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【ピンドラ 考察】ゼロから見直す『輪るピングドラム』最終回「輪るピングドラム」とは何か【24話】

はじめに

私は運命って言葉が好き。

(『輪るピングドラム』24th stationより)

たった一言がこんなにも重い。

「運命」を呪い、そして「運命」に呪われた「何者にもなれない」子どもたち。その「選ばれなかった」子どもたちが、ようやく「運命」を受け入れることができるようになるまでの物語、それが『輪るピングドラム』だ。

とはいえ、おそらく最終話を一度見ただけでは、頭に疑問符が浮かぶばかりだろう。冠葉は、晶馬は、そして陽毬は、はたしてどのような結末を迎えたのか。一見すると何もわからない。

だが最終話には、『ピンドラ』のすべてが詰まっていると言っても過言ではない。そこで考察としても最終回となる今回は、「透明」や「箱」、「生存戦略」、「呪いの炎」といった『ピンドラ』のキータームを軸にして、(これまでの考察も含め)全体を振り返りつつ、24話それ自体を読み解いてゆくことにしよう。

そうしてゆくことで、その総体が、「輪るピングドラム」とは何か、という疑問への答えとなるだろう。

 

 

 

1 「何者にもなれない」とはどういうことか

――「きっと何者にもなれないお前たちに告げる!」

プリンセス・オブ・ザ・クリスタルは高らかにそう宣言する。冠葉や晶馬、陽毬を前にして。いや、それだけでなく、おそらく視聴者さえ前にして。

だが、「何者にもなれない」とはどういうことか。

 

1.1 「選ばれない」とはどういうことか

「何者にもなれない」、「選ばれる/選ばれない」について、詳しくは以下で考察した。

「何者にもなれない」とは、ひとつには「選ばれない」ということだ。

冠葉は父親から「選ばれない」。「お前を選ぶんじゃなかった」、「家族に失敗した」とまで言われる(23rd station)。

陽毬は母親に「選ばれない」。だから陽毬は団地で孤独に、「選ばれないことは死ぬことなの」とさえつぶやく(20th station)。

真砂子は実兄に「選ばれない」。当人を庇うためとはいえ、夏目家から出て行った実兄・冠葉のことに、だから最後まで執着する(22nd station)。

こうしてみな、「選ばれない」わけだが、それはとりわけ、「家族」の問題にも回収される。

 

1.2 「呪い」とは何か

「何者にもなれない」というのは、「家族」という「呪い」のせいでもあった。

家族というのは一種の幻想、呪いのようなものだと思わない?考えてもみなよ。「家族」という名に縛られて暮らす子供がどれだけいるか。愛と言う名目で子どもを私物化する親、殴る親……彼らが愛しているのは自分自身だけだというのに、子どもはただ、家族という理由で親を愛し、兄弟愛さなければならない。

(『輪るピングドラム』15th station より)

ゆりや桂樹は、そうした「呪い」に囚われていた(詳しくは以下で考察した)。

ゆりは、「タワー」に象徴されるような、圧倒的な父親の存在の下に屈服させられ、美しくないものに価値はないという洗脳を受ける。桃果によって一度は救われたゆりはしかし、いまだに父親の「呪い」にかかっているかのように、演劇の世界、美しさに大きく左右される世界に生きていた。

桂樹は「才能のある子が大好き」な母親の期待に応えるためにピアニストを志すも、新たに生まれてきた弟のほうが明らかに才能があることが分かり、自らの指を傷つけさえする。そうして母親にかまってもらえると思っていた桂樹はしかし、それではピアノが弾けないからと、決定的に見捨てられてしまうのだった。

そして、そのように「呪い」にかかることで「選ばれ」ず、人は「透明」になってゆく。

 

1.3 「透明」になるとはどういうことか

「透明」については以下で詳しく考察した。

詳しくは上記の記事を参考されたいが、端的に言えば、「選ばれず」、「呪われた」子どもが「透明」になるのだった。

つまり「透明」になるとは、家族をはじめとする他者から認められず、他人と価値の優劣がつけられないほどに平準化してしまうことだった。そうして存在価値を認められず、自分というアイデンティティの「色」を失ってゆくことが、「透明」という比喩で表現されているのだ。

そのような価値を認められない「透明」な子どもたちの最終処分場、それが「子どもブロイラー」だ。だからそこは「いらない子どもたちが集められる場所」だと、「ここで僕らは透明な存在になって、やがて世界から消えてなくなるんだ」と、言われていた(18th station)。

あるいは「透明」とほぼ同義に用いられている言葉として、「あらかじめ失われた子ども」という言葉があった(24th station)。「透明」と「あらかじめ失われた子ども」には、ともに元ネタがあり、それぞれ神戸連続児童殺傷事件と岡崎京子『リバーズエッジ』を参照項にもつ。それらがそれぞれの言葉で示している事態は、厳密には異なるが、『ピンドラ』はそれらをフィクションの次元で昇華し、同列の問題として扱っていると考えられた。

 

*

 

では、「選ばれず」、「呪われ」、「透明」になりかけた「何者にもなれない」子どもは、どうすればよいのか。

以上はいわば前提条件である。こうした前提があったうえで、「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」、「ピングドラムを探すのだ」と呼びかけられて始まるのが『ピンドラ』という物語だ。

では、はたして「ピングドラム」は見つかったのか。そもそも「ピングドラム」とは何か。畢竟、「輪るピングドラム」とは何なのだろうか。

 

 

 

2 「輪るピングドラム」とは何か

「ピングドラム」は、初め「運命日記」のことだとミスリードされる。

「日記」についてはこれまであまり触れてこなかったが、よくよく考えれば興味深いモチーフである。というのは、「日記」は多義的な意味を孕みうる、良い道具立てだからだ。

たとえば最終的に「ピングドラム」が「日記」ではないという事態は、予定説のごとくそこに書かれた「運命」を覆すことの象徴になっている。最終的には「運命」=「日記」というソリッドな、物質的なものを棄却して、「運命」を乗り越える、ということが、「呪文」や「愛してる」というある種の観念的なメッセージを選び取るストーリーラインに呼応しているように思えるのだ。

このあたりはほかにもいろいろと考えられるが、ともかく、実質的には「ピングドラム」は「日記」ではない。では、「ピングドラム」はどこにあるのか。

 

2.1 「箱」とは何か

ヒントは最終話にある。作中では、「ピングドラムだよ」と言って手渡されるリンゴの形をしたそれが「ピングドラム」だと言われている。「ピングドラム」は苹果のモチーフで表現されているのだ。

「苹果」については初めに考察した。

最初から大事なモチーフであるリンゴは、もちろん最終回にも登場する。小さな檻の中に入った冠葉が、その「箱」の隅で、リンゴを見つけるのだ。

ところで「箱」とは、眞悧によれば、世界そのものであり、個人という名の檻のようなものだった。

「人間っていうのは、不自由な生き物だね。なぜって? だって自分という箱から一生出られないからね。その箱はね、僕たちを守ってくれるわけじゃない。僕たちから大切なものを奪っているんだ。たとえ隣に誰かいても、壁を越えてつながることもできない。僕らはみんな独りぼっちなのさ。その箱の中で、僕たちが何かを得ることなんて、絶対にないだろう。出口なんてどこにもない。誰も救えやしない。だからさ、壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を……!」

(『輪るピングドラム』23rd station)

つまり、眞悧としては、世界は「箱」のように狭く、個々人はそのなかで、「大切なもの」を奪われている。だから壊すしかない。こうした眞悧の思想は、小さな人間関係が、社会や国家などを介することなく、世界の命運そのものと接続してしまう、セカイ系的な想像力を、よりラディカルにしたもの、と見ることができた。

(以下ではそうした想像力について、『ピンドラ』を「セカイ系」という観点から考察した。)

24話の冒頭で描かれているのは、そうした眞悧の思想に対するアンチテーゼのようなものである。つまり、檻=「箱」に閉じ込められた冠葉は、しかし「箱」の隅にリンゴ=ピングドラムを見つけ、その檻=「箱」を越えて、隣にいる晶馬にリンゴ=ピングドラムを手渡す、その様は「壁を越えてつながることもできない」と言っていた眞悧の思想を乗り越えるものだ。

要するに、ピングドラムがあれば、独りぼっちを乗り越えて、「箱」=「世界」という極端に狭いセカイを脱することができるというのである。

 

2.2 「苹果」とは何か

だがもちろん、ピングドラムがそのまま物理的な果物のリンゴであるわけではない。それは比喩だ。

では何の比喩か。結論から言えばそれは、「愛」と「罰」の比喩だ。「愛」については、(たとえば以下のように)これまでもさんざん考察してきた。

初めに苹果が「愛による死を自ら選択した者へのご褒美」と言われていたように、あるいは、「誰かの愛してるって言葉が必要だった」と語られていたように、そして24話のタイトルが「愛してる」であることからわかるように、「愛」を分け合おう、ということが、『ピンドラ』のひとつのメッセージだった。

そして「罰」については、24話の終盤、ようやくもっともらしい内実が、陽毬の口から語られる。

陽毬「生きるってことは罰なんだね。私、高倉家で暮らしてる間、ずっと小さな罰ばかり受けていたよ」

晶馬「そうか、僕らは始まりからすべて罰だったんだ」

[…]

陽毬「どんなに小さくて、つまらない罰もね、大切な思い出。だって、私が生きてるって感じられたのは冠ちゃんと晶ちゃんがいたから。「高倉陽毬」でいられたから。私、忘れたくないよ。失いたくないよ」

(『輪るピングドラム』24 th station)

陽毬はここで、「罰」と言いつつ高倉家の日常を物語る。そして最後には、「罰」も「大切な思い出」だと言う。要するに陽毬が言う「罰」とは、——陽毬が言うように——「生きる」ことそのものなのだ。

もちろんそれには両親の犯した「罪」が関係している。陽毬たちは、両親が犯した「罪」により、もちろん、いじめなど、物理的な負担もあっただろうが、同じかそれ以上に、精神的負担を感じてきたはずである。

(陽毬が抱えたであろう、そうした精神的負担については以下でも考察した。)

こうした負担を抱えつつ、最終話で陽毬は、生きることそのものを「罰」と形容することで、人生はそもそもマイナススタートであって、辛いことも楽しいことも「罰」だと開き直ることで、人生の宿命を、「運命」を受け入れようとしている。だからそれに気づきをえた晶馬が「そうか、僕らは始まりからすべて罰だったんだ」と独り言ちるのである。

こうした「罰」も、リンゴで象徴される。リンゴは禁断の果実。キリスト教徒がそもそも原罪を背負って生まれてきたと考えて人生をスムーズにするように、陽毬もまた、人生は「罰」なのだと考えて、人生をより円滑にすごそうとしているのである。

そしてだから、そうした「愛」と「罰」を象徴したリンゴを分け合う、ということは、すなわち人生を分け合うということでもある。互いを「見つけ」、「選び」、「愛する」ことではじめて、「透明」ではなく、他人を色づけ、「罰」という名の人生を共に歩む。

それが「リンゴ」=「ピングドラム」を分け合うということなのである。

 

2.3 「呪文」とは何か

だから運命を乗り換える呪文は、「運命の果実をいっしょに食べよう!」なのである。

抗えない運命、呪いのような運命を乗り越えるためには、「愛」を分け合い、人生そのものを「罰」として引き受ける、そうした運命愛が必要なのである。

だが待て。ほんとうにそんなに都合の良いことがあっていいのだろうか。呪文ひとつ唱えれば人生変わりますよ、なんて、それこそ怪しい「宗教」めいた誘い文句ではないか。

もちろん事はそう単純ではない。「だって罰は、一番理不尽じゃないとね」(12th station)。

(このこと、女神さまに関しては以下で考察した。)

 

2.4 「炎」とは何か

さておき、呪文を唱えた者は、代償として、「呪いの炎」に焼かれ、「世界の風景から失われる」という(23rd station)。

この「呪いの炎」は、「蠍の炎」だ。「蠍の炎」とは、『銀河鉄道の夜』に登場した、「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と祈り、自分の体がまっ赤に燃え、闇夜を照らすようになった蠍の光のことだった。つまりその炎は、自己犠牲の象徴でもある。

「蠍の炎」については以下で考察した。

最終話では、呪文を唱えた苹果の代わりに、晶馬がその炎を引き受ける。運命を乗り換えた代償として、晶馬は「世界の風景から失われる」のだ。

しかしだとすれば冠葉は? 冠葉もまた、最終話でいなくなるわけだが、冠葉はどうして消えたのだろうか?

 

2.5 「光」とは何か

描写としては、冠葉は透明なガラスの破片のようなものになって消えてゆく。

その透明な欠片は、「こどもシュレッダー」にかけられた後の破片を思わせる(18th station)。もしそれが冠葉が成った破片と同じなら、冠葉は「透明」になって消えてしまったということなのか……?

なるほどたしかに、そう解釈することもできる。なぜなら、陽毬を愛し、陽毬を救おうと奮闘した冠葉は、しかし運命を乗り換える前の世界では陽毬を救うことはできないからだ。一番大切な人を助けることができず、自分のアイデンティティを元の世界で保つことができなかった。だから「透明」になった、価値を認められないと思った——そう解釈することはできよう。

透明な破片となって消えてゆく冠葉(『輪るピングドラム』24th station)

だが、気になるのは冠葉が最後に残したセリフである。「晶馬、俺は手に入れたよ。本当の光を……」。そう言って消えてゆく冠葉は、どこか満足気ですらある。とすると、それは「透明」になる、という消極的な結果とは相いれない感じがする。

しかし「光」とは何のことだろうか。「光」について、眞悧はこう言っていた。

「人はね、光が必要なんだ。そして彼はようやく見つけた。光を。希望を。それだけが彼の生きる意味なんだ。なのに今、世界は彼から光を奪おうとしている」

(『輪るピングドラム』24th station)

要するに「光」とは陽毬のことであり——つまり陽毬は冠葉の「陽」でもあるわけだ――、陽毬こそが冠葉の生きる希望だった。

とすれば、「光」を手に入れたと言う冠葉は、陽毬を手に入れたと、(少なくとも冠葉自身は)そう思っていることになる。これはどう解釈したらよいのか。

こういうのはどうだろう。すなわち、たしかに冠葉は運命を乗り換える前の世界では陽毬を救うことはできなかった。しかし冠葉は陽毬から「ピングドラム」という「愛」、承認を得ることはでき、その一点、その瞬間にかぎって、冠葉は陽毬という「光」を手にすることができた。その一瞬の承認によって冠葉は報われたと、少なくとも冠葉自身は思った。そう考えれば、「本当の光」を手に入れた、という発言の意味は通じるように思われる。

とはいえ、ここはさまざまな解釈の余地があり得る。「本当の光」という言葉をもう少し深読みすれば、それは「偽りの光」を想定しているとも受けとれる。もしそうだとすれば、「偽りの光」=運命乗り換え後の陽毬、「本当の光」=冠葉の思い出のなかや「ピングドラム」をくれた、冠葉を承認してくれるかぎりでの陽毬と解釈することなどが可能になり、つまり冠葉は、消えゆく自らのなかに陽毬を閉じ込め、最後まで独我論的な世界に、「箱」=世界にとどまったのだ、とも解釈できる。

ともかく、ここは解釈の余地があるので、ほかの解釈は読者諸氏に委ねたい。

 

2.6 「証」とは何か

こうして晶馬は「蠍の炎」に焼かれ、冠葉は透明の欠片となって消えてゆく。

が、果たして二人は完全に消えてしまったのかといえば、そうでもない。運命を乗り換えた後の世界にも、二人は痕跡を残す。

ひとつには、陽毬と苹果の体に残った傷がそれだ。陽毬は一片だけ残った冠葉の透明の破片で額に傷を残し、苹果は手首に火傷の跡を残している*1

そしてもうひとつ、残されたものがある。クマのぬいぐるみのお腹に残された「大スキだよ‼ お兄ちゃんより」というメッセージがそれだ。

メッセージがお腹に残されたぬいぐるみ(『輪るピングドラム』24th station)

クマのぬいぐるみのお腹は、陽毬を喜ばせようと奮闘した冠葉と晶馬が、誤って破ってしまったものだった。しかしだからこそ縫われたぬいぐるみのお腹は「三人で暮らしてるってしるし」なのだった(21st station)。

こうして、冠葉と晶馬が生きた証が、運命を乗り換えてもなお残されたのだった。

そうして陽毬は桃果と幸せにカレーを食べる。「愛」と「罰」を分け合う証としてのリンゴが入ったカレーを(カレーの意味については以下を参照)。

 

2.7 「輪る」とはどういうことか

しかしなぜ生きた証が残されたのか。罰は「一番理不尽じゃないと」いけないのではなかったのか。冠葉と晶馬だけ例外とするのは、都合が良すぎはしないか?

たしかに厳しくジャッジすればそうかもしれない。だが少し俯瞰して、『ピンドラ』という物語全体を通しの意義を考えてみると、そこにはある種メタ的な意味が見出せるように思う。

つまり、運命を乗り換える前の世界のことを陽毬が覚えていないのと同様に、われわれ視聴者もまた、運命を乗り換えた後の世界に来ていて、運命を乗り換える前のことを覚えていないのかもしれないと考えることができる。そういうある種のメタ的な演出に、生きた証が残されたことが一役買っているのではないか。

つまり、私たち視聴者も、額の傷や苹果の火傷などと同様に、何かの傷や日常のちょっとした不可思議な綻びのなかに、誰かが自分のために運命を乗り換えてくれた証を、——それは錯覚かもれしないにせよ——見出すことができるのである。私たちが生きる今も、誰かの犠牲のうえに成り立っている世界なのかもしれない、と思わせるのである。

そうした証が、切り傷や火傷といった「傷」として描かれていることも大きい。私たちはときおり、本当に理不尽としか思えない「傷」を負う(たとえば重い病気でもよいし、精神的な「傷」でもよい)。そうしたとき、私たちはどうしても運命を呪いたくなる。だがその「傷」が、むしろ違う世界の誰かが自分を生きながらえらせた証だったとしたら? そう考えることで、——陽毬が人生を「罰」からのマイナススタートと解釈してスムーズにしたのと同じように――その「傷」は軽くなるのではないだろうか。

こうしたある種のメタ的な演出は、「傷」だけにとどまらない。一番最後に手渡されるリンゴは、そうした演出の最たるものである。

手渡されるリンゴ(『輪るピングドラム』24th stationより)

物語の最後、第一話と同様に、『銀河鉄道の夜』の話をしている子どもたちの会話が終わった後、誰とも知れぬ手に、リンゴが半分手渡される。

この手は私たちの手、私たち視聴者の手である。冠葉が晶馬に、晶馬が陽毬に、そして巡って陽毬が冠葉に「ピングドラム」を渡したように、今度は『ピンドラ』という物語が、私たちに「ピングドラム」を渡してくれているのである。

だからその輪は物語のなかだけで閉じられるのではない。フィクションという枠組みを超えて、ほかならぬこの現実にも、「ピングドラム」は「輪る」のである。そしてバトンを渡された私たちもまた、誰かに「ピングドラム」を渡してゆくのだろう。

「愛」と「罰」を分け合い、フィクションを越えてその輪を巡らせること。それが、「輪るピングドラム」ということなのである。

 

 

 

おわりに

「私は運命って言葉が好き」。

やはりどうしたって、その一言が重い。そう言えるようになるまで、その一言を解するまで、どれほどの時が経っただろう。『輪るピングドラム』というアニメに惹かれ、長い歳月をかけてここまで来た。感慨もひとしおと、そう言わざるを得ない。

とはいえ、『ピンドラ』を無批判に継承しようとも思わない。『ピンドラ』という物語に惹かれている人ほど、物語がどんなに強力か承知のことだろう。眞悧の描いた「物語」が冠葉を感化したのと同じように、『ピンドラ』は私たちを感化し得る。それが同じ水準だ、ということは、言っても言い過ぎることはないだろう。

もっと直接的に言えば、オウム真理教だって「物語」を使っていた。オウムが描く「物語」が人々をどう動かしたのかは、『ピンドラ』を視聴している方ならばなおのことご存知だろう。

では、「物語」にできることは——。物語の力については、以前も考えた通りだ。

それをふまえて改めて言いたいのは、物語を信じるのと同じくらい、物語を疑わねばならないということだ。私たちは物語が人を感動させることを知っている。生きる力を与えることを知っている。その威力を享受するのなら、同じくらい、その威力に批判的であらねばならない。

物語は終わっても人生は続く。

どうかその人生を彩る物語と、「愛」に負けないくらい「罪」を分有することを願いつつ――

 

 

 

 

あとがき——「フィクション」をめぐって

ようやく、本シリーズを終えることができました。まずは読んでいただいた皆さまに、改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。

この「考察」を始めたいきさつなどは——「考察」という言葉に思うところも含め——本連載をまとめて自費出版した『Malus——『輪るピングドラム』考察集』の「あとがき」に記しましたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいです。

『Malus——『輪るピングドラム』考察集』通販ページ

こちらもぜひお手に取っていただきたいですが、それはそれとして、以下ではウェブ版の「あとがき」として、「フィクション」について、ふだん私が考えていることを、ほんの少し、書きたいと思います。

 

*

 

フィクションとは何でしょうか。現実に対する虚構、リアルに対するフィクション。要するに、架空のもの、作り事のことを、人は「フィクション」と呼びます。

とはいえ、架空のもの、作り事だからといって、それが現実に、リアルに作用しないわけではありません。変な言い方かもしれませんが、もしフィクションが100%現実と「関係のない」作り話だったら、誰も『ピンドラ』に「感動」しないということになります。「感動」というのは、「現実」の作用だと、一応はされているわけですから。

だから現実とフィクションの区別なんてつくわけがないのです。人はいとも簡単にフィクションに感化されてしまう、その事実をいったん引き受けるところからでないと、きっと何も始められない。「現実とフィクションの区別をつけるべき」などという、それこそ「架空の」言説を喧伝することは、それこそ「フィクショナルに」に人々を誘惑するふるまいにほかなりません。

とはいえ、フィクションに多分に感化されると同時に、現実とフィクションの区別をつける、ということも(建前上)できるのが人間です。本当に現実とフィクションが地続きになってしまったら、もろもろうまくいかなくなる。そのことを知っているから、なんとか現実とフィクションの折り合いがついている「ふり」をするわけです。そうした「ふり」もまた、とても大切なことです。

「ふり」という、これまたフィクション的な身振りを覚えるのには、しかしたくさんの訓練が必要です。きわめて個人的な話をすれば、私はほんとうには「会話」も、「他人」も、「社会」も、全部フィクションだと感じています。それだけフィクションと地続きな「現実」を、それでも切り分けるために、たくさんのフィクションを接種しているのかもしれません。それがあるいは「訓練」ということなのでしょう。

そういうことを、この『ピンドラ』考察を通じてよくよく考えました。『ピンドラ』という、現実とフィクションが、フィクションのなかで接近している作品はだから、現実とフィクションをめぐって改めて考えるための、格好の作品であると言えるでしょう。

もちろん強いてそういう目線で見る必要はありません。素朴に感動した、素朴に心を動かされた、そういった素直な感想をまずは引き受けることが、現実とフィクションをめぐって考える第一歩なのですから。

とはいえ、さらにもう一歩踏み出して、なんで? どうして? と、思索を進めてゆくこともまた大切です。それは困難を極めるかもしれませんし、私自身、いろいろな作品をめぐってそうした困難に行き会ってきました。そうしたときに手引きとなったのが、インターネットの見ず知らずの人が残した、得体の知れない感想などでした。

めぐりめぐって、今度は私の文章が、皆さまが『ピンドラ』をめぐって考えるときの、思索のための、ささやかな道しるべとなることを願っています。

シリーズを始めてから3年以上、長い道のりでしたが、改めてお読みいただいた皆さま、お付き合いいただきありがとうございました。私はこれからもさまざまな作品で考察を施すつもりなので、またどこかで出会えることを願っております。

それでは。

 

2023年2月11日 才華

 

 

 

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*1:これらの痕跡が残ったこと、とりわけ陽毬の額に傷をつけたのが冠葉の欠片であることは公式ガイドブックに明記されている。詳細は「公式ガイドブック」116―117頁参照。