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【ファイアパンチ考察】どうして人は死ぬと映画館に行くのか?

0.0. 死んだら映画館に行く?

人は死んだら映画館に行く(藤本タツキ『ファイアパンチ』第4巻 第35話より, 集英社, 2017)

人は死んだら映画館に行く(藤本タツキ『ファイアパンチ』第4巻 第35話より, 集英社, 2017)

人は死んだら映画館に行く。『ファイアパンチ』では、そういうことになっている。

実際、47話で死にかけたアグニは映画館に行くし、最終話でもアグニとルナ(ユダ)は映画館にいる*1

素敵だな、とも思うし、映画って走馬灯みたいなものだから現実でもそうなのかも、なんて思ってしまう。

でもどうしてだろう?どうして人は死ぬと映画館に行くということになっているのだろう?

 

 

1.0. 映画館では何が上映されるのだろう?

1.1. 人生最後の映画

「人生最後の映画は何がいい?」

そう聞かれたら困ってしまう。無難に良い映画で〆るか、クソ映画でクソみたいな人生を飾るか、はたまた思い出の映画に抱かれて死ぬか……。

では、『ファイアパンチ』の登場人物たちは、死ぬ前に「映画館」で何を見たのだろう?

ヒントとなるのは、トガタが死ぬ直前の描写だ。トガタはこんなことを言っていた。

自分の映画を見るトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』第5巻 第48話より, 集英社, 2017)
自分の映画を見るトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』第5巻 第48話より, 集英社, 2017)
自分の映画を見るトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』第5巻 第48話より, 集英社, 2017)

トガタはそこで「子供の私」を見る。そして「いつか男になって 映画の主人公みたいに誰かを助けたかった」と、なりたかった自分のことを思い出す(そして実際、トガタは「映画の主人公みたいに」アグニのことを助けて死んでゆく)。

つまり、トガタがそこで見た「映画」は自分の、自分自身の映画である。

そこで一つの仮説が立つ。すなわち、『ファイアパンチ』の世界では、人は自分の映画を見終わると死ぬのではないか?という仮説である。

 

1.2. 自分の映画を見終わると死ぬ?

ん?「人は死んだら映画館に行く」のだから、もう死んだ時点で「映画館」にいるのでは……?

一瞬そう思ったけれど、そうとも言い切れない。というのは、第48話でアグニは(トガタに助けられて)死んでいないのにもかかわらず「映画館」に行っているからだ。

つまり「映画館」に行った時点では、まだ(完全には)死んでいないのである。死ぬためにはもう一段階手順を踏む必要があり、それが「自分の映画」を見ることだと考えられる、というわけだ。

現にトガタは「自分の映画」を見てから死んでいるし、最終話でも、アグニとルナ(ユダ)は席を立って映画館を出ようとしている=「映画」を見終わっている。

席を立つアグニとルナ(ユダ)(藤本タツキ『ファイアパンチ』第8巻 第1話より, 集英社, 2018)

席を立つアグニとルナ(ユダ)(藤本タツキ『ファイアパンチ』第8巻 第1話より, 集英社, 2018)

しかしではそうだとするならば、つまり、人は「自分の映画」を見て死ぬのだとするならば、それはなぜだろうか?なぜ「自分の映画」を見てから死ぬのだろうか?

 

2.0. どうして「自分の映画」を見るのか?

2.1. 『ファイアパンチ』の主題(テーマ)とは?

どうして「自分の映画」を見てから死ぬのだろう?それについて考える鍵となるのが『ファイアパンチ』の主題だ。

詳しくは主題について考察した記事に書いたけれど、ここでもう一度、『ファイアパンチ』の主題をおさらいしておきたい。

『ファイアパンチ』の主題とは、一言で言えば「自分とは何か」だった。アグニやトガタ、ユダは、それぞれが「嘘」をつき、「演技」をし、偽りの自分を演じながらも、しかしその偽りの自分によって「自分」を形成していた

では結局、「自分」とは何なのだろうか?それについては、『ファイアパンチ』自体の中に2つの答えがあった。すなわち、①「自分が何者かは 他人に評価された初めてわかる」、②どんなに演じても「人はなりたい自分になってしまう」、という答えだ。

「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかる」(藤本タツキ『ファイアパンチ』第7巻 第70話より, 集英社, 2017)

「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかる」(藤本タツキ『ファイアパンチ』第7巻 第70話より, 集英社, 2017)

この「自分とは何か?」というテーマと、①②の2つの答えこそが、「自分の映画」を見る理由の大きなヒントになる。

 

2.2. 「嘘」でも「演技」でもそう評価されたら「自分」

それら『ファイアパンチ』の主題に加えて、もう一つヒントとなるセリフがある。それはトガタがトム・クルーズを評価するセリフだ。

トム・クルーズを評するトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』第7巻 第70話より, 集英社, 2017)

トム・クルーズを評するトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』第7巻 第70話より, 集英社, 2017)

トム・クルーズを評するトガタ(藤本タツキ『ファイアパンチ』第7巻 第70話より, 集英社, 2017)

ここでトガタが言っているのは、要するに、裏でどんなことをしてようが、「演技」しているトム・クルーズに対する評価は変わらなかったという話だ。

いやいやそんなことないだろう、と言う人もいるだろうが、ひとまず仮にトガタの言っていることが正しいとしたら、そのセリフは『ファイアパンチ』の主題とまんま同じではないだろうか?

つまり、「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかる」のであって、たとえその振舞いが「嘘」だったり、「演技」だったりしたとしても、他人からそういう人だとみなされたら、それがそのまま「自分」の評価になる(なってしまう)のである

 

2.3. 自分で自分を評価する

ここまでくれば、どうして「映画館」で「自分の映画」を見るのかがわかる。

要するに、そこで上映されているのは、「自分」の人生なのだ。「嘘」も「演技」も含んだ、「自分」の人生を見ているのである。

加えて「映画」は「観客席」で見るものだ。人は死んでから「自分」を、自分の内側からではなく外側から、主観的にではなく客観的に見るのだ。そうして初めて、「自分」を評価することが可能になる。そうして初めて、歩んできた人生が、演じてきた「自分」が、果たして本当に自分のなりたかった「自分」なのかが評価できる。

実際、トガタはそうして「自分」を評価した。だから最期に、「いつか男になって 映画の主人公みたいに誰かを助けたかった」ということに気づけたのだろう。

したがって以上のことをふまえれば、「自分の映画」を見るのは、「自分」を客観的に評価するためだと言えるだろう。

それはある意味、「自分とは何者か」という『ファイアパンチ』の主題へのもう一つの答えかもしれない。すなわち、人は死ぬときになって初めて、「自分とは何者か」という問いに答えられるのかもしれない

 

3.0. 最期の映画

人は死ぬと映画館に行く。『ファイアパンチ』ではそういうことになっている。

そこで見るのは「自分」の映画だ。「嘘」も「演技」も全部ひっくるめた「自分」の映画だ。

それはたぶん、人生の総決算のようなものなのだろう。「自分」は他人の目にどう映っていたのか、「なりたい自分」を叶えられたのか、そんなことをふりかえりながら、人は死んでいく。

 

生きている今は、「自分の映画」なんてとても恥ずかしくて見ていられない。でもたしかに、死ぬときくらいは、見てもいいのかもしれない。

そのときには隣で一緒に誰かに見てほしい。先に逝った友人や大切な家族に、私の人生こんなだったよって、伝えるのだ。

明るくなって、階段を下りながら、「あのときのお前の顔、傑作だったな」なんて笑われて、そのあとゆっくり「映画」の感想を言い合うのだ。

そんな死後なら、悪くないのかもしれない。

 

【参考文献】

・藤本タツキ『ファイアパンチ』1-8巻, 集英社, 2016-2018.

【関連記事】

*1:最終話については解釈の余地があり、アグニとユダは「眠った」だけで死んでいないと言うこともできる。しかしそれならば同様に「眠った」=「死んだ」と言うこともできるはずであり、そうだとして何が言えるのか、ということを以下考察するので、本稿においては最終話でアグニとユダは「死んだ」と解釈して話を進めることにする。