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アニメーションよりも「速く」——『天国大魔境』第10話(五十嵐回)におけるマスコットと車について

はじめに——アニメは「時間」でできている

アニメーションが「時間」をそこに表現できたとして、鑑賞者が体験するのは、そのアニメーションとちょうど同じ時間だけなのか。

一見して、そうでしかないように思われる。つまり、30分のアニメを見たときに、鑑賞者が体験する時間もまた、きっかり30分であるように思われる。

そうだろうか? アニメーションはそんなにも貧しかったのか? われわれが過ごす30分は、客観的にそう測定されうるものだとしても、そのなかに、何か忘れがたい過去の時間や想像だにしなかった未来の時間、そして苦悩に満ちたいまの時間を、二重三重に感じ取り、30分は1時間にも、1日にも、あるいは1分にすら感じられるのではなかったか。そんな宝物のような時間を、ほかのあらゆるすべてを置き去りにして、はるか遠くまで連れ去ってしまう体験をこそ、ひとは「アニメーション」と呼ぶのではないか。

この「速さ」。単線的にしか思えない時間が複数化し、あらゆる客観的時間すら超えてゆく体感時間の「速さ」——。この「速さ」を垣間見させるアニメーションとして、『天国大魔境』第10話を取り沙汰し、つねにイメージの速度を損なわせる言葉でもって、あえて遅延させてみたい。

animestore.docomo.ne.jp

 

 

 

『天国大魔境』第10話「壁の町」

「五十嵐海」という固有名

五十嵐海(いからしかい)という名前以外の肩書を羅列するほど、この人物を形容するのに乏しいふるまいはない。

というのは、アニメーターであり、演出家でもあるその作家はしかし、単なる作画や演出といった枠組みを超えて、担当する話数の全体、いや、その人の関わるアニメ全体をもデザインするからだ。

それは、その名同じ音韻をもつ「五十嵐回」が、その人が担当する話の——文字通り——代名詞となることからもうかがえるし、実のところ、『SSSS.GRIDMAN』第9話や『SSSS.DYNAZENON』第10話なしに、『SSSS.GRIDMAN』や『SSSS.DYNAZENON』のことを想い出すのは難しい。

したがって、本稿だけでこの作家の「名前」を別様に形容することは叶うべくもないだのが、それでも、この作家が、アニメーションのいったい何をデザインしているか、その一端でも示せたなら愉しい。

 

反復する構図——ルームミラーとマスコット

ここぞとばかりにデフォルメを効かせ、ほどよく遠近感を損なったコミカルなキャラクターの運動や、人食い(ヒルコ)の用いる氷の能力に併せた主線なしの作画・影なしのように見える作画、ジャンプカットの効果的な応用……等々、所々に込められたアニメーション的な心配りをすべて拾い上げることなど到底叶わないから、さて措き、ここではストーリーラインに併せた今話かぎりの演出について考えたい。

まずもって惹かれるのは、以下のような反復する構図だ。

ルームミラーとマスコット(『天国大魔境』第10話より)

ここで反復されるルームミラーの構図が、そのたびごとに車窓=スクリーンに異なる景色を映すのは言うまでもない。あるいは吊り下げられたオリジナルのマスコットが意味をもつこともまた。反復されること自体やマスコットについての読解は、先行して丁寧な記事がすでに施されているので、そちらを参照されたい。*1

それでも少し、語ることの愚行をあえて冒せば、このマスコットは、今話でクローズアップされる元「種豚」であるジューイチが、強制的に子作りを迫られるその過酷な施設のなかで駆け落ちをこころみた二人の女性と分かち合ったものだ、と補足できる。

この駆け落ちの試みは結局のところ挫折する。まさしく脱兎のごとく駆け出したジューイチだけが、かろうじて生き延び、二人の女性はのちに殺されてしまう。もちろん実際に殺されたところをジューイチは見たわけではないが、そのことを察し、復讐心を忘れぬべく、自分だけ生き延びてしまった罪悪感もろとも、マスコットを終止身の回りに置き続ける。

したがって、ルームミラーの構図が反復されているのは、復讐心を忘れていないことの表れなのだ。自分を「種豚」として扱い、想いを通じ合った女性たちを置き去りにしてしまったその場所への復讐心を。トラウマで角が曲がれなくても、十五が戻ってきても、車をマルとキルコに渡した後でさえも、ジューイチが考えているのは過去のこと、ひいては復讐のことなのだ。

 

「速く」走れるということ——「ずっと良い車」の意味

直前書いた「車をマルとキルコに渡した後でさえも」というのは、あるいはミスリーディングかもしれない。というのは、もとあった施設が人食い(ヒルコ)に破壊され、脱走した元「種豚」たちとも再会できたジューイチは、一見すると復讐する対象を失ってしまったように思われるからだ。

つまり復讐する必要もないジューイチは、ひいてはこれ以上「旅」をする必要もない。だからその手段であった車をマルとキルコに渡した、こう考えるのが妥当なはずだ。

だがジューイチはこう言っていなかったか。「ここにある車、あれよりずっと良い車なんですよ?」と。つまりジューイチは、復讐を果たした後、逃げるためにもっと「速く」走れる車があるからオンボロ車はいらないと、そう謂っていたのではないか。

ラストカットに至る描写は、その車の「速さ」を象徴している。

「速さ」と「軽さ」(『天国大魔境』第10話より)

画像の1枚目と2枚目、暗い道路の隅に配され、赤く彩られたジューイチを追い越す車主観のカットは、あまりにも「速い」。すさまじいスピードで、赤いジューイチを追い越してゆく。

ジューイチが赤く彩られていることに意味を見出すのはたやすい。つまり、赤という色が、復讐に囚われていたことの象徴であるマスコットと同じ色であることに鑑みれば、その赤いジューイチは、過去のジューイチのメタファーであるにちがいあるまい。

「豚小屋」から脱走した後、後悔と悲嘆を抱え、あるいは裏切られたかもしれないという疑念にかられつつ、それでも足を前に進めるしかない過去のジューイチ。それとは対照的に、復讐を果たし、「十五」(ジューイチの子ども)を取り戻した現在のジューイチは、過去の自分を置き去りにして、「速く」走れる。憑き物が落ちたかのように、圧倒的に速く。

残るのはだから、「速さ」と「軽さ」だ。3枚目、絶妙な時間間隔で保たれるカットは、後景と前面のスライドという、伝統的なアニメーションの手法で——開いたコンポジティングで*2 ——圧倒的な「速さ」を実現する。

4枚目、なじみの構図は、しかしすべてが「反転」している。冒頭では早朝だった風景はすっかり夕暮れに。どこかいびつな台形だったルームミラーは綺麗な長方形に(ミラーの向き自体も左右逆に)。鏡面に映った社内の暗がりは、まばゆいほどの夕日に——。

そして何より、赤いマスコットはもうない。かつて無邪気にぶら下げられていたそれは、あまりにも「重かった」のだろう。マスコットを取り去り、赤いかつてのジューイチを置き去りにしたいま、だから車は、あまりにも「軽い」。

 

 

 

おわりに——あるいは言葉よりも「速く」

過去の自分を置き去りにするジューイチの表象に、時間の複数性が具現化されていることを指摘するのも、いまやさもしい。

そう感じるのは、それがいまや言葉にされてしまったからだ。言葉よりも「速く」、イメージでもって、われわれはそれを「直観」していたはずなのであり、『天国大魔境』第10話は、何も言わずとも初めからそのことを表象していたはずなのである。

とすれば、言葉は無用の長物だったのだろうか。圧倒的な鑑賞体験を前に、言葉はそれを映像の次元、イメージの次元から「引き下ろして」、何か低級の事物に還元してしまっているのだろうか。

そうでもなかろう。この言葉、ここに書かれた「書く」という営みそれ自体がまた、イメージへとわれわれを送り返し、言葉より前にはありえなかった鑑賞体験をもたらしうる。そうだとすれば、アニメーションよりも「速く」言葉があったとさえ言えまいか。

この意味において、われわれはすでにしてジューイチなのだ。淡々とした日々のなか、復讐心を燃え上がらせ、ふるわせるようなイメージによって、言葉によって、過去の自分を、都度、置き去りにする。

いまよりも「速く」、未来よりも「速く」。

そのための言葉がここに、供物として差し出された。

 

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*1:以下を参照。『天国大魔境』五十嵐回感想:マスコットにみる愛情の翻案|蜜柑粒ハイライト

*2:cf. Thomas LaMarre, The Anime Machine: A Media Theory of Animation, Minneapolis, Univesity of Minnesota Press, 2009(『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』藤木秀朗監訳・大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、2013年).