Ⅰ. はじめに
真武は結局、尻子玉を抜かれて「縁の外」に行ってしまったのでしょうか?
もし真武が「縁の外」に行ってしまっていたとしたら、普通に死んだだけ(?)の玲央とは離れ離れになってしまわないでしょうか?
普段はあまりこういう試みはしないのですが、第十皿は情報量が多く、また話全体から見ても重要な話だと思うので、今回はその十皿について感想・考察を述べていきたいと思います。
玲央と真武に関して、カワウソに関して、星の王子さまに関して、あるいは「つながり」と「欲望」というテーマに関して、第十皿からはどのようなことが言えるでしょうか?
最終話目前の今、情報を整理しつつ、改めて『さらざんまい』についてしっかりと考えてみたいと思います。
Ⅱ. 玲央と真武について
ⅰ. 「愛してる」と言えない――心臓の呪い――
玲央と真武が離れ離れになってしまったのか考えるために、まずは第十皿の内容を簡単に確認していきたいと思います。
カワウソは、真武が玲央と再会する条件として、玲央とのつながりを捨てることを課しました。
「つながりは毒だ。お前が愛の言葉を玲央に告げると、その心臓は爆発して跡形もなくなる」
要するにここで真武は、玲央に愛の言葉を伝えると心臓が爆発するという畜生みたいな呪いをかけられたわけです。
それをわかった上で真武は、玲央とつながりたい、そばにいたいという思いを押し殺し、「"私" は玲央が嫌いです」と玲央とのつながりを捨てる宣言をします。
一人称を「俺」から「私」に変えるという、ささやかな抵抗を残して。
ⅱ. 「ずっとお前を愛している」
「今までもこの先もずっとお前を愛している――」
真武が玲央にそう告げた直後、画面はまばゆいほどの白い光でおおわれて、爆発のような水蒸気が立ちます。
これはどういうことでしょう?
これはおそらく、真武が「愛の言葉を玲央に告げ」たため、前述した「呪い」が発動し、心臓が爆発したのだと考えられます。
玲央がずっと「人形」だと思っていた真武は、むしろずっと「玲央とつながりたい」、「玲央と共に生きたい」という人間らしい、暖かい感情を抱いていたということがここで明らかになりました。
ⅲ. 真武は「縁の外」にはじかれていない……?
今までのカパゾンビたちと異なり、「マブ」と書かれたリングは、完全に「縁の外」にはじき出されていないように描写されています。
では、本当に真武は「縁の外」にははじき出さてはいないのでしょうか?
私は、いろいろと考えると、残念ながら「縁の外」にはじき出されてしまったのではないか、と思いました……。
たしかに、真武は「欲望消化」の直前に爆発して死んだ(?)という点で例外的なのですが、今までのカパゾンビたちはそもそもカパゾンビになる前に死んでおり(そもそもカパゾンビ自体、「生きていて死んでいる」もの)、死んだからといって世界の縁の外側にはじき出されなくなるとは限らないと考えられます。
また、今までのカパゾンビと同様に、写真や玲央の記憶において、真武の存在が「なかったこと」にされており、リアル世界でもTwitterという存在の証が消えています。
そのようなことを総合して考えると、やはり真武は「縁の外」にはじかれてしまったのではないかと解釈できます(あくまで一解釈ですが)。
では結局、「縁の外」にはじかれた真武は、完全に玲央と離れ離れになってしまったのでしょうか?
ⅳ. 玲央は「縁の外」にはじかれたのか?
悠に銃で撃たれた玲央は、ケッピの謎の力によって「レオ」の名が入ったリングに変えられます。
実はここが一番の解釈の分かれ道なのではないでしょうか?
すなわち、ここで玲央が「縁の外」にはじかれたか、はじかれていないかで、玲央と真武が離れ離れになったか否かが決定されるように思うのです。
一見すると、玲央は撃たれてただ死んだだけなので、「縁の外」にははじかれていないように思えます。
しかし、「欲望消化」が済んだ真武のリングと同じ形状のリングになったという点に注目すれば、実はここで玲央もケッピに「欲望消化」されて「縁の外」にはじかれたのではないかと、考えることはできます。
結局のところ、ケッピのリングに変える能力が謎すぎて、ここは判別不可能だとは思います。
ただ、個人的には、「さらざんまい」もせずに「欲望消化」が済むというのは少し無理がある気がするので、二人をリングとしてつなげてあげたのがせめてものお情けなだけで、やはり玲央は「縁の外」にはじかれていないのでは?と思えてしまいます……。
加えて、機械の心臓でついえたはずの命を生き長らえさせ、人々の欲望を搾取するという玲央と真武のしてきた行いは、見方によっては「悪行」とも言えるので、そんな「悪行」を行使した報いとして、罰として、世界とその「縁の外」という決定的な断絶で離れ離れになってしまったと考えることもできると思います。
しかしここは、解釈の多様性が許容される場面だと思うので、いろいろな解釈があってよいと思います。
ⅴ. リングとなった二人――Keep Only One Love――
ただ、もし行く先は離れ離れになったとしても、二人はリングとしてつながり、一つになります。
すでに多くの指摘があるように、この一つと化したリングは、玲央が好んで吸っていた "KOOL" という煙草の銘柄のロゴの "OO" の部分に似ています。
"KOOL" の由来は "Keep Only One Love" だそうです。
「愛の言葉」を告げることができなくなってもただひたすら「一つの愛を貫いた」真武、そして真武が人形になってしまっても彼への「一つの愛を貫いた」玲央、そんな二人を象徴するかのような言葉ですね。
結末はどうあれ、ここだけには、何か救いがあるような気がします。
Ⅲ. 「玲央と真武」Twitter消失の意味
ⅰ. Twitter消失の経緯
「今でもこの先もずっとお前を愛している #真武」
真武の欲望が消化されたときにツイートされたこの最後のつぶやきと同時に、「玲央と真武」のツイートは削除されて行きました。
流れとしては、
- 第十皿放映中(6/14 1:16) : 「今でもこの先もずっとお前を愛している #真武」と呟かれる
- 放送終了直後~(?) : アカウント名が「――」のみとなり、ツイートが徐々に削除されていく(自動か手動かは不明)
- ツイートがすべて消去される(アカウント自体は存在)
のような感じだったと思います。
ⅱ. Twitter消失の意味
a. 真武の存在が「なかったこと」になった
ところで、「玲央と真武」のTwitterが消えたことは何を意味するのでしょうか?
それはまず第一に、単純な意味として、真武が「欲望消化」されたことによって「縁の外」にはじかれ、真武が「なかったこと」になったことを意味していると考えられます。
尻子玉を抜かれたので、これまでのカパゾンビたちと同じく、存在が「なかったこと」になったということですね。
b. 東日本大震災における「つながり」の断絶の再現
さらにTwitterが消えた第二の意味として、メタ的に、つながりの唐突の断絶を再現しているという意味が考えられます。
つながりの唐突の断絶については、幾原監督も言及している東日本大震災を思い浮かべればわかりやすいと思います。
あの未曾有の大災害により、人によっては家族や友人、恋人といった大切なつながりが唐突に失われてしまいました。
「玲央と真武」のTwitterが失われたことは、そのような、昨日までそこにあったつながりが唐突に失われてしまうという「つながり」の「はかなさ」を痛みと共に再現しているのではないかと考えられます。
c. ネット上の「つながり」のはかなさの再現
あるいは、東日本大震災でなくても、ネット上の「つながり」の断絶の再現をしていると考えてもよいと思われます。
今の時代、ボタン一つでフォローしたり、ブロックしたり、あるいはアカウントを削除することもできます。
昨日まで仲の良かったSNS上の友達が、今はアカウントごと消えてしまっている、そんなはかない「つながり」が玲央と真武のTwitterで再現されたと考えることもできるでしょう。
ⅲ. 『さらざんまい』の "体験型アート" 的な試み
『さらざんまい』は、このような "体験型アート" 的な試みを、比較的多く仕掛けてきています。
例えば、アニメ放映前に、アニメ第六皿までの内容を含んだ小説を発売したことがわかりやすい例です。
アニメ放映前にネタバレを見てしまうこと、あるいはしてしまうことは「漏洩」につながる、しかしながら人間どうしても「漏洩」したい、「漏洩」を見たいと思ってしまう、そんな「欲望」を手放すか否かは自分次第だ、というわけです。
まさに、私たちの「つながり」と「欲望」がリアルタイムで試されているという意味で、そのような試みは "体験型アート" 的な試みだと言えるでしょう。
Ⅳ. カワウソという概念について
ⅰ. 「我々はお前たちの欲望そのもの」
カワウソって何なのでしょうか?
第九皿においてカワウソは、「我々カワウソは概念としてこの世界に存在している。私はお前の中にある欲望を映し出す鏡なんだ」と、自身を誰かの欲望を映し出す「鏡」だと語られました。
さらに第十皿では、「我々はお前たちの欲望そのもの。我々は見る者の望む姿で、この世界に顕現することができる」と言っています。
九皿と十皿で違うのは、カワウソが「欲望を映し出す鏡」というよりもっと直接的に「欲望そのもの」だとされている点です。
このことは、第九皿後に私がツイートしたようなカワウソたちは無意識的な欲望の権化ではないか、という考えをさらに後押しするものと思われます(以下ツイート参照)。
カワウソが概念として存在してるっていうのはかなり大事です。言葉通り「カワウソ」=「誰かの欲望を映し出す鏡」なのでしょう。
— 才華 (@zaikakotoo) 2019年6月6日
玲央が意識的にカワウソを操作しているわけじゃないところから察するに、カワウソはフロイトやラカンの言う無意識的欲望の権化みたいなものなんでしょうか#さらざんまい
ただこれについては疑問もあります。
ⅱ. カワウソ=誰かの欲望なら、誰の欲望でもいいはず?
a. 「生き長らえさせたい」と思ったのは玲央だけではない?
カワウソは、主に玲央の無意識的な欲望を反映しているように思うのですが、この点に疑問があります。
要するに、カワウソが玲央の欲望ばっか反映してたらおかしくない?という話です。
つまりカワウソが誰かの欲望を映し出す鏡なら、それは真武の欲望を反映していてもいいはずなのです。
そう考えると、例えば真武を機械の心臓をつけさせてまで生き延びさせたいと思ったのは、玲央だけでなく、真武自身もなのではないかとも考えられます。
しかしそう考えると、真武の心臓にあんな「呪い」をかけたことに疑問が生じます。
だってカワウソがその「呪い」をしかけたのなら、それはカワウソ=玲央の欲望、あるいはカワウソ=真武の欲望の仕業だということになるからです。
b. 真武の心臓に「呪い」をかけたのは誰か?
カワウソが欲望を映し出す鏡なら、真武の心臓が愛の言葉を玲央に告げると爆発する仕組みにしたのも、誰かの欲望の仕業なんじゃないかと考えられる、ではその「呪い」をかけたのは誰か?
この点の解釈には、だいたい3通りの解釈が考えられます。
- 「呪い」をかけたのは無意識的な玲央の欲望
- 「呪い」をかけたのは無意識的な真武の欲望
- 「呪い」をかけたのはカワウソ自身の欲望
<1の場合>
この場合、玲央がゆがんだ愛情を、無意識的なレベルで、真武に抱いていると解釈できます。
真武を支配したい、真武を縛りたい、真武を苦しめたい、実はそんな無意識的な欲望が玲央の中にはあるのだ、そう考えると1の解釈は成り立つ気はします。
気はするのですが、いくら無意識的とはいえ、玲央の本当の気持ちとはかけ離れてしまう気はします……。
解釈はお任せします(私はこういうの好きです)。
<2の場合>
この場合、真武は、玲央に愛の言葉を継げるのを、自分で自分に禁止するという真正マゾになります。
なんだこの解釈は……わかんないけど興奮しますね(冗談です)。
<3の場合>
正直3が無難な解釈のように思えます。
カワウソ=誰かの無意識的な欲望だったとしても、カワウソ自体にも目的はあるようですし、カワウソ自体には自我みたいなものがあるのではないでしょうか?
つまりこの場合は、カワウソが「つながりは毒だ」という思想を持っているがために、カワウソがカワウソの欲望をかなえるために、真武と玲央のつながりを断絶するために心臓を爆発する仕組みにしたのだと解釈できます。
要するにカワウソは存在するときには「概念」としてしか存在できないだけであって、カワウソ自体には自我みたいな意識も備わっているのではないかということです。
これに関しては、カッパ=「自我」ないしは「超自我」と考えられることなどと絡めて考察する必要があるので、今後の課題としたいと思います。
長くなってしまったので、星の王子さまについて、「つながり」というテーマについてなど、続きは<後編>に書きたいと思います。
<後編>
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