野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

2022夏アニメ40本見た感想

はじめに

タイトル通り、完走したアニメ40本見た感想を記す(なお、『うたわれるもの』や『シャドウバース』など、部分的に見たものもあるが、前者は前作を忘れすぎていてもったいないと思って視聴をやめ、後者は諸事情によりピックアップして見た)。

※感想未記入のものはまだ完走しておらず、今後完走し次第加筆する。

断っておけば、アニメを40本見たからといって、良いとはかぎらないし、偉くもなんともない。とはいえ、見たいものは見たいし、せっかくだから私の感想を読んで、へーとか、うーんとか、それは違うよ!とか、思ってほしい、ので、共有する。

 

iiiあいすくりん2

顔がアイス、体の造形が動物の「あいすくりん」たちが住むアイスクリームタウンの日常を描いた異常アニメ。

とても良かった。なんというか、「幼年性」(必ずしもそれは「子供」の持ち物ではない)も兼ね備えた、柔軟な想像力がないとこの発想は出てこない。アイスクリームが主人公なのに、よし、じゃあ3話で温泉に入らせよう、とは、ふつうはならない。しかもその後、溶けてもそれはそれで動けるし、楽しいということが発覚する。ほんとうに「柔軟」でないと、こうはならない。

個人的には「バッキー」というキャラが好きだ、と思ったら cv. 前田玲奈だった。新ハンタのマチのときもとても素敵なお声だと思っていたので、好きな系統なのだろう。

『ちみも』と相まって、こういうアニメを見るべきだな、と思った枠。

 

異世界おじさん


異世界帰りのセガ好きのおじさんが昔話を語るだけの不思議なアニメ。

たしかに「おじさん」は、「無敵の人」や「弱者男性」に抗するひとつの解ではあるかもしれず、延々と昔話を繰り広げられることを許容できるような「家族」がいれば(いるのか?)、それもよいのかもしれない。

だが『異世界おじさん』はルッキズム的な批判を克服している、というような言説には納得しかねる。「おじさん」だけ見ればあるいはそうかもしれないが、しかし「おじさん」を慕う異世界の登場人物たちはみな「美少女」ではないか。

しかしもう一度翻って、それが異世界の人物であることを言い訳にすることはできるかもしれない。要するに、「昔話」という妄想の産物に、いくら脚色された「美少女」が出てきても構わないではないか、と、改めて「無敵の人」「弱者男性」を擁護する論理に回収することは、あるいは成立しうる。

哀しきかな。だがこういうアニメがあることは一面では良いこと、かもしれない……。とはいえ、放送延期となった現実的な問題については不安が拭えない……。

 

異世界迷宮でハーレムを

異世界迷宮でハーレムを(1) (角川コミックス・エース)

マジで最後までハーレムができない。

とはいえ、そういうアニメであることには変わりはないので、エロ要素も満載なわけだが、ダンジョン攻略と同水準に主人公が堅実で、なんというか、エロすらオーソドックスなエロであるように思われた。そういう意味で、「異世界」に抱く「夢」すら堅実であるところに、どこか世知辛さを覚えなくもない(が、そういう作風なのだろう)。

アニメの大きな要素として、八代拓と三宅健太が歌うEDという異常コンテンツがある。なんとも不倫理な歌だが、それというより、八代拓が数多くのBLCDに出演していることを踏まえれば、それは別用に響いてくるだろう。

 

異世界薬局

異世界に行ってまで構造式を覚えていなければならない想像力に、知人の薬剤師が絶望していた。

 

Extreme Hearts

カジュアルスポーツ。

 

Engage Kiss


「シリーズ構成・脚本:丸戸史明」に惹かれて見た。

主人公はかなりのクズで、というか、明け透けに言ってしまえばヤリチンで、別によいが、個人的には彼には惹かれなかった、というよりむしろ軽く引いた。

『リコリコ』と同じで——『Engage Kiss』もA1制作である——、やっぱりこちらも「悪魔退治」という「物語」はおまけのようなもので、描きたいのはドタバタラブコメディなのだろう、という印象だった。

が、そんなことは分かっており、だからこそ記憶喪失ものがやりたいのだな、と思って見ていた。記憶喪失もの、というか、最後に核にあるのは、『冴えカノ』の作中作『cherry blessing』のような、時を越えて愛し合う、的な、けっこう真面目な、純愛といっていいようなものなのだなと受け取った。

他方で、個人的に期待していたのは『ホワルバ』や『冴えカノ』にある破局であり、それはおそらく最後のキサラの状態に小さく(小さく)反映されていたように思う。

ただのハーレムや「萌え」では、今の時代「百合」に勝てないことをA1対決(『Engage Kiss』×『リコリコ』)で証明した、と人は言うかもしれないが、そうではなく、ふつうにどの時代であっても、性別・ジェンダーを問わず受け入れらることが(文字通り)「万人」にウケる条件なのだろう(これまで「覇権」をとってきた『エヴァ』、『ハルヒ』、『けいおん』、『まどマギ』などを思い出されたい)。とすれば、清廉潔白でない主人公や都合の良い女性たちが受け入れられない層があるのは(当然制作側も承知していることだろうし)必然的なことだろう。

その意味で、『Engage Kiss』の「ふるわなさ」は然るべきもののように思われる。

 

賭ケグルイ双 

詳細な感想は以下を参照。

総じて、『賭ケグルイ』のアニメはクオリティが高い印象。

人間、一度はシンフォギアに札束を吸われた方が良く、それを教えてくれるのがこの作品。

「君の好運に賭けたまえ」。

 

カッコウの許嫁(2クール目)

原作も読んでおり、TikTok的なもののメルクマールがある気はする。

 

彼女、お借りします 第2期

主人公の症候がこれほどまでだと深刻である。

 

神クズ☆アイドル

神クズ☆アイドル: 1 (ZERO-SUMコミックス)

やる気のないクズアイドル・仁淀ユウヤのもとに、不慮の事故で死んでしまったアイドル・最上アサヒの幽霊が現れ、アサヒを憑依できるようになったユウヤが、「ZINGS(ジングス)」というユニットとして孤軍奮闘する物語。

率直に言って、かなり楽しんで見ることができた。すべてにやる気がないユウヤのクズっぷりと、アイドルが大好きで何事にも前向きなアサヒの天真爛漫っぷりの対比が、作品全体の雰囲気をギャグっぽいテイストも含めてうまく和ませていた。

構成とセリフや音のタイミングがかなりよく、かなりの数の楽曲を使っていることはもちろんそれを助けているのだが、それよりもひとつひとつのセリフやSEなどの基本的な構成要素がとても丁寧に、かつテンポよく配置されていたように思う。

強いてひとつ、気になった点を言えば、それはライブパートの3DCGだろう。その動き・モーション自体はそんなに違和感はなかったが、モデルそのものがかなりのっぺりとしていて、手書きパートとの差異が目立った、と言えばよいだろうか。

思うに、それはそもそもキャラデザ自体が、最近のアニメにありがちな「手数の多い」——たとえば髪の毛を細かく書き分けたりだとか、服装も個々別々に動きをもつようなものにしたりだとか——デザインではなかったことも一因なのではないか。

とはいえ、それは本作の美点でもあるように思った。言葉を選ばず言えば、キャラデザが多少昔っぽい(10年代前半、なんなら0年代っぽくすらある)のだが、しかしアニメーションの動き自体は丁寧で、枚数をかければ「綺麗」ということではない、ということを物語っているように思った。

各話の構成もそうだが、シリーズ全体の構成もよく、最終話の序盤、opなしで白背景に黒文字でスタッフを羅列する演出は痺れた。というのは、「手抜き」に見せかけて潔く誠実なのが仁淀ユウヤであり、その演出はそれの具現だからだ。

なお、アマプラではコメンタリー付き最終話を見ることができ、こちらは実質、今井文也と堀江瞬によるASMRとなっているので絶対に聞いたほうがよい。余談だが、ほぼ一人二役同然だった今井文也の芝居もとても良かった。

続編があるならまた見たい、というか原作も見てみたくなる、そういうくらいに楽しめたアニメだった。

 

金装のヴェルメイユ~崖っぷち魔術師は最強の厄災と魔法世界を突き進む~

金装のヴェルメイユ ~崖っぷち魔術師は最強の厄災と魔法世界を突き進む~ 1巻 (デジタル版ガンガンコミックス)

魔法使い・アルト(cv. 広瀬裕也)とその使い魔・ヴェルメイ(cv. 内田真礼)による学園ファンタジーラブコメ。

正直、その手の部類としてはかなり楽しんで見た。明らかにショタフェチがあり、メインはオネショタなのだが、キャラのヴァリエーションも豊富で、生徒会の面々のキャラづけも色とりどりだった。

Twitterでも言ったが、決闘システムや生徒会、影絵少女などが『ウテナ』を参照としていることはわかり、しかしかと言って、それと比較して何か有用なことは言えそうもない。

現在、新作ガンダムでも『ウテナ』と似ているという指摘が多数なされているが、言うまでもなく、似ているからといって何かあるかは別問題である。が、l(私も含め)「亡霊」たちの与太話が展開されるのがTwitterであるのでどうしようもない。「異世界おじさん」はTwitterに無限にいるのだ。

とはいえ、あえて話を続ければ、『水星の魔女』に関しては『ウテナ』と比較することは妥当だろう、とは思う。が、20年以上前のアニメを本当にただ踏襲しているだけなのだとしたら、たとえそれがガンダムという(ひときわ家父長制のつよい)文脈で起こったことだとしても、(あるとしても)むしろ「遅すぎた」、という話になるのが妥当なのではないか?(しかし「遅すぎる」批判を繰り返さねばならないのが現状なのだと言われればそれまでだが……)

それから、もしも、女性の自我がきちんと描かれ、「トロフィー」にされることを拒否し、同性婚が「当たり前」になっているということだけで褒められたり、「ポリコレ」うんぬんと言われたりしているのだとしたら、あまりにもポイントを違えているように思う。『ウテナ』でTLをジャックすることすら目論見通りであるにせよ、ふつうに『水星の魔女』の話をしたほうがよい。し、ほんとはもっと別の話をしたほうがよい。

『メルヴェイユ』に戻って別の話をすると、生徒会長が藍沢エマの見た目なのに花澤香菜の声で喋り、ふだん藍沢エマからは花澤香菜の声が聞こえるので脳がバグる。

オタクは毛嫌いせずにVtuberでも何でも全部見て、脳をバグらせたほうがよい。

 

組長娘と世話係

組長娘と世話係 1 (コミックELMO)

pixiv的想像力の「可能性」と「限界」。一言でいえばそんな作品だった。

「限界」の側面をあげつらえばキリがない。ヤクザがそんな生ぬるいわけないだろ、とか、娘をそんな簡単に出歩かせるな、とか。だが、そんなことをいっても野望というものだろう。

むしろそうした「ふつう」に考えたら不可能なことを可能にしてしまうのがpixiv的想像力というものだろう。霧島はじめ男ヤクザどもの可愛さや「お嬢」の背徳的な可愛さを愛で、その表層的な関係性を嗜むのが筋というものである。張りぼての「枠組み」でも関係性を消費できる、強いて言うなら(強いて言うなら、だが)それが「可能性」である。

フェチに特化して「装置」として物語を組み立てるというのはこの手のものの常套手段であり、その点では既存の枠組みを打ち崩すには至っていない本作。とはいえ、「お嬢」役の和多田美咲さんは子役と見間違う(聞き間違う?)ほどの芝居っぷりであったし、もとより細谷佳正の声には個人的に感ずるところもあり、そして丁寧なアニメーションには目を見張った。

そのような点で、単にpixiv的想像力と言って切って捨てることが憚られるのが今作といえよう。

 

黒の召喚士

黒の召喚士 1 (ガルドコミックス)

異世界転生ものの王道なろう系。

「召喚士」が主人公であって、「勇者」は別におり、脱神話化されている。本来主人公であるはずの属性が主人公でない、といういわば「メタ」的な設定も、もはやなろう系の王道ですらある。

気になったのは、戦闘シーンのみ、ときおり3DCGとなる点で、その瞬間のみ、アーケード版のドラクエみたいになる。いや、黒光りのジェラールとか、めっちゃカッコいいのだけれど。だが、ドラクエになる。

個人的には、内田昂輝と上田麗奈が(ほぼ)毎週出るだけで十二分に見ることができた。ほんとうに典型的ななろう的想像力から逸脱することはないのだが、そういう様式美を嗜むのも乙というものだろう。

 

5億年ボタン【公式】~菅原そうたのショートショート~

サブタイトルに冠する名にたがわないアニメ。Cパートの感じが好きだった。野沢雅子。

 

最近雇ったメイドが怪しい

最近雇ったメイドが怪しい 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)

今期のオネショタ枠その2(1は『金装のメルヴェイユ』)。

なんというか、労働に疲れ果て、深夜に帰宅してたまたまテレビをつけたときにこれが放映されていたら泣くかもしれない。そのくらいの練度の、いかにも深夜やっていそうな、平和なアニメ。

一応ラブコメに属するらしいが、「からかい」系の系譜にあるように思われる。つまりパートナー関係が固定されていて(このアニメでは主人公・悠利 × メイド・リリス)、旧来のラブコメにあったようなスパンの長い「宙吊り」というよりは、1話にも満たないやり取りのなかで短いスパンの「デレ」がある系統の物語であると考えられる。

果たしてそれはラブコメなのか。この作品の前に、同じく朝日放送テレビ・テレビ朝日系列『ANiMAZiNG!!!』枠でやっていた『可愛いだけじゃない式守さん』もそうだが、「からかい」系の系譜はもはや「宙吊り(サスペンス)」状態にある本当のドギマギを楽しむというよりは、もう結論の分かり切っている、「安定した・安全なドキドキ」(それはドキドキなのか?)を楽しむものになっているように思われる。

ただそういう意味でも、労働に疲れてて、深夜に帰宅してたまたま見たら泣くかもしれない、という枠なのだ。

 

シャインポスト

TINGSは《輝かない》

アイドルアニメのある種の到達点として、楽しく見た。

 

邪神ちゃんドロップキックX

邪神ちゃんドロップキック(1) (メテオCOMICS)

暴力はカジュアルであればあるほどよい。

(鈴木愛奈はほんとうにはまり役ですね)(神保町のカレーはマジでジャガイモでお腹いっぱいになるので気をつけろ)(違法アップロード対策はひとまず良いことでは?)(わたしもふるさと納税したい)

 

シュート!Goal to the Future

良い。

 

新テニスの王子様 U-17 WORLD CUP

アメリカ代表・越前リョーマ

騎乗しながらテニスをしてもいいのだと、想像力の自由を再認識させてくれる。

 

それでも歩は寄せてくる

センパイは可愛いので

作者の過剰さに目を見張る。

 

ちみも

第12話 「地獄創造!そして地獄へ…」「地獄のおわり」

Twitterで言及したように、今期もっともおもしろかったアニメ。詳細は以下。

 

てっぺんっ!!!!!!!!!!!!!!!

てっぺんっ!!!① (ブシロードコミックス)

お笑いの頂点(てっぺん)を目指す女子高生たちの物語。メインが3人×5組で15キャラもいるというトチ狂ったアニメ。

ふつうは15キャラも登場させたら制御しきれないし、こちらも訳がわからなくなるのだが、実際は訳がわからなくはなかったし、訳がわからなくてもよいのがこのアニメ。すごい。

「お笑い×方言」がコンセプトになっており、キャラの描き分けは方言に依るところも大きい。私は厳密には方言話者ではないため、上手い下手の判別は不可能だし、とくに気に障ることはなかった。だからこそうまく描き分けを楽しめた、と言えるかもしれない。

例の暗殺事件により、大統領暗殺を(少し)ネタにした第2話が延期になったことが話題になったが、なんならこの2話がもっともキャラが入れ代わり立ち代わり出る回で、かつ、うまくキャラ紹介と導入になっていて、かつ、おもしろい、というすごい回だった。

個人的には第5話と第7話が好きだった。前者は正しいツッコミを7回しないと永遠にループするバスのなかに閉じ込められる回、後者は温泉宿ですべてがめちゃくちゃになる回。こう書いても訳がわからないので、気になった方はぜひ見ていただきたい。

総監督、音響監督を高松信司がつとめており、個人的には『男子高校生の日常』も『イクシオンサーガDT』も『美男高校地球防衛部』も、そしてもちろん『銀魂』も好きな部類なので、相性は良かったかもしれない(逆に相性が悪い人もあるだろう)。

こういう全部めちゃくちゃなアニメが1クールに1つくらいあると、とても楽しい。

 

転生賢者の異世界ライフ ~第二の職業を得て、世界最強になりました~

街を守りたくなった

素朴さ。

 

東京ミュウミュウ にゅ~♡

第3話 奪われた唇!? ミュウプリン参上!

復刻ものの挑戦と限界。

 

BASTARD!!―暗黒の破壊神―

BASTARD!! 1-27巻セット (ジャンプコミックス)

ネトフリで発表し、ところどころに見え隠れするように感じてしまう露悪さに辟易してしまった。

 

はたらく魔王さま!!

はたらく魔王さま!(21) (電撃コミックス)

おそらく多くの人がDisney+だからといって見なかったと推察される。

素朴にストーリーとしても強度の高いパートではなかったように思われ、回ごとに崩れ行く何かに、一抹の寂しさを感じた。

 

ハナビちゃんは遅れがち

ハナビちゃんは遅れがち(1) (ヒーローズコミックス)

ユニバーサルのパチスロ機を擬人化するというニッチな設定のアニメ。

個人的にはだいぶ好きだった。最終回は安っぽい感動もの、のはずなのだが、ふつうに感動した。が、私としてはふつうに他店に乗り込んでぶち壊しにしたり、イベント日を公開して破滅したりする "日常" 回が良かった。

それから注目すべきは、opedをボカロPを中心としたクリエイターたち(KaiだけはボカロPではない)が手掛けている点だろう。edは夏代孝明作品で固定なのだが、op担当クリエイターは回ごとに異なり、Kai、マイキ、TOKOTOKO、164、ナナホシ管弦楽団、SLAVE.V-V-Rと、厳密には皆毛色も出自も異なるが、やや流行りのクリエイターたちが、各々リリックビデオっぽい、つまり最近のボカロMVっぽい映像を引っさげてきて、それを声優が歌うという形式をとっている。メンツ的には、某『チェンソーマン』edばりに、界隈では有名な方ばかりなのだが、個人的には好きなPもいたし、試みとして新鮮だったので楽しく見た。

真面目な話、こういう路線の、デフォルメされた擬人化は、ひとつの手としてけっこううまいなと思った(ウマ娘を横目で見ながら)。だからちょっと話が飛ぶが、やはり『生徒会役員共』はあのビジュアルだったから良かったのであり、『生徒会役員共』のキャラをリアルにして下ネタをふりまいてはいけないのだ(伝わる人には伝わる話)。

ともかく、総じて楽しく見たアニメだった。

 

ブッチギレ!

TV アニメ『ブッチギレ!』オリジナル・サウンドトラック

今期のオリジナルではかなり好きな部類だった。この期に及んで新選組をやろうという気概も好感をもって見られた。キャラデザなども見ての通り、インナーカラーっぽく、今風。ストーリーもよくまとまっていた。

 

プリマドール

原作・key、監督・天衝、シリーズ構成脚本・丘野塔也+魁、キャラデザ総作監・矢野茜……といった、偏ったオタクが考えた最強の布陣、みたいなアニメだったし、実際、"完成度" としてはとても高かったと思うけれど、いかんせん、全然話題にはならなかった。

偏ったオタク感があったのは、戦争用につくられた自律人形、という設定をはじめとして、すべてがそうだったと言っても過言ではないかもしれない。しかしだからと言って、ただちに悪いとなるとはかぎらない。

だがしかし、ハイカラな衣装を着た年端もいかない戦闘少女たちが、"鉄道で" ——つまり地続きで——明らかにロシアのような国へ行ったり、"レーツェル" というドイツ語由来の名前を冠した "敵国" の自律人形が仲間に加わったりしてくると、どうしてもナイーヴにならざるを得ない。

しかしそういう留保すら発動せずに、いろいろすっ飛ばしてそういうコンテンツが流行ってから話題になるのが日本のオタクカルチャーである——であった?——はずなので、『プリマドール』が箸にも棒にも掛からないのはやや新鮮だった。

本当に "完成度" としては高かった。画面も本当に毎回綺麗だったし、音楽も挿入歌やキャラソンも丁寧にそろえられており、話も "その手のもの" としては "完成" されていた——最後の着地点も含め——。

ここまでくると評価に困るが、ある種のコンテンツが、もはや完全に延命不可能になりつつあることを物語っていると、強いてまとめることならできるだろうか……。

 

惑星のさみだれ

第21話 最後の戦い

「思い出補正」という言葉をめぐって考えた。

 

継母の連れ子が元カノだった

タイトル通り、元カノと「家族」として同居することになる本作、惹かれたのはそのいかにもライトノベル的な設定、というよりは、作者がときおり見せる小説知識のほうだった。

具体的には『舞姫』のような純文学から『僕は友達が少ない』のようなライトノベルまで含むのだが、そうした「文脈づくり」が功を奏しているかといえば、残念ながら、必ずしもそうではないように思われる。

個人的に、2010年代には人々の内面において、いわば「メタ革命」が起き、皆がより反省的な自己意識をもつようになったと考えており、こうした「引用」の所作は、そうした反省的自己意識のあらわれのように思う。が、そうした反省が「生かされる」かどうかは別問題である。つまりみんながみんなきちんと「反省」できるわけではない。だから「罪」はやまないのである。

もうひとついえば、そうした反省的自己意識が「ラブコメ」の枠組みも変更しているように思われる。すなわち、従来は結婚や告白といった決定的瞬間を「ゴール」に据え、そこまでの期間を延長させ、いわば「宙吊り」にする構造を基礎としていた(かもしれない)(異論の余地あり)が、近年ではそうした「ゴール」を先取りしたり、乱発したりして旧来の「ラブコメ」を「反省」しているように思われる(『高木さん』に端を欲する『久保さん』『式守さん』等の「からかい」系や『カノジョも彼女』のようなバカハーレム系などを思い出されたい)。『連れカノ』は「ゴール」を先取りした最たる例といえるだろう。

これに関して、詳しくは今後発表予定の『俺ガイル』論攷に書くつもり(というかもう書いた)が、ともかく、そうしたことを考えるよいきっかけにもなった。が、やっぱりどうせ『はがない』とか引用するなら、もっと、こう……あるだろ……!というのが正直なところではある。

あと序盤の東頭改造計画的な話はかなり辟易した。人の気持ちを「恋愛感情では?」と決めつけてかかったり、服装が「ダサい」ので「改造」しようというような目論見はふつうに暴力なのでよした方がよい。

噂によると8巻や9巻あたりからおもしろくなるとのことで、全巻買いそろえたが、アニメで放映した範囲までしか読めていない。が、原作では後のほうにある実家編をアニメでは先に組み込んだのは納得した。ポテンシャルはたしかに後のほうが感じられたからだ。

今後に期待。

 

むさしの!

厳密には『浦和の調ちゃん』というタイトルで放映されていたアニメの第2期。

だがどちらにせよかなり「埼玉」に負うところが大きく、埼玉に詳しくないかぎり、たいていのことは分からない。が、どちらにせよ分からないという説があり、聖地密着型の残滓を味わうのが正しい楽しみ方なのかもしれない。

私のなかには残念なことに「埼玉」の布置がなく、dアニメストアでは毎回EDのうさぎちゃん体操が途中で途切れてしまうことがいつも気に掛かっていた。どうしてうさぎちゃん体操は途中で終わってしまうのだろう。

あるいは、うさぎちゃんは、踊るのをやめてしまったのだろうか?

 

メイドインアビス 烈日の黄金郷

メイドインアビス(11) (バンブーコミックス)

アニメーションとしてたいへん素晴らしいと思う。もろもろについては折に触れてTwitterで語った。作者のことはミュートしている。

 

森のくまさん、冬眠中。

森のくまさん、冬眠中。1【単行本版特典ペーパー付き】 森のくまさん、冬眠中。【単行本版特典ペーパー付き】 (BLスクリーモ)

ラディカルなケモナーが見たらブチギレそうなアニメだが、しかし一口で二度おいしいのがこのアニメなのだ。というのは、登場人物たちは人間の姿にも、獣の姿にもなれるからだ。

終盤はむしろ、その獣の姿にトラウマのようなものがある、という話が展開してゆくが、このアニメの真髄は、肥大した乳首に軟膏を塗り、絆創膏を張っていたころのエピソードにあるだろう。他人のためを思って乳首に軟膏を塗ったとしても、鑑賞者の視線は免れない。男性向けアニメの日焼け止め塗りと同型の描写を、アニメでは久しぶりに見た気がする(BL本では無限に見たが)。

さまざまな躊躇いを排して突き進むさまは、いっそ清々しくはあった。あとやっぱ、興津和幸って凄い。

 

ようこそ実力至上主義の教室へ 2nd Season

ようこそ実力至上主義の教室へ 7 (MF文庫J)

神は許されるだろうか、『よう実』で毎週爆笑していたことを。

だが冒頭のエピグラフが、リリックビデオのようなopが、臆面もなく発揮される綾小路の能力が、笑っていいと、そう囁くのだ。ならば、これを笑わなくて何になる?

『てっぺん!!!!!!!!!!!!!!!』と同じ水準で見るとおもしろいというのはそういう意味だ。これはギャグアニメなのだ。けっして「実力至上主義」という文面に騙されてはいけない。というより、タイトルにそれを冠すること自体が、ひとつのギャグなのだ。

そういう意味で、最高のアニメ。

 

よふかしのうた

よふかしのうた(1) (少年サンデーコミックス)

見始めのころ、この作品を手放しで褒められるほど、良い「夜」ばかりではないことをもはや知ってしまっている、という趣旨のつぶやきをした。

それは要するに、「夜」に独りで出歩くということそれ自体が、どういう「場所」でどういう属性の「人」に許されているかの(ある種倫理的な)想像力が働くかということと、単純に、ほんとうに良い「夜」ばかり過ごしたわけではないという経験則を言い含んだものであった。

まあ、それは最終話を見終えたいまでもそう思うし、それはそうという感じなのだが、他方で、とりわけ終盤にかけてそもそもこの作品自体が「夜」を相対化してゆく手付きがあり、その点を興味深く見た。

つまり「夜」が単純に日常生活に対する逃げ場でしかなく、吸血鬼というのが「非日常」だからこそ、隣の芝生は青く見えると言わんばかりに衝動的に羨ましく思っているだけなのではないかという疑義が呈される。

言わずもがな、それでも主人公は吸血鬼のほうに傾くわけだが、そういった筋立ては真っ当な道筋であるにせよ、作品の説得力を高めることには貢献しているように思った。

才華的ポイントは、いわずもがな(ふだん私のツイートを見ている方ならお分かりいただけるはず、という意味で「いわずもがな」)、「ハツカ」という女性の格好をした男性(?)にあるわけだが、コウくんは彼/彼女の誘いに対して「性別は関係ない」というような主旨の発言を最終話でする。しかし半ば私的な愚痴を言えば、性別は関係ある、のである。性別というものが存在するから諸々の苦悩があるので、私としては、現実的には(あくまで現実的には)、それをなかったことにする所作には賛同しかねる(とはいえこれはフィクションではある)。

最後に、アニメーションとして見たときのポイントを言い添えよう。話題になったのは、極彩色でいろどられた「夜」の風景だろう。私も最初、やりすぎでは?と、思わなくもなかったが、次第に目が慣れた。気持ちいいだけではない、眩いほどの「夜」が、「夜」を相対化しにかかる終盤の展開とも相まって、むしろ説得力をもっていた、とも言えそうだ。

なんだかんだ、「よふかし」をしながら見る『よふかしのうた』は、「夜」を忘れさせるのにちょうど良かった。その意味で、名残惜しい「夜」の景色とはなった。

 

ラブライブ!スーパースター!! 第2期

TVアニメになった『ラブライブ!』シリーズとしては4作目(でいいのよね?)の第2期。一応、シリーズは全部追っており、なんならライブにも行ったこともあるけれど、わけても『スーパースター‼』はかなり好印象だった。

とりわけ2期では、スポ根ものへの反省があったことが印象的だった。ラブライブ優勝を目指す2年生が、果たして初心者を含む1年生にも厳しい練習を強いてよいのか、ということが課題となったのだ。こうした反省があること自体は珍しいことではないかもしれないが、とりわけまっすぐにスポ根をやってきた『ラブライブ!』シリーズでこれがあったことが新鮮だった。

いつの時代でも、新作というのは前作への何らかの応答があるものだが、ある種のメタ的意識や反省的意識それ自体が描かれることが、近年の作品の傾向にはある気がする。たとえばラブコメでいえば、鈍感系主人公が排されてむしろ主人公が敏感であったり、「負けヒロイン」等の特有の概念が物語のなかでも通用したりすることなどがそうした傾向の一貫と言えるだろうか。

それから、やはりライブパートは手慣れたものだった。それはこれまでの蓄積ゆえだろうが、そもそもキャラデザや衣装自体も、CGと相性が良かったり、さまざまな工夫が凝らされているのだなあと改めて実感した。ほぼ2話に1話くらいライブパートがあり、慣れてしまっていたが、それは凄いことではないか。

今作はなんと3期もあるとのこと。無印やサンシャインは2期から映画という流れが定番だったため、これも新鮮な展開である。現在進行中(?)のバーチャルスクールアイドル企画も含め、まだまだ『ラブライブ!』というコンテンツから目が離せない。

 

リコリス・リコイル

リコリス・リコイル 1(完全生産限定版) [Blu-ray]

設定のガバガバさみたいな話をすれば、延々と悪口を連ねることはできるのかもしれないが、そうやって溜飲を下げても、あんまりよいことはないように、私には思われる。

倫理的・道徳的に咎められるような設定をつくって「実験」してしまえるのがフィクションであり、自分には憚られることが他人によって実現されてしまうのが物語というものなら、たしかにそれを受け入れることもやぶさかではない。

とはいえ、そうだとしても、そのフィクションとしてつくられたはずのフィクション性が揺らいでいるのなら、フィクションとして受け入れる以前の問題である。『リコリコ』にはそういう「揺らぎ」が、つまり、一方ではもろもろをフィクションとして提供しようとする気概があり、しかし他方には「守り」に入っている部分がある、そのちぐはぐさが目立った作品だと感じた。

すなわち、テロや暴力を未然に防ぐ少女たち(もしくは少年たち)が、日常に溶け込む等の理由から制服を着せられているウルトラ搾取社会がフィクションとしてあったとして、そうならばなぜ敵役である真島は「バランサー」という、あんなにもショボい、「守り」に入ったキャラになってしまうのか。ウルトラはウルトラで超越しなければ「攻め」にはならないだろう。

加えて言えば、真島をはじめ、世間では(一部)褒められているキャラの設定などが、自分にはすべてテンプレのように思われた。ちさたきも、ミカと吉松の一連の物語も、そしてミズキの結婚願望のつよい「お姉さん」キャラも、かなり典型的だった気がした。それらを好んで消費しようとは、私は、思わなかった。とりわけミズキのキャラ造形はかなり旧来的で、ミカと吉松の物語だけ見て『リコリコ』をかなり「現代的」とする評価にはかなり疑問が残った(そもそもミカと吉松の物語すら「現代的」なのかがかなり疑わしい。なんか「硬派」なBLとかで無限にないか?うまいこと「緩衝材」にはなっていた、とは思うが)。

やがて「百合」や「BL」という言葉は消えるかもしれないが、いまはそのようにして消費されてゆく作品こそが大衆に受けてしまうのだろう。『リコリコ』が「覇権」をとったことはまちがいなく、世界はどんどんどんどん健全で健康で平和で美しくなって、その善意はとどまることを知らない。

要するに、傷つく可能性が少ない、その最大公約数がウケる作品になってしまっている気がしており(これは、ポリコレに屈したうんぬん、とかいうゴミみたいなことを言っているわけではない。念のため。そうではなく、むしろ強いて言えば、ポリコレに屈し「ない」ほうが、人々は傷つか「ない」可能性すらあるわけで、そういうもろもろをひっくるめた平準化のことを謂っている)、だから(繰り返すが)真島が単なる「バランサー」という、いかにもショボい敵キャラになってしまうのだと思う。革命は時代遅れなのだ。

とはいえ、こうした感想が最終話をリアタイで鑑賞し、毎週欠かさずリコラジを聞き、安済知佳や若山詩音の生っぽい芝居が好みの筆者によって書かれていることを明かすと、意外に思われるかもしれない。その事実を「それなのに」ととるのか「それだからこそ」ととるのかは読者に一任される。

要するに、「書く」ことはポジショニングでもあるのだ。世間の『リコリコ』評も、また同様に。

 

RWBY 氷雪帝国

もとはアメリカのwebアニメシリーズをシャフトが新たに製作したもの。元シリーズもいくつか見た気がするのだが(全部見てなくて申し訳ない)、かなり前のことで忘れてしまった(あるいは幻想かもしれない)。

今作は、申し訳ないが、話は早々に飽きてしまったので(あまりにもナイトメア編が長すぎる、というよりほとんどナイトメアの話で終わる)、その分素晴らしいアクション作画と音楽に集中できた気がする。

長田寛人のBL影が~みたいな話は昔した気がするし(口頭で友人に言っただけかもしれないが)、今作についてはそれがバチバチすぎて逆に浮いて見えるのでは?ということを言ったかもしれない。だがしかし、やや平坦な背景も相まって、それはアクション作画全般に言えることかもしれない、と思い直した。それはつまり、もとは3Dアニメの本作により「リアル」なアクションがつくことで、より明確に何を見るべき(見てほしい)かわかりやすくしている、と言い換えられるかもしれない。

あとは『ピンドラ』をよく見た自分としては3話のコンテ武内宣之でしたね~とか言うべきなのかもしれないが、残念ながら『ピンドラ』第9話ほどの衝撃は受けなかった。『ピンドラ』第9話を見ましょう。

ほんとうに作画的な見どころは尽きないのだが、わたしはそれを語る言葉をもたないし、それは然るべき人々に語っていただくことを期待したい。ともあれ、なんだかんだそういう視点で楽しんだアニメだった。

 

連盟空軍航空魔法音楽隊ルミナスウィッチーズ

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すぐれた小品。詳細はシャフトファンたちに任せる。

 

咲う アルスノトリア すんっ!

原作はソシャゲ。アニメは最後に主人公ポジの「先生」が着任するので前日譚的位置づけか。モブキャラのキャラデザがやけに凝っていると思ったが、それもソシャゲなので当然だろう。

主人公の嗅覚が優れているというのはおもしろいこともできそう……と思ったが、あんまりそういうアニメでもなかった。とはいえ、ほぼ終始丁寧な仕事で、おそらくそこにある時間を味わうアニメなのだろう、と個人的には解した。

とにかくすんっ!である。すんすんすーん!と書けば許されるかもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。というより、すんすんすーん!と言うオタクが昔なら大量に発生してもよかったような気がするが、いまはそうとは限らないことが(あるいはするとしても亡霊たちがそうしていることが)、何かを指し示しているのではないか。

 

総評

あまりにも多様なアニメーションを、総じて語るのはいつも難しい。

にもかかわらず、つまり、「多様」なはずなのに、「語られる」のはどうしても特定のアニメに偏る(と嘆く人もあるだろう)。今期ならば、存在したアニメは『リコリコ』や『Engage Kiss』であって、『ちみも』や『森のくまさん、冬眠中。』は、いわば存在しないことになっている。それは残念ながら必然的なことではあるかもしれないし、あえて存在せずにいる、そもそも数を減らした方がよい、という説もあるが、もしもそれを憂うのなら、食わず嫌いせずに全部見て、「語れ」ばよい、とは思う。

他方で、そういう個人的な趣味とは別に、全体的な趣向それ自体が、ウェルメイドで、リアル路線で、生っぽい——つまり近年のMAPPAがつくるような——アニメ "だけ" に偏るのなら、それには抵抗を覚えざるを得ない。アニメーションはもっと多様にあり、枚数の多い作画だけが、「すごい作画」ではないはずだ。それにそもそも、アニメには絵や話のほかに音や色彩、背景、芝居……など、多くの要素がある。

総合芸術としてのアニメーションに目を向けよ。そう言うべきだろう。めいいっぱいの自戒を込めて。

 

おわりに

どうしてそんなにアニメを見るのかとしばしば聞かれる。

どうして、というよりは、自然と見ている、というほかない。はっきり言って、世界も社会も会話も、本音ではフィクションだと思っているので、地続きにアニメーションがあるだけである。

とはいえ、冗談でもそういうことは人前では言えないし、そもそもそう思うべきではない、ということはわかる。だからフィクションを生きているのではないはずだ、という言い訳を探すためにアニメを見ている節がある。嘘である。本音ではみんなフィクションになってしまえと思っている。

だがそれはアニメを見てエンパワーメントされて現実に帰ってゆく、とか、そういうことではない。フィクションが現実に影響を与えないわけはないが、他方で、アニメを見てもそんなに元気になれるわけでもないからだ。

もちろん、現実問題をフィクションで解決できるとは毛頭思わない。戦争に文学は勝てない。

しかしやはり他方で、フィクションをフィクションとして生きてもよいではないか、とは思う。絶対に現実に回帰しなければいけないフィクションなどないはずだ。現実を描いたつもりのフィクションのなかで、それを逆手にとってフィクションのなかを生き続けることが、しかしできるはずなのだ。

フィクションのなかでフィクションを生き抜くこと。せめて賭けることなら、許されるだろうか。

 

 

 

p.s. 『ピンドラ』の記事が滞ってほんとうに申し訳ありません。多忙のため——とはいえこんな記事を書いていたら多忙ではないと思われても仕方ないのだけれど——、それからクオリティ維持のため、もう少しお待ちいただければ幸いです。