< ↓ 前編 ↓ >
<前編>から日が開いてしまって申し訳ないです。
その間に見返して気づいたことも含めて、改めて十皿の感想・考察、やっていきたいと思います。
Ⅴ. 真武の「欲望の対象」は何だったのか
ⅰ. 「欲望の対象」=「ツナガリ」
「ハコ」、「ネコ」、「キス」……と、カパゾンビたちにはいつも「欲望の対象」がありましたよね?
それなら真武にも「欲望の対象」があるのでは?と思ったのですが、真武の「欲望の対象」って何だったのでしょう?
結論から言うとそれは「ツナガリ」だったと考えられます。
ⅱ. 「ハコハコ♪」→「ツナガリ♪」
なんでそう考えたのかというと、「さらざんまいのうた」ではいつも「欲望の対象」が合いの手として歌われていて、それが今回は「ツナガリ」だったからです。
例えば一皿だったら、「取り戻さなきゃいけないものがある♪ ハコハコ~♪」、二皿だったら「取り戻さなきゃいけないものがある♪ ネコネコ~♪」という感じでした。
それが十皿では、「取り戻さなきゃいけないものがある♪ ツナガリ~♪」になっていました。
そのような理由から、真武の「欲望の対象」=「ツナガリ」と考えられると思います。
なんというかまあ、感慨深いですよね……。
「ツナガリ」が「欲望の対象」になるのは物語の終盤っぽいですね。
個人的には「欲望の対象」が「死」とか「愛」とかになったらどうなるんだろうというのが気になるところですが、『さらざんまい』ではその展開はもうなさそうですね。
ⅲ. カパゾンビは欲望が満たされなかったからこそカパゾンビになれた
以前の考察でも述べたのですが、大事なのは「欲望の対象」は「欲望の目的」とイコールではないということです。
例えば、箱田だったら「箱」そのものを集めるのだけが目的ではなく、盗んだ箱を裸で被りたかったわけですし、猫山だったら「猫」そのものを集めるのだけが目的ではなく、猫になって大事な人に愛されたかったわけです。
言い換えると、カパゾンビたちはいつも満たされない欲望を、「欲望の対象」をかき集めることで、自分の欲望を無理矢理満たそうとしていたのだと言えます。
つまり、真武も玲央とつながりたいという欲望が満たされなかったからこそ、「判定 : 欲」と黒ケッピに判定され、カパゾンビになることができたわけです。
これは『さらざんまい』における「欲望」の定義に関わる、大事なポイントです。
このことは以下で考察する『星の王子さま』についても関係するポイントだと思うので、また後で述べたいと思います。
Ⅵ. 「星の王子さま」について
ⅰ. 「王子さま」=「玲央」、「バラ」=「真武」?
第三皿Cパートでも春河が夢に見たという「星の王子さま」が、第十皿にも登場します。
大事なところなのでセリフを引用します。
「ぼくまたあの夢を見たんだよ。おっきなニャンタローに乗って、星の王子さまと出会う夢。王子さまはぼくに、欲望か愛か選べって言うんだ。でもぼくは怖かった。選んだら、「まあるいえん」が壊れちゃうんじゃないかって」*1
(『さらざんまい』第十皿より)
『さらざんまい』と『星の王子さま』に関しては、第三皿以降、「クイーンマブ」というバラの種類があるから「バラ」=「真武」ではないかなど、様々な考察がなされていました。
そして今回、「王子さま」が「欲望か愛か」と問うたことから、「王子さま」=「玲央」という解釈も成り立ち、私も「王子さま」=「玲央」、「バラ」=「真武」ではないかと思うのですが、これに関してはここでは語り切れません。
『さらざんまい』の作中で、はっきりと作品名が登場している作品は『星の王子さま』くらいなので、『星の王子さま』は重要な本になると思います。
したがって、『星の王子さま』と『さらざんまい』についての考察は別の記事で詳しくやろうと思います。
今回は、第十皿に関連することとして、なぜ春河が「欲望か愛か」を選ぶと「まあるいえん」が壊れてしまうと思ったのか、についてだけ考えたいと思います。
ⅱ. なぜ「欲望か愛か」を選ぶと「まあるいえん」が壊れるのか?
a. そもそも原作にそういうシーンあったっけ?
なぜ「欲望か愛か」を選ぶと「まあるいえん」が壊れちゃうと、春河は考えたのでしょう?
そもそも春河の夢において、「欲望か愛か選べ」と聞いてきたのは「星の王子さま」なわけですが、原作の『星の王子さま』にそういうシーンがあるか?というと、全くないです。
もう少し正確に言うと、「欲望」や「愛」といった単語自体が『星の王子さま』にはほとんど出てきませんし、星の王子さまが「ぼく」に対して二者択一的な質問をする場面は存在しません。
じゃあ結局、「欲望か愛か」とかは『星の王子さま』と全く関係ないのかというと、関係はなくはないと考えられます。
b. たくさんのバラか、たった一本のバラか
思うに、「欲望か愛か」という問いは、「たくさんのバラか、たった一本のバラか」という問いに等しいのではないでしょうか?
「バラ」は『星の王子さま』において重要なアイテム(生き物)です。
「バラ」に関する簡単なあらすじを語っておくと以下のようになります。
c. 『星の王子さま』のバラに関する簡単なあらすじ
王子さまは故郷の小さな星に一本だけバラを持っていて、そのバラは宇宙にたった一本しかない種類だと考えて、そのバラをとても大切にします。
しかし王子さまは地球で、5000本以上のバラが咲くバラ園に迷い込み、「特別な一本を持っているから自分は豊かだと信じていたけれど、ぼくが持っていたのは普通の花だった」とわかり、悲しくなって泣いてしまいます。
しかし、その後キツネに、たとえ世界に同じようなものがいくつあっても、その中の一つが世界でたった一つの存在だと分かれば、そのたった一つと特別な関係を結べるということを教わり、再びバラ園に行きます。
そこで王子さまは5000本のバラに向かって以下のように言います。
「きみたちはきれいさ。でも空っぽだよ」と彼は続けた。「誰もきみたちのためには死ねない。もちろん、通りすがりのひとてゃぼくのあのバラを見て、きみたちと同じだと考えるだろう。でも、あれはきみたちをぜんぶ合わせたよりもっと大事だ。なぜって、ぼくが水をやったのはほかならぬあの花だから。ぼくがカラスの鉢をかぶせたやったのはあの花だから。(中略)なぜって、あれがぼくの花だから」
こうして、王子さまは気づきます、「星がきれいなのは、見えないけれどどこかに花が1本あるからなんだ……」と。
これが『星の王子さま』で「大切なものは目見えない」と言われるところの、「大切なもの」のうちの一つだと言えます。
d.「愛」=「たった一本のバラ」を求めること
話をもとに戻すと、この「たった一本のバラ」を求めることこそが、『さらざんまい』で言うところの「愛」だと考えられます。
『さらざんまい』においては、黒ケッピから「愛」と判定されたのは、今のところ春河だけです。
ではなぜ春河が「愛」と判定されたかというと、春河は、一稀の母親を「もう来ないで」と言って傷つけたとしても一稀とつながりたいと思っていたから、また、一稀がもとの一稀のように笑うことを諦めなかったから、「愛」と判定されたと考えられます。
つまり、春河は一稀というたった一つのつながりを諦めなかったから、「愛」と判定されたのではないでしょうか?
ちなみにこの「愛」というのは、過去のイクニ作品で言えば、『ピンドラ』における「愛」や『ユリ熊嵐』における「スキ」に似ている(でも少し違う)と考えられます。
『ピンドラ』では、「こどもブロイラー」に捨てられるような子供でも、誰かたった一人の人からでも必要とされるようなものが「愛」というものでしたし、『ユリ熊嵐』では周りと同調せず空気を読めなくても守りたい関係が「スキ」というものでした。
反対に、「愛」を諦めるとシュレッダーで「透明」にされたり、「スキ」を諦めると「透明な存在」になってしまうわけですが、『さらざんまい』でも「愛」と判定された子供はシュレッダーのようなところで粉々にされてしまいます。
以上のことから、『さらざんまい』における「愛」とは『星の王子さま』で言うところの王子さまが彼の星に持つ「たった一本のバラ」を求めることだと考えられます。
e. 「欲」=「たくさんのバラ」を求めること
では「愛」に対して「欲」はどのようなものかと言うと、それは『星の王子さま』で言うところの「たくさんのバラ」を求めることだと考えられます。
『さらざんまい』では、「欲」と判定された人間がカパゾンビになるわけですが、前述したように、彼らは生前満たされない欲望を、代償となるものをかき集めることで満たそうとします。
「ハコ」や「ネコ」といった「欲望の対象」を集めて、その欲望をごまかすことはできても、カパゾンビたちが本当に望むものは手に入りません。
同様に、『星の王子さま』でも、「たった一本のバラ」の代わりに、姿形の似た他の「たくさんのバラ」で欲望を紛らわすことはできても、本当に欲しい「たった一本のバラ」との関係は手に入りません。
そのように、「愛」よりも「欲望」をみたすことを優先してしまっている人が「欲」と判定されるのであり、「欲」は『星の王子さま』で言うところの「たくさんのバラ」を求める姿勢に相当すると考えられます。
f. 「欲望か愛か」を選ぶとなぜ「まあるいえん」が壊れるのか?
では結局、「欲望か愛か」を選ぶと、なぜ「まあるいえん」が壊れるのでしょう?
<1. 「愛」を選んだ場合>
「愛」を選んだ場合は簡単な話で、その場合は「たった一本のバラ」のようなたった一つの存在を選ぶことになるので、究極的には、その他の存在とは「つながり」を断ち切ることになるからです。
これは『ユリ熊嵐』がとてもわかりやすい例になります。
『ユリ熊嵐』では紅羽が「スキ」を諦めなかった結果、クラスからは「透明な嵐」で「悪」と判定されて「排除」されていくわけですが、まさにこれが「愛」を選んだ結果「まあるいえん」が壊れることの例だと言えます。
つまり「愛」だけをとったら、たった一つの「つながり」だけを優先することになるので、その他の「つながり」は希薄になってしまう(もしくは断絶する)というわけです。
<2. 「欲望」を選んだ場合>
「欲望」を選ぶとなぜ「まあるいえん」が壊れるのでしょうか?
それは「欲望」が強すぎると、まわりに危害をも加え、結局は「つながり」が断たれることになるからだと考えられます。
これはカパゾンビたちを見るとわかりやすいです。
例えば蕎麦谷なんかは、盗んだ残り湯でそばを茹でる、ということが欲望の目的だったわけですが、単純にこれは犯罪につながります。
要するに、自分の「欲望」を優先させすぎると犯罪につながり、周りの人に危害を加えてしまうわけです。
あまりにも「欲望」が満たされないと、代替物で「欲望」を満たそうとするわけですが、それは過剰すぎるとたくさんの人に迷惑をかけてしまい、結果的には他の人との「つながり」が断ち切られてしまうわけです。
(このへんの話は以前の考察(さらざんまい考察番外編「命の分岐のライン」について - 野の百合、空の鳥)に詳しく描きましたのでよろしければ参考になさってください)
以上が「欲望か愛か」を選ぶと、「まあるいえん」が壊れる理由です。
Ⅶ. 「つながり」というテーマ
前述した『星の王子さま』と「欲望か愛か」に関する考察から、結局、『さらざんまい』における「つながり」とは何なのかが見えてきます。
まず前提として、「この世界はつながりにあふれている」と言えます。
正確な情報は後で持ってきますが、これは『さらざんまい』のPVや、幾原監督のインタビューからわかります。
SNSとかネット世界とか、今の世の中は「つながらざるを得ない」ような世界です。
じゃあそこでどうすればいいの?というのを描いているのが『さらざんまい』だと考えられます。
それに対するシンプルな回答は「欲望を手放すな」なんですけど、これは最低条件なだけで、「欲望」を濫用しぎてもいけないわけです。
そしてさらに、過去のイクニ作品とは違って、「愛」だけを優先させることにも慎重になっていると考えられます。
なぜなら、「欲望か愛か」を選ぶと、「まあるいえん」が壊れてしまうからです。
前述したようなことから、「欲望か愛か」を選ぶと、「まあるいえん」は壊れてしまいます。
つまり、「欲望」を濫用しすぎると「つながり」を破壊することにもなるし、「愛」を濫用しすぎると「つながり」を断ち切らねばならなくなると言えます。
じゃあ「つながり」こそ最高、至高の状態なのかと言えば、そうでもありません。
これに関しては、今はまだはっきりとした根拠は言えませんが、軽薄な「つながり」ばかりできても「欲望」は満たされないわけですし、たった一つの「つながり」だけで生きていけるかというとそれも難しいと考えられます。
ここらへんは、最終話の結論次第でかなり主張が変わってくると思うので、最終話以降にまたきちんと考察したいと思います。
Ⅷ. おわりに
『さらざんまい』、いよいよ最終回です。
はたして彼らの「つながり」は、「欲望」はどうなるのでしょうか?
最後まで目が離せません。
また最終話が終わったら、何かしら書きたいと思います。
というより、『さらざんまい』に関しては最終話が終わってから本腰を入れて考察をしていかないといけないような状況です。
『さらざんまい』を読み解くには、過去のイクニ作品について考察する必要もあると思うので、いずれは『ピンドラ』や『ユリ熊嵐』などについても考察しようと思います。
乗り掛かった舟なので、何とか最後までやり遂げたいという所存です。
とりあえず『さらざんまい』最終回、見ていきましょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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*1:引用は筆者によるので、漢字かな表記は筆者による。『星の王子さま』の「ぼく」が春河に相当すると考え、「ぼく」はひらがな表記にした。また、「まあるいえん」の「えん」は「円」とも「縁」ともとれるため、ひらがなで表記し、「まあるいえん」自体がキータームなので括弧でくくった。