人々や、男嫌いと混同される存在ではなかったはずである。最近プロフィール欄に「フェミニスト」と「ミソジニー=男嫌い」を並べているアカウントがあって驚きを覚えた。彼ら彼女ら似非フェミニストが「フェミニスト」だと思ってしまうと、真摯に活動している本当の「フェミニスト」がかわいそうである。