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【ピンドラ 考察】ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑭「きっと何者にもなれない」とはどういうことか【19-20話】

はじめに

19-20話は、陽毬の過去編がメインの話となっている。

だが例のごとく、過去編というよりは、そこで語られている内実のほうが重要である。とくに、19-20話では「選ばれない」「きっと何者にもなれない」「氷の世界」「生存戦略」「運命の果実をいっしょに食べよう」等々、重要なフレーズが頻出する。これらが何を示しているのか、まずは素直に読み解くことがとても重要であるように思われる。

そこで今回は、物語に内在的に、実直に、『輪るピングドラム』の中身を読み込んでゆくこととしたい。差し当たっては、以下のような問いを立ててみた。

Q. 「選ばれない」と「何者にもなれない」について、両者の内実や関係を明らかにしながら、「運命」という言葉を用いて、『ピンドラ』が発するメッセージを答えなさい。

なんだか入試問題みたいになってしまった。だがこれは、『ピンドラ』という物語を考えるうえで重要な問いだと思うのだ。読者の方々におかれても、以下を読む前に、一度立ち止まって少し考えてみてほしい。

では、以下考察を進めよう。

 

 

1.0. 「きっと何者にもなれない」とは何か

1.1. 剣山の世界観

20話冒頭は、以前の考察で引用した、剣山の重要な演説となっている。

前回は「氷の世界」について説明するために引用したが、同演説には「選ばれない」「きっと何者にもなれない」「生存戦略」といった『ピンドラ』を読み解くうえでの重要ワードたちが散りばめられている。大事な部分なのでもう一度引用しよう。

この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか、認められたとか認めてくれないとか、選ばれたとか選ばれなかったとか——。
奴らは人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界は、そんなつまらないきっと何者にもなれない奴らが支配している。もうここは、氷の世界なんだ。
しかし幸いなるかな、われわれの手には希望のたいまつが燃えている。これは聖なる炎、明日われわれは、この炎によって世界を浄化する。今こそ取り戻そう。ほんとうのことだけで、人が生きられる美しい世界を!これがわれわれの生存戦略なのだ!
(『輪るピングドラム』20th station「選んでくれてありがとう」より。書き起こし、強調は筆者による。引用は以下すべて同様に書き起こし・強調は筆者による)

剣山の主張を噛み砕いてみよう。

剣山によれば、「選ばれたとか選ばれなかったとか」、「いつも求められることばかり考えている」奴らは、つまらない、「きっと何者にもなれない奴ら」である。つまり剣山から見れば、「選ばれた」「選ばれなかった」という承認の有無で価値判断を下す人間はくだらない人間なのだ。

ここに、「選ばれたとか選ばれなかったとか」の枠組みで生きる人間=「きっと何者にもなれない奴ら」という定式がまず見て取れる。

議論を先取りすれば、「きっと何者にもなれない」奴らとは、冠葉・晶馬・陽毬のことでもあったはずだから、冠葉・晶馬・陽毬は剣山からすれば「選ばれたとか選ばれなかったとか」の枠組みで生きるつまらない奴、ということになってしまう。これをどう考えればよいかは、のちに見てゆく。

ともかく、以上を前提として、剣山は「何者にもなれない奴ら」の支配する「氷の世界」から脱出しようとしている。テロという暴力的な方法によって。手段はどうあれ、それが剣山の生きる術、「生存戦略」なのである。

 

1.2. 「社会から見捨てられる≒透明になる≒何者にもなれない」

剣山は「きっと何者にもなれない奴ら」を「つまらない」奴らと断じながら、他方で、「きっと何者にもなれない奴ら」を救済することも考えている。剣山は以下のように言っていた。

晶馬「『こどもブロイラー』ってなに?」

剣山「社会から見捨てられた子どもたちが行く場所だ。われわれも手を出すことはできないし、救えない。氷の世界だ」

晶馬「そこに行った子どもはどうなるの?」

剣山「透明になる

晶馬「どういうこと?」

剣山「彼らは、何者にもなれない

晶馬「死ぬってこと?……そんな!」

剣山「この瞬間にも、大勢の子どもたちが透明にされている。それを放置しているこの世界は間違っている。だからわれわれは……」

(『輪るピングドラム』20th station「選んでくれてありがとう」より)

ここにはあるひとつの重要な定式が見られる。「社会から見捨てられる≒透明になる≒何者にもなれない」という定式だ。

「透明」という言葉に関しては前回考察した。「透明」になるとは、桂樹の例に示されていたように、主に家庭に端を発して誰からも必要とされず、「いらない子」になってしまうことだった。

これに加え、「社会から見捨てられる≒透明になる≒何者にもなれない」という定式も考慮すれば、「透明」というのは、家庭だけでなく、社会からも見捨てられること、より普遍的に必要とされなくなることを意味するのだと考えられる。さらにはその「透明」という言葉が、「何者にもなれない」と結びつけられている。

剣山はこのような「氷の世界」となった世界の現状を嘆き、「社会から見捨てられる≒透明になる≒何者にもなれない」子どもたちを放置しない世界をつくるために、変革をしようとしている、と、読み取れる。つまりそこにはある種の救済意識があるのだ。

だが皮肉なことに、剣山のそのような革命的行動によってこそ、冠葉・晶馬・陽毬らは社会から疎外される身に、つまり、「社会から見捨てられた≒透明な≒何者にもなれない」存在になってしまった。

 

1.3. 「きっと何者にもなれない」「僕ら」

第1話冒頭の印象的なナレーションを思い出されたい。そこで晶馬は、「僕たち」は「何者にもなれないってことだけが決まっていた」と言っていた。

僕は、運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸……それらがあらかじめ運命によって決められているのなら、僕たちは何のために生まれてくるんだろう。裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争の真っただ中に生まれる人……それらがすべて運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。あのときから僕たちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないってことだけがはっきりしてたんだから(『輪るピングドラム』1st station「運命のベルがなる」より。強調筆者)

「僕たち」、すなわち冠葉・晶馬・陽毬らは、剣山らが起こした事件によって、事件加害者の子どもたち、というレッテルを貼られることになった。

それにより、冠葉・晶馬・陽毬らは ”完全に”「社会から見捨てられた」、すなわち「何者にもなれない」ことが定まってしまった——ただし、冠葉や陽毬は高倉家の子どもとなる以前から親に見捨てられ「何者にもなれない」運命をたどっており、剣山の「子ども」となることでさらにそれが強化されたと見るべきだが——。それがあらかじめ定められた「運命」なのだとしたら、やはり呪いたくもなるだろう。

さらにこれに、剣山の最初の演説にあった定式、すなわち「選ばれたとか選ばれなかったとか」の枠組みで生きる人間=「きっと何者にもなれない奴ら」を加味すれば、やはり冠葉・晶馬・陽毬らは、「選ばれたとか選ばれなかったとか」の枠組みで生きることが運命づけられた「きっと何者にもなれない奴ら」である、ということになるだろう。

 

1.4. 「きっと何者にもなれない」まとめ

話が少し込み入ってしまったので以上で確認したことをまとめよう。

以上で確認したのは、「社会から見捨てられ≒透明になった≒何者にもなれない」=「選ばれる/選ばれない」という枠組みで生きる「つまらない」奴らを救済するため剣山が起こした行動が、むしろ、冠葉・晶馬・陽毬らを、決定的に「社会から見捨てられ≒透明になった≒何者にもなれない」=「選ばれる/選ばれない」という枠組みで生きることを決定づけてしまった、という皮肉な構造である。

では、「選ばれる/選ばれない」という枠組みで生きるとはどういうことか。それがよく表れている陽毬の過去編の分析に移ろう。

 

2.0. 「選ばれる」とはどういうことか

2.1. 選ばれないことは、死ぬこと

20話で描かれる陽毬の過去編では、陽毬は執拗なまでに「選ばれないこと」=「死ぬこと」という定式を繰り返す。

それを象徴するのが「サンちゃん」のエピソードだ。過去に、剣山らの会合が開かれる団地で陽毬と出会った晶馬は、捨て猫に「サンちゃん」と名付けてかわいがる。ところがある日、「動物禁止」というルールにより、「サンちゃん」はどこかへ捨てられてしまう。

そのとき、陽毬はこう言い放った。

選ばれなかったんだよあの子は。[…]この世界は選ばれるか選ばれないか。選ばれないことは、死ぬこと。

(『輪るピングドラム』20th station「選んでくれてありがとう」より)

この言葉を残したあと、陽毬は「こどもブロイラー」へと旅立つ。それがわかったシーンで、「これからもルールを守って楽しい社会生活を送りましょう‼」という貼り紙がクローズアップされるのは皮肉だ。

「これからもルールを守って楽しい社会生活を送りましょう‼」(『輪るピングドラム』20th station, ピングループ・MBS, 2011年).

「ルール」を強いるその「社会」こそが、「サンちゃん」という固有の存在を、「選ばれない」存在に、「透明」にして排除してしまうのだから。

だがそれは陽毬も同様である。

 

2.2. 運命の果実をいっしょに食べよう

陽毬もまた、「選ばれなかった」者である。団地でひとり孤独にさまよう様からは、親から見捨てられたことを容易に想起させる。そして実際、陽毬は「いらない子」が集められる「こどもブロイラー」へと自ら赴く。

それを救済するのが晶馬だ。「運命の果実をいっしょに食べよう」、そう呼びかけて晶馬は陽毬を「選ぶ」。「選ぶ」ということは、「運命の果実」を分け合うということ、それがすでにしてここに示されている。

この晶馬の救出劇について、陽毬はこう語る。

地上で最初の男と女の話、私、知ってたよ。二人は罰を受けたんだ。生きるってことは罰なんだね。でも、罰でも、晶ちゃんといっしょにいたかった。だから……選ばれたかった。

(『輪るピングドラム』20th station「選んでくれてありがとう」より)

「地上で最初の男と女の話」とは、言うまでもなく、『旧約聖書』のアダムとイヴの話のことだ。神はアダムとイヴが善悪の知恵の実=禁断の果実を食べたことを咎め、楽園から追放した。

人類の歴史はこの原罪を抱えて始まる。生きるというのは楽園から追放されるという「罰」から始まる。だが善悪のの知恵の実を食べることで、罪を背負いながらも人は愛することを知る。生きることが「罰」であっても、誰かに必要とされること、「選ばれる」ことは少なくとも可能なのだ。

この罪と罰を共有しながらもともに生きることを誓うこと、それが、「運命の果実をいっしょに食べよう」「選んでくれてありがとう」という応酬に凝縮されている、と言えるだろう。

 

3.0. 「運命」のもとで

3.1. 「運命がすべてを奪ったとしても……」

では、「きっと何者にもなれ」ず、「選ばれたとか選ばれなかったとか」の枠組みで生きることを運命づけられた子どもだちは、いったいどうすればよいのか。剣山はそれを救済しようとテロに訴えたわけだが、それではむしろ「きっと何者にもなれない」奴らを再生産するだけだった。だからそれ以外の道を探さねばならない。

だが ”それ以外の道” は、すでにして陽毬と晶馬の過去で示されている。「運命の果実をいっしょに食べよう」「選んでくれてありがとう」がそれである。つまり、罪と罰を共有しながらもともに生きてゆけばよいのだ。

この答えは、最終話に至っても同様だと考えられる。やはり話数を先取りすることにはなるのだが、何度も引用しているように、最終話では以下のように言われていた。

桂樹「君と僕はあらかじめ失われた子どもだった。でも世界中のほとんどの子どもたちは僕らといっしょだよ。だからたった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった」

ゆり「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、愛された子どもたちはきっと幸せを見つけられれる」

(『輪るピングドラム』24th staition「愛してる」より)

前回までは冠葉・晶馬・陽毬らと桂樹・ゆりとの間に世代間の線引きをしてきたが、桂樹が語っていた「透明」が「社会から見捨てられる≒透明になる≒何者にもなれない」という定式で「何者にもなれない」と語る晶馬らの問題系と結びつけられたことから、冠葉・晶馬・陽毬らと桂樹・ゆりらの抱える問題が同根のものであることはいまや明らかだろう。

そうだとすれば、「何者にもなれない」から解放されるための「運命の果実をいっしょに食べよう」という呼びかけ、つまり「選ぶ」という行為は、「あらかじめ失われた」≒「透明」≒「何者にもなれない」から解放されるための「愛してる」というふるまいと同等のものと考えられる。

すなわち、「社会から見捨てられる≒透明になる≒何者にもなれない」子どもたちは、誰かに「選ばれる≒愛される」ことが必要なのである。それこそが、「きっと何者にもなれない」=「選ばれたとか選ばれなかったとか」の枠組みで生きる「運命」に抗う、唯一の「生存戦略」なのだ。

 

 

おわりに——「きっと何者にもなれない」からの脱却

以上で、最初の問いに答える準備は整った。問いはこうだった。

Q. 「選ばれない」と「何者にもなれない」について、両者の内実や関係を明らかにしながら、「運命」という言葉を用いて、『ピンドラ』が発するメッセージを答えなさい。

上記をふまえ、解答は以下のようになるだろう。

A. 「選ばれない」とは、社会や家庭から見捨てられ、誰からも必要とされず、「透明」となることを意味し、そうした枠組み、つまり「選ぶ/選ばない」という枠組みで生きることを運命づけられる人々が「きっと何者にもなれない奴ら」である。しかしながら、そのようにたとえ「きっと何者にもなれない」ことを運命づけられ、生きるという「罪」を抱えていたとしても、誰かから「選ばれる」ことによって、「愛される」ことによって、その「愛」と「罪」を分有しながら生きることができる。こうした「生存戦略」を営むものは、きっと幸せを見つけられる。これが『ピンドラ』の発するメッセージである。

どうだろうか。これまでのところで考えれば、以上のような答えになるであろうが、やはり暫定的な答えではあるように思う。

それはひとつには、たとえ「愛」と「罪」を分有したとしても、必ずしも幸せな道をたどるとは限らないからだ。たとえば、冠葉はどうか。前回予告的に、冠葉と桂樹の近似性、つまり、愛する人≒生きる理由を失った/失いかけたときに世界を破壊する、という手に打って出るのは、果たして幸福か。

もちろん、それが幸福だ、と言うこともできるだろう。ただそれは閉じた幸福であって、そのとき「すごく遠いこと」と「すごい近いこと」のあいだで、何かが失われている。つまり、冠葉や眞悧が世界を破壊するとき、その「世界」は「セカイ」とも表記し得るのではないか。

このような見通しをもって、次回以降は冠葉についてより深く考えてゆくことになるだろう。

今回はひとまずこれまで。いつもながら最後までお読みいただいた読者の方々に感謝しつつ、筆を置く。

 

【参考文献等】

・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.

・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年.

 

【次回】

準備中……

 

【初回】