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2023年おもしろかったYouTube——2023年をふりかえって③

「2023年おもしろかったアニメ」編 ↓

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「2023年おもしろかったマンガ」編 ↓

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YouTube

筆者のYouTube総視聴時間

YouTubeの総視聴時間が10000時間を突破した。

Premium会員になった2020年9月からの累計なので、3年4か月=1200日で10000時間、つまり、1日平均でだいたい8.3時間くらい見ていたことになる(かなり雑な計算だが)。

もちろん、ずっとじっと見ていたわけではなく、だいたいはながら見である。筆者は無音で発狂するタイプなので、作業中はだいたいYouTubeをたれ流しにしている。翻って、この3年間、どれほど安定して作業できていたかが察せられ、ありがたく思う。

以下、そんな筆者による2023年印象に残った(おもしろかった)YouTube動画を紹介したい。

 

 

 

光の曠達(TERECO)

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研究者として活動しつつ批評活動も行われている米原将磨さんと、「闇の自己啓発」の発起人であり、数々の同人誌にご寄稿なさっている江永泉さんによる「コンテンツ雑談」(タイトルは「ひかりのこうたつ」と読む)。

毎月、異なるコンテンツについて——本の場合が多いが、たとえば音楽批評やマンガ批評についてなど、比較的巨視的な視点から語られる回もある——「雑談」するのだけれど、世に言う「雑談」のイメージとはおそらくかけ離れていて、とてつもない速度で、しかし非常に濃密な考察が施される。

さまざまなことに習熟しているお二人だからこそできる会話だと思うし、聞いていて飽きない。今年だけでも本当に多くのことを教わった。お二人のように、「誰々の何々という考えはこういう感じで……」と即興で、それなのにあまりに鮮やかにパラフレーズできるくらい、自分も修行を積みたいものである……。

とくに印象に残ったのは——本当にはすべての回印象に残っているのだけれど——、『激しい生』/『言語の本質』回と、『アンチ・モラリア』回。『激しい生』/『言語の本質』回は、たぶん、お二人の色が感じられる回で、『アンチ・モラリア』は、読書の何たるかを教えてくれる大切な回。

便宜的に番組名の「光の曠達」を挙げたけれど、チャンネル「TERECO」のほかのコンテンツも愉しく拝見/拝聴した。米原さんの一人語り「あやなし」もリアルタイムで原稿相談が繰り広げられる「だから今日は川のほとりで」も貴重な動画だ。

仕事や研究をしつつ、これだけのチャンネル運営をされるのは本当にたいへんなことだと推察されるが、これからも本当に心待ちにしている。(さまざまな読者を想定して)かなりチャレンジングな内容かもしれないけれど、思考の限界までアタックしてみたいという方におすすめ。

 

私立パラの丸高校

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YouTubeには、手書きアニメで独自の生態系を築いているチャンネルが数多くあり、これもそのひとつ。

このチャンネルの「ギャル」の扱いには正直辟易するが、それも含めて、2020年代前半のメルクマールになりうるコンテンツだと思ったので全部見ている。

Apexなどの流行りのFPSや『ワンピース』や『BLEACH』といった人気の作品、「地雷系」や「蛙化」といったアクチュアルなワードなどを取り入れており、実際にはどの層にアプローチしているのかよく分からない、闇鍋コンテンツになっている。

グッズ展開もしており、最近ではマンガも始まった。

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また、さりげなく興味深いアニメーションを配する点も見逃せない。やけにレイアウトがキマっている回などもあった。

2024年も引き続き見てみたい。

 

崩壊スターレイル

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『崩壊:スターレイル』は、『原神』などを手掛ける中国のゲーム会社miHoYoのターン制RPGゲーム(たとえば『ペルソナ5』などに影響を受けている)。

なのだが、筆者はゲームをプレイするとともに、『崩スタ』が繰り出すアニメーションにたいへん惹かれた。キャラクターPVなどを見ると、3DCGとLive2Dのようなアニメーションの切り替えを完全にモノにしていることがうかがえるだろう。

『崩スタ』のキャラクターPVはだいたいすべて良く、各PVのなかには、必ずゲーム内での必殺技のモーションを組み込まねばならないという制約があるが、未プレイの人にとっては、おそらくどこがその部分か分からないほどに滑らかに編集されているだろう。

また『崩スタ』は本編の3DCGアニメーションもそうとう優れていて、『原神』などで磨いてきたHoYoverseのアニメーション技術が遺憾なく発揮されている。おそらく、3DCGアニメーションのひとつの到達点と言っても過言ではない。

ゲームもふつうのおもしろいので(筆者はプレイ時間300時間を超え、プレイヤーランクは上限になるまでやってしまった)、ぜひご自身の眼でアニメーションの到達点を見てほしい。

※ちなみに、いまは本当に始めどきで、ぶっ壊れキャラ(ルアン・メェイ)が限定ガチャに来ており、次のバージョンでは最高ランク星5のキャラクター(Dr. レイシオ)がなぜか(ほんとうにどうして?)無料配布される。

 

 

 

各種料理動画

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料理動画も、作業のお供にちょうどよく、めちゃくちゃ見ているのだが、たとえば(おもにビジュアル面で)『極主夫道』のオマージュをしている「武島たけしの極み飯」はお気に入りだ。

というのは、編集が良いからである。opとかめっちゃ良い。あとふつうに料理も良いし、声も良い。やっぱ全部良いかもしれない。全部見ている。

編集やカメラアングル、撮影という点では「Geroge ジョージ」も良い。TikTokなどで、プロはこうやる、的な動画がバズっているので、見たことある人も多いのではないだろうか。

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このチャンネルも全部見ているが、星付きレストランの料理長だった氏が運営しているので、料理もプロ中のプロである。得体の知れない、おそらくめちゃくちゃプロのシェフたちが一堂に会する「3人」シリーズがお気に入り。

ほかには、イタリアンを教えてくれ、イタリア旅行記などを載せている「小倉知巳のイタリアンプロ養成講座」やクラシルチャンネルのLA BONNE TABLE の中村シェフ回、大量の中華料理を作るシーンを垂れ流しにしているチャンネル「中華一筋」などを好んで見ている。

私自身は、料理はとりたててうまいわけではないし、めちゃくちゃ凝った自炊をするわけではぜんぜんないが、料理動画は好き。

 

各種VTuber

【歌枠】もしもし?いまから車とか…出せる?実はね、【周央サンゴ】

VTuberは見すぎており、と言っても、まだまだ見切れないくらいVTuberというものが在って、わけがわからないのだが、つまるところ、選ぶことなんでできない。

それでも無理を承知で選ぶのなら、【歌枠】もしもし?いまから車とか…出せる?実はね、【周央サンゴ】 - YouTube にたびたび立ち返ることは特筆に値するだろう。動画内容は、べつにVTuberだからできることではぜんぜんないとは思うが、それでも、VTuberに追求してほしい可能性の萌芽が、この動画のそこかしこにはある。

結局、にじとかホロとかぶいすぽとか、大手を見てしまう自分の怠惰に鑑みて、思うのは、オタク感情というのは、やはり網羅性の欲望にこそあるのではないかということだ。その点、箱単位でなくても、個々のチャンネル単位で、網羅を追求すればよいVTuberは、やっぱりオタクコンテンツである。

いくつかのメンシに入っていることをここに告白しつつ、とりわけ下半期は栞葉るりを応援していたことを記しておく。

 

 

 

才華としての活動

寄稿

最後にパパっと自分の活動も、備忘録がてらふりかえっておきたい。

まず、2023年はありがたいことに、いくつかの雑誌に寄稿させていただいた。

 

青春ヘラver.8

kansyomazo.booth.pm

『青春ヘラver.8』には、三秋縋についての文章「だから〈僕〉は三秋縋を読むのを辞めた」を寄稿した。

三秋縋についてはずっと精算がしたかったので、前々から主催のペシミ氏に、いつか書いてくださいと、ありがたいことにお願いしてもらっていて、それが結実したかたちになった。

読んだ方にあっては(というより自分自身も)言いたいことはいろいろあると思うのだが、私がどういう感じに生きてきたのか、あるいはフィクションとの距離感について、なんとなく分かってもらえるような文章が書けたと思う。

詳細は ↓

 

ボーカロイド文化の現在地

booth.pm

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「式裏。」(現:式裏躁吾)について上のような文章を書いたところ、それを眼に留めてくださったhighlandさんから、寄稿の依頼をいただいた。ほんとうにありがたく思う。

私は、ボカロMVに関するキャラクター論「MVキャラはどこから来たのか、何者か、どこへ行くのか——2020年代前半までのボカロMVについて——」を寄稿した。

内容としては、最近のボカロMVによく見られるキャラクターを「MVキャラ」と称し、このキャラクターの来歴を整理しつつ、MVキャラについて大塚英志や伊藤剛、岩下朋世、さやわか、村上裕一らのキャラクター論を参照しながら論じたものになっている。

詳細は以下 ↓

私はとりたててボカロ文化に詳しいわけではないから、たたき台になればいいなと思って、整理の意味も込めて(同時に後半は、キャラクター論を発展させたいという思いもありつつ)書いたが、わりと好評だったようなので嬉しいかぎりである。

MVについては、難しいが考えてみたいことがまだまだあるので(とりわけキネポについて)、勉強しつつ、いろいろ考察してみたい。

 

アニメ鑑賞会

2023年はまた、ありがたいことに、いくつかのアニメ鑑賞会に参加させていただけた年だった。

実際に、現場でご活躍されている方々のお話を聞くことができ、アニメーション制作が、実際の生身の人間たちが、ほんとうにたくさんのことを考えてつくっているのだということを——もちろんそれは当たり前のことなのだけれど——、自分の身体感覚で味わえたことが、ほんとうに大切な経験になった。

そのような場があったからこそ、アニメーションの物質性と、そこに携わる人の身体性とともに考えることが叶うようになったと思う。もちろん作品を見るときには、一方では、そのような観点は相対化されるが、他方では、いつまでもこのリスペクトの感覚を忘れることはけっしてないだろう。

加えて、その場にいるアニメーションに強い想いをかける人々と話すことができて、本当に貴重な時間だった。アニメーションに関して、あれだけ愉しく語れたことは、いまだかつてなかったかもしれない。

この場を借りて、改めてお礼申し上げたい。

 

コトヒキ会

同人の大玉さんと蟻沢さんと「言葉に引き裂かれて」という読書会を毎月行っていて、ほんとうにありがたい場となっている。

「言葉」に関して、近い関心をもっていて、「言葉」について切実に話すことのできる、ほんとうに貴重な会だと思う。

ひとつだけ、読書会で扱った本で、あえて一冊あげるなら宇佐見りん『くるまの娘』だろうか。ふだん、現代小説はあまり読まないので、そういう意味でも稀有な体験だったし、なにより、内容的に、感ずるところが大いにあった。

くるまの娘

宇佐見りんは、『推し燃ゆ』を、なぜか読まずにバカにしている人がたくさんいるように思われるが、そういう有象無象より、ちゃんと読んで、感動できるほうが、圧倒的に良いなと思った。

それはそれとして、コトヒキ会は2024年5月の東京文フリで、現在に応答する同人誌『応答』を出す予定なので、興味のある方はチェックしてみてほしい。

 

俺ガイル研究会

今年も俺ガイル考察本『レプリカ』を出すことができた。

多くの方に支えられ、これもまた、ほんとうにありがたい経験だったと思う。いっしょにつくってくださった皆さまには感謝しかない。

正直な話、おそらく、多くの俺ガイルファンが、評論というよりも考察を、もっと言うと内容的な素朴な読解(たとえば「本物」とは何か、みたいな問いの答え)を求めているのは分かっているのだが、内容的な疑問に関する答えは同会に携わった人々がすでにネット上で十分発表しているし*1、内容的な読解から飛び立って、『俺ガイル』の内部から外部へ行き来するような「考察」を、ある意味で「誤配」したいという想いから、『レプリカ』は、「『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』考察集」と銘打たれている。

だからご購入いただいた方の幾人かは、なんか思ってたんと違うな、と不満を覚えると思うのだが、それでも、そこに記された言葉が——たとえそれがたった一人だったとしても——響いてくれたなら嬉しく思う。

 

ツイート

今年はなんとなく、自分のツイートも羅列してみたい。

いまとなっては、なんだかなあ、と思うツイートもあるし、なんかぜんぜん意図したことが伝わらなかったなと思うツイートもあるし、他方で思った以上に汲み取っていただけたなと思うツイートもあるが、2023年の「私」の在りようとして、記録しておきたい。

2024年も良いツイートができたらうれしい。

 

 

 

おわりに

最高の映像体験(鑑賞体験)があるとすれば、それはどのようなものだろうか。

感動すること、価値観を変えられること、夢中になれること——。

たとえばよく、時間を忘れられるような体験が称揚される。そういう作品が、感動をもたらし、価値観を変え、夢中にさせてくれるのだと。

 

*

 

もちろんそう主張することもできるし、モノによる、と穏当に答えることも当然かなう。が、あえて言ってみたい、否であると。

むしろこう言えるのではないか。忘れられない〈時間〉を与えてくれるような体験が最高であると。

私たちはふだん、生活の時間や労働の時間に支配されている。今日はどの服を着て、いつご飯を食べて、どこの掃除をして、だとか、明日の仕事のためにはこれをしなくてはいけなくて、未来のキャリアのためにはこれをしなければならない、と考える。

 

*

 

「時間を忘れる」と言って、人が本当に意味しているのは、そういう奴隷のような時間から解放されるということではないか。そうだとしてしかし、それならその時間は、自らを縛る枷から解放された、という自由を享受するのみで、奴隷のような時間を忘れさせてくれた当の対象のことは、何も考えていない。つまるところ、目の前のイメージそのものは見ていない。

だからむしろ、「時間を忘れる」をさせてくれる、目の前のイメージにきちんと向き合う必要があるのではないか。そのイメージは、「時間を忘れ」させて、と言って、私たちの時間をまったく奪い去っているわけではあるまい。代わりにそこに〈時間〉を与えてくれているはずである。イメージは、〈時間〉を与える、のである。

この与えられた〈時間〉を生きられたときにはじめて、人は本当に外部の制約を逃れることができるのではないか。言い換えれば、そのときはじめて、時間の箍(タガ)が外れるのではないか。

 

*

 

生活の時間や労働の時間が、かりに、奴隷のような時間であるとすれば、そうではない、もうひとつ別の時間を生きることが、ほんとうに〈生きる〉ということのはずだ。

とすれば、先に言ったような〈時間〉を生きるとき、はじめてほんとうに人は〈生きる〉ことができるのではないか。

これが最高の体験だ。すなわち、最高の映像体験があるとすればそれは、当のイメージが〈時間〉を与え、ほんとうの意味で〈生きる〉ことのできる体験ということになるだろう。

 

*

 

もう一歩踏み込んで言えばさらに、このとき、与えられた〈時間〉がそれぞれまったく異質なものだとすれば、私たちは複数性の〈時間〉を、複数の〈生〉を生きることになる。この複数の〈生〉を生きられたときはじめて、〈生きる〉ということが心臓が鼓動することでも、地続きの人生を歩むということでも、まったくないということに気づくだろう。

〈生きる〉とは、複数性の〈時間〉を、同時に、ひとつの身に宿すということなのだ。

あるいは「ひとつの身」というのも錯覚かもしれない。あくまで〈時間〉の仮の宿が「ひとつの身」ならば、世界に無数にある「ひとつの身」を渡りあるく〈時間〉のほうがむしろ、「ひとつの〈時間〉」として、ひとつの束に数えられるかもしれない。

そうなったとき、むしろ人間はある〈時間〉を映すデバイス、スクリーンと化すだろう。

 

*

 

イメージと〈ともに〉生きること、その果てに私たちは、スクリーンに成る。この体験を最高と言わずして、何になるというのだろうか。

だからいまこそ失われた〈時間〉を求めて。

 

さようなら2023年。

 

こんにちは2024年。

 

 

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