野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

グリッドマンユニバース 感想——あるいは虚構/フィクションとその反省について

はじめに

「人間は虚構を信じられる唯一の生命体なんだよ」

『グリッドマンユニバース』が虚構賛歌であることは、おそらく誰の眼にも明らかだろう。うろ覚えだが、上記のようなセリフがあり、それが今作を象徴していたと思う。

が、私はこのセリフに少々面を食らっていた。というのは、私は最近、フィクションは人に手を差し伸べることができるからこそ、その同じ手で人を傷つけもする、ということを考えていたからだ。

たとえば最近の例では、コロナウイルスは誰かがばらまいたウイルスだとか、ディープステート(影の政府)は存在するだとかいった陰謀論、そして世間を騒がせた宗教二世に関する問題の根本に、それらを支える何らかのフィクションがあることは疑いようがない。

あるいはもっと前の例で言えば、ナチスがいかにして「ユダヤ人は劣っている」というフィクションを作り上げ、それがどのような帰結をもたらしたかは誰でも知っているし、同様に全体主義国家(およびその指導者たち)がどのような芸術「物語」(ストーリーテリング)で人を先導したのかも、しばしば論じられることである*1

もちろん、だからといってここで『グリッドマンユニバース』、ひいてはアニメーション全体が、そうした大規模なプロパガンダ装置になりうるのだと喧伝したいわけではない。だがしかし、絶対にそうはなりようがない、と断じてしまったら、それは『グリッドマンユニバース』が示してくれたフィクションの力を過小評価しすぎだろう。つまり、フィクションが人を変え得るということを本当に信じるのなら、同じくらい、フィクションは人を悪い方向にも変え得るということも認めなければならないはずだ。そういうことを考えていたので、あまりにも真っ直ぐに思えるフィクション礼賛に、少々ためらいを覚えたのだ。

しかしフィクションを主題とした『グリッドマンユニバース』の作り手がそういったフィクションの負の側面を考慮していないはずがない。フィクションの功罪にフィクションの作り手がまったく無自覚だというのなら、それは作り手を舐めすぎというものだろう。そう考えて思い返してみると、一見してフィクションを手放しに礼賛しているかのように思えるストーリーのなかにも、最低限の留保があったように思われる。

あらかじめ言ってしまえば、フィクションの力を真正面から肯定することに注力した本作に、同時にフィクションの罪の側面にも十分配慮せよ、と言うのは、お門違いというものである。グリッドマンシリーズの集大成として作られた本作は、とりわけグリッドマンのファンに向けて作られたものだし、その意味でファンの望むもの「全部乗せ」になっていた本作は、ファンの期待には120%答える会心の出来だったように筆者も思う(し、タイムラインなどの反応を見ていると実際そのようである)。

だからこそ本稿は「感想」にすぎない。しかしである。しかしそれほどフィクションの力を称揚する本作だからこそ、そこにあった最低限の留保も拾い上げておきたい。そうして零れ落ちそうな欠片を拾い上げ、清算することこそが、実写パートにおける新条アカネの「ゴミ拾い」の意義であり、「私は弱い」と断ずるグリッドマン=一人の作り手(本作でグリッドマンは様々な世界を生み出してしまった作り手としても描かれていた)を支える「みんなの力」の一部であり、「伝わったかな」と懸念する立花=作り手への応答になると思うのだ。

 

 

 

 

 

 

※ネタバレを含むのでご注意ください。また、筆者は一回しか鑑賞していないため、当然ながら記憶と実情が食い違っている可能性が大いにあります。ご寛恕いただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

本編感想

以下、要素ごとに本編を読み解き、感想を施したい。

1/8 文化祭の台本

『グリッドマンユニバース』をメタフィクショナルな作品に仕立て上げている最たるものがこの文化祭の台本だ。六花と内海はつまるところ「作者」であり、創られたはずの自分たち自身が、今度はフィクションを創る側に回る。

大筋をまとめれば、六花が「一番伝えたいこと」だった「新条アカネ」という存在がとりわけ「リアリティに欠ける」と批判を受け、一度はボツにし、登場人物を増やしてカオスにしたほうがよいということになったが、諸々を乗り越え、台本を書き換えることになった、ということになろう。

このへんのことは、オーイシマサヨシの主題歌の歌詞によく表されている。

ギフト【GRID盤】(特典なし)

ギフト【GRID盤】(特典なし)

その設定は無理があるとか

いまいちリアリティに欠けるとか

いや実際問題

怪獣なんて出ない方がいいけど

夢みたいなことばかり

起こってしまう物語

疑いようのない

空想という名のビックバン

(オーイシマサヨシ「uni-verse」より)

「リアリティに欠ける」という批判がとりわけ肝になる。考えてみれば、「リアリティに欠ける」というのは実に不思議な批判で、つねにその作品が保つべきとされる「リアリティ」というのは変動するものだし——そのために「リアリティライン」なんて言葉もある——、「事実は小説より奇なり」というように、本当の「リアル」においてはフィクションよりも奇妙な出来事が起こりもする。

『グリッドマンユニバース』はこの批判に自己言及的に触れ、六花に「だって本当にあったことなんだもん」と語らせることで、観客によりフィクションをフィクションとして受け取りやすくさせようとしている、と読める。

が、それはなにも文化祭の台本に始まったことではなく、この映画の冒頭を思い浮かべれば、最初から何重にも仕組まれていたことが分かる。すなわち、まるでブラウン管テレビに大写しにされたかのような「この作品はフィクションです。実際の人物・団体とはいっさい関係がありません。」という紋切型のメッセージ、「TRIGGER」の「G」に施された穴から覗く新条アカネの眼——それは映画の鑑賞者側もむしろ造物主であり、創られた可能性のある存在であることの示唆と読める——は、思えばこの作品がメタフィクショナルな作品であることを最初から打ち出すためのものだったのだろう。

こうして、構造的には「リアリティに欠ける」という批判に、何重もの仕掛けを配して抗してゆくわけだが、その批判は構造というよりも設定や人物そのものにも向いている。

そのなかのひとつに、フィクサービームという、本作の鍵となる設定がある。

 

2/8 フィクサービームと破壊の力

フィクサービームとは、怪獣によって破壊されたコンピューターワールドの建造物などを元に戻す光線だ。

それが今作では、マッドオリジンというラスボスを倒す重要局面でも使われた。が、それはフィクサービーム単体で使用されたのではなくて、「破壊の力」と併せて使われていた。それはなぜなのか。

もちろん直接には、本編で説明されていた通り、破壊と修復を繰り返すことで、あくまでも実体として存在しているマッドオリジンの身体を崩壊させることが目的だった。だが他方で、フィクサービームはそもそも、テーマに見合ったメタフィクショナルなモチーフと言える。というのは、グリッドマンの元となっている特撮が、一度破壊した街をもう一度修復しなければ再び破壊することができないという逆説の下に成り立つフィクションだからだ。修復という機能でフィクションの所作を反省しつつ、来るべき破壊を用意するものでもあるフィクサービームはしたがって、フィクションに対する自己言及的な、メタフィクショナルな設定なのである*2

それをふまえれば、フィクサービームと「破壊の力」でマッドオリジンを倒すということが何を(比喩的に)表しているのかが分かる。つまり、破壊と修復を繰り返すということは、同じく破壊と修復を繰り返す特撮、ひいてはフィクションそのものの所作であって、つまりはフィクションそのものの力によって、マッドオリジンを倒す、ということなのである。

ここに、『グリッドマンユニバース』におけるフィクションへの反省の一端がうかがえる。つまり、フィクション、とりわけ特撮が破壊をしなければ面白く描けないということはある種の罪であるわけだが、フィクサービームという修復を主たる目的とする技に加えて、潔く破壊の力も合わせるということこそが、破壊と再生という、フィクションが免れ得ない所作そのものに意識的であるということを表象しているのだ。

そしてこうしたフィクションに対する反省意識が表れている部分はほかにもある。

 

 

 

3/8 グリッドマンの反省

その最たるものがグリッドマン自身の反省だろう。本作で問題となるマルチバースの接近は、グリッドマンが裕太と一体となっていた2か月の記憶を奪ってしまったことへの罪悪感が発端となっていた。

本作でグリッドマン自身がほかの宇宙を生み出す「創作者」として描かれていたことをふまえれば、こうした反省は、フィクションの作り手における種々の反省意識に見立てることができる。つまりそれは、特撮などにおいて正義の味方が悪を打ち負かすさいに伴ってしまう街の破壊や人々の犠牲への反省だとか、ミステリーにおいて必ず殺人などの罪を伴わなければ描けないことへの反省といった、連綿と続いてきたフィクションにおける反省の身ぶりの一環としてとらえられるのである*3

その意味でも、そうしたグリッドマンの反省の身ぶりは、TVシリーズ『SSSS.GRIDMAN』でやり残したことの決算という感じもあり、集大成にふさわしいように思えた。

しかしTVシリーズへの反省、決算はグリッドマンの反省だけにとどまらない。

 

4/8 新条アカネとナイト

それがよく表れていたのが、アカネとナイトが対面するシーンだ。

「オートインテリジェンス(AI)怪獣」としてアカネに創られ、グリッドマンを倒すことを使命とし、しかし「失敗作」とされたナイトが、さまざまな冒険を経て、アカネの騎士(ナイト)として帰ってくる。そして生み出したくれたことに礼を言う。それはさながら、創作者が生み出したキャラクターたちが、作者の手を離れて感情を持ち、自律的に呼びかけてくるかのようだ。

もちろんこの創作者としてのアカネはいろいろなふうに見立てることができる。たとえばひとつには、『SSSS.GRIDMAN』というある種の二次創作物を産み出した制作陣に見立てることができる。もとよりファンも多い『電光超人グリッドマン』でアニメを創ることは、「失敗作」を生むことになるか」もしれない。さまざまな設定をリミックスして、再提示することは、あるいは「冒涜」と受け取られてしまうかもしれない。それでも、手放してみれば、『SSSS.GRIDMAN』、『SSSS.DYNAZENON』とシリーズが続き、多くのファンに恵まれた。アカネがナイトの頭を撫でるのはだから、TVシリーズを生み出したことそのものへの反省であり、決算であり、あるいはむしろ製作者からの感謝なのかもしれない。

こうした創作者の気持ちの代弁は、むろんほかのシーンでも見られた。

 

 

 

5/8 「伝わったかな」

創作者(というかもろ監督?)の気持ちの代弁がもっとも露骨に見られたのが、文化祭終わりに六花が「伝わったかな」という趣旨の言葉を吐くシーンだろう。

それに対する応答は、「でもみんな笑ってた」みたいなもので、「なら作った甲斐はあったか」、みたいに話は収まる。

ここはかなりあからさまだった。べつに観客の反応が良いからといって良くないこともある、などと水を差すつもりはないし、創作物の感想が人それぞれということは、本作でも序盤の裕太と内海がそれぞれ演劇に対する反応が違うシーンやラストの「ふつう」というカニを食べた感想などでよくよく描かれている。

だからそうではなくて、そもそも言葉によって露骨に自己反省・自己言及してしまうことに、少しの寂しさを覚えた。だって『グリッドマンユニバース』はアニメなのだから。

つまり、言葉だけでない総合芸術たるアニメにおいて、言葉によって自己反省・自己言及をすることは効果的なのか、という、そもそもの疑問がここで浮かぶ。これについては後でも少し触れることになろうが、先に、たしかに『グリッドマンユニバース』はアニメなりの仕方で「反省」をしてもいた、ということには触れておきたい。

 

6/8 マッドオリジンと新しい想像力

『グリッドマンユニバース』におけるアニメなりの仕方の「反省」、それはマッドオリジンとの決戦に見ることができる。

作中で説明があったように、マッドオリジンはグリッドマンから生まれた存在であるため、既存の技はいっさい効かない。そこで裕太たちグリッドマン側は、新しい武器や新しい技でもってマッドオリジンを倒そうとする。

ここにも、フィクションにおける「反省」の身ぶりがある。新しい武器や新しい技というのは、要するに新しい想像力のことだ。つまり、既存の想像力を塗り替えることができるのがフィクションだということを、マッドオリジン戦は象徴しているのだ。その想像力の革命を、眼に見えて、実際にアニメーションとして生み出した点が、『グリッドマンユニバース』におけるアニメなりの仕方での「反省」だと読めるのである。

しかしそうだとするなら、つまり、アニメは既存の想像力を新しい想像力で覆すことができるのだ!と言っているのだとしたら、少し物足りないと思ってしまった点もある。

 

7/8 姫と想像力の貧困

それは第一に、今回初めて登場した(存在は前のシリーズから言われていた)姫に感じたことである。

なるほど姫は、フレンドリーで、ときにチャーミングで、からかい上手で、男性を手のひらで転がすようなタイプである……が、それはアカネのキャラ造形と似通ってはいまいか?

もとより、グリッドマンシリーズで言えば、裕太と蓬、六花と夢芽には似通っているところがあった。もちろんキャラの外見、デザインは全然違うし、抜き気味の芝居が余計に皆を似通っているように見させると思う。それに最初に言ったように、『グリッドマンユニバース』がシリーズの集大成なら、既存のキャラが勢揃いなのは当然のことではある。

だがしかし、どうしてもグリッドマンシリーズにおけるメインの男女関係の描き方は非常に似通っているように見えてしまう。旧来的な「男らしさ」などまったくないどこかうぶな男性キャラが、成熟した女性キャラにいい感じに翻弄されつつ、たまに女性側がデレる。こればかりである。

もちろんメインの関係性でなければ、暦とちせの関係性がそれにはうまく当て嵌まらないような関係として描かれてはいる(暦と稲本さんの関係はメインと同型だが……)。しかしだからこそ、ガウマと姫の関係を見ると、また同じか、と思わざるを得なかった*4

しかしすぐにでも、それは作り手の癖なんだから許してやれよとか、旧来的な男女関係の逆転は今風でいいじゃないかという反論が飛んできそうである。し、分からなくもない(ただしお情け程度に蓬を夢芽に「お姫様抱っこ」させて、しかも「逆だね」ということをわざわざ言わせてエクスキューズにしようとするような雑さならいらないと思う。「お姫様抱っこ」すること自体は許せても、「逆だね」と言わせてしまうことは、ステレオタイプが前提にあることを露呈させることだし、そこに言葉はいらない)。

が、それはあくまで「今風」であるかぎりで許されているのであって、そしてそのことは、他ならぬ姫から、反省的に示唆されていたように思う。

 

8/8 約束・愛・賞味期限

というのは、他ならぬ姫の口から語られる大事な三要素こそが「約束・愛・賞味期限」だからだ。とりわけ最後の「賞味期限」は、今回初めて明かされ、本作のモチーフともなる要素だ。この「賞味期限」という言葉が「今風」への自己批判になっているのだ。

ところでなぜ「賞味期限」なのか。もちろん、もっとも簡単なところではそれはカニの賞味期限であり、そしてストーリーラインの肝となる裕太の告白の「賞味期限」でもある。時機を逃してはいるが、その期間で好きになれたという六花の言葉は、創作を熟成させることに見立てることもできよう。つまり繰り返しになるが、初めはそこまで愛着が湧くかどうかわからなかった『SSSS.GRIDMAN』という作品を、作り手が、あるいは受け手が、長い時間かけて好きになれた、ということに見立てることはできる。

が、無理をすればもう一段階読めるような気もする。つまり、創作自体にも「賞味期限」が(いろいろな水準で)ある、と読むことはできまいか。もちろん、気持ちとしては大好きなフィクションは永遠なのだと、声を大にして言いたい。が、創作によっては、そのときにもっとも響くという年齢があり、そのときの状況が一番伝わるという時代があり、なんとはなしに出遭う機会というものがある。その意味で、加えて、既存の想像力は新しい想像力で塗り替えられるものである、という先の意味でも、創作自体にも「賞味期限」はあるのではないだろうか。

そういうことだから、劇場で見ることができるいまだからこそ、『グリッドマンユニバース』を見に行ってほしい。

 

 

 

おわりに

以上のように、『グリッドマンユニバース』は一見すると虚構礼賛の作品に思えるが、いや、虚構礼賛の作品だからこそ、虚構に対するある種の反省の身ぶりも諸所に配されていた。

『グリッドマンユニバース』は台本を反省して書き換えるという大筋のもとで、グリッドマンの反省に端を発する宇宙の異変は、マッドオリジンという既存の想像力を反省して新しい想像力で対抗しなければ勝てない敵を生み出し、それにフィクサービームと破壊の力というフィクションへの反省も含めた虚構の力全体で対抗し、アカネや六花が創作者の反省を代弁しながら、「賞味期限」という名の反省のための期間を設けた——反省の身ぶりを軸にすれば、強いて(強いてである)そうまとめることができよう。

ところで語り残していたことがある。つまりまだ、言葉だけでない総合芸術たるアニメにおいて、言葉によって自己反省・自己言及をすることは効果的なのか、という疑問に答えていない。

が、いまや明確だろう。それに対する答えはもちろん、「言葉だけでない総合芸術たるアニメにおいて、言葉のみで自己反省・自己言及をすることは効果的ではない」である。もちろん上述の通り、「新しい想像力」を実際にアニメーションで描いて見せることによって、ある程度はその自己言及性に報いていたとは思う。しかしながら、それだけフィクションを、ひいてはアニメーションの力を信じているのなら、最後までアニメーションで戦ってほしかった。アニメーションで報いてほしかった。やるならアニメーションでもって自己言及してほしかった。「伝わったかな」とか、あからさまな言葉で語ってほしくなかった。もしも本当にアニメーションに賭けることができたなら、真に人を傷つけることだってできたはずだ。

だからとりわけ、設定をすべて説明してしまうような説明台詞は不要だと感じた。もちろんそれは塩梅の問題だし、二代目などそもそも世界観を説明する側のキャラクターが説明するのは一定以上は許容し得る。たしかに戦闘シーンも新しいギミックは出しはしたし、一定以上新しいアクションもあったかもしれない。だがそれでも、音楽の盛り立て方も既存のやり方ではあったし、グリッドマンシリーズにかつてなかったアニメーション表現があったかと言われれば、自信をもってあったと答えられない。五十嵐海パートは最高だと思ったし、個人的に上田麗奈のファンでもあるからアカネの登場も嬉しかった。しかしわがままを言えば、そのような点こそ、つまりそうしたファンサービス、ファンの期待に十二分答えるようなものにとどまっている点こそが、強いて言うなら『グリッドマンユニバース』が矛盾している点なのかなと思った。つまり、フィクションにおける新しい想像力の価値を謳っておきながら、既存の想像力にどうしても頼らざるを得ない点が、その「宇宙」の限界を示していると思うのだ。良くも悪くも(良さのほうが圧倒的に強いが)「全部乗せ」にとどまる。それが私の総合評価だ。

(自分の求めるものと実物を擦り合わせて満足する)「答え合わせ」的な作品もたしかに必要かもしれない。自分が快く感じられることがそこに表現されているし、安心するからだ。だがフィクションは、快と同じくらい不快も、既存のものと同じくらい未知のものも、そこに表現し得るはずだ。その未知のものと出会う契機にこそ、私は賭けたい。傷つけるなら、ちゃんと傷つけて欲しかった。

本稿が施したのは、そのためのささやかな「ゴミ拾い」だ。実写パートの終盤、アカネは仲間たちとともに「ゴミ拾い」をする。裕太たちのいるフィクションの世界の外側で、その周りの環境を整えるのだ。だから「ゴミ拾い」はおそらく、フィクションの世界には作用しない。しかしながら、その外側にいる人々には影響する。もしかしたらゴミがあったほうが心地よいとおもう人もあるかもしれない。ゴミが増えたほうが乱雑さが増してカオスでよいと思い人があるかもしれない。だがそれでも、私は、「ゴミ拾い」が誰か一人にでも快適に過ごすきっかけを与えると信じ、書いている。

だがもちろん、言葉だってフィクションだ。いや、考えようによっては国家だってシステムだって会話だってフィクションかもしれない。あるいは、私たち自身も。もしそういう「物語」を信じるなら、つまり、目の前にあるものと創作物が地続きだと思うなら、フィクションを自由にするためにも、同じくらい、フィクションを限定することも考えねばならない。そしてフィクションが本当に人を傷つける可能性を、真剣に考えなければならない。

そのための「物語」を、ここに記した。

 

 

P.S. いっしょに映画を見に行ってくださった「言葉に引き裂かれて」、通称コトヒキ会のメンバーの一人、大玉さんが『グリッドマンユニバース』のことも含め、素晴らしい「日記」を書いてくださっています。私が少し触れた自己言及性やメタフィクションについて、より掘り下げられて書かれていますので、こちらもぜひ併せてご覧いただければと思います。また、いっしょに行っていただいた読書会のメンバーに改めて感謝します。皆さんとの議論があって、この記事が書けました。ありがとうございました。

futbolman.hatenablog.com

*1:たとえばそうした「物語」の負の側面に着目した最近の本として、ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』(月谷真紀訳、東洋経済新報社、2022年)がある。同書は、物語は「必要不可欠な毒」であると提起し、ストーリーテリングがどれほど人間を「なびかせて」きたのかの例を数多く列挙しつつ、最終的に、「物語から毒を抜き出すのは困難」であるから(同書、259頁)、「物語を憎み、抵抗せよ」、「だがストーリーテラーを憎まないよう必死で務めよ」と提言する(同書、266頁)。要するに、「物語」に騙されてしまうことに対する対処法はいまのところなく、「物語」を良くも悪くも利用することは人間である以上免れないのだから、ひとまずは「物語」を語る人というよりは「物語」自体に抵抗せよという「寛容な基準」(同書、266頁)を提案したい、というのがこの本の主旨である。「寛容な基準」と言っているあたりに、もちろんきちんとエクスキューズはあるのだが、いや、ストーリーテラーが悪意をもって「物語」を悪用しているのなら、(「憎むべき」とは言わないまでも)ストーリーテラーを批判はすべき、というふつうのツッコミはあり得るだろう。

*2:もちろん、特撮が描くヒーローたちが、怪獣という巨大な敵を倒すために、ある程度は街を破壊し、人々を犠牲にしてしまうということへの反省がほかにないわけではない。たとえば『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』は、「いくら正義の味方の怪獣でも、悪の怪獣を倒すために街中で激しく戦ったら一般市民が巻き添えとなって犠牲になるのではないか?」「たとえ悪の怪獣を倒しても、そのための人の死は許されるのか?」という疑問に挑んだ作品だとされている(ガメラ3 邪神覚醒 - Wikipedia)。実際、『ガメラ3』はガメラが過去に街を救う戦いのなかで(つまりガメラは一面的には人類の味方である)殺してしまった夫婦の子どもが主人公になっており、破壊される街や被害を受ける人々をありありと描きながら、復讐心を抱いたその主人公がイリスという怪獣と共同してガメラに挑むという筋書きになっている。結局、復讐は失敗に終わり、ガメラは主人公を救う。つまりガメラは結局過去に両親を殺してしまった主人公のために償いを果たした、という結果にはなるが、しかしその過程でやはり街を破壊し、数多くの人々を傷つけてしまう。要するに、怪獣映画を撮る際に破壊は免れないという、ある意味では潔い描き方になっている。

*3:前者の反省の例については前の註を参照されたい。後者、つまり、ミステリーが殺人を伴うことへの反省としてはたとえば、米澤穂信の描く「日常の謎」などが挙げられる。つまりミステリーは大々的な犯罪を描かなくとも描けるということの証左として米澤穂信作品はあると見ることができる。あるいは米澤穂信の作品群のなかでも太刀洗万智シリーズにはジャーナリズムに対する反省、とりわけその倫理を問うことが多分に描かれていると言える。そうした正義のヒーローへの反省やミステリーが罪を描くことの反省のほかにも、たとえばラブコメで攻略ヒロインをないがしろにしてきたことに対する反省があり得ると考えられ、筆者は以前、その例として『僕は友達が少ない』における小鷹の所作(つまり、「え、なんだって?」で一度なかったことにしたことに対する反省)や『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』における比企谷八幡の所作を取り上げた。詳しくは拙稿「ラブコメが〈宙吊り〉になるとき——『俺ガイル』における否定神学とその「加速」『レプリカ vol.1』(俺ガイル研究会、2022年)(https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1819284)を参照されたい。

*4:そうした想像力の貧困は、何も『グリッドマンユニバース』だけにとどまらず、最近では『シン・仮面ライダー』にもろに感じたことで、主人公の父親に関するトラウマや人類補完計画的な悪役の目論見、綾波とアスカをミックスしたようなキャラ造形、Twitterで気軽に読める「百合漫画」のような舐めた百合設定、ちょっとVR触りましたみたいなライダーマスク設定などは、暇のない作り手がどう想像力を養うかが課題だと突き付けているように感じた。