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さらざんまい考察番外編「命の分岐のライン」について

はじめに

これは私が見聞きした「存在できる命と存在できない命の分岐のライン」という幾原監督の言葉だと思われる文言に関して考えたことをまとめたものです。

 

つまり、まず初めに承知しておいていただきたいのは、この記事が伝聞をもとにして書かれた不確かなものであるということです。

 

そのようなこともあり、これを記事にするかどうかは迷ったのですが、もしこの情報が確かならば、この「命の分岐のライン」は『さらざんまい』のテーマに深く関わると考えられ、したがって、その問題意識をより多くの人と共有すべきではないかという考えのもとに、これを記事にまとめることとしました。

 

また、以下で述べることはすでに twitter でもつぶやいたことなのですが、ほんの少しだけ改変を加えました。(下記参照)

 

「命の分岐のライン」について

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『さらざんまい』、やっぱり欲望の在り方を相対化する方向へ進んで行くと思うのですが、その先にある「存在できる命と存在できない命の分岐のライン」がやっぱりまだよくわかりません。

 

欲望の在り方の相対化に向けて、今後は、今は一見するとカッパ=善で、カワウソ=悪っていう構図に見えるけれど、やがてその見方はどうも正しいとは言いきれないとわかってくる、ということが考えられます。

 

なんなら、ものの見方によってはカワウソ側がやっていることすら「善」に見えてきてしまいます。なぜなら、カワウソ側はねじ曲がった欲望をもった人間を殺して、排除してくれるわけですから。女の入った風呂から残り汁を抜くような変態を人間世界から排除するというのは、むしろ人間にとって「善い」ことのようにも思えてしまうわけです。

 

ただそういう見方は危険だとわかってきます。なぜなら見ようによっては、一稀は女装趣味の変質者、悠は人殺しのブラコン、燕太は寝てる人間にキスしてしまうような変態だと言うことになり、それってカパゾンビのような排除すべき対象と何が違うの?ということになってしまうからです。

 

つまり問題は、善悪というものの見方にあります。禍々しい欲望は、場合によっては「悪」として排除の対象になってしまうわけですが、その場合、「悪」というのは人間にとっての「悪」という意味になります。人間が生きていく上で役に立たない、あるいは邪魔なものを「悪」としてしまうということです。

 

『さらざんまい』でも、やがてその善悪のものの見方が相対化されるのではないかと考えられます。つまり、一稀・悠・燕太が自分たちもカパゾンビとあまり変わらないことに気づいてきてしまうのでしょう。そうなると一稀・悠・燕太はケッピの味方ではいられなくなるかもしれません。

 

ただ、カワウソ側に好き勝手やらせても、それはそれでいけないわけです。カパゾンビがどんどん欲望の対象を人間から奪って、奪いつくしてしまったら、人間は欲望のない、まさにゾンビみたいになってしまうでしょうからです。これはイメージ的には『ハーモニー』で意識が消滅した後の世界に近いですね。

 

このへんがこないだ言った「生きている」とはどういうことかに繋がってきます。つまり、「生きている」というのは満たしきれない欲望を抱えているということであって、欲望なしの人間は腑抜けのゾンビ、死んでいるようなものです。

 

そこで問われるのは人間の生き死にですが、『さらざんまい』においては、ここにカッパもカワウソも関わってきます。つまりカワウソの生き方を尊重すれば、人間はこれからも欲望を食われてもよいことになりますが、人間の生き方を尊重すれば、欲望を奪うカワウソは許せないということになります。

 

また、カッパの生き方を尊重すれば、カワウソの目的は果たされないし、人間も欲望消化されて困ってしまう。したがって問題は、人間・カッパ・カワウソのどの生き方を尊重するのかということになってきます。

 

これが「存在できる命と存在できない命の分岐のライン」の意味するところでしょうか?そうなると『さらざんまい』というのは一種の共同体論のようにも受け取れますが、それだと少し単純すぎるでしょうか?

 

つまり、「変態とかLGBTとか色んな多様性を認めて共生しよう」というメッセージを発するのなら、それは少し単純すぎるのかもしれません。例えば、ある人が突然、僕はホモなのでよろしく、とカミングアウトしても、全員が全員に受け入れてもらえるとは限りません。

 

誰かと共に生きるには、ここまでは認めてあげるけれど、ここからは公には認められないな……という線引きが必要になってくることがあります。その線引きをどこでするのか、どこですればいいのか、それが難しい問題です。

 

『さらざんまい』がそういう線引きをどういう形で提示してくるのか、非常に興味深いです。以上のような文脈を考えると、「存在できる命と存在できない命の分岐のライン」といったときの「命」とは、おそらく、生物学的な「命」のことではなくて、「欲望」の生き死にだと考えられます。

 

つまり、人間は満たしきれない「欲望」をもっているという意味で「生きている」けれど、その生命力あふれる生きる欲望をどこまで「生かしてよい」のか、あるいはどこからは「生かせない」のか、その分岐が「命の分岐のライン」だと考えられます。

 

以上、「命の分岐のライン」について考えてきましたが、もちろん今言ってきたことが全く的外れである可能性もあります。それも含めて『さらざんまい』、しっかり見ていきたいと思います。

 

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