野の百合、空の鳥

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アニメーション的快楽を求めて——『小市民シリーズ』第2話における “リアリティ” について

はじめに——意味から逃れて

図01:直線的な画面

たとえば以上のような直線的な構図に、1話から引きつづき、境界線のメタファーを見出すことは可能だろうか?

なるほどたしかに、ここでも小鳩と小佐内は、光の境界線やコンクリートの境界線、それから窓ガラスの境界線(の延長)によって分断されているようにも見える。そこに何らかの “距離感” を鑑賞者が感じるとしても、第三者には止めようもない。

しかしながら、筆者はここに感じるのは、そのような意味内容というよりはむしろ、画面の力/絵の力でもって観者を魅了しようとする審美的な態度である。

凄まじい角度で降り注ぐ入射光の “輝き” *1 や(左上図・右上図)、あからさまにパースをかたどる直線ばかりで構成された “できすぎた” 画面(左下図・右下図)は、「この絵を見よ」と言わんばかりの圧倒的な絵力を備えている。

 

*

 

とはいえもちろん、武内宣之が絵コンテ・演出を務めたこの第2話が *2 、画面で意味内容を “語らせる” ようなごくごく基本的な工夫を忘れるわけはないし、ましてやアニメーション的な快楽を忘れているわけでもない。

——アニメーション的快楽?

と書いて、はたしてそれが何を意味するのか、そう簡単には言い得ないことに気づく。

だから考えたいのはそのことだ。筆者がたしかにここにあると感じた「アニメーション的快楽」とはいったい何か。それはたとえば「映画的快楽」——そのようなものがあるとして——とはどう異なるのか。あるいは違いがあったとして、「だから、何?」なのか。

しばらく思索を進めてみよう。

アニメーション的快楽を求めて。*3

 

 

 

1 映像に “語らせる”

1.1 芝居に “語らせる”

図02:映像に “語らせる”

ごくごく基本的なところから確認しよう。

たとえば上図の場面は、映像に“語らせる” ということがもっとも分かりやすく表れたシーンだと考えられる。

ここでは、中学時代から性格が変わり果てた小鳩に対し、健吾 *4 がカマをかけるも、通り一遍の回答しかよこさない小鳩に苛立ち、それを察した小佐内が席を外す。

こうして書き下すと陳腐に思えるが、本編では、そのことはセリフではいっさい語られず、小鳩のあっけらかんとした表情や健吾の貧乏ゆすり、小佐内のさりげない仕草といった映像的表現によって、それぞれの意図が明確に表現されていると受け取れる。

アニメーション的快楽以前に、映像表現の基礎がしっかりと固められていることが分かるだろう。

 

1.2 ケーキカットが “語る”

だからこそたとえば、象徴的に繰り返されるケーキカットのシーンに、われわれはキャラクターの性格を、映像に信頼をもって、読み込むことができる。

以下の3カットを比較してもらいたい。

動画01:小佐内のケーキカット

動画02:健吾のケーキカット

動画03:知里のケーキカット

動画1では、フォークが勢いよく入れられ、そのあとゆっくりそれが突き刺される。その運動は、ゆっくりとフォークを入れればケーキは倒れてしまうであろうことが熟知された、つまり、ケーキを食べ慣れている人の切り方だと読み取れる。そのあとのゆっくりとフォークを突き刺すさまもまた、ケーキを大切に食べる小佐内の、スイーツ好きの一面がよくよく現れた運動だと解釈できよう。

あるいは動画2では、チョコケーキが真上から、岩のように削り取られる。あまりにも大胆なその食べ方はだから、健吾の無邪気さや思い切りのよい性格が反映された運動だと考えられる。

そして動画3では、ケーキフィルムが綺麗に巻かれ、ショートケーキが端から、しかし少し中途半端に持っていかれているさまが見て取れる。小佐内や健吾に比べ、知里の性格は判然としないところがあるものの、以上の流れを踏まえれば、律儀でありつつ、どこかせっかちなところがあるのが知里の性格だ、と解釈できるだろうか。

 

*

 

ところで以上に書いたことは、やはり依然として、画面の意味内容やメタファーの分析であって、言ってみればひとつの解釈でしかない。

ただしそれらは、まったく意図されていないとも思えない。上記の「1.1」で見たように、明確に映像に “語らせる” ことができる作家が、「1.2」のように解釈できる運動を、意図的にはまったく作っていない(無意識に作った)と言うのなら、クリエイターを舐めすぎているとすら思える。

しかしながら他方で、明確にすべてを意図して作ったと断定することもできない。なぜなら、まず素朴に、鑑賞者には「作者」の意図など知るべくもなく、またそもそも、集団制作であるアニメーションにおける「作者」を想定することも困難(あるいは想定するには諸々の手続きが必要)だからだ。だから批評は、このことに誠実になるのなら、「~と解釈できる」や「~と考えられる」といった受け身的な表現しかとることができない。

ともかく、したがって以上だけではまだ、主にアニメーションの運動にあると思われるアニメーション的快楽、つまり、アニメーションに独自の快楽は見出すことができない。

それにそもそも、意味内容やメタファーを読み取ることとは別に、以上で挙げたような画面は、アニメーションでなくとも、たとえば実写映画などでも、作ることができるように思われる。

ではいったい、アニメーション的な、アニメーションに独自な画面は、どこにあるのだろうか?

 

 

 

2 脱「映画的」

2.1 脱「映画的」構図

たしかに『小市民シリーズ』第2話は、第1話に引きつづき、固定的な画面(FIX)から始まり、やはり劇伴をごくごく少なめに控え、節制されたつくりになっているように思える。

加えて、いわゆる「オバケ」のように、実写では必要ないようなアニメーション独自の表現技法を選ぶこともほとんどなく、相変わらずシネスコであることも相まって、第2話はともすると「映画的」 *5 とでも評される作品に仕上がっているかもしれない(し、実際そのような感想も散見された)。

しかしながら、本編をよくよく見ると、そのような「映画的」な画面づくりは、むしろ意図的に回避されているように感じられる。

 

*

 

たとえば以下のショット群を見てほしい。

図03:縦横無尽なカメラ

一見して、映画でも可能な構図であるように思える。

むろん不可能ではないだろう。しかしながら、ショットの構図が物理的・時間的な制約を被る(実写)映画でこうした構図を撮るためには、自由自在に、いつでも好きな時間にカメラを配置することができるアニメーションよりも、はるかに労力を伴うだろう。

冒頭の商店街のシーンは、そのようなアニメーションの自由さを物語っている。というより、その自由さを誇示しているようにすら受け取れる。というのは、あおりも水平も俯瞰も、ロングもミディアムもアップも、アイレベルやショットサイズのすべてがそこに詰め込まれているからだ。

こうした縦横無尽な構図の選択はしたがって、むしろ「映画的」であることを回避しつつ、アニメーションの自由さを高らかに宣言しているように思われるのだ。

 

2.2 アニメーション的 “ウソ” 

またそもそも、あくまでも「現実」を撮る(実写)映画とは異なり *6 、アニメーションは言ってみれば「現実」そのものを“描き込む” ことができる。

したがってたとえば、以下のような “ウソ” が「現実」となる。

図04:デザインされた “ウソ”

ここにはおそらくアニメーション的な “ウソ” がある。

鏡に映った小鳩と健吾のショットがそれだ。光学的な説明は専門外の筆者には不可能だが、しかし鏡の角度からして——光の入る入射角と反射角は基本的には同じなはずである——、こんなにも都合がよく小鳩と健吾が鏡の映る範囲に収まるかどうかは、かなり怪しく見える。

もしそうだとして、しかしここで科学的な見地から、「現実を反映していないからダメだ」などとアニメーションを腐したいわけではけっしてない。むしろ、こうした “ウソ” をもデザインできることこそが、アニメーション的快楽につながると思うのだ。

つまり、もしも実写においてもこのような構図が撮れたとして、そのとき画面から感じられる快楽というのは、たまたま現実が奇跡的な構図になったことの妙から来るのではないか。

それとは異なり、アニメーションにおける “ウソ” が感じさせるのは、あり得ないはずの構図までデザインして “しまえる” こと、その画面それ自体を美しく思えて “しまえる” ことの快楽、あるいはその “ウソ” を許容し、共有できることに対する快楽なのではないか。

おそらくここに、リアルよりもリアリティを感じさせ得る、というアニメーション的快楽の条件があるように思われるのだが、ともかく、これがデザインされた “ウソ” だとするなら、ここでもやはり「映画的」画面は忌避されているように思われる。

 

2.3 脱「映画的」カメラワーク

そしてとりわけ筆者が、第2話が「映画的」な側面を回避していると、もっとも顕著に感じたのは以下のシーンである。

動画04:第2話における会話シーン

一見すると何でもない、ただの会話シーンのようにも思えるが、たとえばこれを第1話における極めて穏当なカメラワークと比較してみてほしい。

動画05:第1話における会話シーン

比較すると、第1話がいかに節制された、ベーシックな会話シーンを組み立てていたかが分かるだろう。(最後の小佐内を追うカメラに特異さがないわけではないが)カメラワークとしては、ショットとリバースショット、それから、会話する2人全体を映すショットの3つのショットから成り立ち——映画用語で言うところの「切り替えしショット」ないしは "triangle coverage" ——、当然イマジナリーラインを越えることもない。

第2話における小鳩と健吾の会話シーンは、この第1話とまったく同様のカメラワークを採ることもできたはずだ。しかし第2話はそれを選ばなかった。代わりに選ばれたのは、2人の対話者のあいだを勢いよくスイングするような(フェアリングなしのクイックPAN?)、エネルギーの感じられる運動である。

そう、エネルギーなのだ。第2話はこのように、エネルギーをわれわれに分け与えている。すなわち、ここでアニメイトされている=命を吹き込まれているのは、カメラそのものであり、ひいてはカメラになって見ている鑑賞者そのものなのだ。

言い換えれば、この『小市民シリーズ』第2話は、われわれ鑑賞者がカメラに “成る” ことの快楽を教えてくれているのである。

 

 

 

3 アニメーション的快楽

3.1 カメラに “成る” ことの快楽

カメラに “成る” ことの快楽は、たとえば以下のシーンを見ると分かりやすい。

動画06:連続するPOVショット

 

物語中盤、小鳩が知里に声を掛けるシーン、初めにその声に気づいた小佐内が肩を揺らし、勢いよく振り向いたそのまま、カメラが同じ時計回りに回転する。そのさい視点は小佐内のPOV(point-of-view shot:一人称視点)と成り、やや上にズレた視点を下へと戻すように小鳩に視線を合わせる。と同時に、今度は小鳩のPOVに視点が移り、やはり時計回りに、下から見上げるようにカメラが振れる。

ここで鑑賞者は、次々と視線を移すカメラに振り回されるような感覚を得られるだろう。むろん、それを可能にしているのは、共通する時計回りの運動であり、この同じ運動こそが、まったく異なるはずの視点をつなげても、つまり、カメラ→小佐内→小鳩とつなげても不自然さを感じさせない動きをつくり上げているのだ。

ここには間違いなくカメラに “成る” ことの快楽があり、そしてここにこそ、アニメーションの快楽があるように感じられる。というのは、ズレた視点を戻すように小鳩に視点を合わせ直す小佐内POVやわざと大きくカメラを振る小鳩のPOVの運動には、“リアル” であることを超えて “リアリティ” を感じることができるように思われるからだ。

 

*

 

ここにおいてようやく、アニメーション的快楽を説明することが叶う。

すなわち、アニメーション的快楽に欠かせない条件は、“リアル” であることを超えて “リアリティ” を感じることではないか。

“リアル” と “リアリティ” は違う。ここで言う “リアル” とは、物理的な現実、もっと言えば写実的な世界のことを指す。それに対して “リアリティ” とは、現実感・本当らしさ・もっともらしさを指す。

つまりわれわれは、現実よりも現実っ “ぽさ” を、本当よりも本当 “らしさ” を、これしかない! としか思えないような “もっともらしさ” を感じることがあるはずで、そのことをここでは “リアリティ” と表現しているのだ。

アニメーションはまさにこのことを表現し得る。もちろん、アニメーションが一方で、現実的・写実的な運動を目指して収斂してゆくことは疑いようがない。しかしながらアニメーションは他方で、ただただ写実的に撮られるだけの “リアル” を超えた “リアリティ” をそこに現出するということがあり得るのではないか。

 

3.2 液体の “リアリティ” 

第2話において、筆者がもっとも “リアリティ” を感じた場面のひとつが、例の牛乳を注ぐ一連のカットである。*7

動画07・08・09:牛乳を注ぐカット

まずもってこれらが一流のアニメーションであることは疑いようがない。注がれる牛乳はもちろんのこと、ココアと牛乳が混ざるときの流体の表現、牛乳パックの振動やコップの運動、果てはちらりと垣間見える手の運動まで、どれをとっても「これしかない!」と思わせるアニメーションだ。

これはもちろん、 “リアル” をよくよく観察し、 “リアル” にかぎりなく近づけようとする、絶え間ない技術的収斂の結果ではあるのだろう。それはたとえば、3コマ打ち(1秒あたり24フレームに対し、3フレームごとに1枚の絵を入れること)が基本である(日本のTVアニメーションの)枠組みのなかで、2コマ打ち(2フレームごとに1枚)でこのシーンを描いていることからも察せられる。

しかし筆者がここに感じるのは、 “リアル” というより、それを上回るような “もっともらしさ”を感じさせる “リアリティ” なのだ。ありのままの現実を写し取っていることの快楽というよりも、一番もっともらしく見える画面がちょうど切り取られ、デザインされ、描かれていることの快楽なのだ。*8

 

3.3 アニメーション的人間

したがって、アニメーション的快楽が感じられることに、“リアル” に近い描写であること、写実的であることは、必ずしも必要な条件ではない。

たとえば第2話で、筆者が総合的に見て一番 “リアリティ” を感じさせていると思ったのは、上記の牛乳の運動というよりも、健吾に関する一連の描写だった。

たとえばこのようなアニメーションがあった。

動画10:健吾のすり足

第2話を見た者で、このすり足が記憶に残らなかった鑑賞者はおそらくいるまい。

どう考えても “ウソ” すぎる。そろりそろりとココアを運ぶ、ドデカい図体の健吾に対し、周りの環境も、小鳩も小佐内も微動だにしない。この圧倒的な “ウソ” がしかし、健吾のあふれ出るようなチャーミングさを湛えている=讃えている。

加えて、よく見るとここは3コマになっていることが分かる。したがって、先ほど見た牛乳を注ぐ2コマのアニメーションとは異なり、実写的な “リアル” というより、省略をうまく利用した “リアリティ” が目指されていると受け取れる。しかし省略されているはずなのに、ゆっくりと歩みを重ねる健吾の動きは、あまりにも滑らかに、“もっともらしく” 見える。

“リアル” よりも “リアリティ” を感じるこのカットはだから、アニメーション的快楽を感じる顕著なシーンだと言えるだろう。

 

*

 

これ以上語るべくもないが、とにかく、今話でもっともアニメーション的快楽を生じさせるキャラクター、言わばアニメーション的キャラクター=アニメ人間は、圧倒的に健吾なのだ。

図05:アニメーション的人間

小鳩たちが推理している後ろではゆらゆらと体を揺らし、その顔は小鳩に比べて画面から見切れることが多く、ケーキフィルムに付いたクリームをこれ見よがしに舐め、本当に “ウソ” すぎるくらいに口の周りを汚す。

“本物” でしかない、これでしかないこの健吾の在りようこそ、今話でもっとも顕著にアニメーション的快楽を感じさせるふるまいだった。

 

おわりに——無意味に逃れて?

ここまで本稿は、アニメーション的快楽を求めて思索を進めてきた。

あまりにも “できすぎた” 画面に感じた審美的な姿勢から出発し、まずは画面に “語らせる” というごくごく基本的な演出を確認し、もろもろの画づくりやカメラワークが「映画的」であることを周到に避け、“ウソ” を絡めたカメラワークや “リアル” を巧妙に切り取った運動、 “現実” よりも “現実らしさ” を感じさせるアニメーションこそが、アニメーション的快楽をもたらしているとひとまず結論づけた。

——と書いて、ここに書かれたことには、筆者が感じたアニメーション的快楽が何ひとつうまく表現されていないことに気づく。ここに書かれたのは、筆者が感じたアニメーション的快楽の感覚の質を、バラバラに解体し、言葉に再構成して呈示しただけの、あくまでコミュニケーションのための、いわば疑似的な、偽物の媒介物でしかない。だからここに書かれたことは、アニメーション的快楽の “リアル” をまったく表現していない。

 

*

 

しかし、そうだとすれば隘路はある。つまり、アニメーションが、けっして “リアル” には成り切れないところを迂回し、“リアリティ” でもって “リアル” に近づき、ときに “リアル” よりも “リアリティ” を感じさせるように、言葉もまた、感覚の質という “リアル” には成り切れないところを迂回し、言葉が生じさせる  “リアリティ” でもって “リアル” に近づき、ときに “リアル” よりも “リアリティ” を感じさせることができるのではないか。

ただそのとき、言葉はどうなっているのだろうか。引き裂かれた言葉は、あるいはコミュニケーションを放棄し始めるかもしれず、それはおそらく「詩」と呼ばれる何かに近づくことになるだろう。そのとき批評は、批評として、自らを保ちうるのだろうか。

と、形而上学的な思索にふけるのもいささか早いだろう。そのもっと手前で、アニメーションに理解を深め、アニメーションをもっと適格に表現しうる “言語” を、アニメーションの技術的な側面からも、あるいは種々の批評の言語の側面からも、学ぶことはできるはずだ。

できるのはだから、両者をできるかぎり漸近させる努力しかない。学ぶしかないのだ。目の前の “リアル” をもっとも “リアリティ” ある仕方で、ときにはそれを超える仕方で描出する術を。

だからこれからも言葉を諦めずにいよう。

アニメーション的快楽を求めて。

 

 

参考文献等

米澤穂信『春期限定いちごタルト事件』東京創元社、2004年。

Lev Manovich, The Language of New Media, The MIT Press, Cambridge, Massachusetts, 2001.(レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』堀潤之訳、みすず書房、2013年。)

トム・ガニング『映像が動き出すとき——写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』みすず書房、2021年。

『シャフト批評合同誌 もにも~ど2』もにも~ど、2024年(シャフト批評合同誌『もにも~ど2』 - もにも~ど公式ショップ MONIMODE TEN - BOOTH)。

※引用で用いた画像と動画は、「動画05」を除いてすべてTVアニメ『小市民シリーズ』第2話に拠るものであり、「動画05」のみ、TVアニメ『小市民シリーズ』第1話に拠る。なお、引用したすべての画像と動画の権利は ©米澤穂信・東京創元社/小市民シリーズ製作委員会 に帰するものである。

 

 

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www.zaikakotoo.com

*1:武内宣之が演出するこの種の “輝き” については以下を参照されたい。才華「輝きの向こう側へ——『川越ボーイズ・シング』第9話における「照明」の問題」『シャフト批評合同誌 もにも~ど2』もにも~ど、2024年(https://booth.pm/ja/items/5773089)。

*2:当然ながら、集団制作であるアニメーションであるところの『小市民シリーズ』第2話のすべてが「武内宣之」という個人名に回収されるわけではないし、いくら「絵コンテ・演出」を務めたからとはいえ、制作過程にどれほど武内の影響があったかは、単なる一視聴者である筆者は知るべくもない。しかしながら、武内宣之がこれまで制作に携わってきた作品などを視聴した経験の類推から、武内がこの『小市民シリーズ』第2話の制作に大きく寄与していると推察し、ひとまず「武内宣之」という個人名に第2話制作の多くを負わせてみた次第である。以下本文では、個々別々の仕事について、Twitterなどで明言されている場合などを除き、なるべく個人名を出すことは控え、ひとまず画面を鑑賞して分かることを書き下すことにする。

*3:「アニメーション的快楽」もさることながら、そもそも「アニメーション」にも多様な種類がある。いわゆるセルアニメーションから3DCGアニメーション、クレイ(人形)アニメーション、FLASHアニメーションなど、内実は多岐にわたるが、本稿が「アニメーション」と言うときには、われわれが今日TVや配信サイトでよく目にする、手書き作画(デジタル作画も含む)をベースとしたデジタルアニメーションを指す。したがって、本稿が以降で論ずる内容は、今日のTVアニメーションにおいても目にすることが少なくない3DCGアニメーションを主としたアニメーションには必ずしも当て嵌まらない。

*4:本稿は人名を基本的に苗字で示すが、第2話には堂島健吾の姉・堂島知里が登場するため、本稿ではそれぞれを「健吾」、「知里」と名前で表記する。

*5:「アニメーション」にもさまざまあるのと同様に、「映画」にもさまざまあり、それこそ「アニメーション映画」もあり得る。ここでは「映画的」と称する多くの人間が想定しているであろう「実写映画」を「映画」として扱うこととし、本稿が「映画的」と言うときには「実写映画的」を意味する。

*6:むろん、3DCGなどを駆使する現代においては、「現実」を加工するということはありふれた話ではある。たとえばMARVEL映画などを見れば、縦横無尽に飛び回るヒーローたちはむしろ「アニメ的に」動いているとすら言えるかもしれない。アニメーションにおいても、3DCGなどを利用することは一般的、というより、いまやまったく使用しないことのほうが少ないのだから、技術的な側面において、実写映画とアニメーションは接近していると見ることができるかもしれない。しかしながら、やはりあくまで「現実」を物理的に撮影することをベースとする実写映画と、そもそも描かれたものとしての絵をベースとするアニメーションでは、出力される画面は似ていることがあり得ても、制作工程(とそれに伴う労働システム)が根本的に異なるとは言えるだろう。
 これに関する古典的な応酬としては、レフ・マノヴィッチとトム・ガニングのやり取りがある。マノヴィッチは「ニューメディア」について論じるさい、「デジタル映画とは、多くの要素の一つとしてライヴ・アクションのフッテージを用いる、アニメーションの特殊なケースである」(Lev Manovich, The Language of New Media, The MIT Press, Cambridge, Massachusetts, 2001, p. 302. = レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』堀潤之訳、みすず書房、2013年、414頁。)として、映画をアニメーションの下位互換に位置付けた。これに対し、ガニングは「マノヴィッチの見解が私たちに、すべての動く映像はアニメーションの一形態だと考えることができるということに気づかせるとしても、この洞察によって写真に基礎を置いた映画と伝統的アニメーションの重大な区別を消去すべきではないだろう」として、描いたものと現実の差異を「完全に消し去ってしまうことは難しい」と批判を加えている(トム・ガニング『映像が動き出すとき——写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』みすず書房、2021年、240-241頁)。
 ただしもちろん、マノヴィッチやガニングが想定していた「アニメーション」や「デジタル映画」と今日のアニメーションやデジタル映画には差異があることには注意されたい。おそらく、マノヴィッチやガニングが想定したよりは、はるかにずっと今日における「アニメーション」や「デジタル映画」が技術的に接近していることはたしかであろう。しかし依然として、描いたものと現実との差異は、制作過程を加味すれば、消し去ることはできないというのが本稿がいまのところ採る立場である。

*7:今話の絵コンテ・演出を務めた武内宣之はX(Twitter)にて、「ペースト状のココアにホットミルクが注がれるカットの作画はラパントラックの石川(奨)さんによるものです!素晴らしい仕上がりです!」と言及している(cf. https://twitter.com/nobuyukitakeuch/status/1813802349426827748)。「石川(奨)」とは「石川奨士」を指すと推察される。

*8:もちろん、たとえば映画などのメディアも、“リアル” よりも “リアリティ” を追求しているとみなしうる。アニメーション的快楽を感じるのはだから、“リアル” よりも “リアリティ” を追求すること自体に、ではなくて、ここに書いたように、それをより自由にデザインしてしまえること、描いてしまえること、そしてその “ウソ” を許容し、共有することの快楽だと主張したい。つまり仮に、“映画的快楽” なるものがあるとすれば、それと “アニメーション的快楽” の差異は、制作過程と、それを感じ取るときの質の差異でしかないだろう。ただし、本当にそこに質的な差異があるのか、言葉では規定しがたい。強いて付け加えるなら、やはりいまや、映画とアニメーションの差異をメディウムの差異から規定することは難しく、画面に差異を見出そうとしてもそれは、結局のところ制作過程と労働環境(システム)の差異に行き当たるように思われる。これについてはここで論じ切れるような問題ではないため、べつの機会に考えみたい。