はじめに
左右には元来、さまざまな意味が持たされてきた。
馴染み深いのは着物だろうか。着物はふつう、「右前」に着る。「左前」は死者の着方だからだ。
あるいはロベール・エルツ『右手の優越』を持ち出すまでもなく、聖なる右側、俗なる左側、という観念を、われわれは何とはなしに知っている。神は右に座し、左手は不浄である──
謂いたいのはしかし、左右に過剰に意味を読み取るべき、ということではない。以上の例は、(意図的でなかったとしても)意味を持ってしまうこと、あるいはむしろ、人間という生き物がいかにして過剰に意味を読み取ってしまうかの証左だ。
だから提案はこうだ。あいだをとってみてはどうだろうか。過剰なまでに意味を持たせるのではなく、まったく意味を持たないのでもなく、意図を汲みつつ、それに屈するわけでもない、そのあいだを。
左と右の、そのあいだを。
1 上手と下手
アニメにはそこかしこに意味(意図)が配されている。
上手と下手も、それが対象とし得るところだ。構図を考えれば、対象をずっと左に寄せたり、反対に、ずっと右に寄せたりしていては座りが悪い。
キャラや物が動く軌跡である動線も、ずっと右から左へ、ないし、ずっと左から右へと動いていては、不自然である。それこそ、そこに何か意図があるのではないか、と勘ぐってしまうほどに。
『彼が奏でるふたりの調べ』も多分にそう見ることができる。
1.1 上手:未知のもの、不安
そこにおいて、まず上手から登場するのは未知のもの・他者だ。それは未知のものであるからには、まずこちら側を脅かし、不安を駆り立てる。
たとえば序盤、教室のシーン(図1)。主人公・珠美が絵を描いているところに、上手側から男子たちがじゃれ合って男子たちがぶつかってくる。ヘッドホンをした珠美が籠ったパーソナルスペースを、男子たちが上手側から侵害し、さらには「邪魔なんだよ、どけよ」とまで言ってくる。パーソナルスペースを侵害された珠美は、机を下手側へずらし、やがて教室から出てゆく。
だが逃れた先でも珠美は上手側から脅かされる。おそらく馴染みのサボり場なのだろう。美術室でミユキ先生に愚痴る珠美は、その途中で、溌剌とした声とともに上手から現れるギャルたちにさえぎられる(図2)。
ギャルたちは紅茶を飲む二人を見て、「お茶飲んでんの? いいなー」と無邪気に話しかける。それに対して下手に配された珠美は、紅茶をわずかに下手側に退け、上手側に向かって、えへー、と笑いかける(図3)。
主人公の癖が「自分の気持ちを笑ってごまかす」ことであるというのは、後で明らかになるところである。
1.2 下手:既知のもの、安心
以上のように、上手からは「不安」が訪れる。だから反対に、下手には「安心」が配置される。
珠美の家が下手側にあるのはその一例だろう。正確にはそれは動線で、珠美は下手側に向かって帰る(図4)。高校時代の珠美が帰路に就くシーンは2場面あるが、どちらも下手側に向かって、画面左側に向かって帰っている。
プライベートが侵される学校とは異なり、安全・安心を享受できる自宅は、下手側にあるのだ*1。
それは大人時代の描かれ方でも同様である。大人時代、バスを使って帰宅する珠美は、車内で必ず下手側に座っている(図5)。そこがいわば「指定席」であるだろうことは想像に難くない。いつもの席に着くことで、珠美は安心を得て——その証拠か、珠美はゆったりと窓に寄りかかっている——家に帰るのだ。
だから(時系列は前後するが)こうした帰路のシーンとは対照的に、「ふたり」が学校をサボって逃避行するシーンでは、上手側に向かって進んでいる(図6)。
それは不安、というよりは、「未知のもの」が不安と表裏一体にもたらす高揚感を表現するためだろう。「学校行きたくないな」という珠美の刹那的な欲望に答える凛はそこで「共犯者」となる。
そうして「ふたり」は、ほんの少しの罪悪感を抱えつつ、高校生という限られた時間にしか許されない、束の間のアヴァンチュールを愉しむのだ。
1.3 「ふたり」の居場所
こうした上手/下手の構図が最大限に生かされているのが「ふたり」の描写である。
時系列は戻るが、「男子たち」や「ギャルたち」により多分に不安を駆り立てられた後、珠美が初めて凛に出会うシーンにもそれは生かされている。
心を脅かす他者だらけの学校で、凜は最初、安心材料となるような「既知のもの」を引っ提げて登場する。体育館に響くシーナ&ザ・ロケッツ「ユー・メイ・ドリーム」。珠美の愛するその曲を弾いていたのが、ほかならぬ凜だったのだ。
不安にまみれた学校のなかで、唯一安心につながるような場所を保つ凜はだから、下手側に配される。反対に、珠美はそれを上手側からこっそり覗き、気持ちを高ぶらせる。
聞いているのは「既知」の曲でも、いままでは出遭ったことのない、共通の趣味を持った人物との「未知」の体験。ここではだから、「未知のもの」に出会う心の高揚を表すために、珠美は上手側に配されている、と読むことができよう。
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こうして左右に配された「ふたり」はやがて、音楽という共通の趣味を媒介に、心の距離を近づけてゆく。と同時に、物理的にも距離が縮まる。
「ふたり」の居場所であった体育館が文化祭で使えなくなり、落ち込んでいた珠美に、凛は声を掛ける。
「桜井さん!あの、ステージのピアノ、使えなくて……。明日は音楽室に行ってみようかな、と……」*2
ぎこちない言葉が宙に響く。そのぎこちなさに呼応するように、二人の配置も、画面の隅から、徐々に徐々に、だんだんだんだんと、画面の中央へ寄ってくる(図8)。
これまでずっと左右に寄って描かれていた対象物が、ここにきて初めて、中央へ寄る。溜めて溜めて、盛り上がるところで解き放つようなその演出はだから、張りつめた弓を射るかのような心地良さがある。
そのあと描かれる軌道も真っすぐだ(図9)。延々と伸びたひこうき雲に沿って行く珠美は、それを追って、気持ちごとどこかへ飛んで行くかのようである。
身体はきっと、調べより軽い。
おわりに
以上、とてもささやかだが、『彼が奏でるふたりの調べ』の演出を読み解いた。
構成の都合上、語り落としたところもある。たとえばこの後、「ふたり」が近づいた後の音楽室のシーンでは、物理的に距離が近づき、これまで下手側を向いていた凛はピアノごと上手側を向き、珠美はその足元で絵を描く。要は、向かい合うような構図になるのだ。
あるいはもうひとつ、大切なシーンについても書き落としている。見事な足の芝居とともに、凛が去ってしまうシーン。作品のクライマックスといっても過言ではないシーンだが、凛が上手と下手、どちらに去ってしまうかは、以上を踏まえれば想像がつくだろう。
その他演出ふくめ、山田尚子の小品『彼が奏でるふたりの調べ』を、ぜひご自身の眼で味わっていただきたい。
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アニメーションについて書くとき、まず画面を見よ、というのは、私自身、深く同意するところである*3。だがもちろん、困難も付き纏う。画面には——本稿でそう前提したように——多分に意味が配されていたとして、それが意図的かどうかは本当には分からず、どこまでの批評(解釈)が許容されるかは定かではないからだ。とはいえ、そこに意図があるかどうか、などとと問うこと自体、おそらくあまり意味はない。
ただし、アニメが画面を一からデザインし得ることを考えれば、意図がある場合は素朴にそれを知ることは大切だろう。現実を撮るがゆえにどうしても現実の時間、物質性に左右される実写映画とは異なり、アニメはより自由に——しかし1秒24コマという基底に限定を嵌められつつも——時間や空間、物質をデザインできるのだから((これに関する筆者の考えは、たとえば以下。
基本は、アニメと同じく映画も1秒24フレームだけれど、現実の純粋な持続を切り取らざるを得ない実写映画とは違って、アニメはその持続の合間を飛ばして、ほんとうに時間をデザインできる。それはアニメに特異な時間性だと思う。
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年3月15日
他方で、アニメは真に自由に時間をデザインできるわけでもない。それは「○(秒数)+○(コマ数)」という記法に象徴されるような、「整数秒+整数コマ」という制約に縛られてもいる。その限られた制約のなかでの、「自由」で特異な時間性。
— 才華 (@zaikakotoo) 2023年3月15日
))。そうしたアニメというメディウムの特性とともに意図があるのならば、それを知って初めて、メディウムの特性との兼ね合いについて語ることが可能になるはずだ。
他方で、それをインタビューなどを通して知ることはしかし、解釈の権威を作者に一任することになるわけでもない。当然ながら、意図を知ったうえでなお、その意図を裏切るように「動いてしまう」、つまり「アニメーション」以上に「アニメイテッドされてしまう」こともあるのだから。その豊かさを拾い上げるのもまた、批評の役割だろう。
あるいはそもそも、画面だけ見る、ということはできない。画面を見て、何か言ったなら、それは何かについて言っているのである。その何かが、情動についてなのか、社会についてなのか、あるいは技術についてなのか、幅はあるにせよ。
とすれば、そのためにもまずはアニメーションの言葉を知らねばならない。マンガや映画の借り物の言葉ではなく、アニメーションの言葉を。
と言いつつ、本稿が以上を満たしているとはけっして言えず、以上はそれゆえの自己反省でもある。だがともかく、アニメーションについて語るための、かすかな足掛かりとして、本稿は書かれた。
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最後に、本稿が2023年3月18日に行われた『彼が奏でるふたりの調べ』鑑賞会をきっかけに書かれたことは断っておきたい。と同時に、以上は筆者の一意見であり、たしかに参加者の皆さまの多種多様なご意見に多くを教わって書いたが、必ずしもその場にいた者の総意というわけでもないことも、誤解のないよう付け加えておく。
それぞれの意見はそれぞれで見ていただきたいが、多くのことを、とりわけ、画面の複層性や山田尚子監督がけっして足だけの芝居だけでなく、手の、そして身体全体の芝居に長けているのだということを教わった。
参加者の皆さまには改めて、記して感謝を示したい。
【参考】
※本稿における画像の引用はすべて、Amazon Prime Videoで配信中の『モダンラブ・東京~さまざまな愛の形~』第7話「彼が奏でるふたりの調べ」(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0B6T1Y3QG/ref=atv_wl_hom_7_c_unkc_1_1)による。