非ー詩的なさわがしいざわめきのなかでは、詩編は空中に吊り下げられたひとつの鐘に似ており、軽い雪でも、その上に降れば、振動させるには十分であろうし、気づかれぬほどの接触でも、ハーモニーを奏で、それが調子はずれになるほどにまで揺することができるのだ。おそらく評論とは鐘を振動させるわずかな雪にほかなるまい。
——Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade*1
はじめに——「不在」としての「雪」
藤野と京本が行く道に、風花が散る。
そこに描かれているのが「雪」だ、ということを、おそらく最初は誰も疑わない。2人は「雪」のなかを歩いているのだし、暖かく着込んだその姿は、私たちに寒さという感覚さえ伝えてくる。
だがよく見てほしい。そこに映っているその「白」は、単なる「空白」ではないか。コマ枠を突き破ってくるその「白さ」は、むしろ「余白」がコマ枠の中まで浸透してきたものではあるまいか。
コマ枠というメディウムの限界を乗り越える「雪」。本稿では、不在と現前にあるその「雪」をきっかけとして、とりわけ「コマ枠」を乗り越える藤本タツキマンガを考察することで、マンガ表現と支持体、それから「批評」をめぐり、ささやかな提言をほどこしたい。
1 支持体と「雪」
1.1 スクリーンの体験
「支持体」という言葉がある。「支持体」とは、「芸術作品がそれとして存在することを『支持support』するもの、すなわちその物質的な基盤となるものを意味する」ものであり*2、絵画で言えば、紙や布(キャンバス)、ガラスなどがそれに当たる。たとえば、これを読んでいるあなたにとっては、目の前にあるスマホやタブレットの「スクリーン」が「支持体」だと言えるだろう。
とすれば、いまこれを読んでいるあなたにとって、先ほどの「雪」は「スクリーン」の明かりに過ぎなかった、とも言える。あるいは、スマホなどの「スクリーン」が、純粋な「白」を意識させることが少ないことに考え見れば——往々にして、それはまばゆいほどの「ブルー」ライトであったり、保護のため茶色がかっていたりする——、そこに映された「雪」は、純粋無垢な、スマホやタブレットが本領を発揮した、スクリーン本来の「白さ」だと言えるかもしれない。
いやいや、私はナイトモードにしているからさっきの「雪」は「白」じゃなかったよ、という方もおられるだろう。そういう方にとってはむしろ、「雪」は少し濁った、砂まじりの雪の色に似ているかもしれない。だとすれば、藤野と京本のこの回想シーンはセピア色で染まって、回想(look back)がより回想(look back)らしく映ることだろう。
1.2 紙の体験
ところが、この同じ「雪」のシーンを紙の本で読むと、電子媒体とは体験がまるで異なってくる。
というのは、まずもって、紙は物質であるからだ。ざらざらとした手触りをもった紙は、触れられるものとして、たしかにそこに「在る」。もちろんスクリーンだって物質だけれど、ツルツルした無機質なそれとは違って、紙はたしかな厚みをもっている。まるで紙をめくるときの微風が雪の冷たさを運んでくるみたいだ、などと言いたくなってしまうほどには、紙には厚みがある。
それにやはり、紙という物質だからこそ、それはスクリーンのように単独で光ったりはしない。周りの明かりに依存するのだ。昼間、明るい時間に見れば、「雪」は真っ白に輝くし、夜、読書灯に照らせば、それは暖かい色を帯びる。
とりわけ決定的に違うのは、紙は経年劣化する、ということだろう。紙という「支持体」は、時間のなかに生きている。10年後、あるいは20年後に読み返したとき、「雪」はどう降り注ぐだろうか。それこそ、色褪せた「雪」のそのさまが、過ぎ去った時間を、過去にあった『ルックバック』のあれこれを、振り返らせる(look back)のではないだろうか。
こうして、紙には「時間」という現実が浸透してくる。何も描かれず、紙本来の色が保たれた「雪」はしたがって、現実がそこに介入してくる場〈トポス〉なのだ。現実と虚構とが、ちょうどその「空白」を蝶番にするようにして、つまり、一方では「紙」として、また一方では「雪」として、コインの裏表のように、そこに現前しているのである。
2 現実と虚構の交わり
ところで、こうして現実と虚構が浸透し合うその表現は、藤本タツキの十八番ではなかったか。件の「雪」のシーンも、それがただ「空白」であるからというより、その「空白」がコマ枠を突き破っている点が特異なのであって、現実の「空白」がコマ枠というマンガ表現をいわば「侵犯」している点に、現実と虚構の戯れがある、と見ることができる。
2.1 コマ枠の「侵犯」――現実から虚構への介入
こうしたコマ枠の「侵犯」を通じた現実と虚構の交わりは、たとえば『チェンソーマン』に典型的に見られる。以下の図像を見てほしい。
ここでは、チェンソーマンの刃が、コマ枠を突き破って、それを「侵犯」している。コマ枠という、フィクション特有の記号を打ち破り、現実の方へ突き抜けてくるチェンソーマンのその在りようはだから、食べた対象を現実から消し去るという、チェンソーマンのもつ現実への介入の権能を、すでにしてそこに示しているようにも思われる。
あるいは下の図像を見てほしい。
闇の悪魔が現れるこの一連のシーンでは、手/指が、「外部」から侵入してくる。コマ枠とひと続きになっている手/指はだから、見ようによっては「コマ枠」というフィクションの道具の一部ではあるものの、他方で、それは余白の方から、現実の方からフィクションに介入してくる、得体のしれない「外部」とも受け取れる*3。
その手/指は、疑似的なコマ枠の四角形の「内」にあるものであり、その意味ではたしかにフィクションの「内部」にあるのだが、しかしそこに描かれた皺や影は、たしかにコマ枠の延長線上の「外」にあり、それが「外部」から来ていることを、現実と地続きの「余白」の延長にあることを物語っている。そういう意味では、手/指は、口から胃や腸を通って肛門へと連なる人間の消化器系が人間の「内」なのか「外」なのかわからないのとちょうど同じようである。
2.2 「イメージ」の作用——虚構から現実への介入
それにそもそも、『チェンソーマン』のストーリー自体、現実と虚構の入り交じりがひとつのポイントになっていた。悪魔の強さがその名前のもつ「イメージ」に依存するという設定自体、名前の「イメージ」というある種の虚構が、悪魔の強さというその世界の現実に介入してくる仕組みを構築している*4。
あるいはデンジが最後に「チェンソーマンになりたい」と決意するのも、テレビに映ったチェンソーマンの「イメージ」に影響されてのことだった*5。チェンソーマンがテレビで放映されるシーンは3度あるが*6、デンジ=チェンソーマンはある種の虚構として放映されるそのイメージに、多かれ少なかれ現実を左右されている*7。
さらに『ファイアパンチ』は、フィクションが現実と相互作用することを、作品全体としてテーマとしていた*8。「演技」や「神話」という、ある種のフィクションはそこで、現実の人間に、大きく作用する(もちろんフィクションは作用するのみで、何かしら行動を起こすのは人間の方である、ということには注意せねばなるまい)。
3 インタラクティヴ・アート≠インスタレーション
以上のような現実と虚構の交わりは、しかし作品を超えても起こっている。『ルックバック』の後のTwitterでの盛り上がりが記憶に新しいように、読者が現実の次元から「元ネタ」を解説することにより、あるいは、作品を「考察」することにより、フィクションの方へ介入してゆくのだ。
読者の方が、むしろ作品を「補完」するという所作は、とくに新しいものではないし、むしろ古今東西存在するものであるが、しかし作品が見つけてくれと言わんばかりに「元ネタ」という名の「イースターエッグ」を孕み、読者がそれを我さきにと「発見」する、藤本タツキ作品をめぐる一連のムーブメントは、いわば巨大なインタラクティヴ・アート(作品と鑑賞者の相互作用に力点を置いたアート)のような様相を呈している。
「空白」で描かれた「雪」も、上述のように、現実の介入を――時間的・空間的に――許すのだが、しかしそれは読者を巻き込む一大ムーブメントとは違ったかたちで、現実をそこに呼び込む。その意味で「雪」は、インタラクティヴ・アートというよりは、場所や空間を重視するインスタレーションとでも言うべきものなのだが、しかしより重要なのは、その呼び込んだ現実を語るのはまた、現実の読者である、ということである。「不在」/「現前」として、現実と虚構の入り混じるトポスとして、「雪」をいかに評価するかは、読者にかかっているのである。
紙か電子か、セピアか白か、十人十色のその「余白」を、それぞれの仕方で、時を経て語ってゆくことではじめて、その「空白」が、単独では何にも染まらない「白」が、それぞれの仕方で色づいてゆくのではないだろうか。
おわりに——雪、鐘をヒビカセ
フランスの思想家モーリス・ブランショは「批評はどうなっているか?」という文章のなかで、「批評」について(引用部分では「批評(critique)」は「評論(commentaire)」と言い換えられている)、こんなことを言っている。
非ー詩的なさわがしいざわめきのなかでは、詩編は空中に吊り下げられたひとつの鐘に似ており、軽い雪でも、その上に降れば、振動させるには十分であろうし、気づかれぬほどの接触でも、ハーモニーを奏で、それが調子はずれになるほどにまで揺することができるのだ。おそらく評論とは鐘を振動させるわずかな雪にほかなるまい。
——Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade*9
ブランショによれば、批評とは、たとえ軽くても、あるいは少し当たっただけでも、それが降りる鐘を響かせ、そして消えてゆくような、そんな「雪」なのだという。
もとをたどれば、この一節はハイデガーの表現を借りたものだが、ブランショはハイデガーを超えた意味を、その表現に含ませている。すなわち、ハイデガーと異なり、ブランショが重視するのは、「雪」が鐘を響かせる瞬間というよりはむしろ、そのあとではかなく散ってゆくような、その消失の在りようである。つまりその「雪」としての批評は、作品を価値判断し終えてしまえるようなものではけっしてなく、むしろ、作品の深みを汲み取れずに、作品の前に消えてゆくような、そんな存在なのである。
ただしそれは、批評は何の意味もないというような虚無主義を謂わんとしているのではない。むしろ、ある「批評」が「雪」のように、一瞬、作品と共鳴し、その音色を響かせるその瞬間が大切だと言っているのだ。批評が束の間響かせたその音は、それが消えた後になって、数年、あるいは数十年後に、心のなかでもう一度響き、批評の奥にある作品の深みを、捉えきれない「不在」として、そこに「現前」させることになるだろう。
『ルックバック』にも、きっとこれから、数多くの雪片が降り注ぐ。その度に、それはさまざまな音色を響かせ、はかなく消えてゆくだろう——もちろん、拙稿もまた。それらが消えたあとになって、もう一度あの「雪」のシーンを見返したとき、それがまだまばゆい電子の明かりなのか、はたまた色褪せたセピアなのか、今はまだ、誰も知らない。
【参考文献】
藤本タツキ『ファイアパンチ』集英社, 2016-2018年.
――, 『チェンソーマン』集英社, 2019-2021年.
――, 『ルックバック』集英社, 2021年.
Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade, Paris, Les Éditions de Minuit, 1963(『ロートレアモンとサド』小浜俊郎訳、国文社、1973年).
「支持体 | 現代美術用語辞典ver.2.0」星野太著(2021年11月3日最終閲覧)
(参考, と言えるほどに自分が理解しているとは言い難いが, 講演『文学としての人文知』第7回「支持体について」における中田健太郎先生, 森田直子先生の両名の発表に大いに刺激を受けたことを, ここに付言し, 感謝申し上げたい. また, 同講演が書籍になった際には改めてそれをここで指示する.)
【図版出典】
図1:藤本タツキ『ルックバック』集英社, 2021年, 82-83頁.
図2:フリー画像.
図3:筆者撮影(藤本タツキ『ルックバック』集英社, 2021年, 82-83頁).
図4:藤本タツキ『チェンソーマン』第1巻, 集英社, 2019年, 46頁.
図5-1 ; 5-2:藤本タツキ『チェンソーマン』第8巻, 集英社, 2020年, 64頁 ; 39頁.
※本稿は2021年11月3日に当サイトで公開し、諸般の事情に鑑みて、非公開としていたものを、(細かい語彙の選択を修正のうえ)再公開したものです。
【関連記事】
*1:Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade, Paris, Les Éditions de Minuit, 1963, p. 10(モーリス・ブランショ『ロートレアモンとサド』小浜俊郎訳、国文社、1973年、10頁). 以下, 仏語からの訳文は, 既訳を参照し, 筆者が行うものとする.
*2:「支持体 | 現代美術用語辞典ver.2.0」星野太著(2023年2月3日最終閲覧)
*3:こうした「外部」から侵入する手の表現としては, ほかにもアキが狐の悪魔を呼び寄せるシーンなどに見られる(藤本タツキ『チェンソーマン』第2巻, 集英社, 2019年, 58頁参照). そこで描かれる手はアキのものであって「外部」のものではないが, 本文のシーンと共通するのは悪魔が介入するシーンであるということであり, そうした異界との交流の機会に, コマ枠が打ち破られるのだと整理することはできる.
*4:藤本タツキ『チェンソーマン』第1巻, 集英社, 2019年, 156-157頁
*5:藤本タツキ『チェンソーマン』第11巻, 集英社, 2021年, 92-93話
*6:『チェンソーマン』第7巻第53話, 第11巻89話, 第11巻92-93話の3回
*7:第11巻89話では実際に人々がチェンソーマンに恐怖を覚えなくなったことで, その大衆のイメージが現実のチェンソーマンを弱体化させている.
*8:詳細は拙稿(ファイアパンチ考察 ――嘘と演技となりたい自分―― - 野の百合、空の鳥 ;【チェンソーマン 考察】食べるという盲目 ――『チェンソーマン』における「イメージ」と「まなざし」―― - 野の百合、空の鳥)を参照されたい.
*9:Maurice Blanchot, Lautréamont et Sade, Paris, Les Éditions de Minuit, 1963, p. 10(モーリス・ブランショ『ロートレアモンとサド』小浜俊郎訳、国文社、1973年、10頁). 以下, 仏語からの訳文は, 既訳を参照し, 筆者が行うものとする.