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【『恋くれ』1巻 感想・考察】「言葉」の「鍵」をひらかれて——光莉と悠の関係性読解を中心に【これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。】

はじめに

完璧な三角形などといったものは存在しない。

まっすぐ書いたつもりの線はどこかいびつで、等間隔にならべたはずの頂点はどこかズレてしまう。完璧な三角形があるとすればそれは、けっしてたどり着けない理想のなかだけだ。あるいは理想のなかでさえ、寸分たがわず描かれたはずの三角形を相手に、果たして完璧か? と思い悩みさえする……。

およそ「恋」と呼ばれるすべてが、そういう三角形にも似ている。思い描いていた生は営めず、調和のとれた関係性は実らない。理想のなかにあった「恋」という概念さえ、原形をとどめないくらいに、年を重ねるごとに塗り替えられてしまう。そういうふうにできている。

それでも——。

と、愚か者は言う。それでも、手に入らないと分かっていても、失くすことが分かっていても、見てしまった気がしたから。どうしようもなく欲してしまったから。

だから恥じらいもなく、惜しげもなく、本書はこう "叫んで" いるのだ。

「これが『恋』だと言うのなら、誰か『好き』の定義を教えてくれ」、と。


これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。 1 (オーバーラップ文庫)

 

 

 

本編読解

まずは素朴に読解してみよう。

キータームは、「寒い/あったかい」、「言葉」、「鍵」だ。

 

1 寒い/あったかい

「寒い」というのがある種の比喩であるということに気づかなかった読者はいないだろうと前置きして、なお解きほぐすことがあれば、それは「寒い」から「あったかい」までを丁寧に辿る、その筆致の在りようだろう。

きっかけはこうだ。

「——あとぶっちゃけ、うちって寒いんですよね。だから、あんまり帰りたくないんです」[…]

「……分かる。俺の家もくそ寒いし、マジで寒いの無理だよな」*1

「寒い」を共有し合った光莉と悠は、その一言で「理解した気になった。その一言だけで、全部分かるんじゃないかって思ってしまった」*2

もっと簡単に言えばいいのに、と、もしかした思った読者もあるかもしれない。「寂しい」とか、「隣にいて欲しい」とか、もっと直截的な言葉で、伝えればいいのに、と。

だがそれではダメなのだ。このとき、彼ら彼女らの心根は、どうしたって「寒い」ということでしか表せなかった。「寒い」と言うだけで伝わるか伝わらないか、絶妙な綱渡りをすることでしか、——それを分かってくれる人にしか伝えたくないのだという心根まで含めて——そこに想いを仮託することは叶わないのだ。

だから光莉と悠が共有したのは、あくまでも「寒い」ということだと、それでも言おう。

それは「恋」と「好き」とか、そういう「普通」とは違うのだから。

 

2 言葉

「寒い」という言葉ひとつとってもそうなのだから、光莉と悠が「言葉」に並々ならないこだわりをもっていることは言うまでもないだろう。

先の(その一言で)「理解した気になった」という引用は、厳密には悠の独白だが、光莉もまた同様のことを——しかし光莉なりの仕方で——こう言葉にしている。

それは、形になんてできないけど、言葉になんかならないけど、確かなものなんてないけれど、それでもあの日、確かに私たち二人が共有したはずの感覚で。きっと、それがあったから、私たちは多分お互いに関わり続けていて。*3

だからやっぱり言葉ではないのだ。あの日二人が、「寒い」という言葉を媒介にして伝え合ったのは、「寒い」の含むリテラルな意味合いではけっしてなくて、言葉にならない「感覚」なのだ。

だから光莉は、そもそも言葉を全面的には信頼してはいない*4。「だって言葉にするということは、型に入れて、形にするということ」*5だから。

この信念は他方で、悠の抱えたそれと同様のものだ。

そもそも、言葉というもの自体が感情を適切に表しているとは言い難いものだ。

であれば、言葉にして証明しようとするのが根本の間違いではないか。*6

こうした「言葉」への懐疑と、それが示すものごとを確定してしまうことへの恐れは、作中では——これが「鍵」に対応する伏線のようにもなっているわけだが——「箱」のたとえでもって表現されている。

結局、俺は怖いのだ。この箱を開けて、中身を確認してしまうことが。

だって、ふたを開けて観測してしまったら、それで中身は確定してしまう。

そうだとしたら、それがどんなものであれ、俺は向き合わざるを得なくなるだろう。

たとえその中に押し込んでいたものが、ひどく自身を傷つけると分かっていても。

たとえその中に隠したものが、ひどく残酷で儚い結末をもたらすと知っていても。*7

ひとたび「言葉」で括ってしまえば、その事実が確定してしまう。いや、たとえそれが事実でなかったとしても、事実であったことになってしまう。これは先に引用した、「だって言葉にするということは、型に入れて、形にするということ」といった光莉の考えそのままだ。

たとえば、「好き」と言ってしまったら。「好き」と言わずに保っていた関係性のバランスは一気に崩壊し、「好き」ということになってしまう。「好き」という言葉がまるで抜け穴のように機能して、世間一般の言う「好き」の意味が、もとあった関係性に雪崩れ込んできてしまう。「好き」ならこうするでしょ、「好きなら」ああしなきゃ、「好きなら」——

「言葉」はだから、共通了解を助ける代わりに、個々別々にあったはずの、特別な意味や在りようを殺してしまう。

言葉にするのは殺害行為なのだ。

 

2.5 interlude ——あるいは悠の過去について——

だから悠は「鍵」を掛ける。「箱」=「言葉」に、その先にあるはずの行動に、そしてそれに伴う想いに。

ただし、悠の場合は複雑で、そうして閉じこもるのは過去のトラウマのせいでもある。折々に挟まれる「春佳」との思い出は、「アセクシャル」と、後からその名で括られていることを知るセクシャリティに、否応なしに左右されたものだろう。

間違ってはいけないのは、「アセクシャル」というセクシャリティが、恋愛(「ロマンティック」)をしないことを意味するわけではないということだ。本書の初めに明記されているように、「アセクシャル」のなかにも、恋愛感情を抱くものとそうでないもの、すなわち「ロマンティック・アセクシャル」と「アロマンティック・アセクシャル」と区分けできるセクシャリティがある。

だからこそ悠は戸惑ったのだろう。悠は春佳と「恋仲」になった。しかし触れること、キスをすること、「普通」に恋人がするとされるようなことに、悠は惹かれない。じゃあ「好き」とは? 「恋」とは? 「普通」とは?——

だから悠は、今度こそ間違えないように、確定してしまわないように、氷の上を歩くみたいに、慎重に光莉との関係性を推し量る——

そしてだからこそむしろ、光莉に対するふるまいを決定的に「間違え」てしまう。

 

3 鍵

かろうじて光莉を「見つけた」悠に求められているのは、「間違え」ないように避けていた「言葉」にすることそのものだった。

問われたのは、理由だった。問われたのは、動機だった。問われたのは、感情だった。*8

だから悠はむしろ、あからさまに、すべてを言葉にしてみせる。うちに居てほしいとか、傍に居てほしいとか、いっしょに居ると楽しいとか面白いとか……

あいにく、「言葉」を懐疑する光莉にそれは通じない。求められているのはだから、言葉だけではなくて、そこに込められた想いと、それに伴う行動だった。——つまりそれは、「箱」を開けるということだった。

だから手渡すのは「鍵」だ。「寒い」ということが共有できて、だからこそ熱を感じられるあの小さな部屋=箱を開けるための、たった一つの「鍵」を。想い返す必要もないかもしれないけれど、悠はたしかにこう言っていた。

「……いや、変わんねえだろ、そんなに」

「え?」

「だから、あったかいって言うけど、別に、この家とそれほど変わんねえよってこと」*9

「鍵」を開けたその先に「あったかい」があるのだから。だから言うまでもなく、「鍵」は物理的に「特別」なばかりではない。

それはぬくもりある部屋への、言葉への、行動への、想いへの「鍵」なのだ。

けれど「鍵」は「鍵」でしかない。それは来るべき扉を開くための端緒、はじまりにすぎない。

「普通」を超えて。

「普通」という「言葉」を超えて。

「恋」や「好き」という「言葉」を超えて——。

その先を見るための「鍵」がいま、私たちにも手渡された。*10

 

 

 

感想・考察

「読解」と便宜的に仕分けしつつ、感想も考察も、そこに一定以上含まれているのだから、改めてこう銘打つこともないのだけれど、それでもこれは感想・考察のたぐいだと断りをいれて、少し補足的なことを書いてみる。

 

究極の「片想い」

初読の感想としてあったのは、みんな一方通行の「片想い」なのだな、というものだった。

光莉や悠だけではない。ほかの登場人物たち、テニサー代表の和田も、悠の友達の杉山も、悠のバイトの同僚である市原も、みんながみんな「片想い」をしていると受け取った。

和田は言うまでもなく光莉に、市原は「同僚の大谷とかいう鈍感バカ」*11 に「片想い」しているし、杉山は、悠の「ツレ」として、しかし並々ならぬ想いでもって、光莉のことを「牽制」*12 している。

いやいや光莉と悠は「両想い」ではないのか? そうだとしたら「みんな」が「片想い」というのは違うのではないか? と思う人も少なくないかもしれない。

けれど、どうだろうか。光莉と悠が、本当に世に言うような「両想い」ならば、光莉と悠はこんなにもこじれていないのではないか。光莉も悠も、それぞれの価値観があって、それぞれの見地からかろうじて、「鍵」を共有し合うにとどまっている。

それがけっしてゴールではないことは、本編読解の最後に示唆した通りだが、そういう意味で本作は、一見するとどこまでも成就し得ないように思われる「片想い」を、しかしどこまでも求め続ける物語なのではないかと、率直な感想として思った。

 

「普通」——アセクシャルについて

特筆すべき事項として、アセクシャルに触れないわけにはいかない。

本書を通してこのようなセクシャリティを初めて知ったという方もいらっしゃるだろうから(実際感想でそのようなつぶやきをしている人を複数見た)、改めて確認しておけば、それは他人に性的に惹かれないような性的指向のことだ。

誤解なきように申し添えれば、それは性的「嗜好」ではないし、「性自認」とも違う。つまり、アセクシャルであることは好んで選択できるような「嗜好」ではないのだし、自らそう自己認識して決まるようなものでもないということだ。

こう言うと、リアルでもインターネットでも、何か寛容な身ぶりを示されることがあるけれど、そのような人にこそ、どうか一歩踏み込んで考えてほしい。つまり、「最近そういうの "流行り" だよね」とか、「私は "そういうの" に偏見ないから心配しないで!」と無邪気に言ってしまうことの危険性にどうか気づいてほしい。

なぜなら、そのような態度は、寛容な身ぶりを示しておいて、自らを守ること(怒られないこと?)を優先し、そこにある差別や当事者の苦悩を遠ざけてしまうふるまいだからだ。

本当に「寛容」になりたいのなら、どうか知ってほしい。知識がないと、「最近そういうの "流行り" だよね」とか、「私は ”そういうの" に偏見ないから心配しないで!」という言葉が、むしろどれほど当事者を傷つけているのかということに気が付けもしないのだから。もちろん言うまでもなく、「知る」べきなのは私とて例外ではない。

とはいえ、何はともあれまずは「アセクシャル」が本書に描かれたこと自体価値あることだと最低限言えるだろう。本書「あとがき」にあるように、まずは「そういう人が居るということを知ってもらいたい」*13、もっと言うと、初めからすでに居て、生きているのだということを知ってもらいたいと私も思うから。

だから本書がまずもって、「普通」という語をキータームにして切ってかかったことには勇気づけられた。本書も参照している森山至貴『LGBTを読み解く——クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書、2017年)にもこうある。

したがって、セクシャルマイノリティとは「普通」の性を生きろという圧力によって傷つく人々、と言い換えることができます。「普通」であることを押し付けられ望まぬ生き方を強いられたり、あるいは「普通」でないことをもってからかいや排除の対象となる人々と言ってもよいでしょう。このような「普通」という暴力を、差別と言い換えることもできます。*14

「普通」と言ってしまうことがどういうことか。——たとえば悠の「ツレ」の杉山の言葉(『恋くれ』1、125頁)を思い出しつつ——本書の読者なら、よくよく分かってもらえると思う。

本書を通じて、「知りたい」、「知らなきゃ」と思った方には、ぜひたくさんのことを知ってほしいけれど(それこそ前述の森山至貴『LGBTを読み解く——クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書、2017年)は初めて読む本としてとても良いのでぜひ手に取ってほしい)、アセクシュアリティに対する偏見を避けるため、これだけは引用しておきたい。

アセクシュアリティはコンプレックスでも病気でもありません。トラウマによるものでもありません。行動を指すものでもありませんし、決心して行うものでもありません。純潔の誓いでも、「結婚までとっておく」こともありません。宗教的なものでもありません。純潔や道徳的に崇高であることを表明しているのでもありません。[…]とりすましているわけでもないし、ぴったりのパートナーが見つからないので自分をアセクシャルだと読んでいるわけでもないのです。親密になることを恐れているのではありません。そして、誰にも「治して」ほしいとは思っていません。*15

そして最後に、「誰一人として同じ性の在り方の人間はいない」こと、『恋くれ』の「アセクシャルに関する描写はあくあでも寺田悠個人の感覚であり、アセクシャルを自認する方全てに共通する者とは限らない」*16という作者の言葉を、改めて繰り返しておきたい。

 

『俺ガイル』との比較

他作品を持ち出すことは、場合によっては不遜ともなりうるけれど、こと『恋くれ』にかぎっては、作者の口からその名が明言されている。

――本作の着想についてもお聞かせください。

まず一つ目は『俺ガイル』の完結です。比企谷が「本物」にたどり着いた時、感動したと同時に置いて行かれたような感覚を覚えたんですよね。比企谷が「本物」に対する答えに辿り着いたのならば、私も自分なりの「本物」を見つけ出さなければいけないと思ったんです。

(「独占インタビュー「ラノベの素」 北条連理先生『これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。』」より)*17

「本物」概念の希求はさておき、まずもって本作のいたるところから『俺ガイル』に対するレファレンスを感じられたことは、『俺ガイル』の一読者としては楽しい側面があった。

たとえば、「いや過言かもしれない。多分過言」*18とか、「私が一台だけ買ってあげちゃうまである」*19とか、「——ああ、これは間違っている」*20といった言い回しは『俺ガイル』を想起させるのに十分だし、「マッ缶」や「テニス」対決といった道具立て、「葛西臨海公園」や「夢の国」といったロケーションは、あまりにも『俺ガイル』すぎてさすがに笑ってしまった。

ただし、このようなセッティングが、単なるオマージュであるだけでないのは明白だ。私の見立てでは、『恋くれ』1巻は、疑似的に『俺ガイル』1~14巻のすべてを早足で終わらせる戦略のもと書かれていたように思われる。

「寒い」ということだけで「理解した気になった」その出会いの端緒は『俺ガイル』①における「俺と彼女はどこか似ている」*21に対応しているし、光莉のなかの悠のことを「知りたい」*22という希求は、「知る」フェーズであった『俺ガイル』2ndシーズン(4-6巻)を踏襲したものだし、「そりゃ良かったな」*23と既存の関係性を存続させる悠の道化は、うわべの関係を存続させた八幡の嘘告白とそれに次ぐ展開に似ているし、読解で確認したような「言葉」への懐疑と、されに呼応するかのような「寒さ」と「鍵」のやり取り、そしてそれを分有する所作は、『俺ガイル』finalシーズンが11-14巻をかけて成し遂げたことだった。*24

もちろんすべてが綺麗に対応しているわけではぜんぜんないし、『俺ガイル』の諸要素はそれぞれ『恋くれ』なりに変奏されており、そもそも『恋くれ』は『俺ガイル』がfinalシーズンでやっと至った「一言言えばいいだけなのに」/「一言程度で伝わるかよ」*25に象徴されるような言語的なジレンマをいわば初めからインストールしている。

そのような言語観を反映したのが、たとえば光莉の「だって言葉にするということは、型に入れて、形にするということで」*26という価値観だったり、「そもそも、言葉というもの自体が感情を適切に表しているとは言い難いものだ」*27という悠の価値観だったりする。

「初めからインストールされている」というのは、『俺ガイル』が遅れているだとか劣っているだとかいうことを意味するのではまったくなくて、『俺ガイル』はその過程を、高校という箱庭的世界のなかで醸成する仕方を丁寧に描いた作品なので、それはそれで完成されている。

そしてだからこそ、『恋くれ』が明らかに早稲田大学を舞台とした大学2年生からスタートしていることにも説得力がある。要するに、高校で八幡や雪乃のような価値観を醸成した人間がそのまま大学に行ったら……という if ストーリーが、『恋くれ』なのだ。

もちろん『恋くれ』には『恋くれ』なりのオリジナリティが十二分にある——たとえば先に言及したアセクシャリティについて——と強調したうえで、だからそれでも期待したいのは、この先のことである。

なぜなら作者の見立て通り、『恋くれ』1が『俺ガイル』1-14巻を終わらせた作品だとするならば、その先をこそ、「本物」の先をこそ、期待しているからだ。

だからやはりそういう意味でも、私たちはまだ、「鍵」を手渡されたにすぎない。

2010年代にちょうど橋を架けるようにして、ライトノベル作品として「殿堂入り」果たした先行作品をいかに超えるのか、これから『恋くれ』が辿る軌跡=奇跡が愉しみでたまらない。

 

 

 

おわりに

完璧な「三角形」などといったものは存在しない。

「三角形」と言って、私たちが共通に思い浮かべるそれは、実のところ、大きさも色もバラバラなはずである。あるいは理想的な「三角形」に大きさや色なんて存在しないのかもしれない。あくまでそれは概念、「言葉」なのだから。

およそ「恋」と呼ばれるすべてが、そういう「三角形」にも似ている。ひとりひとり、思い浮かべるかたちは違って、理想的な「恋」であっても別様に彩られる。あるいはこの熱情、この想いを「恋」という一言に押し込めてしまうことほど、「恋」の実相からかけ離れたことはない。

そもそも、「恋」なんて言葉に収まるような関係性を、私たちは求めているのだろうか。「好き」と言えたとして、それでいったい何が伝わるというのか。

そう思い悩んだとき、やっと物語は始まる。物語は、「恋」というたった一言を、「好き」に収まり切らない想いを、言葉を費やして、引き裂いて、どうにかうまく伝えようとする。たとえそれが、「完結」に至らなかったとしても。

だから物語はつづく。否、ずっとつづいているのだ。

人生に終わりはあっても、物語に終わりはない。

そう言えるために、だから問いつづけよう。

「これが『恋』だと言うのなら、誰か『好き』の定義を教えてくれ」、と。

 

参考文献

北条連理『これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。』第1巻、オーバーラップ文庫、2024年。

森山至貴『LGBTを読み解く——クィア・スタディーズ入門』ちくま新書、2017年。

ジュリー・ソンドラ・デッカー『見えない性的指向アセクシュアルのすべて 誰にも性的魅力を感じない私たちについて』上田勢子訳、明石書店、2019年。

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』第1-14巻、ガガガ文庫、2011-2019年。

独占インタビュー「ラノベの素」 北条連理先生『これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。』 - ラノベニュースオンライン

 

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『俺ガイル』に関する考察・エッセイ集を出しました。

 

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*1:北条連理『これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ』第1巻、オーバーラップ文庫、2024年、52頁。[…]は引用者による中略を示す。なお以下では同書を『恋くれ』と略記する。

*2:同書、71頁

*3:同書、181頁。

*4:もちろん他方で、「私はただ一言を、悠さんに言って欲しかっただけなのに」(同書、180頁)と、光莉は悠に引き留めて欲しかったことを独白してはいる。とはいえそれは、中見のない、空っぽの「行くな」を求めていたわけではなくて、気持ちを伴った、「行くな」と口に出す行動をこそ求めているのだ。となればやはり、信頼しているのは言葉というよりは気持ち、そしてそれを確かめることのできる振る舞い・行動だだろう。

*5:同書、188頁。

*6:同書、213頁。

*7:同書、245頁。

*8:同書、333頁。

*9:同書、281頁。

*10:なお、筆者は「鍵」を、唯一無二の関係性の比喩と考えている。以下を参照。「欠けたものを埋め合う関係性は、言い換えるとその二人でしか綺麗に噛み合わない形をしているという事なんです。唯一無二の関係性って素敵じゃないですか。作中では「鍵」をそんな関係性の比喩として使っています。」(独占インタビュー「ラノベの素」 北条連理先生『これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。』 - ラノベニュースオンライン

*11:同書、221頁。

*12:同書、123頁

*13:同書、349頁

*14:森山至貴『LGBTを読み解く——クィア・スタディーズ入門』ちくま新書、2017年、17頁。

*15:ジュリー・ソンドラ・デッカー『見えない性的指向アセクシュアルのすべて 誰にも性的魅力を感じない私たちについて』上田勢子訳、明石書店、2019年、18頁。

*16:『恋くれ』1、348頁。

*17:独占インタビュー「ラノベの素」 北条連理先生『これが「恋」だと言うのなら、誰か「好き」の定義を教えてくれ。』 - ラノベニュースオンライン

*18:『恋くれ』1、76頁。

*19:『恋くれ』1、100頁。

*20:『恋くれ』1、170頁。

*21:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①』ガガガ文庫、70頁。『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の書名は以下『俺ガイル』と略記し、巻数を丸数字で表し、頁数を付記することとする。

*22:『恋くれ』1、105頁。

*23:同書、178頁。

*24:実際に、『俺ガイル』においても「寒さ」と「鍵」、それから「熱」は登場する。これらの表象とその意味については、『レプリカ』vol.2所収の拙稿「「鍵」と「熱」と「言葉」と——『俺ガイル』14巻の表象分析を端緒に」を参照されたい。https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2274973

*25:『俺ガイル』⑭、339頁。

*26:『恋くれ』1、188頁

*27:同書、213頁。