Ⅰ. はじめに
ずるいのも、言い訳なのも、嘘なのも、本当はわかってるけど。
けど、もう少しだけ、この時間を続けさせてください。
ちゃんと終わらせるから。
もしかしたら、なんて願ったりしないから。
知らないうちに溢れてきそうな涙もちゃんと止めるから。
だから、お願い。もう少しだけ誰も見ていないこの場所で泣く時間をください。
だから、お願い。あたしがあたしに吐いている嘘をどうか本当にしてください。
だから、お願い。どうか彼女と一緒にこの関係をちゃんと終わらせてください。
だから、お願い。
終わらせないで。
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』p. 209)
「終わらせないで」という言葉は逆説的だ。
由比ヶ浜結衣は、「この関係をちゃんと終わらせてください」と願った直後、まったく反対に「終わらせないで」と願う。「終わらせる」ことと「終わらせない」ということは両立不可能なので、一見するとこの態度は矛盾している。
しかしながらよく考えると「終わらせてください」という願いと「終わらせないで」という願いは両立しうる。
今回は、この由比ヶ浜の矛盾をひもとき、「終わらせないで」という願いは矛盾しているようでしていないことを明らかにすることを一つの目標としたい。この矛盾をひもとくことで、由比ヶ浜の願いについてより深く考えてみたいのだ。
Ⅱ. 由比ヶ浜の「願い」
ⅰ. 「全部ほしい」
由比ヶ浜は11巻以降、何度も「願い」という言葉を口にする。
由比ヶ浜の言う願いとは、まずもって彼女自身の願いのことであるが、由比ヶ浜の願いとは何だろうか?
由比ヶ浜の願いが最初に表れるのは11巻(アニメ2期12話)でのことである。
「あたしは全部ほしい。今も、これからも。あたし、ずるいんだ。卑怯な子なんだ」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑪』p. 311)
こうして由比ヶ浜は「全部ほしい」と願い、これ以降「全部ほしい」あるいは「全部貰う」という文言を頻繁に口に出す。
しかし「全部」というのは抽象的すぎてよくわからない。いったい「全部」とは何を指すのだろうか?
ⅱ. 「全部」⊃「三人の関係性の継続」
まず言えるのは、由比ヶ浜が奉仕部の三人で過ごす日々がずっと続くことを願っているということだ。
それは今回の由比ヶ浜のセリフに「こんな日がずっと続けばいいのに……って、思うの」とあったり、モノローグにも「三人で過ごせる時間があって、三人でいられる場所があればそれでよくて」とあったりしたことからわかる。
しかしそれはあくまで一つの願いであって、「全部」とは言えない。「全部」と言うからにはもっと多くの願いが「全部」には込められているはずである。
ⅲ. 「全部」⊃「雪乃や八幡の願いを叶えるという願い」
では由比ヶ浜が他に願っていることとは何だろうか?
ここで思い出したいのは、由比ヶ浜は周りに対して非常に気を配るということである。すなわち、もし由比ヶ浜が奉仕部の三人を大切にしているならば、八幡や雪乃の願いも尊重しているはずである。
そして実際、由比ヶ浜は二人の願いを尊重している。例えば11巻でinterludeやラストで雪乃の願いを聞き出そうとしているし、同じく11巻ラストでは間接的に八幡の「本物がほしい」という願いを引き出そうとしている。
つまり、由比ヶ浜が「全部ほしい」と言うときの「全部」には、雪乃や八幡の願いを叶えることさえ含まれているのだと考えられる。すなわち由比ヶ浜は、ずっと三人の関係性を保つことを望みながら、同時に、雪乃や八幡の願いを叶えることを望んでいるのである。
ⅳ. 逆説的な願い
しかしながら、その「全部」を叶えることは不可能だ。なぜなら、「三人の関係性を保つこと」と「雪乃や八幡の願いを叶えること」は矛盾するからである。
例えば、由比ヶ浜の、三人がずっとこのままの関係を続けるという願いは、八幡の「本物がほしい」という願いと矛盾する。なぜなら、八幡の願う「本物」とは、「ずっとこのままの関係」のような欺瞞の関係を許さない関係性のことだからである。
したがって、この「全部ほしい」という願いは、自己矛盾を抱えた願いなのである。ただしこの願いは、現実で実現することはできないが、言葉で表現することはできる。
ⅴ. 「終わらせないで」という逆説
そして同様のロジックが、「終わらせないで」という逆説を生むことになる。
まず、「どうか彼女と一緒にこの関係を終わらせてください」という「願い」は、欺瞞を許さない八幡の「願い」である。
そして「全部ほしい」という由比ヶ浜の「願い」の中には八幡の「願い」を叶えることも含まれるのだから、結局「この関係を終わらせてください」という「願い」は由比ヶ浜の「願い」でもある。
さらに、「終わらせないで」という「願い」は由比ヶ浜の、三人の関係性をずっと保ち続けたいという「願い」である。
したがって、結局は「終わらせてください」という「願い」も、「終わらせないで」という「願い」も、両方由比ヶ浜の「願い」ということになる。この点において、つまり現実的には不可能であっても理想の中では同時に両者を望めるという点において、両方の「願い」は矛盾しない。
以上で「終わらせないで」が矛盾しているようで矛盾していないということが明かされた。
しかしそうは言っても、結局、「終わらせて」と「終わらせないで」という願いは現実的には実現不可能なので、由比ヶ浜は苦しむことになる。
ではどうすれば由比ヶ浜を救うことができるのだろうか?
Ⅲ. 二元論の限界としての由比ヶ浜
ⅰ. 由比ヶ浜の固定観念
ではどうすれば由比ヶ浜を救えるだろうか?ここからはこれまで明言することを避けてきたことにももう少し踏み込んで考えてみよう。
「明言するのを避けてきた」というのは、恋愛感情に関することである。恋愛感情について、俺ガイルは明言することは避けるが、必ず当人たちはそれについて考えてはいるはずである。
とくに由比ヶ浜に関しては、八幡と恋人になりたいと願っていることが要所要所で示唆されている。
もしそうだとすれば、その感情はさらに由比ヶ浜を苦しめることになる。なぜなら、八幡と恋人になってしまったら、雪乃とは今までの関係を保っていられないと考えられるからである。
あるいはもし、由比ヶ浜が、雪乃が八幡と恋人になりたがっていると推測していて、雪乃が本当に八幡と恋人になったなら、由比ヶ浜は雪乃を尊重して二人から距離を置き、結局三人の関係は壊れてしまうだろう。
そう考えると、いずれにせよ、恋人になりたいという願いは三人の調和を崩してしまうことになる。
ⅱ. 固定観念
しかし、そう考えることはもうすでに罠にはまっていることになる。
というのは、上記のような考えは、恋人関係、あるいは男女の親密な関係というのは必ず二人だけで形成されなければならないという固定観念にとらわれているからである。
しかしながら、むしろそのような固定観念を乗り越えていこうとしている作品こそが『俺ガイル』であり、そのような固定観念にとらわれない関係性の探究こそが『俺ガイル』の主題だと言ってもよい。
ⅲ. 二元論の脱構築
『俺ガイル』は根本的に、二元論を脱構築する作品であると言ってもよい。
『俺ガイル』は「本物」のような関係性を提示することで、恋人のような二者関係や、理想の関係性のためにはどちらかを選ばねばならないというような二者択一の構造を、内側から突き崩そうとした。
わかりやすく言えば、恋人のような関係が絶対の理想ではないし、ヒロインの中から誰か一人を生涯の伴侶として選ばねばならないという制約を、『俺ガイル』は取り払おうとしていた(ただし後者に関してはそうしようとしていたというだけで、結論にはかなり議論の余地がある)。
ⅳ. 「選択」という「二元論」
大事なのはあくまで『俺ガイル』は二元論の「脱構築」だったという点である。
つまり二元論を解体するには、いかに二元論が無意識にとらわれた構造にすぎないかということをまず提示しなければならないのであって、そのためには二者関係に登場人物たちがとらわれる様をまず見せなければならないのである。
したがって八幡が今まさに「選択」という二元論的なにとらわれているのは、そのような「脱構築」の前段階だととらえることができる(特に第6話では画像のように八幡の「選択」が強調されていた)。
ⅴ. 二元論の限界としての由比ヶ浜
この延長線上に由比ヶ浜もいる。
すなわち、由比ヶ浜ははじめ「恋愛」という二者関係にとらわれたキャラクターとして登場し、しかし途中八幡に感銘を受けて三者関係を取り入れようとするのだが、そこでまた「二者関係か三者関係」という二者択一にとらわれてしまい、最後まで二元論的な観念を脱することができないのである。
こうして二元論から脱することができなかった由比ヶ浜は、ひとまずは二元論の範疇で倒れるしかない。彼女を救えるとしたら、その道は二元論が敗れたその先にあるだろう。
それは今までのアニメの範囲、あるいは現行の『俺ガイル』では解決不可能な問題かもしれない。はたして由比ヶ浜が救われる道はあるのだろうか。
Ⅳ. おわりに
今回は「終わらせないで」という逆説と、そこから見えてくる二元論の限界としての由比ヶ浜について考えた。
たしかに由比ヶ浜には二元論の限界という側面があるのだが、さらに言えば、結局14巻の結論もまだ二元論的な価値観におさまってしまうような結末だったと考えられなくもない。
だから『俺ガイル』は二元論の脱構築を試みようとしたことはたしかだが、その脱構築が成功したか否かについては議論の余地があるように思う。
ただ『俺ガイル』には広義の「脱構築」的な側面が多々あり、それはたびたび言及している「言葉」という側面についてもそうである。
『俺ガイル』は、我々が無意識のうちに信頼している「言葉」というものがいかに脆いものであるのかということを明らかにしようとしたという点では、いわゆる「言語論的転回」を、本来の意味より少し下の次元でおこなったと言えるかもしれない。
あるいはもっと大げさに言えば、従来のライトノベルがいわゆる~エンドやハーレムエンドなどのお決まりの締めで終わったのに対し、『俺ガイル』はその枠組みにおさまらなかった(もちろんここにも大いに議論の余地がある)という意味で、ライトノベルの脱構築としてあると言ってもよいかもしれない。
今回は試しにそのようなことを少し論じてみたが、私としてはかなり最終巻に議論の余地があるような気がするので、また最終話までアニメが終わってから慎重に考えてゆきたい。
最後になってしまったが、ここまで読んでいただいた読者の方々に感謝したい。
<参考文献等>
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①-⑭』(小学館 ガガガ文庫、2011-2019)。
アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2013)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(2015)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』(2020)。
<次回>
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