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【劇場版ピンドラ後編 感想】「きっと何者かになれる」

 

 

 

 

 

 

※ネタバレ注意。本記事は劇場版ピンドラ前編+後編のネタバレ、およびアニメ放映版本編のネタバレを含みます。

※また、筆者は一度しか劇場版を見ておらず、記憶だけを頼りに書いているため、本編と齟齬をきたしている可能性があります。

※基本的には、劇場版ピンドラを視聴した方全員へ向けて書いていますが、もちろん視聴されていない方でもご興味があればお読みいただけると嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに――「きっと何者かになれる」

――「きっと何者かになれる」。

そう言えるようになるまでに掛かった時間を数えよう。そう言えるまでに成し遂げた苦労を数えよう。そこから出発してみたい。

たぶん言うのは簡単なのだ。「愛してる」と、誰かの生を肯定するのは、うわべでだけだってできるのだ。でも、『ピンドラ』をそれだけにまとめてしまったら、TVシリーズの24話分の物語は、前後編に費やされた日々は、われわれが過ごしてきた10年20年は、いったい何だというのか。

だから結論はわかっているとしても、過程も見てみよう。「きっと何者にもなれない」はずだった者たちに「愛してる」と言わしめたのは何だったのか。『ピンドラ』という物語を、少し考えてみよう。

 

 

1.0. 図らずも獲得してしまったアクチュアリティ?

1.1. 時代の反映

さて、『ピンドラ』が図らずもアクチュアリティを帯びてしまっているということを避けては通れない。つまり、元首相暗殺に伴い、特定の宗教団体に関するニュースが各メディアで飛び交うなか、"実質的には" 宗教二世を扱っている『ピンドラ』、という読み筋が浮かび上がってくることは無理のないことだろう。

たしかに、『ピンドラ』は ”それだけ” の作品ではない。それどころか作中で剣山の属する団体が宗教団体とは一言も言っていないし、したがって冠葉や晶馬、陽毬らは明示的に宗教二世であるわけでは全然ない。むしろそうした要素を抽象化しつつフィクションに昇華することで、いわゆる「毒親」など、さまざまな問題に接続可能なかたちに普遍化している、と言ったほうが適切であろう。

だがそうだとするなら、翻ってむしろ、こうしたアクチュアリティにも耐えうる作品として『ピンドラ』はあるのではないか。過去の事件を風化せずに、未来に受容されることも踏まえたうえで、『ピンドラ』は作られているのではないか。「自覚無自覚に関わらず、その時代に作ったということは絶対反映されてしまうものだと思います」*1という幾原監督の言葉は、そうしたことを見越した発言なのではないか。

 

1.2. 呼び込むべくして呼び込んだ

そう考えれば、『ピンドラ』がアクチュアリティを "図らずも獲得してしまった" という言い方はふさわしくない。それというよりも、アクチュアリティを "呼び込むべくして呼び込んだ" と言うべきだろう。

『ピンドラ』がそのようなアクチュアリティに耐えうるほどの強度をもっているのか。まさにそれがいま、試されていると思うのだ。

ともかく、少なくとも私は、そういうことを考えつつ、この「後編」を見た。だから正直に白状すれば、——心配しすぎだと言われることは百も承知だが――移動の電車で事件に巻き込まれたらどうしよう、とか、上映中にテロが起こったらどうしよう(とりわけセンシティブな内容を扱った『ピンドラ』に恨みをもった人間が上映を滅茶苦茶にするかもしれない)、とか、本気で考えていた。

楽観的ではなかったことだけはたしかだし、そういう目線が、だから感想に少なからず入り込んではいるかもしれない。

 

1.3. "孤独な人" の気持ち

また別の意味でも、私は楽観的ではなかった。とりわけ私は、"孤独な人" の気持ちになって『ピンドラ』を見ていた。

それは、「疑似家族」というものに少なからず疑念を抱いていたからだ。それには、流行りの『SPY×FAMILY』や先日見た是枝監督の映画『ベイビー・ブローカー』の影響もある。そんなに「疑似家族」は(悲惨さも備えつつも)暖かなものなのか、そんなに簡単に「疑似家族」をつくれない孤独な人はどうすればいいんだ、「疑似家族」はすべてを解決するわけじゃないだろう、そんな意地悪な気持ちが少なからずあったのだ。

だから『ピンドラ』にもそういう疑念を抱いた。というより、その視点自体は前からあった。つまり、冠葉も晶馬も陽毬も桂樹もゆりも、「疑似家族」を形成できている時点から話が始まるわけであって、たしかにその後「疑似家族」内での葛藤はあるにしても、そもそもそれを形成できない人はどうすればいいんだ?とは、前から思っていた。

ただそうした疑念は、『ピンドラ』はそこにスポットを当てた話ではないので、そういう批判をしても仕方ない、という、かなりテキトーな自己批判から退けていた(し、あまり記事にも書いてこなかった気がする。が、今回は "感想" なのでそういうことも明け透けに書くし、批評的にそこを批判するのは正当であるように思われる)。

ただ、今回は上のような事情から、そういう "頭" できてしまったし、だから孤独に生活していて、家族や友人などと「つながり」がほとんどない概念として "孤独な人" を想定していた。だが振り返ってみれば、そういう気持ちで見たことも無駄ではなかった。

要するに今回私は、完全に「ああ、この映画(良いかもしれないけど) not for me だな」という人の気持ちで見た。だから今回は、『ピンドラ』あんまりピンとこなかったなという人にこそ読んでほしいし逆にめちゃくちゃ良かった!めっちゃ泣いた!という超賞賛寄りの人にも、あとで冷静に読んでほしい、そういう感想になっている

とりわけそのような両極端な人へ向けて(もちろんどんな人でも読んでいただきたいが)、以下本編の感想を書いていきたい。

 

2.0. 本編感想・考察

2.1. 最初からクライマックス

最初に良かった点を書いておけば、「僕の存在証明」でブチ上がったことは間違いない。

まさかopで流れるとは思わなかったし、映像まで付いてくるとは思ってもみなかった。あの体験だけでも元をとれたと思うし、あれだけでもぜひとももう一度見たい。

ついでに言えばEDや各種劇伴ももちろん良く、なかにはちょっとクサいかも?と思ったものも正直なくはなかったけれど、TVシリーズを何週も反復して沁みついた劇伴などは、反射的に身体が反応を示すものだ。鳥肌ものだった。

 

2.2. 『銀河鉄道の夜』の解釈を述べる子どもたち

なるほどここにもってくるのね!というのはあった。聞き逃しでなければ、前編には、TVシリーズで大切だった『銀河鉄道の夜』の解釈を子どもたちが話すシーンがなかったので、カットかしら?と思っていたけれど、後編冒頭にあった。

確認しておけば、そこでは「苹果(リンゴ)は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」と言われていたこと、「死んだら終わり」なのではなく、「むしろそこから始まる」と述べられていたことがポイントだった。

ここにおいて、「苹果」という大切なモチーフが提示されるとともに、ある意味では冠葉や晶馬がたどる結末(「愛による死を自ら選択した者」)を予告的に示している、とも言える。加えて、「死んだら終わり」なのではなく「そこから始まる」という解釈を施すことで、「自己犠牲」の話を「愛」の話へと昇華する準備をしている、とも読解できる。

しかしながら、そんなことで、つまり、愛による死なら無駄じゃないんだよ!というゴリ押しで「死ぬこと」が正当化できるのか、というツッコミはありうるし、それを考えることこそが、冠葉や晶馬の結末に対する解釈が分かれることのように思える。このことはもう少し後で振り返るとして、少し話を進めよう。

 

2.3. 総集編パートについて

さて、総集編パートについてはここであまり紙幅を割くつもりはなく、詳細はほぼこれまで書いてきたとおりだが*2、当然ながら劇場版に入れるシーンの取捨選択があり、TV版では本来opやedに入るシーン、サブタイトルでオチをつけるシーンなどに対する工夫をしているのは感じられた。

また前編につづき、実写パートは印象的だった。森閑とした夜の街はあいかわらず美麗で、ある種瞑想をしているような気分だった。そういう休息パート的な意味はあるのかなという感想を、新たに抱いた。

ただ途中からカメラが左から右に、反時計回りにずっと回っていることに気づき、なぜかそのことに囚われてしまった。そこにとくに意味は見いだせないのだが、反時計回りの回転だけが私をとらえた。あるいは私が回転していたのかもしれない。

 

2.4. 新規パートについて

2.4.1. 砂浜、ぬいぐるみ

さて、総集編をすっ飛ばして新規パートについて語ろう。印象としては、——総集編ももちろんんそうなのだが――やはり重要なモチーフは外さない、という感じだろうか。

たとえば、前編でも新規パートの鍵となっていた「砂浜」は(その当の「砂浜」で冠葉が陽毬への愛を語っていたことを思い出されたい)、陽毬が「見つけてもらえた」ことで嬉し泣きした場所だ。総集編でもその話は当然欠かさなかったし、だからこそあの場所が「見つけてもらえる子になる」≒「選ばれる」≒「透明にならない」≒「愛してる」をもらえる場所だというのは、久しぶりに見た人にも十二分伝わっただろう。

加えて、ぬいぐるみのお腹のエピソードも欠かさなかった。陽毬曰く、あの縫い目こそが「3人で住んでる証」なのであって、だからこそラストであの縫い目に「お兄ちゃん」からの手紙が挟まっているのだ。

 

2.4.2. 「お兄ちゃんだ!」

ところで「お兄ちゃんだ!」は皆さまとしてはどうだっただろうか。正直な話、「何者か」が分かった!、と言い出した瞬間、「お兄ちゃん」と言うだろうことは分かったので、あの長い溜め(しかし素晴らしいアニメーションだった)の間に、私のなかの脹相(呪術廻戦)が「お兄ちゃんだぞ!」と言い始めてダメだった。読者の皆様には同じ呪いにかかってもらう。

冗談はさておき、そう、か~という感じではあった。たしかに文脈的に自ら「家族」であることを「何者」の答えにすることは必然ではあるのだが、そうなると、何らか絆や関係性を結べない私は「何者」にもなれないってコトォ⁉という意地の悪い感想がとっさに浮かんでしまった。"孤独な人" なので。

要するに結局、広義の「理解のある彼くん」(つまりそれは "彼" でなくてもいいわけだが)頼りなのん?という疑問はわいてしまい、別にそんなことより「存在しているだけでよい」と肯定する思想はないものか、と探してしまった。

が、その批判に耐えられないほど『ピンドラ』の強度は低くはない。現に「存在しているだけでよい」と肯定してくれる人は複数いる。桃果と苹果だ。桃果は今回の総集編パートでも明らかなように、ゆりや桂樹をほぼ無条件に「愛して」くれる存在として2人を救済したし、「運命って言葉が好き」と述べる苹果は、「運命」ごと受け入れて「私のためにいてほしい」*3と言えるほどの度量の広さを兼ね備えている――要するに俗人的な理解の「運命愛」である――。

しかしそれはまったく無批判に受け入れる気にはなれない。

 

2.4.3. 「魔法」の水準

桃果と眞悧の、ある種の "近さ" はこれまでTwitterのほうで何回か指摘してきた*4。つまり、「呪文」によって運命を都合よく乗り換える桃果と、赤いアンプルに入った薬で魔法のように陽毬やマリオを回復させる眞悧は、何か超越的な力(ここではそれを「魔法」と呼ぶことにする)によって何かを改変する力を兼ね備えているという点で共通している。

そうした「魔法」に頼るというのは、それがたとえ「良い」ほうに世界を変えるためであっても、その同質性に危うさがある。視聴者から見れば、桃果は「良い」ことをしているように見えるし、一面的にはそうかもしれないが、たとえばゆりの父親は何の裁きも受けずに "消えて" しまうわけだし、死ぬはずだったウサギは生き延びて "しまって" いる。

そのように、都合の悪いものを「魔法」という水準で消してしまうという点は桃果と眞悧に通底しており、その点に批判を加えることはできるだろう。そう考えると、今回ゆりや桂樹の前に現れた桃果の言っていること(「呪文を使ってゆりを自由にしてあげる」とか「あなたのこと大好きよ[…]私のところへ帰ってきて」等)は、耳障りの良いことをつぶやいて "壺" を買わせるカルト的な勧誘のようにも響いた。

 

2.4.4. 「ルール」

その危うさと表裏一体な桃果と眞悧の代理戦争になっていることが、『ピンドラ』のひとつの限界だと指摘することはできるだろうか。

ただもうひとつ指摘しておかねばならないのは、桃果と眞悧は直接的には現実に作用できないところもあるということだ。桃果も眞悧も、その意味で「ルール」に、ある種の規範性に縛られている。

むしろこの「ルール」から抜け出せない、ないしは、この「ルール」を壊そう、という解決法にはならないところに『ピンドラ』の世知辛さ、というか現実に対する絶望を感じる。たとえば、「呪文」を唱えると代償として大切なものを失うor「世界の風景から消えてしまう」という「ルール」は破れないし、破ろうという発想には絶対ならない。

そういう「ルール」は、もう現に在るものとして、覆せないものとして、大枠に存在する。ただこの価値観が眞悧や剣山のそれと近いことにもまた危うさを感じるのだ。眞悧は「真に純粋な生命の世界は利己的なルールが支配している。そこに人の善悪は関与できない」*5と言うし、それとはやや次元が異なるが、剣山も「こどもブロイラー」に行ってしまった子どもたちは「手を出せないし、救えない」とそこになぜか規範性を見ている。

 

2.4.5. 「社会」?

この発想こそが、人はみな「箱」に閉じ込められており、そこから出れないから世界を壊すしかないのだ、という眞悧や剣山の思想につながるのではないか。

そしてさらにたちが悪いのは、そうした規範性が、「社会」と "つながり、かつ、つながっていない" 点だ。

たとえば剣山は「透明」な子どもたちが生まれてしまうのは「社会」が見捨てたからだとしながらも、「社会」を内から改革しようという発想にはならない。その点は冠葉も同じだ。お金が足りなくなったら「社会」に頼ろうという発想はない。いや、正確にはあったのかもしれないが、諦められている。

この点は晶馬もよくわからない。お金の工面をどうしているのか詳細はわからないが、不当な手段で金を得ることには人一倍怒りつつも、晶馬自らがお金をなんとかしようとする姿は描かれない(描かれていないだけで何かしているのかもしれないが)。

つまり、強いて大袈裟に言えば、『ピンドラ』には「社会」が "ない" のだ。正確には "ない"、というよりは、諦められたり、覆せないものとして描かれたりしており、それにより「社会」と距離をとって、「社会」で救済できない子たちをどう救済するか、という視点をクローズアップしている。

だからこの点で大事な話というのは、実は陽毬と晶馬の過去編なのではないか?

 

2.4.6. ささやかな抵抗

『ピンドラ』は、家庭問題を「社会」に含めればある意味ではずっと「社会」の話をしているのだが、それを除けば「社会」に抵抗するのは、テロリズムを除けば晶馬と陽毬の過去編くらいなのではないか。

晶馬と陽毬は、マンションの「ルール」に反して、猫(サンちゃん)を飼う。マンションの「社会」のなかに包摂されつつも規範に反して生きる、ある意味ではこれが、ひとつの解決ではあり得たはずだ。つまり内部にありながらその外部で正面から「社会」に反することなく生きる、というのはひとつの解決であり得たはずである。形なき、「不定形の共同体」を形成する道もあったはずである*6

だが『ピンドラ』の描く「社会」は絶対的なものなので、猫は排除されるし、それが陽毬が排除されることに直結してしまう。「ルール」をどうにかする、ないしはどうにかできないから大人しく生きる、という話には絶対ならないのだ。

 

2.4.7. 「愛している」の重み

しかし、二転三転するようだが、たしかにそれが『ピンドラ』の限界かもしれないが、そんなことは『ピンドラ』の主眼ではない。

それを物語るのが、最後に浜辺で「愛してる」を連呼するパートだ。もう「社会」はどうにもならなくて、「透明」になりかけて、ある人は自己犠牲に倒れ(晶馬)、ある人は自分が果実を与え/与えられる人間だと気づいたときには罪を重ねすぎており(冠葉)、そのくらい世界は残酷かもしれないが、最後に縋りつきうるものとして「愛している」があるよ、そのくらい最終的なものとして「愛している」はあるのではないか。

だからそこで築かれる関係性も、最初からあるものではあるが、ほぼ最終手段なのだ。多くの確執があろうとも、なんとか結びついているその「つながり」の下で、「愛してる」を与え/与えられる、そのことを『ピンドラ』は伝えてくれているのではないか。

だが、そうだとすると、やはり「つながり」をもてない "孤独な人" に救済はないのか?

 

2.4.8. フィクションの次元

"孤独な人" の目線で見ると最後までそうひねくれるわけだが、本当の本当に孤独な人がいるのかどうかはさておき、本当に孤独だ、と思っている人ならごまんといるだろう。

そこに救済は、ありうる。だって、スクリーンの前に「愛している」を言ってくれる人がいるではないか。つまり、フィクションの人間が代わりに犠牲になり、私たちを「選んで」くれているではないか。そうやって私たちは「透明」ではなくなっているではないか。

だからこそ「死んだら終わり」じゃないのだ。むしろ「そこから始まる」のだ。

 

2.4.9. フィクションの功罪

が、それは危険思想でもある。

たとえばその当のフィクションを用いて人を様々動かしてきたのが「宗教」だったはずだ。フィクションはフィクションだ、と割り切っているつもりの人は本当に危ないので、一度顧みられることをおすすめする。

だから "孤独な人" の目線で見ると、最後にはフィクションに頼ってしまう見方に行きつくかもしれず、それは危うさと表裏一体だが、しかし縋りつきうる最後の糸ではある。

いずれにせよ、『ピンドラ』がさまざまなものの "スレスレ" を歩んでいることは間違いない、ということは以上で伝わったのではないだろうか。

 

 

3.0.「きっと何者かになれる」

だからここは『ピンドラ』の意図を最大限に汲み取って「きっと何者かになれる」とそれでも言おう。残酷な世界にあっても、「運命」を「愛している」と、それでも肯定してみる、その想いが、「きっと何者にもなれない」という絶望を、そのまま引き継ぎつつも、一歩踏み込んで「きっと何者かになれる」と言わせているのではないか。

それはほぼ賭けなのかもしれないが、賭けのない人生はありえない。『ピンドラ』は「何者にもなれない」という嘆きを「きっと何者かになれる」と喝破することで、それに賭けているのではないか。

言い換えれば、『ピンドラ』はどちらかと言えばそちらのほうに賭けられる人のほうに全フリしている、と言ってもいい。本当に "孤独な人" に『ピンドラ』が届くかと聞かれれば、やっぱり正直難しいところもあるように思われ、しかしともかく、「運命」を愛するという道を、「きっと何者かになれる」と喝破する道を、『ピンドラ』は選んだのだ。もう書いていて自分でも嫌になってくるくらいだが、ギリギリ絞り出している感想だということが伝わればと思う。

 

さしあたって、たしかに「若い人」に届けばよいと思うが、そうもばかり言っていられない。「同窓会」もある意味では有意義かもしれないが、『ピンドラ』を真剣に見れば、まずは我が身を省みるべきだ、ということはわかるはずだ。

その意味では、10年経った世代が「親」になっているかもしれない事実は大きい。もしあなたが親ならば、「愛してる」を身近な誰かに分け合ってほしい。

もちろんあなたが親でなくても、なにかしら「つながり」があるなら、ぜひその「つながり」を大切にしてほしい。

あるいは、もしあなたがかつて「透明」だった人ならば、そして『ピンドラ』で色を取り戻したというならば、今度はほかの誰かを彩ってほしい。

そしてもしあなたが "孤独な人" ならば、無理にとは言わないけれど、立ち止まっていろいろ考えてみてほしい。そのとき縋りつくものはフィクションでも構わないと、私は思う。

 

救済も崇拝も、たしかにないかもしれない。世界が残酷であることも、いまは十二分にわかる。だがそれでも、いまは『ピンドラ』に最大限の敬意を払って、だからもう一度繰り返そう。

「きっと何者かになれる」——

パンフレット. 筆者撮影.

 

【参考文献等】

・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.

・——劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』イクニチャウダー/ピングローブユニオン, 2022年.

・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年.

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』幾原邦彦監督、武内宣之副監督インタビュー【連載9回】 | アニメイトタイムズ

 

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『かえるくん、東京を救う』については↓

【お知らせ】

本考察が紙の本になりました。内容はネットで見られるものとほぼ同じですが、加筆修正のうえ、「あとがき」を書き下ろしで追加しています。ご興味のある方はぜひ。

『Malus——『輪るピングドラム』考察集』通販ページ

*1:2ページ目:劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』幾原邦彦監督、武内宣之副監督インタビュー【連載9回】 | アニメイトタイムズ

*2:詳細は以下シリーズを参照いただきたい. アニメ-輪るピングドラム カテゴリーの記事一覧 - 野の百合、空の鳥 .

*3:桂樹から陽毬を救ったあとのパート参照.アニメでは18話.

*4:たとえば、https://twitter.com/zaikakotoo/status/1519040062503022592https://twitter.com/zaikakotoo/status/1536718793698750465https://twitter.com/zaikakotoo/status/1549033415940268034を参照されたい.

*5:『輪るピングドラム』24話参照.

*6:これまたTwitterで「分有」というキーワードから少しだけナンシー『無為の共同体』の話をしたが、ナンシーのみならず, 内部/外部といった話からは当然アガンベンなどが想起される(ちなみに「不定形の共同体」は元はナンシーではなくバタイユの用語である). ここで詳細を語る余裕はないが, 『ピンドラ』がさまざまな共同体論に接続可能であることはたしかだし, これについては別稿に譲りたい.