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名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)感想——テクノロジー、類型、様式美

はじめに

コナン映画、おもしろすぎてひっくり返った。

検索から来られる方を想定して言うと、以下に記す感想は、もしかしたら求めている「感想」とは違うかもしれない。たとえば私は、黒ずくめの幹部の正体は実はコイツで~とか、実は原作の第〇〇話が伏線になってて~みたいなことはいっさい興味ない。

いや、正確には興味がなくはないし、追っていたらさらに楽しめるのだろうとは思うのだけれど、そんなことどうでもよくなるくらい映画だけでも面白かった! ということを伝えたくて、この記事を書いている。まあ、そういう楽しみ方する人もいるんだ~くらいに思っていただければ嬉しい。いつもお読みいただいている方も、今回は本当に雑感なので、気軽に読んでいただければ幸いです。

それでは始めます。

 

 

 

 

 

※以下全編のネタバレを含みます。ご注意ください。

 

 

 

 

 

1/7 アンチテクノロジー・元太——超監視システムについて

元太が「すっげぇ~!」と言ったテクノロジーは「すっげぇ」すぎて破壊される。聡明な方からそう聞いていたから、今作もその通りすぎて笑ってしまった。

当然ながら、世界中の警察が持つ防犯カメラをつなげて常時監視、老若認証さえできるシステムなど、破壊されてしかるべきだろう。そんなスーパー監視社会、——現にそれに近い形態が成立しているかもしれないにせよ——少なくとも私は望まない。民主主義に反するとか、そもそも人権侵害だとか、いろいろあるかもしれないが、というより、もし終止監視されていれば犯罪は起こらないと考えているなら、それは人間の非理性を舐めすぎている(し、強制的に犯罪を抑制するということは、人間の理性や良心を諦めているということでもある。諦める気持ちも分かるが)。

というか人種差別でいじめられた過去を持つ人物が、文化人類学を学びつつ、人種などによる類型に一定以上頼らざるを得ないスーパー監視システムを作ってしまうなんて、倫理感がガバガバすぎないか? テクノロジー的に優位な国をさらに肥してしまうわけだし。ましてや私的に昔会った人物を検索して画像を保存しておくとか、論外なわけで、さらには、あまつさえ父親を殺しかけてもシステムに奉仕し続けようとする姿勢は、何なら怖かった。

それはともかく、今作が正面からテクノロジーの問題を取り扱っていることは、最近の自分の関心からしても興味深かった。

 

2/7 アニメティズム/シネマティズム

というのは、最近トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』のことを考えていたからだ。『アニメ・マシーン』の第1部では、宮崎駿とテクノロジーの問題が論じられている。宮崎映画(とくに初期)を思い浮かべれば分かるが、『ナウシカ』も『ラピュタ』も、ある種のテクノロジーの問題を扱っていた。

その議論で導入された、「アニメティズム」/「シネマティズム」という用語がとりわけ印象的である。ごくごく簡略化すれば、「アニメティズム」は(本来は調和されているはずの)レイヤーの可視化も厭わない横方向の運動のこと、「シネマティズム」は(とりわけ発射された弾丸に視点を置くような)奥行き方向の運動のこととまとめられよう*1

そこにおいて宮崎映画は、アニメーションが内在的にも外在的にもテクノロジーを伴うことをわきまえつつ(物語内部でもテクノロジーと共存する世界を描くし、制作過程でもテクノロジーに頼らざるを得ない)、弾道的なヴィジョンに代表される「シネマティズム」が伴うテクノロジーの暴力に抗って、どうやったら人間はテクノロジーに対する自由な関係を獲得できるのかを「アニメティズム」によって追求しているものとして論じられる。

要するに、兵器的な運動を描くことが多かった「シネマティズム」に抗してどうやって「アニメティズム」でテクノロジーを相対化するかが問題になるわけだが、そういう観点から今作のコナンを見ると、もうそういう二項対立はめちゃくちゃになっているかな、という感じだった。

コナンの活動も、言うまでもなく、テクノロジーに支えられている。腕時計型麻酔銃でおっちゃんを眠らせ、蝶ネクタイ型変声機で「眠りの小五郎」を演じ、逃げた犯人をターボエンジン付きスケートボードで追って、キック力増強シューズでボールを打ち込む、というのがいつもの流れである。

今作はそれに加え、水中スクーターという、阿笠博士の発明品が登場するが――「ヘッド部分は変えられるんじゃ~」みたいな序盤の説明シーンがおもしろすぎてめちゃくちゃ笑ってしまった――、こいつのせいも相まって、「シネマティズム」/「アニメティズム」とか、そんなに単純に整理できるような状態では全然なかった。カメラも視点も縦横無尽。奥行きが~とか横方向が~とか言っている場合ではなかった。

いやいや、それはアニメが映画的に豪華になっていることでは? という意見をお持ちの方もあるかもしれないが、いやむしろ映画がアニメ的になってきているのではないか? MARVEL映画の戦闘シーンとか、3DCGアニメのそれっぽくないか?

などなど、アニメーションと映画が漸近してきていることについては、いろいろ感ずるところがある。かつてないほどアニメーションと映画(とマンガ)が漸近しているとして、そこから何が言えるのか。

ともかく、ラマールの議論にも更新が必要かもしれない、と考えたし、以上についてはここで収まりきる議論ではないので、別の機会に論じたい。

 

3/7 「類型(type)」をめぐる功罪

話を戻せば、そういうテクノロジーへの反省に伴って、本作では「類型(type)」に関する反省もあったように思う。何なら今作は、「類型(type)」をめぐる功罪を描いていた、とも言えそうである。

たとえば推理パートでも、犯人を当てることができたのは、コーヒーカップについた口紅を拭うという、「女性特有の」(と作中では言われていたと記憶している)「類型」に因る。映画を見ずにこれだけを書くと、口紅は「女性」がするもの、という明らかに偏見にまみれた言説だが、実際にはこのあたりのことが二重三重に折り返される。

まずもって、犯人は作中で言及されているかぎりでは「男性」で(一応イヤカフの位置を確認したが、左耳にだけつけていた。それで断定できるわけでは全然ないが)、素性を隠すために「女装」していたという事情がある。加えて、「女性らしい」仕草を意識するあまり、犯行時にも口紅を拭う仕草をしてしまった、という趣旨の発言が犯人からあった。つまりこれは、女性はコーヒーを飲んだら口紅を拭うものだ、という偏見を、犯人自身がもっていたことを浮き彫りにしている。したがってそれによって犯行が明らかになってしまう事態はむしろ、そういう偏見を糾弾された結果だとも言えそうである。

しかしながら、コナンが犯人の怪しさに気づけたのも、ある種の偏見に因る。最後に明らかになったように、コナンは、親指と人差し指で「2」を示すハンドサインを「1」と読み違えたことから、犯人を「フランス人」ではないのではないかと怪しんでいたのだった。たしかに、フランス出身で親指と人差し指で「2」を示すことを知らないのは不自然なのかもしれないが、とはいえ、それがある種の「類型」であることには違いない。これが何を言わんとしているのか、難しいところだが、「探偵」というものに付き纏う、「類型」に頼らざるを得ない「罪」への自己言及にも思えた。

このように、今作は「類型」にまつわるもろもろが二重三重に反転し、作品全体として、「類型」による判断を良いとも悪いとも言っていない、宙吊りになっているように感じた。おそらく老若認証にさえ、今作は判断を留保している。コナンに「たしかにすげえけど……」みたいなことを言わせて。

ただし今作は、正すべき「類型」は正しているように思われる。

 

4/7 子供を舐めてはいけない

そのひとつが、子どもの言動が人生を変えることもある、という灰原からのメッセージである。個人的には、これをはっきり言ってくれたことにとても感動した。

老若認証というものを作りながらも、子どもに偏見をもった直美に向けてそれが言われる、というのも必然だが良かった。おそらく大人は子どもを舐めすぎている。子どもは大人が思っている以上に周りが見えていることもあるし、感じていることもある。まずもって生む/生まないという選択が可能な場合があるにせよ、生まれた後の子どものことはよくよく考えなければいけないはずだ——だからひとまず反出生主義のことはここでは措く――。

そう思っていたから、(もちろんそういう狙いがあってのことだろうが)親子連れで来る人もたくさんいるであろう『名探偵コナン』の劇場版でそれを言ってくれたことが、私には嬉しかった。

 

5/7 様式美、歌舞伎

そういう「子ども」視点を声高に語れるのも『コナン』ならではだと思うが、もっとも『コナン』ならではを感じたのは冒頭、いつものセリフシーンだった。

「俺は高校生探偵、工藤新一」から始まる一連のセリフは、もはや様式美であり、要するに歌舞伎である。あんなに長尺でいつも同じセリフを繰り返しても面白いの、凄すぎる。

今作も当然気合が入っており、3D使ってバシバシやるぜー!という気概を感じてとても良かった。何ならいつものセリフに加え、今回は黒の組織のメンバー紹介などもあり、親切設計になっていた。

おそらく親切設計の延長で、「ピンガ、ブラジル原産の蒸留酒ね」のような、全部説明してくれるじゃん、みたいなセリフがところどころあり、すべてが面白かった。リアリティとかは明らかに薄れるのだが、コナンにおいてはそんなことどうでもよく、全部説明してくれるじゃん、というセリフは、もはやそれが様式美の中に織り込まれているように感じるから、これこれ~これを見に来たんだよ!みたいな気持ちになり、全部良かった。
様式美にはそういうところがある。形式の反復。反復の気持ち良さ。あるいはそれゆえ明らかに目立つ差異。むしろ逸脱することの背徳感。形式をもって形式を征する。様式美の力を思い知った映画であった。

 

6/7 この日米安保BLがアツい

それから、近年は安室と赤井の活躍により、BL的な「消費」の仕方も増えていると聞いていたけれど、今作ではそのなかで日米安保確認パートがあり、(政治的に)アツかった(そういえば「クジラ」も出てきた!cf. 捕鯨問題)。

そもそも安室は公安、赤井はFBIという設定があり、二人の関係は疑似的に日米関係というふうに見立てられようが、今作は日本の領海で海外の兵器を利用するという激ヤバ展開になっていた。

その展開には実際作中でも明確に言及されており、潜水艦をぶち抜くパートで、たしか赤井が、日本がピンチになったときにアメリカが手助けするのも安保の役割ではなかったか? 的なことを明言しており、テンション(tension=緊張)が高まった。

おそらく似たようなことは他の映画でもあったし、今後もあるだろうから、そういう文脈での安室と赤井の論攷などがあれば読んでみたい。

コナンはしばしば、こうした「消費」の体系に、ある意味では抗うようにして、さまざまな意味を配するシステムを構築しており、そのような意味でも、二重三重の留保が働いていると感じた(むろん、それが機能しているかは別として)。

こうした「配慮」は、さまざまな「消費者」がある「現在」に応答するという点で、そうした「消費」を感じ取る嗅覚が優れていると思う。さまざまな想いを汲み取るという意味でも、「BL的消費」に対してさまざまなポーズをとることは必要だと思う。

 

ところでそんなことをよそに、そういう安室と赤井の構図のパロディをしている『BIRDIE WING』とかいうアニメ面白すぎる。『BIRDIE WING』も実際に声優に古谷徹と池田秀一を起用しているのだが、しかし、亜室麗矢(cv. 古谷徹)は日本出身ぽいが、レオ・ミラフォーデン(cv. 池田秀一)はどこ出身だか分からないのよね。ラフレスはヨーロッパのどこかということになっているけれど……。

とにかく、ガンダムの構図をもろもろ引きずっている日本のいまのアニメは意味が分からないのだが、いろいろ考えてみると面白い。

 

7/7 林原めぐみの109分

最後に映画を総括すれば、しかし結局、林原めぐみが凄すぎる109分だったのでは?と感じた。ラストシーンが好評を博するのは分かるが、そういうことでもなくて、子ども役のお芝居を、あれだけバリエーション豊かにできるのは凄すぎる。

おそらく作画も気合が入っていて、灰原周りでコマ送りにしたくなるシーンはめちゃくちゃ多かった。加えてアクションが絡むと、かなり見ごたえがあった。最後の最後で、コナンがボールを打ち抜くワンカットで、めちゃくちゃなスピードで灰原を経由してカメラを大胆に引いてゆくシーンがあったと思うのだが、あそことか何十回も見たい。

そういえばアニメーション的な見ごたえで言えば、蘭の殺陣とかもめちゃくちゃ見ごたえがあった。物理的な戦闘においては蘭がもっとも強く、殺陣のシーンとかはとくにゆっくり見返したいと思った。余談だが、蘭が黒田に「クセ」を指摘されるシーンも、今⁉、みたいな感じでめちゃくちゃ面白かった。なんかそういう、細かい笑っていいのか笑っちゃダメなのかよく分からないシーンがありすぎてそのすべてが面白かった(ウォッカの挙動とかも、全部面白かった)。

閑話休題。林原めぐみファンは観に行った方がいいと思います。

 

 

おわりに

後半に行くにつれて、マジで雑な感想になった感じがするが、感想なので、たまにはいいですよね?

まとめれば、コナンという、明らかに大衆性を引き受けなければいけない作品は、当然ながらもろもろのことがよくよく考えられており、その工夫が最高のエンタテインメントと合致していたから面白かった、という身もふたもない感想にはなる。

真面目な問題も、すごくうまくいろんな制約を回避しつつ、いい感じに宙吊りにしているな、という実感も得た。正直犯人は一瞬で分かり、でも、これが「女装」ということなら、もろもろのステレオタイプを強化しそうでヤダな、と思っていたのだが、そこも少なくとももろもろの心配りは配されていて、なるほどと思った。

たぶん、世間の人はそういう楽しみ方をしていないのだろうが、しかしまさにそういう偏見をこそ正さねば、というのがこの映画のメッセージのひとつだと思うので、みんなそういうことを考えていると思って、遠慮なくこれを感想として提示してみたい。

コナンという「子ども」に人生を左右される可能性を信じて——。

 

劇場にて(筆者撮影)

 

*1:cf. Thomas Lamarre, The Anime Machine : A Media Theory of Animation, University of Minnesota Press, Minnesota, 2009(『アニメ・マシーン』藤木秀朗、大﨑晴美訳、名古屋大学出版会、二〇一三年). 本文では簡略化したが、もちろんそんな単純な話ではない。とりわけミスリーディングなのは「アニメティズム」/「シネマティズム」という名前で、それはラマール自身が意図的にそうしているような節もあるのだが、「シネマティズム」はシネマ=映画にだけ現れるわけではないし、「アニメティズム」はアニメだけに現れるわけでもない。アニメが奥行き方向の運動を描くこともあるし、映画が横方向の運動を描くこともふつうにはあるからだ。それに、ただ奥行き方向の運動や平行方向の運動を扱えばそれで「シネマティズム」/「アニメティズム」というわけでもなくて、そこには「閉じたコンポジティング」/「開いたコンポジティング」という問題も関わってくる。これらはそれぞれレイヤーをどの程度の調和をもって「合成(コンポジティング)」するかに依る。当然「閉じたコンポジティング」ほど調和的にレイヤーは閉じられ、「開いたコンポジティング」ほど、レイヤー間の隔たりが見えるわけである。ただしラマールが「アニメーションスタンド」と言って念頭に置いているのはセル・アニメーション時代の物理的な撮影方法であり、——議論の過程でデジタル・アニメのことも触れられるとはいえ——現在のデジタル・アニメの制作過程のことはもう少し別に考える必要を感じる。