Ⅰ. ㋐=「対象a」に近い意味合い
㋐って何なんでしょう?
私は今のところ、㋐はフランスの精神分析家ジャック=ラカンが用いた「対象a(たいしょうアー)」(※ "a"はフランス語で「アー」と読む)の意味合いを一番色濃く示しているのではないかと考えています。
「一番色濃く示している」と、変な言い方をしているのには二つ理由があります。
一つは、㋐の意味は一つだけではないと考えられるからです。
つまり、㋐は「対象a」という意味合い以外に、確かに浅草の「ア」や愛の「ア」、「@」の「ア」など、色々な意味合いをもっているということです。
もう一つの理由は、㋐=「対象a」とは言っても、ラカンが使っている「対象a」の意味とはややずれているからです。
そもそもラカンが使っている「対象a」という言葉自体、時期によって意味合いの異なるもので、一つの絶対的定義があるわけではありません。
ともかく、難しい話は抜きにして、ここで大事なのは㋐が「対象a」という概念に近い意味を持っていると考えられるということにつきます。
ではいったい、「㋐」のどういうところが「対象a」に近い意味合いで、どうして「対象a」に近いと言えるのでしょうか?
以下ではそれを、アニメで㋐が用いられているシーンを出発点として考察していきたいと思います。
Ⅱ. 「㋐」=「対象a」と推測するに至った経緯
ⅰ. アサクササラテレビで示唆されている㋐の意味
㋐の意味を読み解く鍵となるのが「アサクササラテレビ」のこのシーンです。
このシーンでは、回転する皿に描かれた「ア」の文字が「ハコ」、「ネコ」、「キス」といった「ラッキー自撮りアイテム」に変わります。
そして、その「ラッキー自撮りアイテム」は同時に「カパゾンビの欲望の対象」でもあります。
つまり、このシーンは「㋐」が「ハコ」、「ネコ」、「キス」といった「欲望の対象」であることを示唆していると捉えられます。
端的に言えば、「㋐」=「ハコ」・「ネコ」・「キス」……etc.=「欲望の対象」ということです。
ただ注意したいのは、「ハコ」、「ネコ」、「キス」といった物は「欲望の対象」とは言っても、「欲望の目的」という意味ではないということです。
ⅱ. 「欲望の対象」≠ 欲望の目的
カパゾンビたちは皆、生前の欲望を満たそうとして「欲望の対象」を集めますが、 彼らは「欲望の対象」自体を目的としているわけではありませんでした。
例えば、箱田だったら「箱」そのものを集めるのだけが目的ではなく盗んだ箱を裸で被りたかったわけですし、猫山だったら「猫」そのものを集めるのだけが目的ではなく猫になって大事な人に愛されたかったわけです(上図参照)。
つまり「欲望の対象」は、欲望を掻き立てるような物ではあっても、欲望の目的そのものではないのです。
そしてまさに、そのように欲望を掻き立てる機能をもったものこそが「対象a」なのです。
ⅲ. 「対象a」=欲望を掻き立てるもの(欲望の原因)
「対象a」は「欲望の原因」と説明されることもあるのですが*1、より正確に言えば、「対象a」=欲望を掻き立てるものだと言えます。
以前の考察でも引用したのですが、ラカンも用いた以下の海面に反射する光のエピソードが、「対象a」が主体を欲望へと駆り立てるという意味を一番理解しやすいです。
例えば、海の上の波間にただよい、太陽の光を反射して光っているものを見つけたとしよう。私がそれに気づくとき、それを見つめるのは私ではなく、この光るものが私にまなざしを向け、私を惹きつけるのである。海の上で何か光るものを認めるとき、私にそれが何であろうかとの疑問を抱かせる。この疑問は数学者が数学上の問題に対してもつのと同じように一つの疑問点であって、それは対象aとして機能するのである。
(向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫,2016)p323より引用)
この喩えでは、海面で「光るもの」が「対象a」として機能し、それが何であろうかという疑問、ひいては欲望を掻き立てる役割を担っています。
『さらざんまい』における「欲望の対象」(=「ハコ」・「ネコ」・「キス」……)も同じような役割を果たしていると考えられます。
すなわち、「ハコ」は箱田の「盗んだ箱を裸で被りたい」という欲望を掻き立てるし、「ネコ」は猫山の「猫になって大事な人に愛されたい」という欲望を掻き立てるし、……というわけです。
以上のことをまとめると以下のようになります。
- 「アサクササラテレビ」では「㋐」=「ラッキー自撮りアイテム」=「カパゾンビの欲望の対象」ということが示唆されている
- 『さらざんまい』で言う「欲望の対象」は、欲望の目的そのものではないが、主体を欲望を掻き立てるようなものではある
- 「対象a」の機能も、同様に、欲望の目的そのものではないが、欲望を掻き立てるようなものではある
- したがって、どちらも欲望を掻き立てるものだという意味で、「㋐」=「対象a」だと考えられる
重ねて注意したいのは、ラカンが用いた「対象a」とは「欲望を掻き立てる」という意味合いだけをもった単純なものではないということです。*2
ただ現状では、㋐というものを最もうまく表現するものとしては「対象a」が一番ふさわしいだろうということです。
したがって、ここではひとまず、「㋐」=「対象a」=「欲望を掻き立てるもの」くらいの意味合いで受け取っていただければなと思います。
以上のようにして、アニメの演出からも「㋐」=「対象a」だと推測するに至ったのですが、これだけでは少し説得力に欠けるように思えます。
そこで以下では、「『㋐』=『対象a』だとすると説明できること」について記述することで、「㋐」=「対象」という仮説を、より説得力が増すように補強していきたいと思います。
Ⅲ. 「㋐」=「対象a」とすると説明できること
ⅰ. 「㋐」はなぜ標識として表現されているのか?
a. ㋐は標識と同じ役割を担っている?
そもそも、なぜ㋐は標識(特に道路標識っぽく)として表現されているのでしょうか?
一般的に、標識というものはそれを見る人に、必要な情報を伝達する役割を果たしています。
例えば道路標識だったら、「進入禁止」や「駐車禁止」といった禁止事項や、「速度制限」や「高さ制限」などの制限、「踏切あり」や「道路工事中」などの注意を示すために掲げられています。
㋐が標識として表現されているのも、そのような標識の役割を担っているからではないでしょうか?
つまり㋐も、何か禁止事項や制限、注意などをうながすために標識として表現されているのではないでしょうか?
そこで注目したいのは㋐という標識の形と「ア」の文字の表記のされ方です。
㋐の標識は丸い形をしており、「ア」という文字には斜線が引かれておらず、そのまま書かれています。
これは道路標識では、制限を表す看板の形状に近いです(下図参照)。
この制限を表す標識は、禁止や注意喚起を示す標識とは形状や表記の仕方が少し異なっています。
例えば禁止を表す標識のほとんどは、標識内に「\(斜線)」が入っていますし、この先に何かがありますよという注意喚起の標識は一般にひし形の形状をしています。
とくに、丸い形をしていて、外円が赤く縁どられており、\の表記がないものは、「最高速度」や「高さ制限」、「重量制限」、「最大幅」といった何かしらの「制限」を示す標識であることが多いのです。
では、もし㋐が何かしらの「制限」を意味する標識だとしたら、それは何を「制限」しているのでしょう?
b. ㋐の標識が制限しているもの
「制限」の標識は、そこに記載された何か(速度、重量、幅など)を制限しているのですから、㋐の標識は「ア」を制限していると言えます。
そして前述した仮説に則れば、「ア」=「対象a」=「欲望を掻き立てるもの」なので、㋐の標識は「対象a」=「欲望を掻き立てるもの」を制限していると考えられます。
そしてもし㋐の標識が「対象a」=「欲望を掻き立てるもの」を制限しているのなら、他のいろいろなことにも説明がついてきます。
ⅱ. 街中に㋐の標識があふれている意味とは?
『さらざんまい』の世界では第一皿アバン以降、街中に㋐の標識があふれています。
㋐の標識が「対象a」=「欲望を掻き立てるもの」を制限しているなら、それは街中全体が欲望することを制限されていることを意味していると考えられます。
これはラカン的に考えれば、当たり前のことです。
ラカンに従えば、普通の人間は皆、幼いころに精神分析的な意味で「去勢」されることになります。
精神分析的な「去勢」とは、簡単に言えば、万能である自分を諦め、原始的な欲望を抑圧することです。
(ちなみにですが、『カワウソイヤァ』の「去勢された負け犬ども 牙をむけ」の「去勢」もこの精神分析的な去勢のことだと解釈できます。つまり『カワウソソイヤァ』は「去勢」されて抑圧された欲望を解放せよと謳っているわけですね。実際カパゾンビは欲望のタガが外れた状態だととれます。)
ラカンの用語を使えば、それは「父の名」を受け入れることと同等で、そうすることで人間は象徴界に登録され、社会に参入していけるようになります。
つまりまとめると、人間は誰しも「原抑圧」とでも言うべき欲望の抑圧を経験し、「欠如」を抱いているのです。
あるいはフロイト的に言えば、人間は「超自我」の働きによって「エス」という無意識の欲望を制限しています。
それは簡単な話で、だからこそ普通は理性が非理性を抑え込んで、街中で急に非理性的な行いをすることがない(少ない)のです。
以上のように、㋐という標識が街にあふれているのは、欲望が制限されていることを表現していると考えることができます。
ただ、『さらざんまい』の世界では、そもそも欲望が制限されていたのに加えて、㋐という皿が降ってきたからこそ欲望をさらに制限されることになったと考えることができます。
ⅲ. カワウソ(無意識的な欲望)vsカッパ(超自我)という図式
カワウソは鏡とはいえ無意識の欲望≒「エス」に近いし、もしカッパも概念ならカッパ=「超自我」なのかな?
— 才華 (@zaikakotoo) 2019年6月7日
ケッピがやってることも、カパゾンビっていう社会の規範に合わない人物の欲望を搾取して消化するわけだし。つまり暴走したエス=カワウソを超自我=カッパが抑圧するという図式#さらざんまい pic.twitter.com/mGd1HKFsGj
第九皿で、カワウソは概念として存在しており、「誰かの無意識の欲望を映し出す鏡」のような存在であることが明らかになりました。
すると対立的な位置にいるカッパも、何か「概念」のように働いているのではないかと推測できるのですが、私はカッパは「超自我」に近いなと思いました。
「超自我」とは、簡単に言えば、自由気ままに働こうとする無意識をうまく抑圧して、主体を社会的に容認されるような行動へと導くものです。
カッパ=「超自我」というのはつまり、人間の無意識的な欲望が暴走するのをカワウソが手伝って、「欲望消化」という形で抑圧するのがカッパ側の行為だということです。
そもそも㋐というのは、形状的には「皿」であり、皿=沙羅=涅槃の象徴=煩悩を滅した境地を意味しているので、㋐自体が欲望を抑圧するものの象徴だと言えます。
加えて、「さらざんまい」という行為によってカパゾンビという人間社会の役に立たないような、欲望を暴走させたはぐれ者を人の縁の輪の外側にはじき出すという図式は、まさに社会的規範にあわない欲望を抑圧する「超自我」の役割そのものだと言えます。
さらに、以上のように考えると、カッパvsカワウソの戦争もやや象徴的な意味合いを帯びてきます。
ⅳ. カッパvsカワウソの戦争の意味
もしもカワウソ=無意識的な欲望、カッパ=超自我という図式が成り立つのなら、カッパvsカワウソというのは象徴的な意味合いを帯びていることになります。
つまり、カッパ王国歴333年に「今まで決して越えられないと思われていたコチラとアチラを隔てる河を越えて、カワウソ帝国がカッパ王国に攻め入ってきた」というのは、人間の無意識的な欲望が超自我では抑えきれなくなり、どっとあふれ出てきてしまったという意味合いを持ちます。
ここでは特に、人間の「つながりたい」という欲望がどっとあふれてきてしまったのだと考えられます。
そしてそのきっかけは震災だと考えられます。
監督のインタビューを踏まえれば、とくに若い人は震災を経験して物への欲望の代わりに「つながりたい」という欲望を強く持つようになってきた、それがカッパ王国歴年333年の出来事として、メタファーとして表現されているのではないでしょうか。
そう考えると、やはりカッパ王国歴年333年に表現された関東大震災をモチーフは、関東大震災のモチーフというより、東日本大震災を含む、象徴としての「震災」を示すメタファーになっていると考えるのが妥当のように思えます。
以上がカッパvsカワウソの戦争の意味なのですが、そう考えると、第一皿アバンの意味にもさらに考察が加えられます。
ⅴ. 第一皿アバンで㋐が降ってきたことが意味すること
以上のことを踏まえると、第一皿アバンで㋐が降ってきたことには2通りの意味が考えられます。
1. ㋐が降ってくる=カッパがカワウソに負けた=超自我が無意識の欲望をこれ以上抑えきれなくなって人間界に無意識の欲望がなだれ込んできた
2. ㋐が降ってくる=カワウソという無意識の欲望に人間が支配されないように、カッパ側=超自我が人間の欲望をさらに抑圧するようになった
要するに㋐が消極的に降ってきたのか、積極的にカッパ側が降らせたのかという違いになります。
しかしながら、これは意味合いとしては納得できるのですが、時系列的にはおかしいです。
なぜならカッパがカワウソに勝利したのは第一皿アバンの時期より10年ほど前のことだと考えられるからです。
この点に関してはまだ納得がいかないので、引き続き考えていきたいです。
Ⅳ. おわりに
最後になりましたが参考サイト様を引用させていただきます。
<さらざんまい1話感想・考察>㋐=対象a説 - 妃露素ふぃあの日記
改めてふぃあさんの慧眼とご尽力に敬意を表します。
今回は㋐の意味について考察したのですが、かなり急いで書いたのでわかりにくいかもしれません……申し訳ないです。
㋐の意味を考察することは『さらざんまい』を読み解く上で必要不可欠だと思ったので、急ぎ足ですがひとまず書いてみた次第です。
とりあえず近いうちに、わかりやすいように少し改稿したいと思います。
あるいはまた何か思いついたり、情報が更新されたら、記事も追記していこうと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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<カテゴリ : さらざんまい の記事>
<主要参考文献>
向井雅明『ラカン入門』(ちくま学芸文庫,2016)
斎藤環『生き延びるためのラカン』(木星叢書,2006)
*1:例えば、斎藤環『生き延びるためのラカン』(木星叢書,2006)においては、「要するに『対象a』とは、「欲望の原因』のことだ」(p97)などと説明されている。ただし、本文でも繰り返し述べているように、「対象a」はそんなに簡単に説明できる概念ではありません。
*2:例えば、時期によってはそもそも「対象a」は「ハコ」・「ネコ」・「キス」といった具体的事物では決してありえず、「現実的な」ものであることもあります。あるいはラカンが「対象a」の例として挙げているものに、例えば「乳房」、「校門」、「声」、「まなざし」などが挙げられるのですが、それらはすべて性感帯に結びつき、性的な欲望と深く関わっています。ただその点は、『さらざんまい』でもカパゾンビたちは女性と性的な関係を結ぶ欲望を抱いているような描写もあるので、ラカンの言うような「対象a」の性質に則っているとも言えます。いずれにせよ、今は「欲望を掻き立てる」くらいの意味で「対象a」という用語を使わせていただきたいです。