Ⅰ. はじめに
『さらざんまい』が終わりました。
しかし、(少なからず同じような気持ちの方がいらっしゃると思うのですが)私はまだいろいろと消化しきれていません。
そこで今回は、最終話についてじっくりと解釈した上で、改めて『さらざんまい』という物語全体のことについて考察してみたいと思います。
- Ⅰ. はじめに
- Ⅱ. 最終話(十一皿)の解釈
- Q1. 最終決戦にはどういう意味があったの?
- Q2. 黒ケッピって、結局なんだったの?
- Q3. カワウソって、結局なんだったの?
- Q4. 改めて、最終決戦が意図することとは?
Ⅱ. 最終話(十一皿)の解釈
物語にはいろいろな解釈があると思うのですが、ここには私の、私なりの最終話の解釈を記していきたいと思います。
今回は一問一答形式で解釈を記すという試みをしてみたいと思います。
なんでかというと、なんとなく、一問一答形式の方が考えていく道筋がわかりやすいと思ったからです。
Q1. 最終決戦にはどういう意味があったの?
A1-1. 「つながり」を取り戻す意味
誓の喪失に耐えきれず、悠は、一度は「縁の外側」(誰ともつながっていない世界)に行こうとします。
しかし、走馬灯のような「忘」によって記憶が消えていく中で、「捨てられないものなんてなかったはず」の自分に、一稀や燕太といった「大切なもの」ができていることをはっきり意識します。
「大切なものを失うのは嫌だ!」という一心で「さらーーー‼」と叫ぶ悠、「大切なもの」との「つながり」を再び取り戻すには、「ミサンガ」を4年前の一稀に渡すことが必要だったというわけですね。
最終決戦にはそのように、まず「つながり」を取り戻すという意味がありました。
A1-2. ケッピ(絶望以外の欲望)が黒ケッピ(絶望)を受け入れる意味
しかしこの最終決戦は、3人が「つながり」を取り戻すという意味に加えて、もう一つ重要な意味をもっていました。
それが、ケッピが黒ケッピと融合するという意味です
もちろん物語の筋としては、ケッピが切り離した黒ケッピと融合するという、そのまんまの意味があるわけですが、これにはもう少しメタ的な意味があります。
それを語るには、まず黒ケッピとは何だったのかを考える必要があります。
Q2. 黒ケッピって、結局なんだったの?
A2. 「絶望」のメタファー
a. 作中における「黒ケッピ」の定義
まず作中で「黒ケッピ」がどのように捉えられていたか確認しましょう。
ケッピ「あれは、かつてカワウソに奪われた私の絶望ですケロ。戦乱のさなか、絶望に飲み込まれそうになった私は、自らの尻子玉を二つに割ったのですケロ」
一稀 「じゃあ、あいつは」
ケッピ「いわば私の半身。私は黒ケッピと融合してカワウソを倒すために、この世界に来たのですケロ」(『さらざんまい』第十皿より)
したがってまずは、「黒ケッピ」=「絶望」と捉えられるわけですが、絶望は絶望でもそれは単純な絶望ではありません。
ここにはポイントが2つあります。
b. ポイント①黒ケッピは尻子玉(=欲望エネルギー)の一部ということ
ケッピのセリフにある通り、黒ケッピは「自らの尻子玉を二つに割った」半身、つまりケッピの尻子玉の一部なわけです。
尻子玉とは何だったかというと、一皿で言われているように「欲望エネルギーを蓄積する臓器」でした。
したがって「絶望」がこの「尻子玉」=「欲望エネルギーを蓄積する臓器」の一部ということは、「絶望」も「欲望エネルギー」の一種だということではないでしょうか?
それってどういう意味?と思われるかもしれませんが、「絶望」が「欲望エネルギー」の一種だというのは、「絶望」が何かを欲望するエネルギーになりうるということだと考えられます。
少し雑な例ですが、例えば自分の大切な人が誰かに殺されたとしましょう。
そこで人は、大切な人を失ったことに「絶望」するわけですが、その「絶望」が今度は、大切な人を殺した犯人に報復したいだとか、喪失に耐えきれないから自殺したいといった、何か他のことを欲望するエネルギーになるわけです。
では、なぜケッピはそのような「欲望エネルギー」の一種である「絶望」を抱えることになったのでしょう?
それが「絶望」の2つ目のポイントにつながります。
c. ポイント②「絶望」=震災の喪失などによる絶望の象徴
なぜケッピは尻子玉を割らねばいけないほどの「絶望」を抱えることになったのでしょう?
そもそも、いつケッピが尻子玉を割ったのかというと、それはカッパ王国歴333年に、カワウソ帝国が攻めてきたときでした。
思うに、このカッパ王国歴333の出来事というのは、やはり震災(とくに東日本大震災)のメタファーなのではないでしょうか?
カッパ王国歴333年を表したカットの背景に、関東大震災で崩壊した凌雲閣や、関東大震災で発生した火災旋風などが描かれていることから、それは震災を表現していると推測できるというのは以前の考察でも書きました。
震災は言うまでもなく、多くの命の喪失、大切なつながりの喪失を生じさせます。
現実の震災による喪失で生じた、たくさんの絶望を受け入れきれない人々の姿が、『さらざんまい』では、ケッピが「絶望」に耐えきれなくて「黒ケッピ」として分離させてしまうこととして描かれています。
要するにまとめるとこうです。
- 「黒ケッピ」=「絶望」だけど、「絶望」は単なる絶望じゃない
- ポイント①「絶望」は何かを欲望するエネルギーになる(ex. 大切な人の喪失による絶望が、恨みを晴らしたいという欲望やもう耐えられないから自殺したいという欲望に変わる)
- ポイント②黒ケッピ(=「絶望」)は、現実世界における震災などの喪失による絶望を象徴している
- カッパ王国歴333年は震災のメタファー。現実の震災による喪失で生じたたくさんの絶望を受け入れきれない人々の姿が、『さらざんまい』では、ケッピが「絶望」に耐えきれなくて「黒ケッピ」として分離させてしまうこととして描かれている
ちなみにカッパ王国歴333年の背景に表されているのは、浅草の地と関係が深い「関東大震災」なわけですが、ここで表現したい「震災」として幾原監督の念頭にあるのは「東日本大震災」だと考えられます。
なぜなら、幾原監督はことあるごとにインタビューで東日本大震災に触れていますし、監督はとくに現在進行形の問題にコミットメントすることにこだわっているからです。
それはともかく、要するに黒ケッピは人々が受け入れきれなかった「絶望」のメタファーだと考えられます。
しかしここで新たな疑問が生じます。
その疑問とは、カッパ王国歴333年が震災のメタファーなら、カワウソが攻めてくることは何を意味しているのか?カワウソが攻めてくることも震災のメタファーになっているのか?という疑問です。
これに答えるには、カワウソとは何だったのかを考える必要があります。
Q3. カワウソって、結局なんだったの?
A3. 独善的な欲望
a. 作中における「カワウソ」の定義
作中での「カワウソ」の定義をまとめると以下のようになります。
- 欲望を映し出す鏡(第九皿より)
- 概念としてこの世に存在している(第九皿より)
- 「真武を支配したいと思っているのはお前だよ、玲央」(第九皿より)
- 「我々はお前たちの欲望そのもの」(第十皿より)
- 「我々は見る者の望む姿でこの世界に顕現することができる」(第十皿より)
(一見すると「欲望を映し出す鏡」と「欲望そのもの」というのは矛盾しているように思えるかもしれませんが、「欲望そのもの」でありながら、顕現するときには「鏡」のように顕現すると捉えれば矛盾しないと思います。)
要するに「カワウソ」=「欲望」と捉えてよいと思うのですが、注意すべきことは、「カワウソ」の「欲望」は一般的な「欲望」とは少し違うということです。
では何が違うのかというと、「カワウソ」は「欲望」でありながら、ある欲望だけは反映しないと考えられる点が違います。
その欲望とは、「つながりたい」という欲望です。
b. 「カワウソ」は「つながり」たいという欲望だけは持たない
「カワウソ」は誰かの「欲望そのもの」でありながら、「つながりたい」という欲望だけは反映しないと考えられます。
なぜなら、「カワウソ」は「つながりは毒だ」(第九皿より)と考えているからです。
「カワウソ」が皿のないカッパであるのも、その点に理由があります。
皿というのは「まあるいえん」です(※ただし皿は完璧ではなくそこには「欲望」がかけている。また皿は他にも物質的なものとしての意味ももつ)。
「まあるいえん」がない=「つながり」がないカッパの姿が「カワウソ」なのです。
だから「カワウソ」は真武に「玲央とのつながりは捨てなさい」と言うのです。
またそれゆえに、「カワウソ」が反映する欲望は、独善的な欲望に限られると考えられます。
「真武を支配したいと思っているのはお前だよ玲央。この空虚な機械の心臓に口づけしたいと思っていたのも」というセリフからわかる通り、玲央は本当の真武と「つながりたい」と望んでいそうなのにもかかわらず、実際は真武を「支配する」という一方的な関係に押し込めたいと望んでいます。
その「真武を支配したい」という欲望は、まさに独りよがりな欲望、独善的な欲望です。
以上をまとめると次のようになります。
- 「カワウソ」とは誰かの欲望そのもの
- しかし現実に顕現するときには、概念として、誰かの欲望を映し出す鏡として存在する
- ただしその際、「つながりたい」という欲望は反映しない
- なぜなら「カワウソ」は「つながりは毒だ」と考えているから
- さらに「カワウソ」は「つながりは毒だ」と考えているがゆえに、特に誰かの独善的な欲望を主として反映する
以上のことを踏まえると、カッパ王国歴333年の出来事の全貌が見えてきます。
c. カッパ王国歴333年にカワウソが攻めてきたことは何を意味するのか?
結論から言うと、それは超自我が抑えきれないくらいの独善的な無意識の欲望が氾濫してきたことを意味すると考えられます。
「カワウソ」が概念なら、「カッパ」も何かしらの概念なのではないかと考えられるのですが、以前ツイートしたように、私は「カッパ」=「超自我」=「暴走しすぎた欲望や社会規範に合わない欲望を抑圧する働きをもつもの」と考えました。
それを踏まえると、やはりカッパ王国歴333年は震災のメタファー、あるいは震災の縮図と言えると考えられます。
そこで表されている震災の縮図とは以下のようなものです。
- 震災が起こって、多くの「つながり」の喪失が起き、超自我が抑えきれないほど、人々の様々な無意識な欲望が氾濫した∽カワウソ帝国がカッパ王国に攻めてきた
- 「つながり」の喪失と、無意識的な欲望の氾濫が、人々に大量の「絶望」を生じさせた∽ケッピに「絶望」が欲望エネルギーの一種として蓄積した
- 喪失に耐えきれなくなったある一定の人々は、「絶望」を切り離して、忘れた(受け入れなくした)∽ケッピが尻子玉を二つに割って、黒ケッピを切り離した
以上のことで、「黒ケッピ」、「カワウソ」とは何か、それが意味するところは何かというのはだいたい考えられたと思います。
これらを踏まえると、最終決戦の意味をさらに深く捉えられると思われます。
Q4. 改めて、最終決戦が意図することとは?
A4. 世界が「絶望」を受け入れ、「独善的な欲望」を乗り越え、「つながり」を手にしたこと
ポイントは3つです。
a.世界が「絶望」を受け入れた
b.世界が「独善的な欲望」を乗り越えた
c.世界が「つながり」を手にした
おそらく以上を読んできた方ならご理解いただけると思うのですが、念のためそれぞれについて軽く説明します。
a. 世界が「絶望」を受け入れた(vs黒ケッピ)
ケッピが黒ケッピと融合するというのは、カッパ王国歴333年には受け入れきれなかった「絶望」を引き受けるという意味を持ちます。
そしてそれは、震災における喪失などの「絶望」を人々が受け入れることに対応していると考えられます。
だから最後のサラからのメッセージは「喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」なのではないでしょうか。
そこには「喪失の痛みを抱えてもなお」という乗り越えが必要なのです。
これについては後でまた詳しく書きます。
b.世界が「独善的な欲望」を乗り越えた(vs. カワウソ)
一稀たち3人は、「独善的な欲望」であるところの「カワウソ」に打ち勝って、「つながり」を手にします。
「つながりは毒だ」と考える「カワウソ」を倒してまで、「つながり」を求めたと言ってもいいかもしれません。
「絶望」を引き受けて「つながり」を手にした、だからこそ「独善的な欲望」を体現し、「つながりは毒だ」と考える「カワウソ」は消えていったのではないでしょうか。
c.世界が「つながり」を手にした
一稀たちが「ミサンガ」という円(縁)を4年前の一稀に渡すことで、世界は再び「つながり」を取り戻します。
ただここで注意したいのは、「つながり」を手にしたのは世界だけではないということです。
ここでは、春河=(イクニ作品における)「愛」の象徴もまた「つながり」を手にしたと考えられます。
これについては<後編>の方で語っていきたいと思います。
長くなったのでここらへんで<前編>を切り上げたいと思います。
<後編>では、
Q4. 「未来」が漏洩したことには何の意味があるの?
Q5. 「欲望の河を渡れ」ってどういう意味?
Q6. どうして春河はケッピとサラを見て「星の王子さまとお姫さま」と言ったの?
Q7. 最後の春河の言葉の意味って?
Q8. 悠が河に飛び込んだことは何を意味するのか?
Q9. 最後にカッパの姿の3人が流れていったのはどうして?
といったことについて考えていきます。
<後編>