野の百合、空の鳥

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【ピンドラ 考察】ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑬こどもブロイラーとは何か——透明な存在の不透明な内実【17-18話】

0.0. こどもブロイラーとは何か——設定上の回答——

こどもブロイラー(『輪るピングドラム』18th station, ピングループ・MBS, 2011年)

「ここはこどもブロイラーだよ」

「こどもブロイラー?」

「いらない子どもたちが集められる場所」

[…]

「ここで僕らは透明な存在になって、やがて世界から消えてなくなるんだ」

(『輪るピングドラム』18th station より)

「こどもブロイラー」とは何か。「透明な存在」とは何か。今回はこの問いをめぐって考察を加える。

実のところ、そうした問いに表面上の答えを与えるのは容易い。すなわち、「こどもブロイラー」とは、不要とされた子どもたちが捨てられる処分場(の比喩表現)のことで、そこで「こどもシュレッダー」にかけられたこどもたちは*1、やがて「透明な存在」となって世界から消えてしまうのである。

したがって「透明な存在」とは、誰からも必要とされず、アイデンティティを失い、その意味で他人と見分けがつかないくらいに平準化されてしまった人間のことである、と整理できる。

こうして表層的に、物語の設定上の回答を与えることは容易い。だが『ピンドラ』という作品の放つメッセージを考えるに当たってより重要なのは、そうした表面的な答えではなく、「こどもブロイラー」のよつな比喩がどのような射程をもっているのか、「透明な存在」というリファレンスが何を問題としているか、それを考えることである。

 

その問題をこそ今回は考えたい、のだが、どうしても前置きしておかねばならないことがある。それは「透明な存在」という語が明らかに1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件のあれこれを参照項としており、この事件の扱いには慎重になる必要があるということである。

「透明な存在」について掘り下げる関係上、どうしてもその事件について語ることが避けられないが、事件は凄惨さを極めているため、当該事件について触れられたくない人は読まれないことをおすすめする(とはいえ、事件の内容を詳細に説明することはせず、むしろ「透明な存在」がどう語られたのか、後々の批評言説の方に重点は置く)。

あるいは初めて事件を知るという方も十分に注意されたい。こうした事件を知ることは一方では重要のように思うが、言うまでもなく、最終的な判断は読者に委ねられる。

(ここまで留保を重ねる必要は、あるいはないのかもしれないが、さまざまな読者の方を想定し、以上のように前置きした次第である。)

 

とはいえ、初め(第1章)はアニメの表象分析に終始するつもりだから、その部分は心置きなくお読みいただきたい。事件に触れるターン(第2章以降)になったら、また改めて注意を促す。

 

1.0. 鳥籠から空へ——桂樹の生きる意味

1.1. 《日傘の女》に見る残酷な優美さ

17-18話は、主に多蕗桂樹(以下「桂樹」)の話となっている。

桂樹もやはり「家族」に問題を抱えており——「家族」が「呪い」のようなものとして語られていたことを想い出されたい——、桂樹の場合は、「才能のある子が大好き」な母親の期待に応えるためにピアニストを志すも、新たに生まれてきた弟のほうが明らかに才能があることが分かり、自らが認められえなくなったことに葛藤を抱えていたのであった。

こうした家族関係を、アニメーションではクロード・モネの有名な絵画《日傘の女》シリーズ(《散歩、日傘をさす女性》、《戸外の人物習作(左向き)》、《戸外の人物習作(右向き)》)を用いて戯画的に表現している。

クロード・モネ《散歩、日傘をさす女性》(1875)

《日傘の女》をモデルとした『ピンドラ』における表象(『輪るピングドラム』18th station, ピングループ・MBS, 2011年)

《日傘の女》は、モネが妻のカミーユをモデルに描いた作品群で、とりわけ《散歩、日傘をさす女性》には妻カミーユと息子ジャンが画布に収められている。

『ピンドラ』ではその絵を参照項とすることで、桂樹の「家族」への幻想が優美に、しかしだからこそ残酷に描き出されている。

 

1.2. 「鳥籠」の比喩

結局、桂樹は葛藤のすえ、母親の関心を買おうとして自ら指を潰し、しかしそのことでピアニストとしての将来が断たれる。そこで持ち出されたのが「鳥籠」の表象・比喩である。

鳥籠に閉じ込められた鳥(『輪るピングドラム』18th station, ピングループ・MBS, 2011年)

その日、鳥籠が錆びた。だから、鳥は外に出られなくなったんだ

(『輪るピングドラム』18th station より)

自分を唯一必要としてくれていた母親から捨てられ、「こどもブロイラー」に送られた桂樹は、やがて自らが「透明な存在」となり、ほかの人間と差異化されない、平準化された存在になることを悟る。

誰からも必要とされなくなり、他者との交流が断たれて「透明」になる、それが「鳥籠」という閉鎖空間の比喩で示されている。と、ひとまず解することができるだろう。

 

1.3. 「鳥籠」と「箱」

ここで少し先の話にはなるが、第23話で眞悧が語る「箱」の話をあらかじめ引用しておくことも栓無きことではあるまい。

ある朝、気がついたんだ。僕はこの世界が嫌いなんだって。世界はいくつもの箱だよ。人は身体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰を好きだったのか。だからさ、僕は箱から出るんだ。僕は「選ばれし者」だからさ、僕はこれからこの世界を壊すんだ。

(『輪るピングドラム』23th station より)

ここで語られている「箱」は、先の「鳥籠」の比喩に近い。

つまり、「箱」にいると「自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰を好きだったのか」「忘れちゃう」と言われていること、「箱」から出て世界を壊すと「選ばれし者」として認められるような語り口をしていること、それらのことは、「箱」のなかにいることとはパッケージ化されて平準化された「透明な存在」になるに等しいこと、その中では個々人のアイデンティティが失われ、他と変わらない扱いを受けることを意味している、と読み取れるのである。

そのような平準化、「透明」化の水準で、「箱」の中にいることと「鳥籠」の中にいることは同列に語られている。

が、より汎用性が高く、示唆に富むのは「箱」概念のほうであろう。なぜなら「箱」は、パッケージ化された「商品」というイメージを喚起するし、何より「箱」は、ほかの幾原邦彦監督作品でも登場するからだ——『さらざんまい』において「欲望」や「秘密」が「箱」としてパッケージ化されていたことは記憶に新しい——。

これについてはより子細な検討が必要なので、稿を改めて考えることとするが、ひとまず以上で、「鳥籠」の比喩の内実は明瞭になったのではないだろうか。

 

1.4. 「鳥籠」からの解放——飛ぶ鳥のような自由があって

「鳥籠」が誰からも必要とされない平準化を意味するとするなら、そこから解放されるにはどうすればよいのか。

世界から必要とされなければならないのである。

このときの世界とは「他者」である。桂樹の場合、世界とは桃果である。

「僕にはもう生きる意味なんてないんだ」と自暴自棄になる桂樹に、桃果は「だったら私のために生きて!」と、意味を与える。

果たして桂樹は「透明」ではなくなる。今や桂樹は桃果のために生きることができる。桃果に必要とされ得る。「大好きよ」というその愛で、「私のために生きて!」というその言葉で、桂樹は生きることができるのである。

桃果の言葉の直後, 鳥籠から飛び立つ鳥(『輪るピングドラム』18th station, ピングループ・MBS, 2011年)

だからその瞬間、鳥は飛び立つ。「鳥籠」から解放されて、空を自由に飛ぶことができたのだ。

 

2.0. 「透明な存在」とは何か

では以上のような「透明」からの解放があり得たとして、「こどもブロイラー」や「透明な存在」という語で指し示されている問題の射程はどこにあるのか。

それを考えるため、以下「透明な存在」に関する考察に移る。冒頭に述べたように、特定の事件に触れるのでご注意願いたい。

 

2.1. 神戸連続児童殺傷事件について

「透明な存在」の出典は、1997年に起こった神戸連続児童殺傷事件において、神戸新聞社に送られた犯行声明文に求められる。

同事件は、当時14歳の少年が小学生5人を相次いで殺傷した事件であり、その残虐さと奇抜な声明文を残すその特異さなどにより、マスメディアでも大々的に報じられた。事件は犯人逮捕後も、少年法や精神鑑定に関する議論などを相次いで呼び込み、大いに取り沙汰された。

詳細はWikipediaなどにもかなり細かに書かれているが、犯行の内実もかなり子細に描かれているため、読むか否かにはかなり慎重な判断を要されたい。

 

2.2. 「透明な存在」について

ひとまず了解を得たいのは、神戸連続児童殺傷事件の犯人による犯行声明文のなかで「透明な存在」という表現が用いられたこと、同文ではその「透明な存在」をつくりだしたものが義務教育とされていたこと、さらにその義務教育を生みだした社会への復讐が語られていたこと、以上である。

以降は事件の内実に触れることはせず、事件の後で「透明な存在」が(主に評論家たちなどによって)どう語られたのかを見ることに終始したい。

 

2.2.1. 宮台真司の場合


透明な存在の不透明な悪意

まずは事件に真っ先に応答した社会学者・宮台真司の言及を見てみよう。宮台は犯人逮捕後直後、1997年7月に行われた談話のなかで(のちに『透明な存在の不透明な悪意』と題された書籍に収録される)以下のように述べている。

たとえば今回の事件を見て、「心の教育をもっと推進しなきゃいけない」とか言ってますね。そんなものはいらないに決まっている。一切、心の教育はいらない。そういう深度(デプス)まで学校化がひろまり、横の圧力と縦の圧力の交点で、子どもたちはいい子ちゃんたちの演技をし、羊ちゃん化してるんです。大学もそうです。いまの大学生はそういうのをくぐり抜けてきたやつだから、偏差値の高い大学はみんな羊。ただ中学校の場合はまだ、見かけは羊ちゃんだけど、羊の皮を被った狼もなかにはいる。それが酒鬼薔薇聖斗〔神戸連続殺傷事件の犯人が名乗った呼称〕だったりする。/そういう縦から横からの同調圧力のなかで、中学生は透明化している。その羊化した状態のことを酒鬼薔薇は「透明な存在」と言った。僕であっても僕でなくてもいい存在。これは単に疎外されているとかいじめられているというのよりも、もっと深いことです。*2

宮台は「透明な存在」を、理想化された「いい子ちゃん」の演技をし、「羊化」した状態と解している。あるいは「僕であっても僕でなくてもいい存在」と言い換えている。犯行声明のなかで「透明な存在」の原因が義務教育に帰されたことを受けて、宮台は学校優等生的な平準化(みんながみんな優等生的な「いい子ちゃん」のふりをすること)を「透明化」と受け取っているのである。

そこから「いま〔1997年当時〕の子どもたち」の現状を宮台は以下のように分析する。

いまの子どもたちは、学校で透明な存在になったら、家でも地域でも透明である。それが問題。つまり学校化ということです。学校である評価が与えられたとき、「その評価はおかしい」とか「そんな評価はどうでもいいんだ」と言ってくれる空間はどこにもない。「ああ、おまえはそういうやつなのか」と、家でも地域でもみんな思う。*3

「学校化」と呼ばれるように、学校での「透明」さが家でも地域でも通底している、というのが宮台の分析だ。学校でも、家庭でも、地域でも「透明な存在」となり得る。そのように解される点に、宮台による「透明な存在」考察の重点があると言えるだろう。

 

2.2.2. 大塚英志の場合


「おたく」の精神史 一九八〇年代論

次に「透明な存在」に関連して、評論家・大塚英志による神戸連続児童殺傷事件の批評を見ておこう。

これは直接的な「透明な存在」に関する考察というわけではないが、神戸連続児童殺傷事件がどう評されたのかを理解するためには、ひとつの代表的な指標にはなると思うのだ。

議論を先取りすれば、これは1980年代的なもの——とりわけ『ピンドラ』でも引用される「あらかじめ失われた子ども」という表現——とも呼応するため重要である(引用する大塚の本が『おたくの精神史——1980年代論』と題され、「1980年代論」として打ち出されていることに注意されたい)。

結論から述べれば、大塚による神戸連続児童殺傷事件の最終診断は以下のようになる。

主体たれ、というこの国の戦後史が禁じた自己実現への欲望を最後まで抑止しようとした「エヴァンゲリオン」の直後に起きた神戸連続児童殺傷事件は、主体をめぐる欲望にとうとう抗い切れずそれを解き放った点で戦後のサブカルチャー史の終着点にあるようにぼくには思える。そして少年のような若者が多数派であるとすれば、消費財としてのサブカルチャーは否応なく主体をめぐる欲望に輪郭を与え、言葉を与える物語を紡ぐ必要に迫られる。*4

が、いかんせん、結論だけ読んでもまるでわからない。とくに「主体をめぐる欲望にとうとう抗い切れずにそれを解き放った」とはどういうことなのか。

これについて理解することは重要であるため、以下少しだけ、大塚英志による『エヴァンゲリオン』批評を概説しながら、上で引用した結論部を理解することに努めたい。

 

2.3. 補論:大塚英志による『エヴァンゲリオン』評

2.3.1. 戦後まんが史、80年代的なもののの終結ないしは総決算

そもそも大塚による『エヴァンゲリオン』評の前提には、以下のような「戦後まんが史」と「80年代」の理解がある。

戦後まんが史はビルドゥングスロマンの不成立を身をもって示すことで成立してきた側面があり、80年代的なものの終結ないしは総決算として登場した「新世紀エヴァンゲリオン」は、それを最も徹底して生きることになってしまった作品として記憶されるべきだ。*5

大塚によれば、「戦後まんが史」は、マンガのなかの登場人物は「成熟」できないという(これは「アトム的命題」とも言われている)、ビルドゥングスロマン=主人公の内面成長物語が成立しなかったということを体現しているというのである。

『エヴァ』では、主人公のシンジが内面的成長を徹底して拒む模様が描かれており、だからそれが主人公の内面的成長が不成立となる「80年代的なものの終結ないしは総決算」であり、「それを最も徹底して生きることになってしまった作品」という理解なのである。

2.3.2. ビルドゥングスロマン不成立、「主体」の拒否の体現としてのEOE

 

(※念のため、以下には旧劇場版『エヴァ』のラストシーンの重大なネタバレが含まれていることを付記しておく。)

 

このビルドゥングスロマンの不成立の究極の体現、「主体」の徹底した拒否が、旧劇場版(The End of Evangelion=EOE)のラストだと大塚はいう。

物語の最後で彼〔シンジ〕は自他境界が喪失したユートピアさえ拒み、アスカという絶対的な他者と二人で世界の果てに取り残される。普通なら、ここで少年と少女はアダムとイヴよろしく世界を再生させる「主体」となって終わるというのがセオリーであるにもかかわらず、シンジはおもむろにアスカの首を絞め、そして、アスカに軽蔑されたように「気持ち悪い」と吐き捨てられるところで映像はぶつりと切れるのだ。*6

EOEラストで、シンジは成長して自立することもなく、アスカという他者を受け入れることもなく、さらにはアスカという他者を殺して「甘える」こともない。そうしてアスカという他者が始めるはずの成長物語にさえ乗れないこのシンジの一貫した成長の拒否を、大塚はビルドゥングスロマン≒自己実現不成立の体現、「主人公」になることの徹底的な拒否と解しているのである。

要諦すれば、『エヴァ』はこうして「おたく」たちに、いつまでたっても「主体」になることができないよ、「他者」の首を絞め続けて拒否することしかできないよ、ということをとことん突き付けた作品だと大塚は解しているのである*7

2.3.3. 大塚の神戸連続児童殺傷事件評——シンジと少年Aの違い——

そして大塚は、「14歳」という共通項でくくられるシンジと神戸連続児童殺傷事件の犯人少年Aとの間には、しかし決定的に異なる点があるのだという。

大塚はこう言う。

神戸の14歳は自己実現としての自己実現としての殺人を自らの意志で行った点で新しかった。/その新しさは無論、肯定できるものではないが。*8

自分の意志では何もできない、自己実現不成立の体現者であるシンジとは異なり、神戸の14歳は自らの意志で「自己実現」を行おうとした、そこに「新しさ」があるのだという。

そこで議論は前節で引用した結論部に至る。すなわち、自己実現不成立の極みであった『エヴァンゲリオン』の後に神戸の事件が起こり、その犯人は(シンジとは異なり)自己実現を自らの意志で行おうとした、だから神戸連続児童殺傷事件は、「主体をめぐる欲望にとうとう抗い切れずそれを解き放った点で戦後のサブカルチャー史の終着点にある」というのである。

 

3.0. 「透明な存在」解釈

3.1. 宮台・大塚による「透明な存在」理解整理

さて、長くなったので宮台と大塚による「透明な存在」に関する理解をまとめておこう。

宮台は、「透明な存在」を学校優等生的に平準化された存在と捉えた。それは家族や地域でも通用し、学校での評価が家族や地域に敷衍しているという「学校化」を唱えた。

大塚は、「透明な存在」に直接言及しているわけではないが、神戸連続児童殺傷事件を「戦後のサブカルチャー史の終着点」と捉えた。それは、戦後まんが史から80年代までを、ビルドゥングスロマンの不成立、主体の拒否の究極系として描いた『エヴァ』のその先を、神戸の14歳が体現したからである。つまり、『エヴァ』が徹底的に行き詰った「主体」としての自己実現を、神戸の14歳は自らの意志により(最悪の形で)成し遂げてしまったのである。

これらを受けて、『ピンドラ』の「透明な存在」について考えてみよう。

 

3.2. 『ピンドラ』における「透明な存在」

まず、『ピンドラ』においては、桂樹は学校ではなく家庭で思い悩み「透明な存在」となり得る経路をたどったのだから、それは宮台的な「透明な存在」とは異なる。

『ピンドラ』において、「透明」という評価は学校から始まるのではなく、むしろ家庭から始まるのである。『ピンドラ』の登場人物たちが往々にして「家族」という「呪い」を抱えていたことに鑑みれば、『ピンドラ』における「透明」という平準化は、主に家庭に端を発して行われる、あるいは「こどもブロイラー」が「いらない子」が集められる場所だとすれば、もっと普遍的な平準化として、つまり家庭に限らず世界のどこからも必要とされていないという意味での「透明」化が想定されている、と理解できるだろう。

加えて、その「透明」という評価を覆すため、大塚的な理解による「神戸の14歳」と同様の行動をとったのが、『ピンドラ』においては眞悧や剣山(冠葉・晶馬・陽毬の「父親」)だったと理解できる。先に引用した「箱」に関する言説のように、眞悧は「箱」のなかで平準化されるくらいなら世界を壊すという道をとった。あるいは(ここでは十分検討していないがアニメを参照すれば)剣山も同様の手段をとっていることがわかる(剣山については次回以降に詳しく考察したい)。

以上のことから、『ピンドラ』における「こどもブロイラー」や「透明な存在」が問題にしている射程がはかれる。

すなわち、「家庭」に端を発して(より普遍的な意味で)「透明」になってしまった人々を、眞悧や剣山のように世界を破壊する以外の道で、自己実現・アイデンティティの獲得をさせるにはどうすればよいのか、というのが『ピンドラ』の立てている問いなのだ、と解することができるのである。

 

3.3. 『ピンドラ』における「透明な存在」対処

では『ピンドラ』はその問題にどう対処したのか。これも話数を先取りすることにはなるが、最終的には——「こどもブロイラー」で桃果が桂樹にそうしたように——「愛してる」が必要(愛と罪を分有する)という解決策になる。

典型的なのは、桂樹の以下のセリフである。

桂樹「ゆりやっとわかったよ。どうして僕たちがこの世界に残されたかが」

ゆり「教えて」

桂樹「君と僕はあらかじめ失われた子どもだった。でも世界中のほとんどの子どもたちは僕らといっしょだよ。だからたった一度でもいい。誰かの愛してるって言葉が必要だった」

ゆり「たとえ運命がすべてを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために、世界に残されたの」

桂樹「愛してるよ」

ゆり「愛してるわ」

(『輪るピングドラム』24th station より)

注目すべきは「あらかじめ失われた子ども」という表現である。これについては以前考察したように、岡崎京子からの引用であり、むしろ岡崎京子作品に伴って論じられるような、「80年代から90年代にかけての時代」、少なくとも95年以前から生きている人間の「リアル」な苦悩を踏襲しているのではないか、という見立てだった*9

しかし今回の議論からすると、その見立てはやや崩れる。なぜなら、神戸連続児童殺傷事件は97年、つまり95年の地下鉄サリン事件より後の出来事であり、それはむしろ95年の事件を受けとめた人間の苦悩だからである。

あるいは大塚が分析したように、神戸連続児童殺傷事件は戦後のサブカルチャー史の終着点としてあらわれた(強いて言うなら)90年代的な問題のある種の総決算だからである。

つまり、95年以前を描いた『リバーズ・エッジ』に付された「あらかじめ失われた子ども」という表現と95年以降にあらわれた「透明な存在」という表現とでは、同じ90年代とはいえども、95年を境にして、その言葉で表現されている苦悩の内実が異なるように思われるのだ。

が、『ピンドラ』においては、その95年以前的な「あらかじめ失われた子ども」と95年以降の「透明な存在」という問題が統合されて(それこそ「透明」に平準化されて)、その問題に対する応答が「誰かの愛してるって言葉が必要だった」という回答でいっぺんに済まされている。

もちろん、「あらかじめ失われた子ども」と「透明な存在」という、少しタイミングの異なる段階で出てきた同じ90年代の言葉を細分化する必要は必ずしもないが、しかし事実として、現実において「あらかじめ失われた子ども」という言葉で指し示されていた95以前の苦悩と「透明な存在」で示されていた95年以降の懊悩は、『ピンドラ』のなかでは誰からも必要とされない、「愛してる」と言われない、という問題としてそれこそ平準化=透明化されている。

加えて、一口に「透明な存在」と言っても、『ピンドラ』におけるそれは現実でもともと義務教育に帰されていたような苦悩、つまり学校的「透明化」ではなく、とりわけ家庭的「透明化」であった。

したがってこれには注意が必要である。すなわち、『ピンドラ』は地下鉄サリン事件という90年代的な莫大な事件を背景とし、「透明な存在」や「あらかじめ失われた子ども」というリファレンスを有してはいるものの、それはフィクションとして、物語的に変奏されて、『ピンドラ』という作品の放つメッセージに変換されているのである。

 

3.4. 「透明な存在」と「あらかじめ失われた子ども」

この「透明な存在」と「あらかじめ失われた子ども」というリファレンスへの応答の統合をどう考えるべきか。

これに対しては大別して2つの態度をとることができよう。すなわち、一方では、やはり「あらかじめ失われた子ども」と「透明な存在」という言葉で示されていた苦悩の内実は違うのだと差異を指摘し、批判する態度がとれる。もう一方には、『ピンドラ』は、というより幾原監督はむしろ「あらかじめ失われた子ども」と「透明な存在」に同根の問題意識を読み取り、それをフィクションとして昇華させてメッセージとして発信したのだという態度がとれる。

幾原監督に寄り添えば、おそらく後者の態度を読み取るのが穏当だろう。以前も触れたように、監督は「90年代の亡霊」、「90年代を取り巻いていた空気」という言葉で言い表されていたように、「90年代」に一括した応答を与えようとしている様子であった。

一方で90年代を取り巻いていた空気について、僕は肌で感じて知っている。これを表現できるのは、僕らしかいない。同時に、95年の事件に関して同世代的な罪の意識を感じていたこともあります。その罪に対して懺悔したい思いがあった。たかがアニメとはいえ、なんで誰もここに近づかないのか?そうやって見ないふりを続けることで、今の若い人にどんな影響があるのかという関心があったんです。

(「スペシャル対談 幾原邦彦×辻村深月」『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』より*10

もちろん主眼としては95年の事件、とりわけその「罪の意識」への応答にあるが、他方で「肌で感じた」という「90年代」にも応答しようとしている。

ただそうだとして、つまり「あらかじめ失われた子ども」と「透明な存在」が同根の問題だとしても、それに対する回答が「誰かの愛してるって言葉が必要だった」という答えに一括されてよいのか、という問題は残る。

とはいえ、そう断ずるのも時期尚早である。本当に回答がそれで一括されているのか否かも含め、そして冠葉・晶馬・陽毬たちの動向を含め、次回以降さらに考察を深めたい。

 

 

4.0. 『ピンドラ』という物語を考えるに当たって

今回は「こどもブロイラー」とは何か、という囮としての問いから出発して、「透明な存在」について、その出処から批評を経由し、『ピンドラ』における「透明な存在」とその対処について考えた。

「あらかじめ失われた子ども」と「透明な存在」を同列の問題系であるかのように「家庭」から出発して扱い、それに「愛」という回答を与える『ピンドラ』、とまとめると、かなり問題含みであるように思われる。つまり、難しいことではあるが、「あらかじめ失われた子ども」と「透明な存在」の問題系を分化して、桂樹やゆりと冠葉・晶馬・陽毬とで苦悩を分担させる道もあった、とも言うことはできる。

ただし、現時点でそれについて何か言うのは性急に過ぎる。なぜなら『ピンドラ』は2011年の作品であり、今回少しだけ見た90年代の議論の蓄積だけでなく(そもそも今回も宮台と大塚というだいぶ偏った論者しか見れなかったわけだが)、00年代の蓄積も(物語をつくっている時点で)あったはずだからである。

あるいはなぜなら、以上は桂樹を起点とした17-18話から得た結論であり、それより若い世代、冠葉・晶馬・陽毬の物語は考察し終えていないからだ。

そうした世代間の壁を象徴するように、桂樹は18話で「桃果を失って、生きる目的も失った」「一個のモンスター」となってしまったことを悔やみ、苹果という下の世代の人間に向かって、「僕のようになっちゃダメだ」と言い渡す。

だがしかし、生きる意味を、「愛してる」を与えてくれた桃果を失ったことで桂樹が「モンスター」になったとするならば、生きる意味を、「愛してる」を与えてくれた陽毬に支えられている冠葉は?——

そこに、「愛」の一筋縄ではいかない行く末が示唆されているように思われる。

 

やはり大切なのは、リンゴは「愛」と「罪」の象徴であるということであるように思う。なぜならそこには「罪」も内包されているからだ。

要するに、『ピンドラ』が疑似家族を形成し、紆余曲折あって自己犠牲もあったけれど「愛してる」という解決策がわかってハッピーエンドだよねちゃんちゃん、という物語だとだけ解釈するなら、それは楽観的にすぎると思うのだ。それならば、「理解のある彼くん」概念と同じようなもので、そんなに簡単に「他者」が、「愛してる」を言ってくれる「他者」が手に入るのなら、サリン事件など起こっていない。

だからやはり、今回整理したような「透明な存在」への一定の批判意識は必要であろう。『ピンドラ』が何を捨象し、何を踏襲して物語に昇華させているのか、それを見極めなければ、『ピンドラ』は単に、勇敢にもサリン事件をバックボーンにしたすごい作品(小並感)、というまとめで終わってしまうだろう。

もちろん、フィクションを純粋に楽しみ、そこから興味をもつ姿勢を、筆者はまったく悪いとは思わない。しかし本サイトくらいは、「ゼロから見直す」本稿くらいは、あるいはそれを熱心に読んでくださる方々くらいは、そういうところに眼を向けてもよいのではないか。

「透明な存在」の不透明な内実を、これからも眼差しながら——

 

【参考文献】

・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.

・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年.

Claude Monet Woman with a Parasol - Madame Monet and Her Son, 1875 - Art Object Page

La Promenade — Wikipédia

【作品解説】クロード・モネ「パラソルを差す女」 - Artpedia アートペディア/ 近現代美術の百科事典・データベース

神戸連続児童殺傷事件 - Wikipedia

・宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』春秋社, 1997年.

・大塚英志『おたくの精神史——1980年代論』講談社現代新書, 2004年.

・東浩紀『郵便的不安たち』朝日新聞社, 1998年

・杉本章吾『岡崎京子論』新曜社, 2012年.

 

【次回】

【前回】

【初回】

【劇場版感想】

【お知らせ】

本考察が紙の本になりました。内容はネットで見られるものとほぼ同じですが、加筆修正のうえ、「あとがき」を書き下ろしで追加しています。ご興味のある方はぜひ。

『Malus——『輪るピングドラム』考察集』通販ページ

*1:「こどもシュレッダー」という用語はアニメのなかでは用いられていないが, 『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』(幻冬舎, 2012年)の第18話解説ページ(104-105頁)にそう記載されている. 本稿で用いる用語は断りのないかぎりこのガイドブックに依るものである.

*2:宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』春秋社, 1997年, 35-36頁. 強調は筆者による. 以下引用における〔〕内はすべて筆者による補足を示す.

*3:同上書, 41頁. 強調は筆者による.

*4:大塚英志『おたくの精神史——1980年代論』講談社現代新書, 2004年, 426頁. 強調は筆者による.

*5:同上書, 404頁

*6:同上書, 408頁.

*7:当然ながら、この大塚のEOE評に対しては批判がありうる. シンジはたしかに「主人公」となること, 「主体」となることを拒否しているかもしれないが, あまつさえ他者の首を絞めるという行動を実際に起こし, それに対して「キモチワルイ」と言われるそのラストは, すでにしてそれだけで, 「他者」の在りようをありありと見せつけているとも言えるのではないか. つまりそれは単に受け入れることのできない「他者」の拒否をそこに開陳したというより, 「他者」の在る世界を始めるというのは拒否や拒絶を伴うものだという, 「他者」と世界を営む上での基本的な道筋を凝縮しているようにも思われる. そう読めば, EOEのラストというのは, 大塚の言うような徹底した成長の拒否, あるいはなぜか一般に言われるような(それこそまとめサイトなどで「まとめ」られるような)「現実へ帰れ」という解釈とは異なった, 根本的な「他者」理解のひとつのはじまりと理解できる. たとえば東浩紀も, EOEラストを「あれはむしろ、 ”彼/彼女とは殺し合ってしまうかもしれないけれど、その他者の前に立つことは何よりも大事なことだ” という非常に肯定的なメッセージ」と解釈している. したがって東は、大塚の言うような「想像的に補完されること」, 「オタク的自閉に止まること」をむしろ綾波を「選ぶ」ことのほうに見出し, だからこそEOEのラストでアスカを「選んだ」ことを「外部」・「他者」に到達したあかしと解している(以上は, 東浩紀「第三回『THE END OF EVANGELLION』をめぐる対話(1997年秋」『郵便的不安たち』(朝日新聞社, 1998年)221-232頁参照).

*8:同上書, 412頁.

*9:詳細は以下を参照. 【ピンドラ 考察】ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑪「タワー」と「呪い」——時籠ゆりについて——【14~15話】 - 野の百合、空の鳥.

*10:「スペシャル対談 幾原邦彦×辻村深月」『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年, 182頁.