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【俺ガイル結2】感想・考察「偽物」の承認——あるいは、葉山は誰の「言葉」が欲しかったのか

 

 

 

 

 

※ネタバレが当然ながら含まれるのでご注意ください。

 

 

 

 

 

 

はじめに


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結 2 (ガガガ文庫)

『俺ガイル』は「言葉」をめぐる物語だ。

『結2』を読み終わったいま、改めて、胸を張ってそう言える。「自分だけの「言葉」を探す物語」、そうまとめられた Final シーズンの変奏が『結』シリーズであると、今巻を通じて、改めて確信した。

まとめれば、(『結1』の感想・考察で書いたように)『結』シリーズで期待されるのは、無印本編で述べられていた結衣の信条、つまり、「言わなきゃわかんない」、「一言言えばいいだけなのに」といった言葉を積極的に口にする「行動」の側面が強調される、ということだった。

『結2』もおおむねその通りになったが、やはり「行動」というよりは、「言葉」を口にする、という側面のほうが強かった。つまり「言葉」に対するアプローチが無印本編とは異なるのである。

ではどう異なるのか。「言葉」に対する姿勢を確認しつつ、以下、『結2』を考察してゆこう。

 

1 「言葉」にすること

さて、ではそもそも「言葉」にする、という姿勢はどのあたりに見られるのか。

 

1.1 想いを口にすること

たとえば今巻で決定的だったのは、八幡と葉山が、互いに負けじと想いを「言葉」にした点だろう。

「……何より、そんな噂にざわつく自分が気持ち悪くてたまらない。告白だのなんだの聞くだけで吐き気がする。嫌だと思う自分の稚拙さに、浅ましさに反吐が出る」

*1

「あ、もう一人、この場にはいないけれど、陽乃さんに伝えたいですね」*2

こうして八幡と葉山は想いを「言葉」にするわけだが、それはどういう意味をもっているのか。それをよりよく理解するとっかりとして、少し寄り道して、以下、言語行為論の「コンスタティブ/パフォーマティブ」という区別に触れたい。

 

1.2 言語行為論——「コンスタティブ/パフォーマティブ」

言語行為論という分野には、「コンスタティブ/パフォーマティブ」という区別が存在する。

「コンスタティブ=事実確認的」というのは文字通り、字義通りに言葉が意味する側面のこと、「パフォーマティブ=行為遂行的」というのは、字義通りではなく、文脈などをふまえて、その言葉が言外に意味している側面、暗に示している側面のことである。

たとえば、友達が靴ひもを穴の上から通すのか、下から通すのか気にしていたとする。そしてその友人に、私が「何の違いがあるんだよ?」と言ったとしよう。そのとき、「何の違いがあるんだよ?」の「コンスタティブ=事実確認的」な意味は、字義通り、「靴ひもの穴の上から通すことの下から通すことの違い」であって、それに対しては上から通すと後で靴ひもが結びにくくなって、下から通すと結びやすくなる、とか答えることになる。

対して、「何の違いがあるんだよ?」の「パフォーマティブ=行為遂行的」な意味は、「上から通しても下から通しても変わんないだろ」の謂いである。要するにそれは本当に違いを聞いているんじゃなくて、そんなのどうでもいいから速く行こうぜ、みたいなことを意味しているわけである。

これを踏まえると、「言葉」を口にすることの意味が明確になってくる。

 

1.3 発話内行為とパフォーマティブな言語

たとえば「あ、もう一人、この場にはいないけれど、陽乃さんに伝えたいですね」という葉山の言葉は、それ自体パフォーマティブな意味も持っている。

たしかにその言葉には、「陽乃さんに伝えたい」という字義的な意味、「コンスタティブ=事実確認的」な意味もあるかもしれないが、それというよりは、雪乃との噂を払拭する、とか、きちんと陽乃さんに向き合っていきたい、とか、言外に葉山の姿勢を「パフォーマティブ=行為遂行的」に示しているとも言える。

だからそのパフォーマティブな発話は、もとより言語行為論で有名なオースティンの発話内行為にも似ている。発話内行為とは、たとえば「約束します」とか、「結婚します」とか、「何かを言うことで何かを行為すること」であり、それ自体、パフォーマティブなものである。それに似通って、葉山の「陽乃さんに伝えたいですね」という発話も、ある種発話内行為的であり、パフォーマティブなものだと言えるだろう。

他方で、八幡の「そんな噂にざわつく自分が気持ち悪くてたまらない。告白だのなんだの聞くだけで吐き気がする。嫌だと思う自分の稚拙さに、浅ましさに反吐が出る」という言葉も、ある種パフォーマティブなものである。というのは、そうして心の奥に抱えた気持ちを口に出すこと自体が、葉山を刺激し、あるいは八幡自身が八幡自身の気持ちを確認することになるからだ。

それは「言霊」というある種の信仰に近い。つまり、口にすると現実になる、ということはよく言われるし、実際そういう側面はあるわけだが、それもある種「パフォーマティブ」の言い換えである*3

だから以上で見てきたように、葉山や八幡の発言の「パフォーマティブ」な側面は、無印本編の結衣の信条「言わなきゃわかんない」、「一言言えばいいだけなのに」にも通ずる。葉山と八幡は、そうして口にすることで、その結衣の信条を引き継いでいる、と(図式的には)見ることもできるだろう。

そしてこうした「言葉」にする、という側面が、「選択」という、『結1』から引き続くテーマにもつながる。

 

 

 

2 「選択」と要請

さて、ではそのように「言葉」にする、という姿勢はどこからくるのだろうか。

もちろん、当人が言いたいから言っている、というのもそうだが、『結』シリーズにおいては、「他者」からの要請も相まっていた。わけても『結』シリーズでは、それが「選択」というかたちでテーマ化されていた。

 

2.1 「選択」

『結1』においては、「選択」を迫る会話・描写が目立っていた。「どっちが好きなの?」*4、「で、比企谷くんは? もう選んだ?」*5、「ひとつだけボタンを押した」*6等々、いわば決断主義的とでも言うような、「選択」する姿勢を問われる描写が多々見られた。

それがひとつには、雪乃と結衣、どちらを選ぶのか、という問いの暗喩となっていることは言うまでもない。だからそれは、複数ある選択肢からの決断、というよりは、二つのうちのどちらかを迫る、二者択一的な「選択」主義というべきだろう。

こうした二者択一を迫る描写は、『結2』でも見られた。「もう選んだのか?」*7、唐突にそう投げかける平塚の姿勢は、その顕著な現れと見てよいだろう。

 

2.2 終わりの気配

その問いを投げかけるのが教師であり、それが「文理選択」である、ということは、『俺ガイル』における「選択」の問題が、時期的なもの——「青春」——と不可分であることを物語っている。

もとより無印本編でもそうであったように、『俺ガイル』はタイトルが冠する、「青春」という、かぎられた期間の制約と表裏一体であった——「今しかできないこと、ここにしかないものもある」*8——。

そうした、いわば「終わりの気配」は、『結2』でも強調されていた。

「なんていうか、ずっと続くと思ってたんですよね~」[…]「こういう時間とかこういう関係が、ですよ」*9

高校生活がかぎられている、という、時間的な束縛が、いろはの言葉に現れているようなある種の諦観、心理的な束縛にもなり、「選択」という要請をより強固にしていると考えられる。

そして注目したいのは、そうした「終わりの気配」のような制約が、「言葉」に対する、これまでとは異なるアプローチにつながっている点である。

 

 

 

3 「モック・テイル」——「偽物」の肯定?

誤解を恐れず言えば、『結2』では、これまで無印本編でかたくなに否定されてきた「偽物」を、一時的に——一時的ではある——肯定するかのような姿勢が見られた。

どういうことか。

 

3.1 十七歳だから

その姿勢は、「モクテル」という、『結2』のキーアイテムと併せて語られていた。

「……十七歳だから。今だからできること、許されることがある」[…]「モクテルもそうだ。大人になってしまった私には少し物足りない、お酒代わりのものでしかないが……」[…]「……けどね、君たちにとっては代替品なんかじゃない。むしろ、酔いで誤魔化さない、誤魔化せないからこそ、より純粋なものだと言える」[…]「大事なのは気持ちだ。それがあるなら、どんな不格好なカクテルだって、そこらの安酒よりよっぽど上等だよ」*10

『俺ガイル』読みなら、「酔い」という言葉からはとりわけ、陽乃の「君は酔えない」*11という、予言/預言めいた言葉を想い起こすだろう。「どんなにお酒飲んでも後ろに冷静な自分がいる」*12、そう言われていたように、「酔えない」ことは、一時的な欺瞞めいた関係性に酔いしれることなく、つねに冷静に、「紛い物」を排して「本物」を希求してゆく八幡の姿勢に通ずるものがあった。

その同じ「酔い」というタームが、ここでは「冷静」さ、というよりは「純粋」さの証に成りかわっている。一見して、「酔い」で「誤魔化せない」というのは、相変わらず「偽物」や「紛い物」を排する姿勢のように思えるが、しかしそのあとで、その「純粋」さの延長線上にある、「紛い物」や「未熟」さが、今まで異なって『結2』ではいったん認められる。

見せかけさえも取り繕えない紛い物を、認めることができるなら。/未熟なままの想いであっても、込めることが許されるのであれば。/あるいは、それは何者かになりうるのかもしれない。*13

そしてこの「紛い物」や「未熟なままの想い」という、ある種の「偽物」が、いったん認められることこそが、「言葉」にする、という姿勢を肯定するものでもある。

 

3.2 「偽物」の承認

「紛い物」や「未熟なままの想い」という「偽物」の引き受けは、「言葉」にする姿勢を肯定する。

なぜなら、「言葉」というものはつねに「本物」ではなく、「ほんとの言葉」ではない、つまり、真意を表せないし不完全なのだが、しかしそうした「偽物」めいた不完全さ、「紛い物」や「未熟なままの想い」を承認することによって、一時的に「言葉」にすることを許すからだ。

つまりそれは、「偽物」であっても、一時的に「言葉」にすることを許す姿勢である。そうした「偽物」の「言葉」を重ねて、「本物」に漸近してゆこうとする企てである。

だからこれまでの『俺ガイル』と違うのは、たった一言で伝わらない、言葉にしても伝わらないどうしようもなさを、何とか抽象化した言葉——たとえば「本物」概念——で伝えていくのではなく、たとえそれが「偽物」・「紛い物」だと分かっていてもその都度「言葉」にしてゆく、それによって「ほんとの言葉」、本当の気持ちに近づいてゆこうとする点なのである。

それはいわば、アンチテーゼ=反定立を重ねて「本物」、「ほんとの言葉」に近づいていこうとするような、弁証法的なふるまいとまとめられるだろう。

 

3.3 「紛い物の物語=モック・テイル」

こうした「偽物」を一時的に認める姿勢が、「紛い物の物語=モック・テイル」——言うまでもなく今巻のキーアイテム「モクテル」が掛けられている——を認めることになる。

未熟な思いも、未踏の距離も、未満の関係も。きっと今だけ許されていて、今だけ認めることができる。

いつかは変わるとわかっているから。

だから。

今はまだ、紛い物の物語(モック・テイル)で構わない。*14

「紛い物の物語=モック・テイル」を重ねて、「ほんとの言葉」、「自分だけの「言葉」を探す物語」、それが、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結』なのだ。

はたして「紛い物の物語=モック・テイル」を紡いだ先に、「本当の物語」を見出すことはできるのか。

いまはまだ、誰も知らない。

 

 

 

おわりに——であるならば、それは誰の「言葉」だったのか

ひとつ、まだ『結2』の大きな疑問を残していた。というのは、葉山が聞きたかったのが「俺の言葉を通してみる、誰かの言葉」*15だったとすれば、それははたして、誰の「言葉」か、という疑問である。

それはまず率直に、陽乃の「言葉」だと答えてよいだろう。八幡に「意趣返し」を仕掛けて葉山が引き出したいのは、どこか陽乃に似た八幡が、陽乃の「言葉」を言ってくれないか、「偽物」でもいいから陽乃が自分に〈声〉をかけてくれないか、そんな歪んだ願いが、葉山にあるからだろう。

実際、見事に八幡は葉山の期待に応える。「……お前はそんな普通で、つまらない奴なのか?」*16そうのたまう八幡には、完全に陽乃が宿っている。

がしかし、言うまでもなく、それはほんとうには陽乃本人の言葉ではない。素朴に、それは八幡が陽乃を真似しているだけである。それに、葉山の期待する「陽乃」も、陽乃ではない。それは葉山の主観を通した「陽乃」であり、強いて言えばそれは葉山の妄想、葉山自身である。

であるならば、本当に葉山が欲していたのは、いったい誰の「言葉」だったのか。「言葉」はつねにパフォーマティブで、言外に何かを言ってしまっていて、「他者」の「言葉」は、しかし「自分」というフィルターを通してしか聞くことができない。であれば、「他者」とはどこにいるのだろうか……。

だからここでやっと、『結2』冒頭の、結衣の日記に書いてあることの深度が測れる。「ほんとの言葉は見つからない」、「ほんとの言葉って難しい」、「それを探すために書いているのかもしれない」*17

いつだって期待して、いつも勘違いして、いつも間違える。

「ほんとの言葉」を探す旅は、まだ始まったばかりだ——

 

 

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www.zaikakotoo.com

*1:『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結』第2巻、247-248頁。以下、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結』からの引用は、巻数(アラビア数字)と頁数のみを略記する。また、無印本編『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』からの引用は、巻数を丸数字で示し、頁数を添えて略記する。

*2:結2、257頁。

*3:とはいえ、そんなことを言ったらすべての言語は「パフォーマティブ」なものなのではないか? という疑問を持たれる方も当然おられるだろう。ご明察、それこそまさにポール・ド・マンの出発点であり、ド・マンが「アレゴリー」というキータームに込めた意味、言語は常にみずからとは別のものを指し示すという言語の宿命にほかならない。本文で述べた靴ひもの例も、ド・マン『読むことのアレゴリー』第一章から借りてきたものである。詳細は以下を参照されたい。Allegories of Reading: Figural Language in Rousseau, Nietzsche, Rilke, and Proust, Yale University Press, 1979(『読むことのアレゴリー——ルソー、ニーチェ、リルケ、プルーストにおける比喩的言語』土田知則訳、岩波書店、2012年/講談社学術文庫、2022年). また、「コンスタティブ/パフォーマティブ」という二つの概念は、東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社、1998年)のキータームでもある。そのことはたとえば、以下でもわかりやすく説明されているので、ご興味のある方はぜひ参照されたい。東浩紀「郵便的不安たち——『存在論的、郵便的』からより遠くへ」『郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1』河出文庫、2011年。

*4:結1、102頁。

*5:結1、297頁。

*6:結1、306頁。

*7:結2、188頁

*8:⑨、235頁。

*9:結2、211-212頁。

*10:結2、196頁。[…]は筆者による省略を示す。

*11:⑫、93頁。

*12:⑫、92頁。

*13:結2、198頁。

*14:結2、309

*15:結2、249頁。

*16:結2、250頁。

*17:結2、12頁。