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「橋」渡しをするとはどういうことか—— 『キズナイーバー』第7話の演出について

 

 

1. 「交通」のメタファー

橋を架けるということが、心が「通う」ことのメタファーであるというのは、たとえばフランス語の« communication » が ——むろん「コミュニケーション」の謂いである——、その昔「交通」と訳されていたことからも伺える。

そうでなくとも、賢明なアニメーション視聴者ならば、数ある鑑賞体験のなかで、一度くらいはそのような場面に出遭ったことがあるのではないか。*1

本稿が取り上げる『キズナイーバー』第7話(絵コンテ:宮島善博・小林寛、演出:宮島善博)もまた、その例に漏れない。

たとえばこんな一幕。

明かりが灯る橋(『キズナイーバー』第7話より)

画像は、第7話の転換点、本話で中心的に描かれる牧穂乃香(まきほのか、以下「穂乃香」と記す)の家を、「傷の絆で結ばれた」——本作は物理的な痛みや心の痛みを実際に共有することになってしまったキャラクターたちの青春群像劇である——仲間たちが訪れた直後のシーンだ。

説得に訪れた仲間たちを、穂乃香はその場では受け入れず、むしろ「帰って」とはねのけるのだが、そのあと考え直した穂乃香は、橋のショットの直後、仲間のひとり、由多に気持ちを打ち明ける。

つまり、穂乃香は仲間たちを受け入れる覚悟を、まさにこの橋のショットが連続する一連のシークエンスのあいだに済ませるのである。

もちろん、そのようなことはナレーションでもセリフでも一切言われない。そんなことは語るに足らぬことであり、というよりむしろ、そういう心情の動きをこそ、映像に「語らせる」べきである。本当にはそれこそが、映像作品における「演出」と呼ばれるもの(の一部)なのだから。

そんな当たり前の「演出」の役目を、当たり前に、しかし丹念に果たしているのが、今話における「橋」なのである。

 

2. 繰り返しショット

しかし単に架橋すればよいというものでもない。

つまり単に、物理的な橋だけが(心の)交通のメタファーであるとすれば、それはもったいないことであるし、演出としては失策ですらある。

だからたとえば、橋のように両端をつなげるというモチーフは、今話の冒頭から繰り返し示されている。

「つながり」を示すショット(『キズナイーバー』第7話より)

こうして、「つながり」を示すショットが、初めに引用した橋のショットよりも前から連続して映される。

加えて、穂乃香が手を結ぶのは、今話におけるもうひとりの中心的キャラクター・瑠々(るる)である。今話において、穂乃香と瑠々が、画面の両「端」に配されることはこうして、穂乃香が結ぶ「橋」の向こう側に、瑠々がいることをつねに想定させる。

だから反対に、穂乃香が瑠々と距離を取っていることを描写したいのならば、「橋」を「切断」してやればよい。

「切断」された構図(『キズナイーバー』第7話より)

上の画像では瑠々と穂乃香とが、黒い余白で断絶されたうえ、さらに両者が左右の隅に配されることで、その「切断」がより強調されている。

下の画像は、一見すると何気ない日常のシーンであるように思わせつつ、その実「切断」された構図をひそませることで、穂乃香が心に抱えたわだかまりを、つまり瑠々とまだ心の距離があるということを暗示している。

(下の画像は、実は、「切断」の構図とはもうひとつ別の反復される構図と対応しており、それは瑠々と穂乃香を本棚越しに映したショットで、つまり光の「奥」に「青春の日々」が在るということの仄めかしでもある。)

ともあれ、接続と切断のモチーフはこうして、物理的な橋とは別のところで反復されることにより、心の交通としての「橋」という全体的なモチーフが効果的に作用することに貢献している。

 

3. 明かりを灯すということ——赤/緑

ひとつ、意図的に語り落としていたことがある。

最初に引用した二枚の画像は、よく比べてみると、二枚目の画面の両端あたりに設置された街燈に、明かりが灯っていることが分かる。

ただし二枚の画像自体、こうして画像として見る分には静止して見えるが、動画で見ると、そのシークエンスがせいぜい数秒程度しかないことが確認できる。

つまり、それは非常に短い時間のあいだで起こっていることであり、緑の明かりを灯すというのは、繊細な心配りとでもいうべき何かなのだが、では、そこまでして緑の明かりを灯す意図はどこにあるのだろうか?

そもそも「緑」というのが不思議である。作品全体のデザインとの兼ね合いもあるのかもしれないが、それにしても、明かりというだけなら、白色に近い明かりでも良かったはずだ。

それに、一見すると、今話で目立つ色といえば、「緑」というよりも「赤」のように思われる。

今話で目立つ「赤」(『キズナイーバー』第7話より)

たとえば、印象的なティルト・ダウン(カメラを上から下に振ること)の終点に置かれたカット(上画像)では、穂乃香が「赤い」傘をさしている。

(ところで、このショットもまた、道路の境界線が綺麗に「奥」と「手前」を「切断」しているレイアウトでもって、「奥」で火葬場の煙と化した瑠々と「手前」でそれを眺める穂乃香の距離を表現している。)

この「赤い」傘は、ラストカットまで、穂乃香が外ではずっとさしている傘であり、たとえば下画像のように、傘越しに表情を伺ったり、あるいは表情を隠したりする芝居もまた——この傘を用いた芝居も一記事費やして語りたいくらいには魅力的なのだが——反復されるため、画面の半分ほどを占める「赤」は嫌でも印象に残る。

さて、ではそんな「赤」が目立つなか、なぜ橋では「緑」の明かりが灯るのか。

ヒントは、むしろ「赤」のほうにこそある。

「赤」信号(『キズナイーバー』第7話より)

「緑」の明かりが灯る橋のカットの直前、「赤」信号のカットが差し挟まれる。

信号というモチーフもまた、アニメーションでは(あるいはそれにかぎらない映像作品のすべてにおいて)クリシェ(お決まり)とでも言うべきモチーフだが、それは「止まれ」という赤信号のシニフィエ(記号内容)が暗示すること、すなわち、心理的な躊躇いや関係性の停滞、状況の膠着などを表現したいときに用いられる。

したがって反対に、青信号が描かれる場合には、「進め」という青信号のシニフィエが暗示すること、すなわち、心理的な決断や関係性の前進、状況の改善などが表現されている。

「緑」とはこれなのではないか。つまり、ふだん「青」と呼ばれつつ実際には「緑」であるこの色が選ばれたのは、青信号の代わりとして、それが用いられているからなのではないか。

そう考えれば、冒頭に引用した「緑」の明かりが灯る橋のシーンは、穂乃香が心を通わせると同時に、仲間に想いを打ち明けようという心理的な決断、仲間たちとの関係性の前進、停滞していた状況の改善を意味しているのだと、きれいに解釈できる。

そして実際、仲間たちとの関係性が前進してゆくほかのシーンでも、「緑」は描かれる。

境界線に配された「緑」(『キズナイーバー』第7話より)

プライド高かった由多が、そのプライドをかなぐり捨て、穂乃香のために海に飛び込むシーン。

ここでも「緑」が、海とその向こうに見える街を隔てた境界線で光って強調されており、穂乃香同様、あまり心をひらいてこなかった由多との関係性が前進したシーンにふさわしい色どりになっている。

しかし、一目して分かるように、たしかに緑は中央に近いポジションで強調されているが、そのうえのほうでは、飛行機のための航空障害灯が、赤く、まばらに光っている。

とすると、少し辻褄が合わないようにも思われる。というのは、キャラクターたちの関係性が完全に前進したなら、停滞を意味する「赤」は描かなくてもいいはずだからだ。

とすれば、航空障害灯の「赤」は、街の設計の都合上、仕方なく配されたものなのだろうか?

そうではあるまい。そんなに簡単に、人間関係というものは完全に改善しはしない。つまり、いくら関係性が前進したといっても、穂乃香のわだかまりが完璧に消え去ったわけではないのだ。

その意味においては、たしかに「緑」信号は灯るべきだが、ほどよく「赤」信号もあるべきである。上の画像における、きれいに並んだ「緑」とまばらに並んだ「赤」のこの比率は、むしろそのことをこそ、暗示しているのだ。

だから実際、穂乃香もまだ、「赤い」傘をさしたままだった。

——物語のラストまでは。

傘を避け、雨に当たる穂乃香(『キズナイーバー』第7話より)

今話のラスト、穂乃香は傘をゆっくりと地面に避ける(上画像)。

先程とほぼ同じ構図だが、心なしか、「赤」は減り、「緑」はより鮮明になったように見える。

これまで瑠々との想い出をトラウマ的に封じ、共同で作り始めたマンガの最終話さえ読んでこなかった穂乃香は、ここで初めて、瑠々に思いを馳せる。

思い出しているのは、瑠々から受け取った「手紙」のことだ。

「私を覚えていることで あなたが辛くなるのなら いつでも忘れてほしい」「だって私は——」「あなたの笑顔が 大好きだから」

「手紙」にはそう記されていた。これを思い出した穂乃果は言う。

「瑠々、私も——」

穂乃香のこのセリフを最後に、今話はEDを迎える。

「私も——」に続く言葉は、作中では明言されないが、もはや明らかだろう。それは「手紙」への返事なのだから。

——「あなたの笑顔が 大好きだから」

穂乃香の頬を伝うしずくは、涙にも似ていた。

 

 

 

おわりに——「橋」渡しをするとはどういうことか

「橋」を架けるということがどういう効果をもつか、これ以上語るべくもない。

私がここで「演出」と呼んだそれは、「演出」と名付けられた豊かなそれの、ほんの一部でしかない。

あるいはともすると、ここに書いたことなど当たり前であって、むしろこんな二項対立は分かりやすすぎるとすら言われてしまうかもしれない。

むろん、本当にそれが、あまりにも明白で、基本的なことで、どんなアニメもこの基本的な「演出」がなされているのなら、私はこんなこと書くべきでもないし、白けさせるだけかもしれない。

しかしそんな「基本的な」ことが、本当にアニメーションでなされているか、あるいはなされていたとして、見逃してしまってはいないか、作り手も受け手も、すこし立ち返って、考えてみてほしい。

そのための「橋」渡しがいま、ここに記された。

 

animestore.docomo.ne.jp

 

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*1:その他、渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』や米澤穂信『遠回りする雛』(古典部シリーズ)、『さよなら妖精』といったフィクションにおける「橋」について、柄谷行人の「交通」と絡めて論じた作品としては以下を参照されたい。大玉代助「橋と交通と他者と」『レプリカ』vol.1、俺ガイル研究会、2022年。https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1819284