野の百合、空の鳥

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僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

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僕が見る「赤」は君の見る「青」?

こんな話を聞いたことがないだろうか?
僕が見ている「赤」は、本当は君には「青」に見えているという話だ。
例えば、僕はいつもリンゴを見て「赤」だと思っているけれど、君はそのリンゴを「僕が『青』だと認識する色」で見ている可能性があるということだ。
このとき、君はリンゴを「僕が『青』だと認識する色」で見ているけれど、君はその色のことを「赤」と呼んでいる。そして僕もその色を「赤」という名前で呼ぶ。だからそこに齟齬は生じない。
わかってもらえるだろうか……?

他の例も出してみよう。
例えば、僕はいつも空を見て「青」だと思っているけれど、君はその空を「僕が『赤』だと認識する色」で見ている可能性がある。
このとき、君は空を「僕が『赤』だと認識する色」で見ているけれど、君はその色のことを「青」と呼んでいる。そして僕もその色を「青」と呼ぶ。だからそこに齟齬は生じない。

要するに、君と僕とは本当は違う「色」を見ているかもしれないけれど、たまたま同じ「色の名前」でそれを呼ぶから、たまたま、奇跡的に、意思疎通できてしまっているだけかもしれないんだ。
もしそうだとしたら、それは本当に奇跡的なことだ。きっと僕たちは永遠に、死んでもお互いが違う色を見ていたことに気がつかない。

そしてもちろん、これはすべての「色」について同じことが言える。

 

逆転クオリア

そう、これはリンゴや空だけでなくて、すべての事物について言えることだ。
車も電車も髪の毛も眼も、君と僕とでは本当は違う「色」に見えているかもしれない。でも僕と君はたまたま、奇跡的にそれらを同じ「色の名前」で呼んでいる。だからどんなに会話しても、どんなに言葉をかわしても、君と僕が本当は違う「色」を見ていることに、永遠に気がつかない。

これは有名な話だから、どこかで聞いたことがあるかもしれない。哲学っぽい用語を使うなら、これは「逆転クオリア」と呼ばれる思考実験に近い。「クオリア」というのは、簡単に言えば主観的に感じる感覚の「質」のことだけれど、「逆転クオリア」では例えば、色覚の赤と緑とが入れ替わっている(逆転している)ことが想定される。

でも、事はもっと重大だ。
大事なのはこの「逆転クオリア」というものが、「色」だけに当てはまる話じゃないかもしれないということだ。
もしかするとそれは、すべてのことがらに、すべての人に、そしてすべての「言葉」に当てはまることかもしれないんだ。

 

違っているのは「色」だけじゃない……?

「色」よりももっとわかりやすい例がある。
「痛み」だ。

例えば、僕が「頭が痛い」と言ったとしよう。
君が「どれくらい痛いの?」と聞くと、僕は「足の骨を折ったときくらいの痛みだよ」と言ったとする。もし君が足の骨を折ったことがあるなら、「そうか、それは痛いだろう。お気の毒に」と言うかもしれない。

でもちょっと待ってほしい。どうして頭の痛みが、足の痛みの度合いではかれるだろうか? というよりそもそも、僕の痛みが、本当に君に理解できるのだろうか? 痛みの度合いなんて、人それぞれじゃないんだろうか?
つまり一口に「痛い」と言っても、その「痛み」は人それぞれだし、君は僕になれないのだから、その「痛み」の程度なんて知りようがない。あるいは逆に、僕も君になれないから、君のほんとうの「痛み」なんて僕は知りようがない。

そう、これは「色」の話に似ている。
似ているだけで、全く同じ次元の話ではないけれど、「色」も「痛み」もふつうは "あるもの" を介して伝えられる。
その "あるもの" に注目して見ると、僕たちはすごく綱渡りで、奇跡的な世界を生きているということがわかる。
今日ここでするのはその "あるもの" の話だ。

そう、僕がしたいのは「言葉」の話だ。

 

「痛み」は「言葉」で伝わらない?

さっきの「痛み」の例から考えると、まずは「言葉」が無力だということが言えそうだ。
なぜなら、「痛み」の程度なんて人それぞれで、"ほんとうの痛み" は理解しようがないのだから、「痛い」という「言葉」を使ったところでほんとうのことは伝わらないからだ。
つまりこの「痛み」の例では、そういうふうに、"ほんとうの痛み" なんて伝わりっこないというレベルで、「言葉」は無力だ、と言える。

でももちろん、これに反論することもできる。
だって、"ほんとうの痛み" なんて伝わりっこない、とは言っても、僕が「痛い」と言わなきゃ、僕が「痛い」と思っていることが君に伝わらないじゃないか。
要するに、言わなきゃわからないこともある、ということだ。僕が「痛い」という言葉を使わなければ、君は永遠に、僕が「痛い」ということには気づかないだろう。

この意味で、言葉は有力だ、と言える。つまり、ほんとうのところは伝わらなくても、「言葉」があることではじめて相手に感覚が伝えられるという意味で、「言葉」は有力だと言える。

おおよそ以上のようなことが、僕が問題にしていることだ。
ある意味では「言葉」は無力だし、ある意味では「言葉」は有力だ、ということだ。
だけど事はそう単純じゃない。もっと複雑だ。

 

 

箱の中のカブトムシ

さっきの「痛み」の例で言うと、「言葉」が無力か有力かで言えば、僕は正直「有力」の方に軍配が上がるのではないかと思う。
僕は今回どちらかと言うと、「言葉」の無力さの方について書きたいと思っているから、有力さの方は放っておきたいのだけれど、なかなかそうもいかない。
なぜなら言葉はやっぱり有力だからだ。僕は「言葉」が無力だと思っていると同時に、同じくらい有力だとも思っている。今回は無力さに少し傾けて書くけれど、僕が同じくらい「言葉」は有力だと思っていることは、きちんと強調しておきたい。

例えばさっきの「痛み」の話で言うと、やっぱり「痛い」って口に出して言うことは大事だ。とくに目に見えない部分、例えば胃とか頭とか、そういうものの痛みを伝えるとき、「痛い」って「言葉」はとても便利だし大事だ。
だから、言葉が無力だという主張に対しては、「ほんとうの痛み」はたしかに誰にもわからないけれど、そんなこと言ってたらどうしようもないし、そんなこと言うこと自体無意味だ、という反論もある。

例えば、哲学者のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという人が、そんな反論をした人の一人だ。
彼は「箱の中のカブトムシ」という思考実験で、私的言語(=他人には伝わらない完全に私だけの言語)、つまり前述した "ほんとうの痛み" のようなものを否定している。
「箱の中のカブトムシ」とは、以下のような思考実験だ。

ある共同体に属する人々が、みんなおのおの「カブトムシ」の入った箱を持っているとする。
ただしそのとき、誰も他人の箱の中を覗くことはできず、みんなはそれぞれ自分の箱に入ったカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシが何であるかを知る。
この共同体の人々が「カブトムシ」という言葉を使っても、それは何も指し示さない。なぜならそれぞれの人の箱に入っているものは、全く異なっている場合もあるし、それが常に変化していたり、箱の中が空だったりすることもあるからだ。
だから結局、「カブトムシ」という言葉はその共同体において通じるけれど、おのおのの箱の中身は全く関係ない。
( 私的言語論 - Wikipedia 参照 )

こうしてウィトゲンシュタインは、私的言語を否定しているのだけれど、「カブトムシ」を「痛み」で言い換えると、さっきの話になる。
つまり人々はおのおの、それぞれ異なった「ほんとうの痛み」を抱えているけれど、「ほんとうの痛み」がどのようなものであるかは、公的なコミュニケーションをとる上では全く無意味だということになる。

確かにそうだろう。
だって、「俺のほんとうの痛みはお前の思っている1000倍は痛いんだ!もっとやさしくあつかえ!」などと言っても、「いや、お前のほんとうの痛みなんてわからんだろ! もしかしたら俺の痛みの方が痛いかもしれないだろ!」となるからだ。

でもその "ほんとうの痛み" を、公的コミュニケーションをとる上では全く無意味だ、と単純に切り捨ててよいのだろうか?
僕が感じているこの「痛み」は、誰のものでもないこのわたしの「痛み」は、簡単に切り捨てられてよいのだろうか? 

 

「差延」

やっぱり事はそう単純じゃない。
僕が感じる「ほんとうの痛み」は、「痛い」という「言葉」によって意味をそぎ落とされてしまっているかもしれないからだ。
つまり僕は君が感じたことがないほどの「痛み」を覚えているかもしれないけれど、僕は「痛い」という言葉でしかそれを表現できないので、君は僕の「痛み」の10%くらいしか汲み取れていないかもしれないということだ。
でも、だったら「ものすごく世界一痛い」とか言えばいいだろ、とそういうことになってしまう。だからこの場合、「痛み」という例はちょっとふさわしくない。

例を変えよう。このとき挙げる例は「言葉」にしにくいものであるほどよい。
例えば「好き」という「言葉」を例にとってみよう。
僕が君のことを「好き」と言ったとき、君が僕の「好き」を「友達として好き」だと解釈したなら、僕がほんとうに思っていた「恋人以上の好き」という気持ちは切り捨てられてしまう。
そういうふうに、「好き」と一口に言っても、その思いのたけにはいろいろ度合いがあるわけで、その「好き」という言葉が持っているはずの意味は、受け取り方によってそぎ落とされてしまうかもしれないんだ。

あるいはちょっと違う種類の例で、「犬」というのを考えてみよう。
君が「うちの犬がね、死んじゃったの」と言い出したとしよう。そうすると僕は(かわいそうに……)と思うかもしれない。でもそのとき、ほんとうに君が思っているような悲しみは伝わってこない。君がほんとうに思っている、君の飼い犬に対する愛着、長年一緒に過ごしてきてはぐくんだ愛情、やわらかい毛並み、あたたかな体温……そういうものは全部「犬」という「言葉」にした瞬間、すべてそぎ落とされてしまう。
この意味で、「犬」という「言葉」は、君が思い描いているいろんな意味を捨象してしまう。

こういう風に、ときに自分が思い描いているものごとと、書かれた「言葉」にはある種のギャップが生じる。
このギャップを、哲学者のジャック・デリダは「差延」(もちろんデリダの「差延」はもっと広い意味をもつ概念だけれど、ここではこういう風に使わせてほしい)と呼んだ。
デリダのすごいところは、この「差延」が「痛み」のような個人個人の「感覚(クオリア)」だけでなくて、「言葉」のすべてにおいてありうることなんじゃないか、と言ったところだ。
デリダの言う「差延」のスケールは、「好き」とか「犬」とか個々のものだけじゃなくて、「言葉」全体にまで広がっている。

 

「言葉」の原罪

僕たちが思い描いていることは、たしかに人それぞれ全くことなるかもしれない。
でも僕たちは、「言葉」を介してしか、思い描いていることを共有できない。
つまりみんながどんなに違うことを思い描いても、結局は「言葉」に回収されて、絡めとられてしまうんだ。

デリダの「差延」は、さっき言ったようにすべての「言葉」において成り立っているから、例えばそれは感情や感覚だけでなく、物理的な事物においても成り立つ。
例えば僕が「電車」と言ったら君は何を想像するだろうか? 山手線のあの緑色の電車だろうか? あるいは京浜東北線のあの水色の車両だろうか?
結局、僕や君がどんなイメージを思い浮かべたとしても、「電車」という書き言葉にしてしまうと、絶対にそのイメージと「電車」という書き言葉の間には差異が生じてしまう。
デリダはそういうことを問題にした。

つまるところ、僕もそういうことを問題にしているのだけれど、とりわけ僕が問題として意識しているのは「人間」に関することについてだ。

 

 

「言葉」では表しきれない関係性

例えば人と人との間の関係なんかは、「言葉」にするとその関係性が「死ぬ」最たるものだ。
例えばわかりやすいのは男と女の関係だ。
男性と女性というのは仲睦まじくしていると、ときに「恋愛」だと言われることがある。そこにあったのは友情だったり、友愛だったりするかもしれないにもかかわらず、だ。
男女間の友情というものが成立するかどうかは、はっきり言って分からない。しかしその男女間の微妙な関係は、「恋愛」という名前でくくられた瞬間、そこに在り得たかもしれない関係、そこにあったかもしれない名状しがたい状態は、ある意味で「死ぬ」とも考えられる。

これはもちろん、他の関係性でも言える。
例えば男同士がくっついていたり、多くの日々を一緒に遊んでいたりすると、「ゲイ」だと言われることがある。
もしも仲の良い男同士が「ゲイ」だと言われたなら、そのときそこにあるはずの異性愛者としての友情や絆、言い難い関係というのは「ゲイ」と言われることでそぎ落とされてしまうのではないだろうか。
「彼らはゲイだから」と、親しすぎる仲を同性愛者として言いくるめることで、周りはどこか安心しようとしていはしないだろうか。
だけどもちろん、その関係は「ゲイ」と呼びうるに適切な関係かもしれないし、「ゲイ」の人たちの中には同性同士の友情や絆を結ぶこともある。
そうなってくると「ゲイ」という「言葉」自体がぐらついてくる。
このとき、いろいろな意味で「言葉」は無力になってくる。

とくにこの場合は、もっとより大きな問題も生じる。
「ゲイ」という言葉で君は何を想像するだろうか?「ゲイ」という言葉は、ときにそこに肉体関係があることを想起させることもありうる(もちろんすべてがそうであるわけではないかもしれないし、その関係には別の「言葉」があてはめられていることもある)。
もしも「ゲイ」という言葉がそのような作用を発揮したなら、それは当人たちを傷つけることにつながるかもしれない。そのとき「言葉」は無力を通り越して、ある意味で「有力」な刃物になる。
そのように考えれば、「言葉」が関係性を表すのにいかに「無力」であるか、そしてときに危険な「有力さ」を示すかがわかってもらえるだろう。

「ゲイ」の例は極端かもしれないけれど、それと同様のことで、「言葉」の無力さが、人間の関係を形容することに失敗し、ときに人を傷つけるというのはほかにもあるのではないだろうか。

こうして、ときに人と人とは「言葉」を重ねるたびにどうしても何かを捨象してしまうし、どこかすれ違ってしまう。
この小さなすれ違いが、小さな「言葉」の無力さが積み重なると、やがて大きな問題を引き起こすことになる。 

 

「言葉」では表しきれない「人間」

感情をやりとりする「言葉」がすれ違い、関係性を表す「言葉」が何かを傷つけてゆく。あるいみではその繰り返しが、「人間」というものだとも考えられる。

だから「人間」同士がいっしょにいようとすると、すごくたくさんの問題が生じることになる。
男と女、親と子、若者とお年寄り、人種と人種……いろんな人がいっしょにいると、その数だけ問題は生じてくる。

 

ただもちろん、中にはきちんと「言葉」に耳を傾けてくれる人もいる。
大切なのは、"ほんとうの痛み" に、"ほんとうの気持ち" に、どれだけ「言葉」が寄り添えるかと言うことだと思う。だって "ほんとうの痛み" も、"ほんとうの気持ち" も、無力だとしても、人はそれを「言葉」によってしか表現できないからだ。

僕たちが誰かといっしょにいたいのなら、そのときには、なんとか "ほんとうの痛み" に、 "ほんとうの気持ち" に、究極まで肉薄した「言葉」をもって伝えるしか、方法はないように思う。

だから僕はウィトゲンシュタインとデリダの間に立つ。
デリダの言うように、きっと「ほんとうのところ」と「言葉」の間にはギャップがある。でもウィトゲンシュタインの言うように、人間が人の間で生きるためには公的な「言葉」しか有効でない。
だから僕は、無力でかつ有力な「言葉」で、それでも頑張って表現をするべきなのだと思う。
「言葉」で無力にされてしまう「ほんとうのところ」に、それでも「言葉」で肉薄していくべきなのだと思う。
人が共生するには、理解はできなくとも、「言葉」を介して認め合うことが必要であると、僕は思う。

 

"ほんとうの痛み" に迫る芸術

だけどどうやったら "ほんとうの痛み" にできるだけ近い表現ができるだろうか。最後にその方法について、少しだけ述べて本論を結びたいと思う。

「言葉」によって、それが無力であっても、あえてその「言葉」でぎりぎりまで "ほんとうの痛み" に迫ろうとする試みに、文学というのがある。
文学は、考えようによってはありとあらゆる "痛み" を頑張って究極のところまで切り詰めて「言葉」で表現したものだと言える。
そしてそれはときに、作者が想像しうる "痛み" 以上のものを、読み手に与えることもある。その意味で文学は "ほんとうの痛み" に究極まで迫る可能性を秘めていると言える。

あるいは今してきた「言葉」の話とは少しずれるけれど、"ほんとうの痛み" にできるだけ迫る表現として、ほかにも美術や音楽、そしてそれらを総合したアニメーションがある。
「言葉」には押し込められない "痛み" 、絵や音でしか表現できない "痛み" 、そういうものを、美術や音楽、アニメーションは表現してくれることがある。

そういった表現は、孤独で完結することもあるけれど、それを共有して、各々がそれをきっちり受け止めたなら、あるいは芸術を通した交流、芸術を通した共同体といったものも可能になってくるかもしれない。

「言葉」の話とは少し違うけれど、それももしかしたら大事な話かもしれない。

 

 

僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて

どうだっただろうか。
僕らが普段つかっている「言葉」の無力さ、あるいは有力さについて、僕は「言葉」で表現してみた。
うまく伝わっただろうか。
君がこれを読んで、「言葉」は無力だなとか、やっぱり「言葉」は有力だなとか、何か「言葉」について考えてくれたらうれしい。
つたない「言葉」だけれど、僕はこれをつかって、この「言葉」で表現しうる限りのことをあらわしながら生きていきたいと思う。

 

<参考文献>
逆転クオリア - Wikipedia
私的言語論 - Wikipedia(箱の中のカブトムシの項目あり)
差延 - Wikipedia