はじめに
数をこなせばよいというわけでもないと前置きして、それでも数多く見ることの報いとして、相応の出遭いがあることは強調したい。
都度、思いがけない出遭いを積み重ねることが生きるということなら、アニメを見る体験のほうがむしろ、生きることに充ちている。
ここに記すのはその生の、ささやかな記録だ。
- はじめに
- 感想
- アイドルマスター シンデレラガールズ U149
- アリス・ギア・アイギス Expansion
- 異世界召喚は二度目です
- 異世界でチート能力を手にした俺は、現実世界をも無双する ~レベルアップは人生を変えた~
- 異世界ワンターンキル姉さん ~姉同伴の異世界生活はじめました~
- ウマ娘 プリティーダービー Road to the Top
- 江戸前エルフ
- 【推しの子】
- 彼女が公爵邸に行った理由
- 神無き世界のカミサマ活動
- カワイスギクライシス
- 機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2
- 君は放課後インソムニア
- 鬼滅の刃 刀鍛冶の里編
- この素晴らしい世界に爆焔を!
- 漣蒼士に純潔を捧ぐ
- スキップとローファー
- デッドマウント・デスプレイ
- 天国大魔境
- 転生貴族の異世界冒険録 ~自重を知らない神々の使徒~
- BIRDIE WING -Golf Girls’ Story- Season2
- 僕の心のヤバイやつ
- マッシュル-MASHLE-
- マイホームヒーロー
- 魔法少女マジカルデストロイヤーズ
- 女神のカフェテラス
- 山田くんとLv999の恋をする
- 勇者が死んだ!
- 私の百合はお仕事です!
- おわりに
感想
アイドルマスター シンデレラガールズ U149
第1話「鏡でも見ることができない自分の顔って、なに?」(絵コンテ:岡本学、演出 : 片岡史旭)と第11話「大人と子供の違いって、なに?」(絵コンテ・演出:小林敦)における、「鏡」の演出が印象深い。
自室の立鏡が、マンションのエレベーターの姿見が、通学路のカーブミラーが、レッスン時のパネルミラーが、否応なしに、自分自身を映し出す。「自分の顔」を切り売りするアイドルは、つねに当の「顔」と向き合わざるを得ない。
「鏡」はお構いなしに映し出す。正面から。後ろから。思いがけないところから。あるいは、それがいびつな像を映すとしても。
「鏡でも見ることができない自分の顔」を問う1話と、それからいくらか月日が過ぎた11話では、しかし異なる「顔」を映してくれるのでもない。そこにあるのは、変わらず、「子供」としての、橘ありすそのままだ。
だから橘がそのことを許容できるとすればそれは、自分を見つめ直すことによってではない。他者に呼応して、他人を「反射」して流れる涙が、ほかならぬ「大人」の眼からあふれ出たときである。「鏡」などなくても、つねに人は人を映し合っていることを知るのだ。みんな「鏡」で、ひとつに繋がっている。
この地続きさは、「U149」に象徴される境界を浮き彫りにしつつ、接続する。つまり、橘ありすの「もっとアイドルやりたい!」という想いを切実にする代わりに、「大人」の責任の所在を後景へと退かせる。
それは先に引用した画像の1枚目に見られる、このアニメに特徴的な鈍色の影として、このアニメにつねに付き纏う。その色は明らかにガラスを反射したような色であり、詰まるところ「鏡」の影なのだ。「鏡」が自らを省みつつ地続きに接続しうるものだとして、その「影」の側面を、このアニメは刻印し続けているのである。
橘ありすの想いをまったく無下にはできないと断ったうえで、それでも都度分断線を引き直しながら、「大人」が「鏡」を支えることがあるべきなのではないかと思う*1。
アリス・ギア・アイギス Expansion
4クールくらいあるアニメのクソ回だけをかき集めたアニメ、という喩えが言い得て妙。まごうとなきトンチキアニメ。よって、ラスト2話は『アリス・ギア・アイギス Expansion』ではない。
特徴的な画面処理として、画面の四隅に飛沫を散らしたようなレイヤーが見られたが、そこからとくに何か読み取れるというわけでもない。「線」の美学化が目立つなか、「フレーム」を装飾しようというのも、トンチキアニメならではか。
あるいはそれと呼応するものとして、特徴的なハイライトが見られた。
夕日のシーンだが、線というよりは点で強調されたハイライトがブラシで飛ばしたような特徴的なフレーム装飾と調和している。画面のルックとしては新鮮だった。
あるいは、本作では時折2Dキャラの使用が見られたが、アニメーションの平面性に自己言及するような表象も見られた。
3D背景をバックにして2Dキャラの周りを回り込みで撮っているため、平面性はより際立つ。押井守『立喰師列伝』を彷彿させる、興味深い試みだった。こうした自己開示を交えながら繰り広げられるトンチキは余計に混乱させる。もちろん、良い意味で。
異世界召喚は二度目です
異世界系がメタジャンル化、つまり、「異世界」という一個のルールが定まっているからそれ以外の側面をいじって他と差別化しようと工夫を凝らすことは避けられない。たとえば転生したら人間でなく、スライムになるとか、剣になるとか。
『異世界召喚は二度目です』も例に漏れずその部類であり、タイトル通り、主人公は一度異世界に召喚され、世界を救っており、二度目の召喚から物語は始まる。
既存の想像力を上回るような展開は、はっきり言って皆目ないが、しかし、行く先々でヒロインと出会い、その場所ごとのテンプレ的要素を生かすその潔さとコンパクトさが、ほどよいテンポ感を演出していた。
何しろすべてが「二度目」なのだ。煩わしい挨拶するまでもなく、話は通っているし、関係性もできている。そうした疾走感そのまま、サクッと見られる楽しいアニメだった。
他方で、アリゼとアーメルのエピソード(主に6話)とか四天王(?)みたいなビルドスの引き際とか、並みの物語よりもよほど強度があるように思う。ずっと付いてくるパートナーがリヴァイアサンという水系統なのもポイントか。
異世界でチート能力を手にした俺は、現実世界をも無双する ~レベルアップは人生を変えた~
略して『いせれべ』。タイトル通り、主人公は異世界と現実世界とを行き来できる。元は冴えない見た目(たとえるなら『アクセルワールド』の主人公のような)だったが、異世界に行くことで急にイケメンになり、めちゃくちゃ等身が高くなる。
キャラデザが、画像にあるような原作に寄せてか、かなり等身の高いデザインになっていて、攻めている、と言えるだろう。個人的には、(そもそも等身の高いほうが好きだが)このアニメのとことん「無双」するさまと呼応していて好感が持てた。
そう、とことんやったほうがいい。ゲームですべての能力が上がった主人公は、サッカーの授業でオーバヘッドをキメるし、クレーンゲームは弱点突破スキルで攻略するし、川の魚は素手で取れるし、現実世界の熊に相撲で勝つし、バレーボールは力みすぎて破裂させるし、言語理解スキルがあるから古典と英語の試験は楽勝なのである。
「無双」に噓偽りない清々しさが、このアニメの肝だろう。
アニメーションとしては一か所、9話でルナが主人公の「お風呂のドロップアイテム」を自慢するシーンの飛び跳ねて腕を広げる一連のシーンが印象に残っている。この回は、レクシアがルナを受け入れるカタルシス回でもあるが、どうせ殺されると自らの運命を呪っていたルナが、その重いしがらみを乗り越えて、これほど快活に飛び跳ねる、その軽やかさが、アニメーションでよくよく表現されていた。見ていてすごく気持ちが良いパート。この回はレクシアのやや複雑な服飾もたいへん綺麗に整えられていて、絵的にとても快い回だった(脚本:田辺 慎吾 コンテ:田辺 慎吾 演出:田辺 慎吾 作画監督:木村 博美 ※田辺 慎吾は今作の監督)。
異世界ワンターンキル姉さん ~姉同伴の異世界生活はじめました~
通称「ワンキル姉さん」。めちゃくちゃブラコンの姉が、転生した弟を追って、異世界にまで付いてくる。
その切実さをもっとも表現しているのは、このアニメのedだ。
異世界に行ってしまった弟を想い、姉は悲嘆にくれる。流しっぱなしのシンクに重なった食器の傍らで、光る包丁が印象的だ。あなたならどうだろうか。大切な人がこの世から消えたとして、愛する人のいない世界に耐えられるだろうか。
そこで姉は跳躍して見せる。アニメーションがレイヤーでできていることを強調しつつ、いや、アニメーションだから、レイヤー間を移動できるのだということをやって見せるのだ。フレームの「奥」にあるはずの異世界に、姉はスクリーンを打ち破って潜り込む。
それほどの切実さがあるから、踊っても許される。踊りは、切実さと共にある。
ウマ娘 プリティーダービー Road to the Top
こんなことされたら当然サビをコマ送りにせざるを得ない。なるほど鉛筆風のタッチになっているんですね。オバケを伴う大胆な腕のフリと、揺れながらも画面のカメラの中心に据えられた頭のコントラストで、動画で見ると相当な気持ちよさがあります。 pic.twitter.com/976nQ9pz0v
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年4月16日
ほどよくツイートもしていたので、皆まで言うまいという感じだけれど、線の処理など、きわめて今風の美学を一方では含みつつ、他方ではある種古典的に、アニメーションでこれくらい気合を入れて描いていいのだということを再度確認した。たとえば2話のアヤベさんの何気ないテーピングシーンとか(↓動画参照)、そういうことも愉しく見られた。
アニメ『ウマ娘 プリティーダービー ROAD TO THE TOP』第2話より線撮映像を公開!
— CygamesPictures (@Cypic_info) 2023年5月5日
見上げた先に何を思う。
原画:UMP
▼第2話ご視聴はこちら!https://t.co/LuXytrHyWe#サイピク#CygamesPictures#ウマ娘#ウマ娘ロードトゥーザトップ pic.twitter.com/hFVneb1Qfp
先日、成人コンテンツへの志向がとりわけ公式では抑えられているため、ウマ娘はかなり若い世代にも人気だ、という話を見たけれど、このアニメーションの過度な強調や窃視症的視点の抑制を見ていれば、それも頷ける。
ウマ娘というコンテンツ自体には共犯性の種を見つつも、しかしそうした徹底した「誠実さ」には感心する。そういう点で、『ウマ娘』2期に引き続き、自分にとって大切な作品となった。
江戸前エルフ
具体的にどこが、とも言うべきなのだろうが、このアニメに関しては全体としての丁寧さのほうを先に評価したくなる、そんな作品だった。
東京都中央区⽉島というピンポイントな場所を舞台にしており、少し前なら(今も?)、コンテンツツーリズムの例として挙がらなくもなかっただろうこのアニメは、基本的に怠惰なエルフ・エルダとその巫女・小糸の「ゆったり下町コメディ」だ。
どの「エルフ×巫女」ペアが~という話もできるし、異種婚姻譚における寿命問題のような味わい方もできようが、個人的に着目したのは、 小清水亜美の芝居だった。近年では、『リコリコ』の中原ミズキ役などで再度注目を集めていたが、端的に言って、ミズキよりもエルダの芝居の方が「神懸かって」いた。この人にしか出せない声、という卑近な話題になったとき、小清水に関しては今後エルダを例に挙げたいと思う。
【推しの子】
ルックが抜群に「綺麗」になっていることを、さまざまに受け取ったクールであったとも思う。
(アニメの一工程としての)「撮影」の技術が文字通り進歩したとして、そのとき物量や情報量を増やし、丁寧に処理を施してゆくことは、果たして美学的な追求か。
一方ではもちろんそう(肯定の謂い)であり、デジタルアニメーションになって久しい現在、できることを試したくなるのは必然であるように思う。他方で、もしも仮に、そうしたことで素朴な絵の力や演出の力がないがしろにされてしまうのだとしたら、元も子もないように思う。
何も『【推しの子】』がそれに当たると言うわけではなし、たしかにある評価軸において、1話のアイの死に際などは、群を抜いた「美しさ」だったと思う。ただ引き換えになっているのは何か、と常に問わざるを得なかった。
ところでこの作品のストーリーラインについては、一朝一夕には語れないような側面があるから、大半のことは措くとして、今回のそれが有馬かな(cv. 潘めぐみ)に支えられていた、という印象は強い。後半はとくに、ほぼほぼ有馬かなの物語だった。
有馬の声に潘めぐみを採用したのは、慧眼というほかない。おそらくもっと「若い」声優を起用することだってできたはずだ。だがそれでも、アニメスタッフは、有馬は、潘を選んだ。この意味は重い(年齢のみならず、潘の境遇も相まって)。そう考えれば、「あんたの推しの子になってやる!」(11話)で、この作品は完結している。
それを通り越して、『【推しの子】』が「ウケて」いるということを、真剣に考えねばなるまい。
彼女が公爵邸に行った理由
韓国の小説/ウェブトゥーン発の(広い意味での)転生もの。具体的には、主人公の凛子が、現世で転落死したあと、生前読んでいたファンタジー小説のわき役レリアナ・マクミランに転生する(後述するように、小説世界の「主人公」は別に存在する。「主人公」以外に転生する点のみは悪役令嬢ものに近いとも言える)。
Twitterでは何度か背景美術のすばらしさに言及した。
冒頭約30秒に渡って背景のみが連続するカットがかなり印象的だった。その背景もかなり特徴的で素晴らしく、たとえば本当に最初の1枚を引用すれば、その気合いの入りようが分かる。眩いほどの入射光やわざと残した濃い実線、木の陰影などが、どことなく昔っぽい(セル画時代?)感じを受ける。 pic.twitter.com/XqDt0JhVUU
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年4月16日
どこかおとぎ話めいた背景は、いま風に整えられ、細い線で書かれたキャラクター作画と対照的だが、そうした対比はむしろ主人公がファンタジー世界に迷い込んでしまった、という緊張関係を保つのを助けていた。
かと思えば、急に画面が切り替わり、こんな飛び道具みたいな演出もして来る。こちらでは打って変わってまったくおとぎ話感はなく、むしろ急に抽象画や無機質な3Dの世界に迷い込んでしまったかのよう。こうした一連の考えられた演出にも良い意味で踊らされた一話だった。 pic.twitter.com/frgXjGCbLz
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年4月16日
加えて、上記のような飛び道具のような演出も光り、退屈しない12話を過ごせた。
ストーリーラインも興味深く、終盤では、元の小説では死ぬはずだったキャラクターに主人公が転生して生き延びてしまったため、本来幸せになるはずだったが運命を歪められた(小説世界の)「主人公」が、(転生してきた)主人公に復讐しようと試みていることが示唆される。
この点において、転生ものに付き纏う罪、つまり、転生した人物の人生を歪めてしまうことの倫理(自分が成り代わってその人の人生を奪ってしまう=命を奪ってしまうこと、本来結ばれるはずだった人と結ばれなくなること、等)に正面から向き合っていると言え、興味深い。
アニメは主人公と「主人公」の対決が示唆されて終わってしまったので、ぜひ続きが見たい。
神無き世界のカミサマ活動
宗教二世が、「神」の概念が存在しない異世界に転生し、「カミサマ」をプロデュースし、宗教を打ち立てる物語。
『神無き世界のカミサマ活動』のロトスコーピング(?)というかほぼ実写(?)、あまりにも露骨で笑ってしまう。 pic.twitter.com/NkQhUV3QhA
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年5月4日
すべてを諦めた居直りコンバイン作画(作画ではない)など、振り切ったユーモアは、むしろ見ていて清々しかった。
ところどころでSDキャラを使った平面的で簡素な作画に切り替えたり、opに完成という概念はなく本編の映像を使いまわして「ブリコラージュ」したり、ある意味で「手を抜く」ことにいっさい躊躇いがないスタイルは(言うまでもなく、実際に手を抜いているとは限らない)、主人公・征人(ユキト)の容赦のないゲスいやりようと呼応していたからこそ、十全なユーモアとして機能したのだと思う。
他方で、下手なアニメやマンガよりは、よほど真剣に宗教や二世の問題をとらえているようにも思った(あくまで下手なものと比較すればの話だが)。終盤のガイアの境遇やシアンら「子どもたち」の愛着表現、彼ら彼女らの「家族」の問題は、いやに疑似家族を美化するよりはまだ誠実だった(ところでガイアの声優も小清水亜美が務めており、『江戸前エルフ』と併せてその実力を思い知った)。
正直続編が見たい。
カワイスギクライシス
(自分にとっては)花守ゆみり枠でもあり、上田麗奈枠でもあった何ともなアニメ。
やはり人間をクライシスさせたほうがよい。
機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2
「大人」はもっとしっかりしたほうがいい。
君は放課後インソムニア
2話、冒頭Aパートで主人公・中見は、朝、ソファーで寝ていたために身体の痛みを訴える父親に、「ソファーで寝るからだよ」と言う。その後、学校で廃棄となるソファーを見つけて、中見ともう一人の主人公・曲(まがり)「これがあったら」「もう硬い床で寝なくても済む!」と言う。詰まるところ、魔法は心情にあり、不眠症のこころとの結びつき、緊張関係を象徴する。
そうした題材ゆえ、心情をベースとした話との結びつきが、情動的な画面づくりを許す。
(このアニメについてはもう少し書きたいことがあるので、後日追記する)
鬼滅の刃 刀鍛冶の里編
さまざまな画面の効果を考えたときに、本作のような ufotable のスタイルがひとつの到達点であることはまちがいない。
今作ではたとえば、3Dでできた魚の妖怪が、妖怪としての異質感を残しつつも、画面に滑らかにコンポジティングされ、3DCGの奇異さがむしろ妖怪としての動きの気持ち悪さに転用されていたことが印象に残っている。
おそらくそれというよりも刀をふるったときの仕草や諸々のエフェクトのほうが、何か「ufotable らしさ」と言われそうなものに近しい気はする。その美麗さが、人々の気を惹いていることも間違いない。
技術的に追求しうる側面が時代時代で異なり、その追求の実験的側面が興味深いアニメーションに繋がり得ることを一方で喜ばしく思いつつ、他方でテクノロジーが十全に発達したとして、いったいそのとき、何がアニメーションと、何が「神作画」と形容されるのか、見てみたくはある。
この素晴らしい世界に爆焔を!
フェチズムがアニメを支えるということを裏面から思い知った。
それはそれとして、スピンオフ作品が本編のほうを歪めたり、本編を超越してしまうという事態があり得るというのが、「スピンオフ」のおもしろいところのはず。
漣蒼士に純潔を捧ぐ
原作はコミックシーモアなどで配信されている過激なシーン込みのTLマンガ。近年はそうしたR18シーンを解禁した規制解除版がAnimeFestaで独占配信されている傾向がある(e.g. 『夫婦交歓~戻れない夜~』、『しょうたいむ』、『ハーレムきゃんぷっ』など)。今作もそのうちのひとつ。
個人的に、コミックシーモアで「女性に人気のコミック」とされているようなTL作品はイラストが好みなことが多く、今作も愉しく見た。
「オンエア版」では、原作ではセックスシーンになっているパートが必ず一枚絵イラストに代替されていて、むしろ一枚絵イラストを見るとセックスしたのだと分かるように調教される。パブロフの犬のように。
むしろそれこそが漣蒼士の調教だと分かったときに、一枚絵こそが到達不可能な「禁止」となり、セックスシーンよりも増した快楽を視聴者に与えるのだ。
スキップとローファー
9話(絵コンテ・演出:本間修)、主人公・美津未がスイカを食べるシャキッという音に呼応して、風景だけが切り替わって連続するシーンが約30秒間つづく。その強度たるや。
そよ風が吹き入れる網戸から外に出て、木造の家が目立つ古い街並み、干しかごと並んで吊り下げられた風鈴、自然豊かな山並み、船着き場、あまりにも広い空……。これでもかと言わんばかりの「夏」のカットの連続が、しかしながら表現しているのは、風景というよりむしろ「時間」そのものだ。
われわれが物語のなかの「現在時」を感じることができるとすれば、それはこのようなシーンにおいてだけだろう。その意味でこの回は、アニメーションでもっとも難しいと言っても過言ではない「時間」の表出を、見事にやってのけているように思う。
9話は後半も良かった。とりわけ、聡介が翳りを見せる終盤のシーンの美津未との対比は、典型的だが丁寧だった。
落ち込んでいるキャラクターを元気づけるとき、落ち込んでいるほうを影/陰に配置し、元気づける方が光のほうへ引っ張り出す、というのは演出の常套手段だ。だが『スキロー』は、登場人物たちの心の機微を、もっと繊細に描く。だから常套手段はとらない。
9話の演出が選んだのは「不透明さ」だ。清々しく、文化祭を楽しみに、「躊躇いなく、真っ直ぐ進む」美津未は、開け放たれた側の窓辺に配置される(上画像では分かりにくいが、前のカットでたしかに窓が開けられていることが確認できる)。対して「立ち止まった」聡介は、開けられた窓が寄せられ、二重になったガラス越しに映されており、どこか「不透明」に見える。そこにこそ聡介の、明るいながらも、どこか掴みどころのない性格が、よくよく表現されている。
美津未はけっして、そこから聡介を窓が開け放たれた側へ連れ出したり、聡介のほうへ窓枠の真ん中の境界を越えて行ったりはしない。ただただお土産のいかせんを渡して、「また明日!」と振り返って行ってしまう。
この距離感、パーソナルスペースを侵さず、必要以上に他人を引っ張ったり、他人に踏み込んだりしないこの距離感が、いかにも『スキップとローファー』らしい。その意味でこのアニメに見合った、素敵な演出だと思う。
デッドマウント・デスプレイ
原作・成田良悟、作画・藤本新太のマンガが原作。2017年より連載しており、そのほんの少しの、曰く言い難い「古さ」が充満したアニメだった。
急いで付け加えるが、「古い」から悪いわけではまったくない。むしろ春クールにおいては、類を見ない「完成度」を誇っていたように思う。(通俗的な理解かもしれないが)やはり成田良悟は群像劇を上手くコントロールできていると思う。
おそらくそうしたバランスの良さがまた、この作品が小野学監督作品だということを感じさせる要因にもなっている。同監督が担当した他作品、つまり『境界線上のホライゾン』、『魔法科高校の劣等生』、『学戦都市アスタリスク』(総監督)、『ソードアート・オンライン アリシゼーション』といった名前を見れば、いかにそれらが一定以上の水準をバランスよく確保していたかが想起されるだろう(そのことは本作のアニメーション制作を担ったギークトイズが、前期に『人間不信の冒険者たちが世界を救うようです』を作っていたことを考えればいっそう際立ってしまうかもしれない)。
ストーリーラインなどについては、続く第2クール目を俟ちたい。
天国大魔境
五十嵐回(10話)に触れないわけにはいかない。手描きの背景やコミカルでユーモラスなアニメーションが快かったこともたしかだが、やはり反復される構図について語りたい。
すなわち、反復されるルームミラーの構図が、そのたびごとに車窓=スクリーンに異なる景色を映すのは言うまでもない。あるいは吊り下げられたオリジナルのマスコットが意味をもつこともまた。反復されること自体やマスコットについての読解は、先行して丁寧な記事がすでに施されているので、そちらを参照されたい。*2したがって私は少し別のこと、車の「速さ」と「軽さ」について考察してみたい。
前述の記事にもあるように、このマスコットはジューイチが受けた愛情と復讐心の担保だ。「種豚」として育てられたジューイチは、駆け落ちを試み、後に殺される女性二人とそのマスコットを分け合っていたのだった。
したがって、ルームミラーの構図が反復されているのは、ジューイチがつねに女性たちと彼女たちのための復讐をわすれていないことの表れだ。トラウマで角が曲がれなくても、十五が戻ってきても、車をマルとキルコに渡した後でさえも、ジューイチが考えているのは過去のこと、ひいては復讐のことだ。
「車をマルとキルコに渡した後でさえも」というのはミスリーディングだ。なるほどジューイチは、これ以上旅をすることがなくなり、元「種豚」たちと静かに暮らすから車を渡したのだなと、視聴者は思うかもしれない。
だがジューイチはこう言っていなかったか。「ここにある車、あれよりずっと良い車なんですよ?」と。つまりジューイチは、復讐を果たした後、もっと「速く」走れる車があるからオンボロ車はいらないと、そう謂っていたのではないか。
ラストカットに至る描写は、その車の「速さ」を象徴している。
1枚目と2枚目、赤く彩られたジューイチを追い越す車主観のカットは、あまりにも速い。すさまじいスピードで、赤いジューイチを追い越してゆく。
とすれば、マスコットと同じ赤で強調されたジューイチは、過去のジューイチではないか。「豚小屋」から脱走した後、後悔と悲嘆を抱え、あるいは裏切られたかもしれないという疑念にかられつつ、それでも足を前に進めるしかない過去のジューイチ。それとは対照的に、復讐を果たし、十五を取り戻した今のジューイチは、過去の自分を置き去りにして、速く走れる。つきものが落ちたかのように、圧倒的に速く。
残るのはだから、「速さ」と「軽さ」だ。3枚目、絶妙な時間間隔で保たれるカットは、後景と前面のスライドという、伝統的なアニメーションの手法で——開いたコンポジティングで——圧倒的な「速さ」を実現する。
4枚目、なじみの構図は、しかしすべてが「反転」している。冒頭では早朝だった風景はすっかり夕暮れに。どこかいびつな台形だったルームミラーは綺麗な長方形に(ミラーの向き自体も左右逆に)。鏡面に映った社内の暗がりは、まばゆいほどの夕日に。
そして何より、赤いマスコットはもうない。かつて無邪気にぶら下げられていたそれは、あまりにも「重かった」のだろう。マスコットを取り去り、赤いかつてのジューイチを置き去りにしたいま、だから車はあまりにも「軽い」。
(蛇足だと分かっていて、しかし『天国大魔境』の全体が、きわめて窮屈だったことは付け加えておきたい。きわめて保守的なディストピアでは、自分で自分の首を絞めて悦ぶような、転倒した息苦しさを感じてしまう。とりわけ11話の終わりの展開が、ただただ不快だったことは決定的だった(かなりトラウマものである、ないし、トラウマを完全に刺激してしまう)。天国を目指すとして、本当にそれが「外」であることを願う。)
転生貴族の異世界冒険録 ~自重を知らない神々の使徒~
Twitterでも折々に触れたが、とても好きなアニメ。
本作の監督・中村憲由は子ども向けのアニメーションに多く携わっており(たとえば『怪盗ジョーカー』、『カードファイト!! ヴァンガードG』、『遊☆戯☆王SEVENS』など)、今作ではその経験と主人公・カインの「やりすぎ」が奇跡的な調和を見せたため、これほど愉しいユーモアにあふれるアニメーションになったように推察される。
このアニメは、カインが「やりすぎ」を叱られるまでが様式美なわけで、言ってみれば「寅さん」みたいなものである。カインの「やりすぎ」の復唱もその一貫で、むしろその復唱自体の「やりすぎ」が、このアニメのユーモアだったと思う。
とりわけ印象的だったのは、最終話の「ぼく、この世界だと人を助けることができるんだ」というセリフ。拗らせた見方をすれば、それはある種の虚しさを感じさせるかもしれないが、でもほんとうに転生して、その先で「人を助けることができる」と気づけるとしたら、それはとても尊いことではないか。
(レックス国王(cv. 宇垣秀成)がほんとうにいいキャラ/芝居だったということも付記したい)
BIRDIE WING -Golf Girls’ Story- Season2
前期の「バカゴルフ」的側面は、とりわけ後半部ではやや後景に退くものの、それで失速するような作品でもない。
後半、イヴと葵の関係に収斂してゆくなかで、このアニメはもっと徹底的に収斂させることを選ぶ。すなわち、イヴと葵の対決はどこまでも宙吊りにされるのである。もとより血統主義的に、「意志/遺志を受け継ぐ」ことを描いたアニメーションとして、きわめて誠実な幕切れと言えるだろう。
そうしたストーリーライン選択もふまえて、個人的には、近年におけるオリジナルアニメーションのウェルメイドな作品として本作を位置付けたい。
僕の心のヤバイやつ
羊宮妃那に期待をかけており、たしかな応答を一方的に受信した。Youtubeの企画でもその一端は見受けられる。
呼吸だと思うのだが、確信がないので、さらなる活躍を俟ちたい。
ところで本作は副題を切り分けて出す演出がとられることが間々あるが、折々でキャラクターの心情と副題が呼応したり、切り分けたことで言葉の区切りをイメージさせたり、ある意味で「言葉」が優位になるような瞬間があり、それが印象的だった(なんとなく、今自分が考えている一枚絵ボカロMVの効果に近い、という事情もある)。
印象に残った回としては第3話(絵コンテ:吉川博明、演出:白幡良志之)や第6話(絵コンテ・演出:須藤瑛仁)など。
マッシュル-MASHLE-
アニメで見ると原作で受けていたイメージよりもかなりハリポタだな、という印象。
時代とメタジャンル化が生んだ作品という認識があり、ほかにも『ワンパンマン』や異世界系の諸作品、スカッとジャパン方式への意識が感じられる。一定以上の海外ウケも考えている気がする。
スカッとジャパン方式を、ひろゆきのやりようと通じるような手法(論破の延長線上)として時代的なものを感じつつ、しかしどこか普遍的な気もしている。『テニプリ』の1話とか、後から振り返れば、あれもいわばスカッとジャパン方式だな、と思われるような事態に行き合うことも少なくない。
問題を多分に感じつつも、ああした手法に一定のラベリングができてしまったことを考える。
マイホームヒーロー
サラリーマンの主人公・鳥栖哲雄がトラブルに見舞われ、半グレ集団が関わる犯罪に巻き込まれてゆくクライムサスペンス。
原作を読んでいるため、もともろ分かっているのだが、終わった後から一気見して一気見に向いているなと感じた。サスペンスらしく、クリフハンガーなどもよくよく考えられている……と思ったらシリーズ構成は映画『桐島、部活やめるってよ』などで脚本を務めた喜安浩平だった。
原作ありきなため、どうしても終わりは中途半端にならざるを得ないのだが、そこをうまくホラーテイストにして〆ていたのが印象的。
魔法少女マジカルデストロイヤーズ
『マジデス』、放映前にイントロダクションを見た限りでは、2008年(現実では秋葉通り魔事件があり、宮崎の死刑が執行された年)にオタク文化が排除され、2011年(現実では震災の年)にオタク文化を復興するべく立ち上がるという設定に、偽史プロパガンダとして読み替えられる危険を過剰に読み取って
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年4月10日
上記のようなことをツイートしていたが、「好きなものを好きなだけ好きって言える世界」がリテラルな意味のまま上滑りしていったため辟易した、というのが正直なところ。「そうなると分かっていただろう」という居直りも聞こえるが、なるほど居直りさえもフィクションになることを願う。沓名opのとりわけ前半を興味深く見た。
女神のカフェテラス
大知慶一郎(『俺ガイル』や『五等分』、『安達としまむら』、『天子様』のシリーズ校正・脚本など)、またお前か、とでも言いたくなるような、典型的なラブコメ。
と同時に、だいたい全話 桑原智が絵コンテを切っているのだなという感想もある。要するに近年の「ラブコメ」たるべく「ラブコメ」となっている今作。瀬尾公治(『涼風』『君のいる町』)原作のある種の「古典」めいた作風と相まって、伝統芸能のような趣となっている。
ただ急に、2コマ打ち⁉ キメの泣き作画⁉ みたいなシーンに出遭った……と思ったら9話はシャフトグロス回かつクレジットに梅津泰臣。了解!という感じに。しかしむしろ「古典」めいたものが、回数を重ねるごとに「遺産」のように思えてくる。料理人だったおばあさんが孫に生きがいを感じられるというところがあまりにも人間めいている。
山田くんとLv999の恋をする
たとえばこういう演出が印象的だった。
第6話、副題のタイトルバックに手が上のレイヤーから重なり、インターホンを押すとともに本編が始まる。ほかにもいくつか似た演出、とりわけトランジッションに関連する演出があったように思う。何でもないことかもしれないが、こういうちょっとした工夫があるだけでも、画面に惹きつけられるテンション(緊張感)となる。
主人公の大学生・茜(あかね)が、高校生ゲーマー・山田くんと恋に落ちるわけだが、時折うかがえる茜の危うさに、ややクラっとすることがあった。茜が20歳を越えているか否かが(やや意図的に)曖昧になっていて、お酒を飲んで酔っ払いすぎることと、高校生と恋愛をすること、どちらかにもう少し躊躇がないと、「ダメお姉さん」表象のポジションに入れられてしまうのではないかと危惧する(むしろよりリアルな「ダメお姉さん」はこうだと露呈させたと評価することもできるか)。
そういう意味で、典型的ないわゆる「負けヒロイン」表象の枠組みに入れられそうな椿(cv. 土屋李央。良い芝居だった)のほうが、幾分以上に誠実であることは明らかであり、実質「負けて」いない。あとはたけぞうさん、のような無害な金持ち男性表象も、かなりテンプレで気になる。
勇者が死んだ!
「勇者」を死なせてしまった主人公が「勇者」に成り代わって冒険する「ちょっとエッチな冒険ファンタジー」。
主人公が過度な太ももフェチを抱えており、大根にさえニーソックスを履かせてしまう始末。性欲に忠実な主人公という設定は、『そらのおとしもの』のような10年(以上)前感を醸すが、実際、原作は2014年からの連載。
本作はファンタジー色により異世界転生ものとまぎれるが、異世界転生ものではない。そのことを考えたとき、異世界もののなかでもクリシェ(お決まり)に頼りすぎなものよりかは、本作の主人公のフェチズムが成す想像力のほうが、まだクリエイティビティがあるのではないかと思いそうになる。
フェチが描かせる、という事態そのものは、もう少し真剣に考えてもいいのかもしれない。
私の百合はお仕事です!
後半に行けば行くほど評価が高まったアニメ。原作は、『コミック百合姫』で連載している、いわゆる百合マンガ。
お嬢様学校を模した「カフェ・リーベ女学園」が舞台となっており、そこで働くスタッフはキャストとして、お給仕の最中はエチュードのように女学園の生徒を演じなければいけない。
つまり、そこにはまず二重の演技がある。一重目としては、素朴に、声優がアニメのキャラを、もう一重にはキャラが女学園のキャラを演じる。だがそれは形式的な分類でしかない。つまり女学園のキャラを演じる手前でも、キャラクターたちは日常生活を演じており、嘘を重ね、内面を隠し、過去を封印している。
そこで気づくのは、人間というのは普段から何重にも自分を演じているのだという当然の事態だ。その幾重にも重なる演技の層を、うまい具合に反復横跳びさせるような事件が次々と起こる。とりわけ主人公・陽芽の友人・果乃子は、初めは主人公にガチ恋する激重ストーカーでしかないように思われるのだが、話が進むにつれ、果乃子以外もみんながサイコパスだということがよくよく分かってくる。
みんながサイコパスってどういうこと?と、全話を見通した人でさえ思うかもしれないが、気づいてほしい、このみんなのサイコパスっぷりに。おそらくそれに気づいたときはじめて、「カフェ・リーベ女学園」という、人間の多重性を露呈させるエネルギー力場の強力さが、真に理解されるだろう。
おわりに
アニメーションに感動したとき、どうやったって言葉がそれを前に挫折してしまうような経験を、つねに追い求めている。
それでも負けじと、言葉を紡いでみる。細かに描写して、比喩を使って、普段は並べないような語を連ねて……。それでもやはり、語る者は、最終的に自らの非力さを告白する。
ただそれでも、それ自体が無力さの告白であるような文字の連なりのなかで一瞬だけ、時間へと跳躍できた気が持てる。その不可能なジャンプのために、私は言葉を諦めたくないのだ。
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*1:本作における「子供」と「大人」に関する優れた洞察としては以下を参照されたい。「149」と「150」のあいだ:『アイドルマスター シンデレラガールズ U149』感想|蜜柑粒ハイライト