Ⅰ. はじめに
ⅰ. 「狂人」の罵言
――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、わいせつな、ずうずうしい、うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物なんだろう。出て行け! この悪党めが!」
(芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫, 1968) p66-67より引用) *1
河童の国の物語は、この「狂人」による人間への痛烈な罵言から始まります。
まさに気が狂ったかのようなこの罵言は、『河童』を読む前と読んだ後とでは印象が異なってきます。
そしてまさにそこにこそ、『河童』という作品の、一つの主題があります。
いったい「狂人」は河童の国で何を見たのでしょうか? はたして『河童』という作品は何を伝えたかったのでしょうか?
この記事ではそんな芥川龍之介の『河童』について読解・解説していきます。
以下ではまず簡単なあらすじなどを紹介しますが、既読の方はもちろんとばしていただいて構いません。
ⅱ. あらすじと無料で読めるサイトの紹介
a. あらすじ
ここでは簡単に三行でまとめておきましょう。
- 或る精神病院で「狂人」が「河童の国」へ行ったときの体験談を語りだす。
- 「狂人」はそこで様々な河童と出会い、人間の世界とは異なる河童の世界を体験する。
- 回想が終わり、結局人間界へ帰ってきた「狂人」は、カッパの国に想いを馳せる。
大枠だけ言うと、こんな感じです。
やや詳しいあらすじはWikipediaで見られるので、ご覧になりたい方は下記リンクを参照してください。
b. 無料で読めるサイト(青空文庫, Kindle)
上記リンクから無料で、すべて読むことが出来ます。
また、Kindleストアでも検索していただければ無料で読めます。
当たり前ですが以下ネタバレを含みますので、深いご理解のためにも一読することをおすすめします。
Ⅱ. 『河童』=「問題提起」の物語
結論から言うと、『河童』は「問題提起」の物語だと言うことが出来ます。
簡単言うと、『河童』は私たちに様々な問題を考えさせるきっかけを与えてくれているということです。
そのとき鍵になってくるのが、人間と河童との価値観の違いです。
その中でも一番不思議だったのは河童は我々人間の真面目に思うことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを真面目に思う――こう云うととんちんかんな習慣です。(p74)
この価値観の違いが、様々な問題系を相対化する(=一面的な見方を、それが唯一の味方ではないと提示すること)助けとなっています。
つまり、『河童』で提起される問題は、人間とは異なる「河童」と言う存在を通すことによって、より相対化された形で、批判的な形で提起されると言うことが出来ます。
では、『河童』が提起する問題とは、いったいどのような問題なのでしょう?
そしてそれはなぜ提示されるのでしょう? あるいはどのような形で提示されるのでしょう?
以下では、『河童』が提起した問題について、それが問題となった背景も踏まえて、詳しく考察していきたいと思います。
Ⅲ. 『河童』が提起する問題
ⅰ. 「家族」に関する問題
a. 出生に関する問題
河童は生まれてくるか否かを自分で決められることになっています。
奇妙に思えますが、実際作中では父親が「生まれて来るかどうか、よく考えて返事をしろ」と母親の生殖器に口をつけて聞くと、お腹の中の赤ん坊は「僕は生まれたくありません」などと返事をします。
河童にしてみれば、むしろ親を選べない人間のお産の方が「両親の都合ばかり考えているのは可笑しい」というわけです。
また、ここには遺伝の問題が深く関わっています。
b. 遺伝に関する問題
「生まれたくありません」と言った赤ん坊は、生まれたくない理由として父親の精神病の遺伝への懸念を挙げています。
お父さんの精神病が遺伝したら大変だ、というわけですが、ここでただちに思い起こされるのは、芥川龍之介の母親が精神病者であったという事実です。
龍之介の実母フグは、龍之介が生後9ヶ月の頃発狂し、彼が10歳のときに亡くなります。
その実母の精神病が自身にも遺伝しているのではないかという龍之介の恐怖が、精神病遺伝を恐れる河童という設定の一因となっていると考えられます。
実際、当時は精神病が遺伝すると考えられていましたし、『河童』の中でも生活教の長老が「遺伝」を「運命を定めるもの」の一つとみなしています。
遺伝がどれほど我々の運命を左右するのか、本当のところはわかりませんが、芥川の遺伝に対する恐怖は理解できますし、人は親を選べないというのもまた事実です。
「両親の都合ばかり考えているのは可笑しい」という主張は、人間社会の出生に関する制度や遺伝の問題についての一つの批判ととることができるでしょう。
c. 結婚に関する問題
また、遺伝の問題に関しては結婚が大きく関わってきます。
河童の国では、「悪遺伝子」を撲滅するために「健全な男女の河童」は「不健全なる男女の河童と結婚せよ」という、めちゃくちゃマッッチョな優勢思想が展開されています。
遺伝的義勇隊を募る!!!
健全なる男女の河童よ!!!
悪遺伝子を撲滅する為に
不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!(p77)
このように、河童の国では優勢学的な手法が結婚に取り入れられているのですが、それは人間の世界でも行われているだろう?と、河童のラップは嘲笑します。
「行われない? だってあなたの話ではあなたがたもやはり我々のように行っていると思いますがね。あなたは令息が女中に惚れたり、令嬢が運転手に惚れたりするのは何の為だと思っているのです? あれは皆無意識的に悪遺伝子を撲滅しているのですよ。(p77)
すなわち、令息と女中、令嬢と運転手のような身分違いの恋愛(結婚)というのは、悪遺伝子を撲滅するために行われているとラップ見ているわけですね。
今でこそ優生学的な施策がとられることはなくなりましたが、河童が発表された20世紀初頭は世界的に優生学的施策が採用され始めた時期であり、日本でも優生学運動などが始まった時期でした。
『河童』では、人間の「僕」は「そんなことの行われないこと」を述べていますが、河童たちは行っている、そこに結婚と優生学に対する問題提起を見ることはできるのではないでしょうか。
d. 恋愛に関する問題
また、「結婚」だけでなく、そもそも「恋愛」からして人間と河童とでは大きく異なります。
河童の恋愛の大きな特徴として、雌から雄に激しいアプローチが行われるという点が挙げられます。
雌の河童はこれぞと云う雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉えるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追いかけるのです。現に僕は気違いのように雄の河童を追いかけている雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の両親や兄弟まで一しょになって追いかけるのです。(p81)
「如何なる手段も顧みません」、「両親や兄弟まで一しょになって追いかける」ということですから、相当激しいアプローチがとられるわけで、現にラップというカッパの学生を例にとれば、雌の河童に抱き着かれて追われたあげく、何週間か寝込み、しまいにはくちばしが「すっかり腐って落ちて」しまったほどです。*2
このような激しいアプローチがやまない理由として、本文では「官吏の雌の河童の少ない」こと、「雌の河童は雄の河童よりも一層嫉妬心が強いこと」が挙げられていますが、ここには芥川自身の私見が透いて見えます。
すなわち、ここには女流歌人秀しげ子に執拗に追いかけられたことをはじめとして、様々な女性に苦しめられた芥川の経験が透けて見えるのです。
したがって、ここは相対的な批判というよりは、芥川の私見まじりの女性への批判意識の表れと見る方が妥当でしょう。
ただし、同時代の他の文豪たちも女性たちに悩まされたり、作品に女性の否定的な面が表現されていたことを考えるなら、より普遍的な女性批判ととることも不可能ではないとも考えられます。
e. 家族制度に関する問題
さらに、『河童』ではそのような恋愛の問題の延長線上にある家族制度に関する問題も見て取れます。
『河童』では、家族制度に四苦八苦する河童の様子が描かれています。
親子夫婦兄弟などと云うのは悉く互に苦しめ合うことを唯一の楽しみに暮らしているのです。殊に家族制度と云うものは莫迦げている以上にも莫迦げているのです。(中略)窓の外の往来にはまだ年の若い河童が一匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のまわりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いていました。(p77-78)
例えばトックという詩人の河童はこの様子をばかげていると罵言し、そのような家族制度を否定的に捉えています。
他にも「生活教」の長老などは家族に苦しめられているのですが、これらについても、家族によって苦労した龍之介の経験が背景にあると考えられます。
それは例えば、前述したように母を失ったことや、そのために養父母の下で育ったこと、それから後述するように義兄の自殺によって残された借金の後処理をしなければならなかったことなどが挙げられます。
そのように、家族に関して様々な苦労を背負ったことが、河童の国でも家族制度の苦しい部分が描かれていることの一因となっていると考えられます。
ところが以上の事とは反対に、家族制度を捨てきれない、あるいはうらやましく思うような描写も見られます。
例えばそれは、トックのようには大胆に家族を捨てられないという学生河童のラップの態度や、あるいはさっきは家族制度を否定していたトックの「ああ云う家庭の容子を見ると、やはり羨ましさを感じるんだよ」という言葉などに見ることができます。
以上のことから、家族制度を苦しいものだと考えつつも、どこか捨てきれないような態度が『河童』からは読み取れます。
ただしこの場合の家族制度は、「一家の大黒柱」的な旧来の封建的家族制度の反映であって、そこに芥川の限界を見ることもできます。
ただいずれにせよ、『河童』で家族制度が一つの問題となっていることには変わりはないと言えます。
以上、大きくまとめて「家族」に関する問題についてまとめてきました。
総じて言えるのは、「家族」は芥川の経験に根付く問題と関連しており、『河童』にはそうして芽生えた芥川の批判意識が反映されているということです。
このことは次に見ていく「政治」に関する問題、そして「芸術」に関する問題についても同様のことが言えます。
ⅱ. 「政治」に関する問題
a. 資本家と労働に関する問題
「政治」に関して、まず見られるのが資本家と労働に関する問題です。
『河童』には「ゲエル」というガラス会社の社長である資本家が登場するのですが、資本家と労働に関しては主に彼が批判の対象となっています。
まずもって、「ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もいなかったのに違いありません(p87)」という描写と「茘枝*3に似た細君やキュウリに似た子供」という描写の対比からは、自分だけ贅沢をする資本家への皮肉を感じます。
中でも、資本家と労働に関して『河童』で一番の問題となっているのは「職工屠殺法」だと言えます。
「職工屠殺法」とは、労働者が過剰になると殺してもよいと国家的に認めるというショッキングな法律です。
それを聞いた人間の「僕」はもちろんそれを疑問に思うのですが、「あなたの国でも第四級*4の娘たちは売笑婦になっているではありませんか? 職工の肉を食うことなどに憤慨したりするのは感傷主義ですよ」(p89) と反論されてしまいます。
この部分は、当時の労働者階級への解雇は殺人に等しい打撃であること、そして社会的地位の低い女性に体を売らせる行為は殺人に等しい行為であることを示す、二重の批判になっていると考えられます。
以上のことは、河童の国同様、大量生産をはじめとする合理的な労働が進んでいた当時の日本の潮流に、芥川は警鐘を鳴らしたのだと見ることができます。
b. 政治的癒着に関する問題
また、ゲエルは政党や新聞社を支配していると語っており、ここには政治的癒着に対する風刺が見られます。
ただし、そんなゲエルを支配しているのはゲエルの妻だと語られる当たりに、何か人間らしいもの、あるいは前述したような芥川の何か家族を捨てきれないところが表れているとも言えます。
c. 戦争に関する問題
続いて話は河童と獺の間に起こった戦争についての話題に移ります。
河童と獺の戦争は、とある雌河童が亭主を殺そうと目論み、用意した青酸カリ入りのココアを、誤って客の獺に飲ませてしまったことから始まります。
そのように些細な、しかし決定的な過ちから戦争が始まること自体、何か皮肉のようにも思えますが、ここでの問題は主にゲエルが戦争を利用して大量の利益を得ていたことにあると考えられます。
ゲエルは哲学者のマッグの言葉と「愛国心」を盾に、自分の行為を正当化しようとしていますが、ここに透けて見えるのは、日清・日露戦争を利用して巨額の利益を得た日本の資本家への批判です。
以上のように、『河童』では主に資本家ゲエルを通して、労働や政治、資本主義に関する批判が展開されるのですが、それでもゲエルは「人懐こい」存在、「軽蔑することも出来なければ、憎悪することも出来ない」ような存在として描かれます。
それはおそらく、ゲエルが、前述したような妻に支配される存在、明るく人懐こい性格をもった存在というような、人間味(河童味?)のある一個の存在として資本家とは切り離して見るという、芥川の視点があったからではないでしょうか。
d. 法律に関する問題
また、以上のような話とはやや別個に、法律に関する問題が語られています。
この問題は、以前「僕」の万年筆を盗んだ河童が、河童の国独自の法律の影響で無罪となるという事件に見られます。
河童の国独自の法律というのは、「如何なる犯罪を行いたりと雖も、該犯罪を行わしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず」という法律です。
これによって、万年筆を盗んだ河童は、その盗んだ万年筆をあげるはずだった子供が亡くなってしまった=犯罪の目的が失われたために、無罪となったのでした。
ここで想起されるのは、芥川の義兄が借金を抱えたまま自殺し、その借金や残された家族に関して芥川が大きな負担を背負うことになったという事実です。
「親だった河童も親である河童も同一に見るのこそ不合理です」という河童側の言い分は、そのまま義兄のしりぬぐいをさせられた芥川自身の嘆きにも聞こえてくるわけです。
以上、「政治」に関する問題を見てきましたが、やはりここでも、冷静に社会批判や当時の日本に対する問題提起が行われながらも芥川ならではの視点が導入されていると見ることができるでしょう。
ⅲ. 「芸術」に関する問題
a. 検閲に関する問題
『河童』には、芥川の芸術に対する考えが色濃く表れていると読むことができます。
例えば、「僕」がクラバックという名高い河童の音楽家の演奏を聞きに行く場面からは、検閲に関する問題が読み取れます。
演奏会は、それを監視していた「巡査」の「演奏禁止」という声により中断させられます。
哲学者のマッグによれば、河童の国では絵や文芸といった「誰にもにも何を表しているかは兎に角ちゃんとわかる」ものに対しては検閲は行われず、理解しがたい音楽に対しては「演奏禁止」をされてしまうということでした。
もちろん、絵や文芸が「誰にも何を表しているか」わかるはずはありませんから、これは当時の検閲者、あるいは芥川の作品を理解しない者への皮肉なわけです。
実際、芥川自身も検閲を受け、作品を伏字だらけにさせられたこともあったようです。
b. 芸術家の苦悩に関する問題
検閲だけでなく、『河童』には様々な芸術家の苦悩が描かれています。
例えば音楽家のクラバックは、同じ音楽家である天才ロックから影響を受けてしまうことを苦悩しています。
あるいは詩人のトックは、「詩人としても疲れていた」ために自殺をしてしまいます。
また後にトックは、「死後の名声を知らんが為」に霊となって現れており、芸術家としての捨てきれない我執を感じることができます。
言うまでもなく、これらの苦悩は芥川自身の苦悩と重ねることができるでしょう。
c. 芸術至上主義に関する問題
芸術に関する大切な問題として、『河童』からは芸術至上主義に関する問題を読み取ることができます。
芸術至上主義とは、芸術は他のものの手段としてではなく、それ自体が目的であるとする態度=芸術のための芸術のことです。
芸術至上主義に関する問題は、『河童』においては詩人トックと音楽家クラバックとの対比に見ることができます。
詩人トックは、前述したように、最終的には芸術にも行き詰まって自殺し、芸術至上主義を貫けなかった存在として描かれます。
それはトックが、芸術を至上とする「超人」という存在であり続けることができなかったからです。
「超人」は、ニーチェに由来する言葉だと考えられますが、『河童』では「超人」とは「芸術は何ものの支配設けない、芸術の為の芸術である」という姿勢を貫く、「善悪を絶した」存在だと語られます。
トックの場合、芸術以外のこと、特に世俗的な事柄にとらわれていたためにこの「超人」であり続けることはできなかったと考えられます。
それは霊になって、自分の作品の売れ行きを気にしたり、同棲していた女友達や子供のことを気にかけたり、家のこと尋ねる様子からうかがえます。
これに対して、芸術至上主義を貫いた、ひいては「超人」であり続けた存在として音楽家のクラバックが挙げられます。
それを象徴する彼の行為が、トックの自殺後のシーンに見られます。
トックの自殺後、うろたえる「僕」たちをしり目に、クラバックは突然、「しめた! すばらしい葬送曲が出来るぞ」と叫びます。
友人の死よりも先に作曲のことを考えるその姿勢は、まさに「善悪を絶した超人」の姿勢、芸術至上主義を貫く姿勢だと言えるでしょう。
そしてこれはそのまま芥川自身の身の上とも関連してきます。
芥川は、『地獄変』や『戯作三昧』などでは芸術至上主義を貫いた人間を描いていますが、『侏儒の言葉』や『文芸的な、余りに文芸的な』では芸術至上主義にやや否定的な立場をとっています。
では芥川自身はというと、死後の名声を気にする側面、最後まで家族を捨てきれないような側面を見せており、どちらかというと詩人トックに近い、芸術至上主義を貫き切れない人物だと考えられます。
『河童』ではもちろん、どちらが良いとか悪いとかは書いていませんが、そこには芸術至上主義に対する芥川の問題意識が読み取れると言えるでしょう。
以上、「芸術」に関する問題を見てきましたが、ここでは特に芥川自身の問題意識が絡んでいるのではないかと言えそうです。
最後に、以上のような様々な問題を、より相対化する形で、より批判的に見られる形で提示する「狂人」の語りと「河童の国」いう設定について考察し、この記事をしめたいと思います。
Ⅳ. 「狂人」の語りと「河童の国」という設定
結論から言うと、「河童の国」という設定と、それを「狂人」に語らせるという構造は、そこで示される問題系を、より相対化した形で、より批判的にみられる形で提示するためのものだと考えることができます。
一見すると、精神病の「狂人」が語っている「河童の国」の物語は嘘っぱちのように思えるのですが、逆説的なことに、「狂人」が語るからこそ、「河童の国」の物語が真実味を帯びてくると言えます。
例えば、「狂人」という設定がなく、『河童』が本当の話として語られたときのことを想像してみてください。
「これは本当の話なのですが……」などと、「河童の国」の話をされても「絶対嘘だろう」と思われるのが関の山ではないでしょうか。
むしろ「これは狂人が語ったことなので本当か嘘かわからないのですが……」という語りにした方が、「嘘かもしれないけれど本当かもしれない」、「嘘かもって言っているところが信用に値する」というような心理になり、より物語を「本当っぽく」受け取れるのです。
さらにこの「本当っぽい」語りを助けるのが「狂人」という設定です。
「狂人」というのは狂っている、狂っているからこそ妄想の世界、想像の世界の出来事をペラペラとしゃべる、でもだからこそ、「狂人」はどこか我々「普通の」人間とは違って、こことは違う別の場所、異世界とつながっているような存在のように感じられます。
だから「河童の国」という異世界に真実味が出てくるのです。
そしてそのように絶妙に「本当っぽく」、また同時に「嘘っぽく」もあるからこそ、我々は「河童の国」の物語を、相対的に、批判的に見ざるを得ないと考えられます。
もしこれが「河童」の物語ではなく、別世界の「人間」の物語だったなら、我々はこの物語をもっと否定的に見たことでしょう。
つまり、「河童」という人間ではない存在が行っている行為だからこそ、「ああ、河童はそういう性質なのか」と素直に受け取ると同時に、「それってどうなんだろうな」と批判的に見ることも可能にしているのです。
しかし、そこに描かれている問題は、上で見てきたように、現実に寄り添った、人間に関する問題ばかりであって、実際には人間の問題を批判的に考えさせられているという構造になっているわけです。
以上のように、「狂人」としての語り、「河童の国」という設定こそが、そこに描かれた問題を、より相対的に、批判的に見られるような効果を及ぼしていると言えるでしょう。
そして『河童』の最大の「相対化」は、「狂人」というのは、物語を語る「僕」ではなくて、あなたたち人間の方ではないのですか?という問いかけにあります。
Ⅴ. 「狂人」とは誰なのか?
ここで物語は一巡し、相対化は極まります。
もう一度「狂人」のあの初めの発言を見てみましょう。
――「出て行け! この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、わいせつな、ずうずうしい、うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物なんだろう。出て行け! この悪党めが!」 (p66-67)
「河童の国」の物語をすべて聞いた後では、聞く前と比べて、この発言が全然違ったものに聞こえるのではないでしょうか。
つまり、人間の世界で当たり前とされていることは、河童の世界では当たり前とされていない、「河童は我々人間の真面目に思うことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを真面目に思う」、そんな世界を十二分に見てきた私たちは、今度は人間自体に疑いの目を向けることになるのです。
そうして人間に疑いの目を向けて初めて、「狂人」のその最初の発言の意味が理解できるようになります。
「河童の国」を見た後では、人間の世界では子供より親の都合が優先され、身分違いの恋が許されず、死んだ家族の面倒まで見なければいけず、汚い政治家たちが政治を行い、戦争で金もうけをする輩までいる、芸術も理解されない世界であって、まさに人間とは「莫迦な、嫉妬深い、わいせつな、ずうずうしい、うぬ惚れきった、残酷な、虫の善い動物」のように思えてきてしまうのです。
はたして「狂人」とは誰なのでしょうか?
今、精神病棟で目の前にいるこの物語る「狂人」だけが狂っているのでしょうか?
むしろ狂っているのはこの目の前の精神病患者ではなくて、人間全員が狂っているのではないでしょうか?
だから医者のチャックは言うのです。
この精神病患者は「早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆患者はS博士を始め、あなたがた自身だ」と。
Ⅵ. おわりに
以上、芥川龍之介『河童』を読解・解説してきました。
広く浅くではありますが、だいたいの論点を網羅できたのではないでしょうか。
今回は本筋をストレートに追おうとしたので、本筋からややずれる点(哲学書のくだり、「生活教」のくだり)についてはとばしてしまったのですが、余裕があればそれも書き足したいです。
果たして「狂人」とは誰なのか、それを考えさせるのが『河童』であって、それはまさに私たちをニーチェが言うような「善悪の彼岸」へと導いてくれるような書物だと言えます。
またじっくりとこの本を読み返してくると、時代が進んだ現代でも、人間の者の見方が相対化されてくるかもしれません。
最後までお読みいただきありがとうございました!
<関連記事>
<参考文献>
芥川龍之介『河童・或阿呆の一生』(新潮文庫, 1968)
芥川龍之介『河童 他二編』(岩波文庫,1969)
鳥羽徹哉・布川順子 監修『現代のバイブル 芥川龍之介「河童」注解』(勉誠出版,2007)
宮坂覺『芥川龍之介作品論集成 第6巻 河童・歯車 晩年の作品世界』(翰林書房,1999)