はじめに
どうして『結』を読むのだろう。
『俺ガイル』は一度完結した物語だ。一度結ばれた物語をもう一度ほどいて結び直す、それにいったい何の意味があるのだろうか。
結衣が好きだから、「結衣エンド」が見たいから、「本編」に納得していないから……。それこそ、人の数だけ理由はあるのだろうし、当然「読まない」という「選択」をするのも自由だ。
とりわけ主人公が「一回性」を重んじる作品であれば、そういう選択がとられるのはなおさらだろう。しかし完璧な「反復」など存在しない(完璧な絶望が存在しないように)。つまり『結』のなかで生きる八幡の人生は「一回きり」だとすれば、やはりそれは「一回きり」の人生だといえよう。
では仮に「読んだ」として、われわれは『結』に何が期待できるのだろうか。今回は、『俺ガイル』本編がどのようなことを問うていたのかを確認しながら、『結』が問いかけうる射程について考えてみたい。
(以下、ネタバレをふくむので注意)
1.0 『俺ガイル』本編は何を問うていたか
1.1「自分だけの『言葉』を探す物語」
さて、『俺ガイル』とはどんな物語だったか。
とりわけ『結』で分岐する、10巻以降の「Finalシーズン」は、作者の言葉を借りれば「自分だけの『言葉』を探す物語」だった。
つまり、「本物」という言葉に顕著なように、なにか表現しづらい気持ち、表現しきれない想いを、なんとかして「言葉」にしよう、「自分だけの『言葉』を探」そうとしたのが「Finalシーズン」だったといえよう。
1.2 「言葉」に対する選択
そんななかで結衣は、「言葉」に関して、八幡とはとりわけ異なる姿勢を見せていた。
「言ったからわかるっていうのは傲慢」、「言葉そのものを信じていない」という八幡に対し*1、結衣は「言わなきゃわかんない」と、「言葉」を実際に口にして行動に起こすことを、ことさらに強調してきたのだった*2。「一言言えばいいだけなのに」/「一言程度で伝わるかよ」という、最終巻における結衣と八幡の応酬は、まさにそれを象徴していた*3。
ただしもちろん、結衣が言葉のある種の「無力さ」に気づいていないわけではない。その証拠に結衣は、「好きだなんて、たった一言じゃ言えない」と、言葉にしきれない感情に思い及んでいる*4。
というより、そうして八幡の主張する言葉の「無力さ」に結衣が「屈した」ルートが本編であった、と解することができるのではないか。だから選ばれたのは、八幡が「言葉でわかるわけない」ような「感情」を抱く雪乃だった。そう考えれば、物語を「分岐」させたのは、「誰々ルート」という言葉で表現されるような「誰々」という人物ではなく、「言葉」に対する選択だった、とさえ言えるかもしれない。
1.3. 「言葉」と「行動」
とすれば、『結』という物語で期待されるのは、八幡の「言葉」に対する姿勢が本編とは変わる、ということだ。
具体的にいえば、本編で(疑似的に)退けられた「言わなきゃわかんない」、「一言言えばいいだけなのに」という結衣の姿勢、言葉を口にして「行動」に移すという姿勢が積極的に選びとられるのが『結』ルートだと考えられる。
そうなると、『結』ではなにか、結衣の「言わなきゃわかんない」、「一言言えばいいだけなのに」という姿勢、言葉を口にして行動に移すという姿勢が「選び取られる」描写が読みとれるはずである。
では具体的に、それはどこに見られるだろうか。
2.0 『結』について
2.1 「言葉」と「行動」
それは早くも冒頭に見て取れる。
「……メリークリスマス」という「言葉」(まさに「言葉」である!)を口にする雪乃に対抗して、結衣は「あれ以上の言葉なんてすぐには思いつかないから」、「腕を挙げて、ひらりと大きく手を振った」*5。
そう、「あれ以上の言葉なんてすぐには思いつかない」のである。つまりここで暗に否定されているのは、「言葉」というものだけを突き詰め、「行動」することには重きをおかなかった『俺ガイル』本編そのものである。
だからその「言葉」に対抗するように、結衣は「大きく手を振っ」て、「行動」で対抗するのだ。そうして分岐が起こるのであり、だからその瞬間、その場は「もう引き返せない横断歩道」と化す*6。
2.2 just words
あるいはまた、だからこそ八幡は「言葉」を実際に口にすることを迫られる。
「じゃあ、どっちが好きなの?」と聞く折本は、八幡に選択を、「行動」を迫っている*7。
そのあとで展開される、「もちろん、ただ単に言うべき言葉が考え付かないから黙っているだけなのだが、それを『寡黙な俺カコイイ、ピーチクパーチク囀る奴らカコワルイ』みたいな謎理論を心中で展開していたことだろう」という反省も*8、まるで寡黙な、沈黙のような「言葉」にこだわっていた『俺ガイル』本編に対する自己批判のようにも読める。
だとすれば、「形だけ、言葉だけこねくり回して」「頑張って納得した」のは、はたして誰だったのか……*9。
2.3. 卑怯な「言葉」
さらに「言葉」に対する反省はつづく。
結衣からの「二年参り」の誘いに中途半端な言葉で返事をしてしまった八幡は、「卑怯といえば、さっき俺が由比ヶ浜に言った言葉も卑怯だ。ずるい言い方をしてしまった」と反省する*10。
そうして八幡は、「俺は……、とりあえず行くわ」「……とりあえず、一緒に行くってことで」と、「行く」という意志を実際に言葉で表明する*11。
またしても八幡は、「言葉」を口にだし、「行動」を起こすのである。
2.4. 「分岐」
こうした八幡の「行動」は、すこしずつ、「分岐」に作用する。
「二年参り」のあと、雪乃のマンションまでいっしょに帰った三人だったが、八幡が立ち去ろうとすると、結衣ひとりだけがマンションから出てくる。
そこでの結衣は、11巻で同じく雪乃のマンションからの帰り際に「送る」という八幡の申し出を「ずるい気がするから」と断った結衣とはもはや違ってきているように思われる*12。
一歩踏み込んで、「行動」に移した八幡に、結衣もまた「行動」で答えているのかもしれない。
2.5. 「選択」
かくして、『結』では「言葉」というよりは、それを実際に口にすること、「行動」を起こすことが迫られる。
ラストの「ケーキ」の選択も、もちろん「行動」を迫っている。「ショートか、チョコか」、その選択は、単なる「お菓子」の選択だけではありえない。
だから本編ではただ「止まることなく動き続ける」だけだったエレベーターも*13、『結』では「どちらかしか押すことのできない」という選択を、「行動」を迫ってくる。
はたしてそれだけが、単なる二者択一だけが「選択」なのか。「言葉」にとどまらない「行動」の意味、それを知るのはまだ先になりそうだ。
おわりに
さて、今回は『結』1から、本編で問われていたことを概観し、『結』で期待されることを考えた。
まとめると、本編(Finalシーズン)が「自分だけの『言葉』を探す物語」だったとすれば、『結』はそれとは異なる「言葉」に対する姿勢、すなわち結衣が強調していたような「言葉」を口にすること、「行動」に移すということに重きが置かれることが予想されるのだった。
そして実際、『結』1ではすでにその兆しが見られる。物語にちりばめられた「言葉」への反省と「行動」の実行がその証左である。
そうだとして、たとえば(野暮なことかもしれないが)『結』が最終的にどのような結末をたどるか予想してみる。するとやはり、それは結衣にとっては必ずしも「幸せ」とならないような結末も想像しうるのではないか。つまり、『結』が必ずしもいわゆる「結衣ルート」にはならないのではないか、と考えられる。
というより、それは願望なのかもしれない。ただそうはいっても、結衣の願いがあいかわらず「全部欲しい」ならば(もちろんこの仮定がすでに「分岐」する可能性があるのだが)、それは矛盾を内包した願いにちがいないからだ。
もっとわかりやすく言おう。「全部欲しい」に、本当に結衣が望む願いがすべて詰まっているのならば、そこには結衣が八幡だけと結ばれる願いも、結衣が八幡と雪乃の三人で結ばれる願いも、いっしょに入っているのではないか。だがいうまでもなく、それは実現不可能な願いである。
とすれば、結衣はどうして幸せになれようか。結衣が八幡と結ばれてハッピーエンド、なんて甘っちょろい結論にはならないだろうし、『俺ガイル』読者諸氏も、そんな簡単な「結」(末)は望んでいないのではないだろうか。
では、「欲しいものは何かな」?もちろん読者おのおの、いろいろ──それこそ人の数だけ『俺ガイル』が──あるだろうが、私はやっぱり、既存の枠組みには当てはまらないような「エンディング」を期待したい。
「だからせめて、この模造品に、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に」──*14。
参考文献
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①-⑭』(小学館, 2011-2019).
──, 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。結1』(小学館, 2021).
(なお, 本文の『俺ガイル』からの引用はすべて巻数と頁数のみを記す.)
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