Ⅰ. 「……責任がある」
雪乃を手伝うことをどうして諦めないのかと一色に問われたとき、八幡は以下のように答えた。
「……責任がある」
「責任、ですか」
[……]
「話が拗(こじ)れてるのも、依存がどうとか、そういうのも、まぁ俺が招いた責任だ。そもそも論になっちまうけどな。だから、その帳尻はちゃんと合わせておきたい。ずっとそうやってきたから、それを今更都合よく変えられない。それだけだ」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑬』p.64)
すなわちここで八幡はプロム(雪乃)を手伝う理由を「責任」があるからだとしている。
しかしこれは一見するとよくわからない。まず、そもそもプロムを手伝っているのは雪乃だけであり、八幡はまだ何もしていないので、そこには「責任」も何もないように思える。
それに、雪乃を手伝う理由が「責任があるから」というのもよくわからない。八幡は雪乃に対してどのような「責任」を負っているのだろうか?
今回はこの「責任」について考えてみよう。「責任」について考えてゆくと八幡がここですでに「まちがい」を犯していることがわかり、さらに掘り下げると「責任」が俺ガイルの構造上必然的な問題であることがわかるだろう。
Ⅱ. 「責任」とは何か?
ⅰ. 「責任=応答可能性」
そもそも責任とは何だろうか?
よく言われるのは、「責任」とは他者に対する「応答可能性」のことであるということだ。
これは「責任(英 : responsibility, 仏 : responsabilité )」の語源である、「あることに何か対応する」といった意味のラテン語 (respondeo) に由来する定義だ。
ただしこれはラテン語を考えなくても、例えば英語の “responsibility” が「応答する(response)」と「可能であること(ability)」という二つの語から成っていると考えれば納得できるだろう。
ⅱ. 責任がある/責任をとる
注意したいのは、「責任がある」ということと「責任をとる」というのは別のことであるということだ。
例えば、ある会社が不祥事を起こし、社長が責任をとって辞めたという事態を考えてみよう。
この場合、まず社長は不祥事に対して自由に応答することができるという意味で、応答可能性がある、つまり「責任がある」と言える。
そして実際社長は、社長を辞める。この「辞める」という行為が、不祥事に対する応答だと言える。この「応答する」ということが「責任をとる」ということだ。
すなわち、「責任がある」というのは「他者」に対して「応答可能性がある」ということ自体を指し、「責任をとる」というのは「他者」に対して何らかの応答をするということだと言える。
以上の定義に則して八幡の「責任」を考えてみよう。
Ⅲ. 八幡における「責任=応答可能性」
ⅰ. 八幡は何に対して「責任」を感じているのか?
八幡は自分で「責任」を感じているわけだが、彼は何に対して「責任」を感じていただろうか?
5話に限って言うなら、「話が拗(こじ)れてるのも、依存がどうとか、そういうのも、まぁ俺が招いた責任だ」と言っていたように、話が拗れていること、依存という問題があることに対して八幡は責任を感じていることになる。
要するに八幡は今の奉仕部の状況そのものに「責任」を感じているのだ。プロムの話がややこしくなっているのは、端的に言えば奉仕部の関係性が複雑になってしまっているからだが、奉仕部の関係性を複雑にした責任は自分にあると八幡は感じているのだ。
ⅱ. 「責任」の対象範囲
ただ問題は、どこからどこまでを八幡の「責任」の対象範囲とするのかということにある。
これまでだって八幡はいろいろなところで「責任」を感じてきた。例えば9巻では、クリスマスイベントの準備で相変わらず同級生になじめない鶴見留美を見て「俺の責任。その答えを俺はまだ知らずにいる」*1と言っている。
また、同じく9巻でクリスマスイベントが行き詰って奉仕部に「依頼」をしたときには、雪乃から「あなた一人の責任でそうなっているのなら、あなた一人で解決すべき問題でしょ」と言われて一度は「だな。悪い、忘れてくれ」と引き下がっている*2。
ほかにもディスティニーの帰り際、一色に「責任、とってくださいね」*3と言われるなど、八幡が取れる「責任」を一つずつ数えていったらキリがなくなってしまう。
したがって当面は、八幡が感じている奉仕部の関係性への責任に焦点を絞りたい。すなわち以下では、八幡の責任の対象を奉仕部の関係性への責任として論ずることにする。
ⅲ. 八幡に「責任=応答可能性」はあるか?
ではその奉仕部の関係性に対して、八幡には「責任」があるのか?
先ほどの「責任=応答可能性」という定義からすると、八幡には「責任=応答可能性」があるということになる。
なぜなら、八幡は奉仕部の関係性に対して、自由に応答することができる状態にあるからだ。その何か応答することができるという点において、八幡には「責任=応答可能性」がある。
ⅳ. 八幡はどのように「責任をとる(果たす)=応答する」か?
では八幡にそのような「責任=応答可能性」があるとして、八幡はどのように「責任をとる(果たす)=応答する」だろうか?
この問いへの答えは単純ではない。なぜなら、プロムの一件に限っては積極的に「応答する」ということは求められていないからだ。
先ほど「責任をとる(果たす)」ということは他者に対して何らかの応答をすることだと述べたが、プロムの一件に限っては、雪乃(他者)は八幡に関わってほしくないという考えているという意味で、積極的「応答」を拒まれている。
強いて言うなら、八幡は雪乃から「手伝わないでほしい」という「応答」を求められている。そして実際、結局八幡は「手伝う」ことはせずに「対立する」という仕方で「応答」することになる。
ⅴ. 「まちがい」
以上のことをまとめると以下のようになる。
まず八幡には奉仕部の関係性に対して応答することができるという意味で「責任=応答可能性」がある。
次に八幡は、現時点では雪乃の自立の問題によって助けを拒まれているため、「対立する」という仕方で雪乃に「応答する」ことになる。言いかえれば八幡は「対立する」という仕方で「責任をとる」。
以上のことは論理としては納得できるかもしれないが、まさにそこに大きな「まちがい」が生じている。彼はここでまたしても「まちがえて」しまう。
結論から言えば、彼のこの「まちがい」自体が奉仕部の関係性がこじれている原因であり、その問題が俺ガイル全体の構造へとつながってくる。以下ではさらにその「まちがい」を追求していく。
Ⅳ. 八幡の犯した「まちがい」
ⅰ. 「まちがい」①「対立する」という手助け
八幡が犯した「まちがい」とは何だろうか?
「まちがい」は細かく分ければいくつかあるのだが、まず最初の「まちがい」は八幡の「対立する」という対処の仕方である。
八幡は雪乃の自立のために、雪乃を直接助けることはせずに「対立すること」を選んだ。しかしそれは直接助けていないだけで、間接的に雪乃を助けることになっている。
ネタバレになるので詳細は控えるが、もし仮に八幡が対立することでプロムが成功に導かれたとしても、それは雪乃が独りで自立してやった所業だとは捉えがたい。
以上が一つ目の「まちがい」だ。
ⅱ. 「まちがい」②動機を心理から語ってしまったこと
1. 「心理」と「感情」は違う
二つ目の「まちがい」は、雪乃に関わる動機を心理で語ってしまったことだ。俺ガイルにおいては、「心理」とは論理的・客観的に推察しうる心理的メカニズムであり、それは純粋に湧いてくる主観的な「感情」とは区別される。
これは生徒会選挙からクリスマスイベントまでの一連の流れの中で犯した「まちがい」と同種のものだ。生徒会選挙やクリスマスイベントで八幡は、小町や周りの人間から動く動機をもらい、「なぜ(雪乃を)傷つけたくないのか」を考えずに自分の感情から目を背けた。
その結果、平塚先生から「君は人の心理を読み取ることには長けている」が、「感情は理解していない」とさとされる。つまり、「大切だから傷つけたくない」ということを八幡はそれまで認めなかったのである。*4
2. 再び心理を動機にしてしまう
しかし結局ここでも八幡は同様の「まちがい」を繰り返してしまう。
そもそも4話で平塚先生に、雪乃を手伝う理由を「……いつか、助けるって約束したから」と「心理」から語ってしまっている*5。
「約束」というのは契約の一種であり、その動機は「感情」ではない。八幡は自らの心理を読み解き、論理で動機を語ってしまう。
「責任」という動機もこれと同じだ。八幡は肝心な自分の「感情」は覆い隠し、「責任」という客観的に把握しうるような言い訳でごまかす。
これは明らかな「まちがい」だ。もっと言うと八幡の嫌う欺瞞ですらある。自分の感情を必死に包み隠し、言い訳で人をあざむこうとする、これを欺瞞と呼ばずに何と呼ぼうか。
ⅲ. 責任を「果たす」ということ
ではそのような「まちがい」はどうすれば正せるのだろうか?
まず一つ目の「まちがい」については、ただ「対立する」という仕方で「責任をとる」のではなく、きちんと雪乃の自立(依存)の問題に向き合うべきだったと言える。
よく言われることだが責任を「とる」ことと「果たす」ことは違う。何でもかんでも「応答」すれば責任を「果たした」ということにはならない。
最初に出した例で言えば、会社の不祥事は、社長が辞めるという責任のとり方をしただけでは問題は解決しない。むしろ社長が役割を継続し、社長として問題そのものの解決に向かうことが「責任を果たす」ことだとみなされる。
したがってここでもただ「対立する」ことは「責任を果たす」ことにはならない。うまく雪乃を依存の自覚から解き放たせて初めて「責任を果たす」ことになる。
ⅳ. 「まちがい」に欠けたもの
とはいえ雪乃の問題を解決に導くのはそう簡単なことではない。雪乃の依存というのも奉仕部三人の関係性の蓄積の結果であり、結局は三人の関係性の問題に帰着する。
とするならば、この「まちがい」には決定的に欠けたピースがある。それは由比ヶ浜結衣というピースだ。三人の問題は三人が引き受けなければならない。
このことは9巻の「本物がほしい」発言の直前に見られる。
「……あなた一人の責任でそうなっているなら、あなた一人で解決するべき問題でしょう」
その言葉に一瞬息が詰まった。それでも黙ってはいけないと、何とかかすれ声を絞り出す。
「……だな。悪い、忘れてくれ」
[……]
「そうじゃないよ。なんで、なんでそういうことになるの?おかしいよ」
[……]
「あのね、ヒッキー一人の責任じゃないんだよ、考えたのはヒッキーかもしんない。でも、あたしたちもそうだよ。全部、押し付けちゃったの……」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』pp. 247-248)
ここで八幡と雪乃は、八幡が一人で責任を負うことに同意するのだが、由比ヶ浜はそれを三人の問題として扱う。
ではなぜ由比ヶ浜がそれを三人の問題として扱えるかと言えば、八幡や雪乃が心理で動いているのに対して、由比ヶ浜が感情で動いているからだ。
「責任」という心理を論理的に考えれば、「決断」はいつだって最終的に一人ですることなので絶対的「責任」は一人に押し付けられるが、感情を考えたとき、倫理的な責任が問われるのでその責任は伝播する。
実際、由比ヶ浜がいたときに問題は上の9巻と同じような方向に進んではいた。
「……まだ『お兄ちゃんするの?」
[……]
「雪乃ちゃんが自分でできるって言っていることに無闇に手を貸しちゃだめだよ。君は雪乃ちゃんのお兄ちゃんでもなんでもないんだから」
[……]
「そういうことじゃ、ないです」
弱弱しく、震えるような声はしかし、はっきりと否定する。それに優しく背を撫でられたような気がして、反射的に顔を上げると、由比ヶ浜が陽乃さんを睨みつけていた。
「……大事な人だから。助けたり、手伝うのは当たり前です」
(渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』p. 337)
こうしていつも由比ヶ浜は三人の関係性に感情を持ち込もうとする。しかし八幡や雪乃が、その性格ゆえに感情を素直に受け入れることをしない。そうして彼ら彼女らはいつもまちがえる。
Ⅴ. 「奉仕」部と「責任」
ⅰ. まとめ
以上、八幡の「責任=応答可能性」の問題について見てきた。
まとめると、八幡には奉仕部の三人の関係性に対して自由に応答することができるという点において「責任=応答可能性」があり、彼は「対立する」という仕方で責任をとった。
しかしそこには「対立する」という手助けをしている「まちがい」、そして動機を心理で語ってしまったという「まちがい」があり、その「まちがい」には由比ヶ浜の存在の欠如と雪乃と八幡の感情を素直に受け入れられない性格上の問題があった。
ⅱ. 問題の根本
こうして見ると、だいたいどこに問題の根本があるかがわかる。
端的に言えば、問題は八幡や雪乃が面倒くさい人間だから起きているのだ。人の言葉の裏を読んだり、孤独ゆえに人に全幅の信頼をよせられず理性で、心理で人を理解しようとしてしまう。
そんな自意識過剰な二人に対して由比ヶ浜が感情で介入する。由比ヶ浜は二人の「何話してるかわかんない」ような雰囲気に惹かれながらも、事態をもっと単純な側面から眺める。しかし由比ヶ浜は由比ヶ浜で彼と彼女を大切に思ってしまっているので、その感情でがんじがらめになる。
やはりどこかで彼ら彼女らの青春ラブコメはまちがっている。
ⅲ. 「奉仕」部というパラドックス
こうして概観しても「責任」が俺ガイルに根深い問題だとわかるが、最後にもう少し構造的な話をしておこう。
俺ガイルの構造のミソは、一つには「奉仕部」というそれ自体パラドキシカルな部活にある。
まず「奉仕部」という部活を、自立できていない(依存体質の)雪乃が立ち上げたということ自体がパラドキシカルだと言える。自分自身が自立できていないのに、人に「魚の獲り方」を教えて自立を促すというその仕組みはいびつだ。
ⅳ. 『俺ガイル』の主題
そしてその「奉仕部」が、人に「奉仕」する立場でありながら、その内部で純粋に利他的に人に「奉仕」できずに、助ける助けないということを何か理性的なロジックで捉えてしまっているということがまたパラドキシカルだ。
まず八幡のような人間が「奉仕部」に所属しているというのが面白い。人の言葉の裏を読んだり、打算的な人間関係を拒んだりと、極度に懐疑的な八幡が、人に純粋に尽くすということができるわけがないように思われる。
しかしながら、それこそがまさに俺ガイルの主題でもある。つまり極度に人に懐疑的で、人を心理からしか理解しないような八幡が、どうにかかろうじて人を感情的に捉えられるようになる、というその変化の物語が『俺ガイル』という作品だ。
ⅴ. 人の気持ち
だからそこに「共依存」とか「責任」といった言葉が飛び込んでくるのは必然だとも言える。
「共依存」とか「責任」といった、関係性を「言葉」で明確にしたものを切り捨てていかないと感情にはたどり着かない。「言葉」にできないはずの感情を、懐疑的な八幡は感情を正面から理解できないから、計算して考え続け、計算し続けたその果てに残った感情に手を伸ばそうとしている。
「バカ者。感情が計算できるならとっくに電脳化されている。……計算できずに残った答え、それが人の気持ちというものだよ」。
いつしか八幡はその答えにたどり着けるのだろうか。
Ⅵ. おわりに
今回は八幡の「責任=応答可能性」について考えた。
はっきり言って、書くのにかなり苦労した。「責任」というテーマはどこまでも広がっていくような問題であり、論じようと思えばどこまででも論じられてしまうことだからだ。
今回はできるだけ真摯に、『俺ガイル』という作品それ自体に向き合って論じたつもりではある。だから簡単なことをあえて難しく語る必要はないという当ブログのスタンスは貫きたかったが、しかしここでは難しい言葉でもそれを使った方が有効な場合は使うというもう一つのスタンスの方を採用した。
そこでどうしても「責任=応答可能性」ということを持ち出さずにはいられなかった。これは「責任」を定義づけないと話が進まないからであり、また、広い視点で見れば『俺ガイル』と「責任=応答可能性」はきちんと論じられる問題でもあると考えたからだ。
言うまでもないかもしれないが、私が論じている「責任=応答可能性」というのはデリダに由来している(元をたどってレヴィナスも射程に含まれるが)。ここで論じた「責任=応答可能性」というのはデリダの議論とは異なるし、私もきちんとデリダの議論を理解しているわけではないが(そもそもデリダを「理解」するというのは無理な話だ)、多くの発想の原因はデリダの議論にある。
詳細が知りたい方は、例えばデリダの『死を与える』をお読みになるとよい。もちろん、デリダはとても難解なのでデリダに初めて触れるという方は例えば高橋哲哉『デリダ』(講談社学術文庫、2015)や仲正昌樹『<ジャック・デリダ>入門講義』(作品社、2016)などから入るとよいだろう。
ともかく、簡単なことをあえて難しく語る必要はない。これからも『俺ガイル』という作品に真摯に向き合っていきたいと思う。
正直議論の余地が多く残されているのは14巻(アニメでは9話くらいからか?)だと思うが、しかしこれからも1話1話じっくり考えていきたい。
最後に、ここまで読んでいただいた読者の方に感謝申し上げたい。
<参考文献等>
渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①-⑭』(小学館 ガガガ文庫、2011-2019)。
アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2013)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(2015)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』(2020)。
J・デリダ『死を与える』廣瀬 浩司、林 好雄 訳(ちくま学芸文庫、2004)
高橋哲哉『デリダ』(講談社学術文庫、2015)
仲正昌樹『<ジャック・デリダ>入門講義』(作品社、2016)
<次回>
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*1:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p. 204
*2:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p. 247
*3:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』p. 363
*4:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑨』pp. 225-231
*5:渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。⑫』。この直後に「頼まれたからなんて、そんな普通に当たり前すぎる理由で、ロジックもリリックもない言葉で、陳腐極まる使い古された言い回しで、あいつを助けるなんて、本当に嫌でたまらない」と述べられている。「頼まれた」というのも契約関係の一部であって「感情」ではない。「頼まれたから」ではなく仮に「頼まれて雪乃を助けたいと思ったから」とまで言っていたなら、それは「感情」と言えたかもしれない。しかしいずれにせよ、「助けるって約束したから」という言葉が八幡にとっての精一杯の言葉であることには変わりがない。この言葉からは誰かに頼まれたからなどの、受動性はなく、自ら「約束した」という主体性がある。この点において以前の「まちがい」よりはましだとは言える。しかし結局それが「心理」から語られたものであるという点において以前の「まちがい」と同種である