野の百合、空の鳥

アニメ・漫画・文学を「読む」

終わりなき俺ガイル ――来るべき読解のために――

0.0. はじめに

 本稿では、主に筆者による俺ガイル最終回考察に註釈を加えながら、これからの俺ガイル読解の指針を示してゆく。そのためまず筆者による俺ガイル最終回を(少なくとも「Ⅰ. 『俺ガイル完』は完結した。」と「∞. おわりに ――これはおわりではない――」の章を)読んでから本稿を読んでいただくことをおすすめする。

 このような経緯に至った理由は多くあるが、もっとも大きな動機は、当ブログを熱心に読んでくださっている読者の方々に対して私ができる範囲で誠実に応えたいという思いにある。まずこのことは記しておきたい。

 そのため、基本的には想定する読者層があり、それに沿った書き方・内容にするつもりである。すなわち以下では、文章として読み応えのあるように書くというよりは、読者に伝わるような仕方で書いてゆく。ただし、それは同時に筆者がやり残したことに今できる範囲でアプローチするということであり、さらに言えば、それをより多くの読者の方々に開くということでもある。それは要するに、筆者が俺ガイル最終回考察で志していた、「『俺ガイル』は完結したと同時に未完である」、ひいては「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の「まちがい」を「まちがい=さまよい(erreur)」と解くという主張の延長線上にある。

 では具体的にはどのようなアプローチをするのか。その際、鍵となるのがモーリス・ブランショの著作、及び筆者によるブランショ読解である。というのも、筆者の俺ガイル最終回考察はその多くをブランショ(及びその読解)に負っており、『俺ガイル』を閉じずに開かせるのもまたブランショ(及びその読解)だと考えるからである。

 以上のことを踏まえ、まず第一章では筆者によるブランショ読解の要点を述べる。当然、豊潤なブランショの文学理論を余すことなくここで説明するというのは到底無理な話なので、必要なエッセンスのみを抽出することになる。ただしブランショ読解の概略を示すことで、その後に続く最終回考察の解題の通りはよくなると考えられる。すなわち、続く第二章では、筆者による俺ガイル最終回考察について、そのねらいと背景を段階に分けて説明することになる。この第二章が本稿の肝となる。最後に、第三章では最終回考察当初の展望に基づいて、これからの俺ガイル読解の指針を示す。その際、おそらく読者の一部の方が期待を寄せてくださっているであろうブランショ読解の手引きも簡単にだが施したい。

 想定される読者層などを考え、いつもとは異なるスタイルをとっているが、読み甲斐のある文章を残したいと思うので、最後までお付き合いいただければ幸いである。

 

 

1.0. ブランショの文学理論

 「誰かが、絶望に決定されて〔déterminé〕、書き始める」*1。例えば、「カフカと作品の要請」と題された論攷はそのような一文から始まる。この「書き出し」を書き出しとしたのは、すでにその言の内にブランショの文学理論の核心が内包されているからである。まず、書く主体は「誰か」であって作家ではない。そして「書く」ということは、作家が主体的に行動した結果としてあるのではなく、「絶望に決定されて」いる。以下で説明するのはまさにそのことである。つまり、「書く」ということの極致で、作家は「彼」と出会い、そこで「本質的孤独」を味わうということである。そしてその「本質的孤独」こそが、終わりなき「まちがい=さまよい(erreur)」である。さらに先走って言ってしまえば、その「まちがい=さまよい(erreur)」こそが、筆者の俺ガイル読解とブランショの文学理論を橋渡しするテーマである。ともかく、今はまずブランショの文学理論を順に追ってゆくことにしよう。

 一般に、作品というのは作家によって書かれるものだと考えている。しかしブランショの文学観はこれと決定的に異なっている。すなわち、ブランショは作家が主体的に作品を完成させるという見解は徹底的に避ける。まずこの点をよく抑えなえればならない。このことは、あるいは一般的な感覚からかけ離れているかもしれない。どう考えても書き始めるのは作家であり、書物は誰かが書かなければ形にならない。たしかにそれは(部分的には)そうである。書き始めるのは作家であるかもしれないが、しかしブランショに従えば、作家は夢中になって書いていると、「作品」の方が何か「要請」してくるようになり、やがて「作家」は滅ぼされ、物の世界でも人間の世界でもない<外>へと放り出されてしまう。その空間こそが「文学空間」と言われるものなのだが、いささか先走りすぎた。また立ち戻って説明してみよう。

 そこでもっと基本的なところから、すなわち、言語で何かを表現するということを考えてみよう。そこで例によって(筆者の考察を読んでいる方にはおなじみのはずである)「犬」を表現するということを考えてみよう。私たちは普通、「犬」と言えばあの「犬」のことをイメージし、日常会話としてはそれで事足りる。このとき、その「犬」という言葉自体に、その対象と自己同一的な意味が内在しているかどうかは関係なく、「犬」という語が日常的に交換されることで「犬」が対象を指し示すのだということが共通理解される。ところが、「犬」をもっと上手く表現したいと思って、より本質的な言語、すなわち文学言語を用いようとすると、話は変わってくる。私たちはそこで対象そのもののありありとした感じ、「犬」のあの生き生きとした感じを表現しようと試みる。しかし、どんなに表現したって、言葉で表現された「犬」は目の前の実在している生き生きとした犬からはかけ離れている。このことは「私は絶望している」と書いたときに、そこに書かれた「絶望している」という言葉が、あまりにも「私」の本当の絶望からかけ離れているということと同様である。文学言語はそのように、一方では、対象の生き生きとした感じをどうしても殺してしまい、対象のありようをその意味で否定してしまう。しかしながら他方では、文学言語はそのようにして、対象の生気が否定されたありようを新たに存在させるとも言える。つまり、文学言語はそこで対象を「不在」(対象が「そこにいない」ということ)として表現するのである。こうして対象を「不在」として表現していけばいくほど、言語は日常言語からは遠ざかるが、逆説的なことに、文学言語は対象の生を、むしろよりありありと表現することになる。

 以上のようにすれば、文学言語は対象の生を救出するような、いわば究極的な表現に近づく。しかしながら当然、それには代償が伴う。つまり、前述したように、文学言語を極めれば極めるほど、日常的な言語使用からは遠ざかることになるのである。そしてそのように、日常的な言葉が通じる次元から遠ざかってゆくと、今度は日常言語に支えられていたものが必然的に崩壊してゆくことになる。その際たるものは「私」だ。「私」というのはふだん、日常的な言語の中に書き込まれている。何か社会的な機関に所属する「私」は公的な文章に書き込まれて伝達されており、あるいは誰かが語る「私」は、日常的な会話の中に出現し、いつも誰かの「私」像が交わされている(例えば自分の名前がどこに刻まれているか思い浮かべてみればわかりやすい。学校の名簿とか役所の謄本とか、会社の記録とか、誰かが語った「私」とか)。ところが文学言語を用いて一生懸命対象の生を救出するために書く「私」は、どんどん日常の言語使用からは遠ざかっていき、その結果として、「私」を支えていた日常言語の世界から離れていくこととなる。すると「私」を支えていたはずの基盤は失われ、それがいかに日常的な交換の中にしかなかったかに気づく。ここにおいて「私」は崩壊し、「私」は<外>へと放り出される。

 立ち戻れば、これは文学言語を用いているときに起こるということだったが、このことは難しいようで実は理解しやすい。というのは、作家が作品を制作しているうちにどんどんそれにのめり込んで、我を忘れて集中し、忘我の極致で恍惚する、ということはよく聞く話だからだ。ブランショが言っていることはそれの究極形態だと理解すれば、ひとまずはわかりやすいかもしれない。ただし、ブランショの言っていることはもう少し奥が深い。ブランショによれば、その忘我の極致で作家は、非人称の「彼」に出会うのだと言う。「彼」というのは決して作家の主体ではなく、むしろ主体性を失った先に出会う「自分ではない自分」、すなわち「他者」である。その忘我の極致では、もはや作品は作家によって書かれるのではなく、「彼」によって書かれる(このことは例えば、作家がよく言う、「書いている最中に登場人物が勝手に語りだした」ということをイメージすればわかりやすい。もちろんそれとは根本的には異なるが)。そこにおいては、やはり文学言語が用いられているのだから、物は言葉と化し、というより物は言葉でしかなく、しかもそれは「不在」としてしか表現されない。すなわち、そこに言語で表現されたものでは「ない」ということでしか対象が現出されない。その段階にくると、もはやそこに物は存在せず、「私」という人称性をもった人間も消え失せる。そこにはただ「不在」だけが、つまり暗闇としてそこにあることが表現されるような、単なる「夜」とも言い切れない「もうひとつの夜」だけが残る。この「すべてが消え去った」空間こそが「文学空間」とブランショが呼ぶものである。

 作家はそのような「文学空間」に誘われるからこそ、その意味で「本質的孤独」を味わう。この「本質的孤独」は、作家が本質的な意味で「作品」を完成させることができないことに遠因がある。先に見たように、文学言語を用いたとき、その言語では事物は「不在」としてしか表象されないわけだが、したがってその集積である「作品」というのは「不在」の集積であり、その意味において作家は作品を完成させるというよりも、むしろ「未完成」へと向かってしまっている。すなわちこの意味で作家は作品を完成させるという積極的な「営み(œuvre)」というよりもむしろ「無為(désœuvrement)」へと参入しているのである。まず第一に、この意味において、すなわち作家はいつまでたっても「作品」を完成させることはできないという点において、文学には終わりがない。いやもちろん、ある程度まとまった量を作家は「書物」として、つまり「作品」に捧げられる「おとり(leurre)」として、それを「完成」させることはできる。つまりブランショに従えば、一般に「完成」されると考えられているものは「書物」であって「作品」ではないと言うのである。確認しておけば「作品」は不在の集積であるという点において「完成」、つまり「終わり」というものを定められないのであり、したがってある程度まとまった量を「書物」と呼ぶことはできても、本当の意味での完結、つまり「作品」は完成しないのである。

 さらに、先に確認したように、作家は文学的言語で書き、それを極めて行くと「彼」という非人称の誰か、「他者」としての自分に出会う。第二に、この意味においても文学の営みには終わりがないと言える。なぜなら、作家個人でない「彼」は永遠に連綿と続いていくからである。一般に考えて、個々人である作家には生物学的な寿命があり、死ぬことを免れない。しかしながら、書くことの極点において出会う「彼」は、もはや特定の作家個人ではない非人称の「彼」なのだから、その「彼」には各時代において極点に達したあらゆる作家が出会うことになる。この意味で「彼」は永遠の命を宿している。文学というものは、本質的には、その「彼」と交流(communication)する場であるとブランショは言うのだが、だからこそ、つまりその「彼」への出会いがずっと続いてゆくからこそ、文学には終わりがないと言える。

 以上のことから、作家はいつまでたっても「作品」を完成させることができず、そこから締め出され、また、作家が「彼」に成り代わって「彼」との出会いの中で「作家」という存在が宙に放り出される。すなわち、そのとき作家は、作品の「完成」と「未完成」の「あいだ(entre-deux)」に、「私」と「彼」の「あいだ(entre-deux)」に投げ出される。そしてまさにその意味で、つまり何もかもが消え失せたその「あいだ(entre-deux)」に投げ出されるという意味で作家は「本質的孤独」を味わう。そしてこの「本質的孤独」こそが「erreur(まちがい=さまよい)」である。すなわち作家は「作品(œuvre)」と「無為(désœuvrement)」の「あいだ(entre-deux)」を、「私」と「彼」の「あいだ(entre-deux)」をずっと「さまよう(erreur)」のであり、そのように「さまよう」限りにおいてその存在はエラーという意味で「まちがい(erreur)」としての在りようを示すのである。この「本質的孤独」が、つまり「erreur(まちがい=さまよい)」が終わりなく続いてゆくことこそが、ブランショによる文学の最たる特徴である。

 

2.0. 俺ガイル最終回考察解題

 以上のようなブランショ読解をふまえ、以下では筆者による俺ガイル最終回考察について解説する。最終回考察のねらいは、一言で言えば『俺ガイル』は「完結したと同時に未完である」と主張することにあった。まずそれは表層的なレベルで言えば、『俺ガイル』を単なるライトノベルとして読んだのではおもしろくなく、あるいはまた『俺ガイル』をライトノベル界を揺るがした(あるいはお好みならば「ライトノベルを脱構築」したと言ってもよい)と見るのでもまだ不十分だということである。『俺ガイル』にはそれ以上の読解の余地があり、『俺ガイル』には文学の重要なエッセンスが詰まっていて*2、その中にはあるいは特異なエッセンスも含まれているのではないか、というのが筆者の基本的なスタンスである。

 もちろんそのようなスタンスは、なにも私利私欲から来ているわけではなく、それは筆者の『俺ガイル』読解と表裏一体となっている。それでは筆者は『俺ガイル』をどのように読解したのか。筆者は『俺ガイル』は「完結したと同時に未完である」と主張しようとした。しかしでは「完結したと同時に未完である」というのはどういうことだろうか。

 先に結論から言えば、以上のようなことを目標にして筆者が最終回考察で試みたことには二つの段階がある。まず一段階目は、『俺ガイル』は「完結したと同時に未完である」ということを「さまよいーまちがい(erreur)」であると解き、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の「まちがい」とはまさにこの「さまよいーまちがい(erreur)」のことだと主張する段階である。そして二段回目は、そのことを『俺ガイル』の内側から(つまり第一巻の「青春とは嘘であり、悪である」以下の文章をエピグラフに見立てて)部分的・簡易的に示すという段階である(この作業が最終回考察の「∞」の章の役割である)。以下、この二段階を解説する。

 

2.1. 「まちがい」を「さまよいーまちがい(erreur)」と解くということ

 「まちがい」を「さまよいーまちがい(erreur)」と解くというのはどういうことか。それは言い方を変えれば、『俺ガイル』は「さまよいーまちがい(erreur)」の物語であると読解することができるということである。以下この筆者の読解について説明する。

 まず、基本的に『俺ガイル』は、その物語全体が文学言語が「不在」を現出させるようなやり方で駆動している。彼ら彼女らはいつもまず「おとり(leurrer)」としてなにがしかの関係性(つまりこれがブランショの言う「書物」に対応する)を構築するのだが、しかしいつもそこには「何かがないということ」=「不在」が現れ、また次のステップへと進む。そのターニングポイントは、例えば3巻の八幡と由比ヶ浜の関係性のリセット(「終わったのなら、また始めればいいじゃない」*3)や、6巻の八幡と雪乃の関係性のリセット(「でも、今はあなたを知っている」*4に見られる。前者は由比ヶ浜が「お菓子の人」であるということが露顕し、当時の由比ヶ浜との関係性が正当では「ない」ということが明らかになって関係が進展し、後者は雪乃が本来の八幡を知ら「なかった」というロジックから関係性が進展しているのである。そしてこの「不在」の現出による進展というのがより顕著になるのが、「本物」希求の道筋を描いた後半部、つまりアニメ『俺ガイル完』に当たる部分である。その中で一番わかりやすいのは「共依存」の例である。「共依存」というのはいわば「本物」のための「おとり(leurrer)」である。「共依存」という言葉で表現されているのはまさに「本物」の「不在」であり、この「不在」としての「本物」を求めて八幡はさまざまな策を弄したのである。すなわち、この「本物」を例にとれば、八幡はつねに「本物」という到達不可能なものへ向けて運動しながらも*5、「おとり(leurrer)」に近づくたびに「本物」の「不在」の場、すなわち<外>へと投げ込まれているのであり、その意味で八幡はつねに「あいだ」を「さまよっている(erreur)」のであり、その意味で八幡は「まちがい(erreur)」をおかし続けているのである。もちろん、読者をはじめとして多くの俺ガイル読解者たちが言ってきたように、「本物」というのは八幡が考え出した限りのことであって、『俺ガイル』全体が「本物」を求める物語だと完全にまとめられるかと言えばそうとは限らない。しかしながら、以上で述べたような「さまよい=まちがい(erreur)」の運動は「本物」以外にも認められる運動であり(実際先に述べたようにそれを「本物」登場以前の③や⑥にも認められるわけだが)、これに関しては稿を改めて詳細に論じなければならない。本稿では最終回考察の解題を目的としているから、それをここで論じることはしないが、そのことは依然として筆者の課題である。

 ともかく、結局は以上のようなことから筆者は『俺ガイル』を「さまよい=まちがい(erreur)」の物語だと読解したのである。したがって筆者は最終回考察で以下のように記したのだった。

ところで私の見立てによれば『俺ガイル』は完結しており、同時に未完でもある。「作品(œuvre)」は「おとり(leurre)」であり、その後に「無為(déœuvré)」が続き、その間に永遠の「さまよいーまちがい(erreur)」がある。

【俺ガイル完 12話】考察・解説「終わったのなら、また始めればいいじゃない」 - 野の百合、空の鳥「Ⅰ. 『俺ガイル完』は完結した。」より)

とするならば、私がここで言えるのは、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は完結しており、同時に、未完でもあるということである。

この「さまよい(erreur)」に真の「まちがい(erreur)」がある。私は、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の言う「まちがい」とは、この「まちがい(erreur)」であると解く。

しかしそれはまた「さまよい(erreur)」であるために、「問い直し」を始める。

【俺ガイル完 12話】考察・解説「終わったのなら、また始めればいいじゃない」 - 野の百合、空の鳥「∞. おわりに ――これはおわりではない――」より)

 今ではこの意味がより明快に伝わるように思う。

 ただし、『俺ガイル』が「さまよい=まちがい(erreur)」の物語であるということの意味は、以上のような意味、すなわち物語全体が「さまよい=まちがい(erreur)」となっているということのほかにもうひとつある。それは言葉の次元に関わることである。八幡をはじめとして登場人物たちの言葉への批判意識がとくにすぐれているということは筆者もさんざん書いてきたことであり(つまり彼ら彼女らはひとりひとりが文学言語を用いているとも考えられるわけだが)、その意味で作中で彼ら彼女らが「彼」となり「彼女」となり「さまよい=まちがい(erreur)」を続けていると言ってもよいのだが、しかしより広いレベルで、すなわち『俺ガイル』という「テクスト」全体を見たときにも同様に「さまよい=まちがい(erreur)」の様子が見えてくる。このことを示す段階が、先に筆者が第二段階と呼んだ段階、すなわち『俺ガイル』の内側から(つまり第一巻の「青春とは嘘であり、悪である」以下の文章をエピグラフに見立てて)部分的・簡易的に示す段階に当たる。

 

2.2. 「青春とは嘘であり、悪である」というオキシモロン

 筆者の見立てによれば、『俺ガイル』においては、『俺ガイル』という「テクスト」全体が「さまよい=まちがい(erreur)」を導く。この場合、「テクスト」というのは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』という「書物」をはじめとして、アニメ版『俺ガイル』、漫画版『俺ガイル』、渡航、読者を経由して、「文学」へ、そして私たちがふだん「現実」と呼んでいるところまで届きうるようなもの、すなわち『俺ガイル』という文脈に乗るものすべてを示す。何を言っているんだと思われるかもしれないが、『俺ガイル』は真剣に読解すればそれくらいのものを巻き込みうるものだと考えられる。なぜなら『俺ガイル』の文脈全体が描いているものは、「言葉」といういわゆる「人間」にとって本質的なものと、それから「死」という非常に大きなテーマに結びつくからである。そしてその間隙を縫ってくれる(しかし逆説的なことに、実際にはその「間隙(entre-deux)」を「開く」のだが)のが「青春とは嘘であり、悪である」以下の文章である。いや、正確に言えば「青春とは嘘であり、悪である」というプリントされた作文、その物質的な頁そのものである。すなわち、その頁こそが「ライトノベル」と本質的「文学」との、文章と我々「人間」との、「書物」と「作品」との、その「あいだ(entre-deux)」を結ぶ「蝶番」なのである。筆者が最終回考察で試みたのは、いわばこの「蝶番」の現出であった。

 では具体的にはどういうことか。一番最初に言っておかなければならないのは、この試み、すなわち最終回考察の「∞. おわりに ――これはおわりではない――」の章には「元ネタ」があるということである。それは郷原佳以氏の名著『文学のミニマル・イメージ』第二部第二章第四節の「文学言語と神の形象――『至高者』」である。ただし急いで付け加えねばならないが、氏の論攷は内容的に筆者の最終回考察とは決定的に異なっており、筆者の考察において「参考論文」として挙げるべきではむしろないと考えたので、これまで触れることはしなかった。ただし今「解題」ということをすることになると、それを語らずに済ませることにはできないのでこうして記している次第である。件の論攷は、元は2000年に「<神>の一人称 : モーリス・ブランショ『至高者』をめぐって」と題されて日本フランス語フランス文学会の学会誌に発表されたものである。後者の元の論文はインターネットで読めるので、ぜひ、というか必ず読んでいただきたい。いまここにリンクを貼っておく(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellf/77/0/77_KJ00002501460/_article/-char/ja/)。

 この名論はブランショの『至高者』という著作について書かれているのだが、そこでは、「至高者」というタイトル、そして「わたしはあなたにとってのわなです」、「あなたにとってわたしから来るものはすべて嘘偽でしかないのです。なぜならわたしは真実そのものなのですから」*6というエピグラフ(文章の巻頭に置かれる引用や短文のこと)、それから主人公アンリ・ソルジュの「わたしは何でもない人間だったのだ」*7というセリフなどによって、小説が構造上「終わりのない」ものになっているということ、そして語り手と語られた言葉である小説の言葉の区別がつかなくなっていることが中心的に論じられている。ここで注目したいのは、エピグラフのわたしは「わな」であり「嘘偽」であるという宣言と、主人公の「わたしは何でもない人間だった」と言っていること、しかしそれにもかかわらず書物は「至高者」と表現しているという、この矛盾である。加えて、その矛盾が物語の内容だけでなく、それを越えてエピグラフとして本の前面に飛び出し、あたかも『至高者』という本そのものがその言葉を語っているようになっているということがポイントである。つまりこの論攷は単なる物語分析ではなく、物語を超えて、現実の私たちに語りかけてくるようなその本自体、そしてそれだからこそ語れる言語の本質的な問題を語っているのである。筆者はまさに、以上のような『至高者』の読解に着想を得た。

 そう、お気づきの通り、筆者はまさに『俺ガイル』もこの『至高者』と似通った構造をしていると考えたのである(ただし繰り返すが、『至高者』の場合はもっと事情は複雑であるので、本質的には違う)。まず『俺ガイル』は『至高者』と同様に、書物の冒頭で「嘘」を宣言している。つまりそれが「青春とは嘘であり、悪である」という文章である(ただしもちろんこの文章自体が「嘘」を孕んでおり、またそのことが効果的に作用している)。そしてさらに、主人公である比企谷八幡は二重、三重の意味で「嘘つき」である。つまり、八幡はもちろん作中においても一般的な意味で「嘘」をつくのだが、さらに八幡の独白である地の文にも「嘘」は紛れ込んでおり、読者は(一部の三人称視点の文章などを除いて)八幡の「嘘」を通してしか物語の世界を知ることができない。さらに「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」というタイトルすら「嘘」の可能性がある。すなわち、彼ら彼女らの青春ラブコメはある意味で「まちがっていない」のかもしれないのに「まちがっている」と「嘘」をつく。さらに『俺ガイル』に特異なのは作家が「嘘」をつくということである。ブランショ的に言えば「作品」にいかなる権威(autorité)ももたないはずの「作者(auteur)= 渡航」がアニメ放映のたびに出張ってきては「解説」を施し、『俺ガイル新』の「なかがき」においても物語を「解題」する。しかしそのたびに「作者(auteur)= 渡航」は混乱させるような、ある意味「嘘」をつく。そのように、『俺ガイル』という「テクスト」は何重にも「嘘」が折り重なってできている。そしてだからこそ、つまりいったいどこに「本物」の「テクスト」の所在があるかわからないという意味で、『俺ガイル』という「テクスト」は始まりと終わりを定められない。この意味でも『俺ガイル』は『至高者』と同様の構造を持っている。また同時に、ここにおいて『俺ガイル』には「終わりがない」ということのもうひとつの意味が明らかになる。すなわち、『俺ガイル』はそのように「テクスト」の始まりと終わりを決められないという意味において、本質的に「終わりがない」物語なのである。

 そして以上のようなことを限定的に、すなわち『俺ガイル』の「青春とは嘘であり、悪である」ということのみに注目して示そうとしたのが「∞. おわりに ――これはおわりではない――」の章であった。ここでその論を繰り返すつもりはないが、一番肝心なことを言うならば、それは最終巻における平塚の「リア充爆発しろー!」*8という発言にある。というのは、これによってはじめて、『俺ガイル』冒頭のレポートは本当に「完成」され、彼ら彼女らの送ったそれが「青春」と同定されるからである。なぜなら冒頭のレポート、「青春とは嘘であり、悪である」から始まるレポートの締めは「リア充爆発しろ。」なのだから。しかしもちろん、彼女の言葉を疑い、否定することもできる。しかしその途端、私たちはまた「嘘」を『俺ガイル』に見出すことになる。では「本物」は。いったいどこにあるのだろうか。私たちはまたそれを探しに、『俺ガイル』という「テキスト」の海に飛び込む。しかし油断することなかれ。「青春とは嘘であり、悪である」のだから。

 

 

 

 

3.0. おわりに ――これはおわりではない――

 さて、解題は済んだのだが、本当に「これでおわりではない」。というのは筆者は以上のことをしようと「試みた」だけであって、本当に論じられたわけではないからだ。『俺ガイル』には「おわりがない」ということを論ずるためにはもっと準備が必要である。しかし今回はいつも読んでくださっている方々のために、これからの俺ガイル読解のために、このような文章を書いてみた次第である。

 そこで、以下ではこれを機にブランショを読んでみたいという方へ向けて(本当に簡単にだが)読書案内を書いてみたい。しかしもちろん、筆者のブランショ理解もまだまだ浅薄なものであって、本当に参考になるとは限らない。それから断っておくが、もちろん最初に紹介したブランショ読解も、本当に必要なエッセンスだけをわかりやすく書いたので、本当のブランショとは程遠いものになってしまっている。それはそもそも筆者の力量が及んでいないということに原因はある。ご容赦頂きたい。それから一応言っておくと、もちろんこの文章を読んで下さっている中にはもちろん筆者よりももっとブランショに詳しい方もいらっしゃるかもしれないが、以下はブランショをあまり読んだことがない、どこから読めばよいのだろうという方へ向けて書くので加えてご容赦を。

 さて、まずまったくブランショを読んだことがなくて、ふだんあまり哲学書にも触れないという方には、先日Twitterでも述べたように、つい最近(2020年7月)ミネルヴァ書房から出版された『現代フランス哲学入門』をおすすめしたい。こちらの本は、現代フランス哲学を哲学者ごとにその道の専門家が紹介してくださっており、たいへん良い本となっている。そしてこの本でブランショの項目を担当なさっているのが先ほど紹介した『至高者』の論文をお書きになった郷原佳以先生である。


現代フランス哲学入門

 次に、本当ならもっとブランショのいわゆる「入門書」を紹介したいのだが、残念なことに入手しやすく、また良いブランショの「入門書」というのはほとんどない。したがって少し敷居は高くなるのだが、筆者は次に西山雄二先生の『異議申し立てとしての文学 モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』(御茶の水書房, 2007年)をおすすめしたい。この本はきちんとした研究書であるので、初学者は読むのに苦労するかもしれないが、とくに「第一部 孤独」にはブランショの文学理論が相当わかりやすく、かつ深くまとめられていて、その意味ではブランショの文学理論をはじめに知るのにとても良い。その後の部分は、完全に研究者向けだが、しかし筆者の筆致は鋭くかつ明快なのである程度本を読みなれている人なら深く感動できるように思う。この本は本当に良い本である。


異議申し立てとしての文学―モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性

 そして研究書続きで絶対に紹介しておきたいのは、郷原佳以先生の『文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論』(左右社, 2011年)であるが、こちらは残念ながら絶版となってしまっている。しかし図書館などで入手可能であり、現在オンラインでの再販を検討しているとのことなので機会を得たらぜひ読んでいただきたい。また前述したように、その本の元となった論文のいくつかはオンラインでも読むことができる。こちらの研究書は研究者にとって必読なのは言うまでもないことだが、しかしそれ以上にこれも本当に良い本である。

 そしてもちろんブランショの著作を直接読んでみたいという方もいらっしゃると思う。そんな方にはまず定番である『文学空間』(粟津則雄・清水徹訳, 筑摩書房, 1989年)(オンデマンド版, 2020年)をおすすめしたいところだが、しかし筆者はそれよりも先に『カフカからカフカへ』(山邑久仁子訳, 書肆心水, 2013年)を優先して読むようにおすすめしたい。というのは、『カフカからカフカへ』は比較的最近出版されていて手に入りやすく、訳語も新しいので読みやすく、それに加えてブランショの文学理論に核心的なエッセンスが多く詰まっているからである。


カフカからカフカへ

 ほかにも紹介したい本はたくさんあるのだが、ひとまず混乱を避けるためにこれだけに絞りたい。これより先は、以上に挙げた本を読める方ならもうご自身の力でその先を見つけることができるだろう。

 改めて言えば、以上のような著作も、あるいは含めて俺ガイルを読解していくことが今後の方針となる。すなわちそれは、俺ガイルに「まちがい」とは「まちがい―さまよい(erreur)」であり、それは本質的な意味で「終わりがない」ことなのだということを丁寧に論ずるということである。来たるべき俺ガイル読解のために、筆者が示せる指針は以上である。

 最後に、ここまで読んでくださった方々に感謝したい。おそらくはTwitterなどで交流してくださっている方がほとんどだとは思うが、ほかならぬ皆さんのおかげで私は本稿を思い切って書くことができた。改めて感謝の意を表したい。この終わりなき俺ガイルに、来るべき読解に、これからもお付き合いいただければ幸いである。

 

【参考文献等】

BLANCHOT, Maurice , L'Espace littéraire, Paris, Gallimard, « folio », 1955.
――, La Part du feu, Paris, Gallimard, 1949.
モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄・清水徹訳, 筑摩書房, 1989年.

――『至高者』篠澤秀夫訳, 現代思潮社, 1973年
――『完本 焔の文学』重信常喜・橋口守人訳, 紀伊国屋書店, 1997年.
――『カフカからカフカへ』山邑久仁子訳, 書肆心水, 2013年.

西山雄二『異議申し立てとしての文学 モーリス・ブランショにおける孤独、友愛、共同性』御茶の水書房, 2007年.

郷原佳以『文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論』左右社, 2011年.

――「ブランショ」『現代フランス哲学入門』川口茂雄・越門勝彦・三宅岳史編, ミネルヴァ書房, 2020年.

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①-⑭』小学館 ガガガ文庫, 2011-2019.

アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2013年), 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(2015年), 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』(2020年).

*1:モーリス・ブランショ『カフカからカフカへ』山邑久仁子訳, 書肆心水, 2013年, 103頁.

*2:念のため注記すると、筆者は『俺ガイル』を広い意味で「文学」と呼ぶことには賛成だが「純文学」と呼んでしまうことには批判的である。なぜなら『俺ガイル』は「ライトノベル」でなければ「ライトノベル」の枠組みの内側から脱構築するための条件を失ってしまうからである。

*3:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。③』ガガガ文庫, 2011年, 239頁. 以下『俺ガイル』からの引用は、巻数を丸数字のみで略記し、頁数のみを記す。

*4:⑥352頁.)

*5:「本物」が原理的に到達不可能であるということについては【俺ガイル完 12話】考察・解説「終わったのなら、また始めればいいじゃない」 - 野の百合、空の鳥「Ⅳ. では「本物」は。」を参照されたい。

*6:モーリス・ブランショ『至高者』篠澤秀夫訳, 現代思潮社, 1973年, エピグラフ.

*7:同上書, 1頁.

*8:⑭507頁.