意味不明? 予測不能なマンガ『ファイアパンチ』
『ファイアパンチ』と言えば、自分の腕を切って食わせて飢えをしのぐというジャンプらしからぬグロさでバズった1話で有名です。
そんな第1話の衝撃が、『ファイアパンチ』の印象となっている方も多いと思います。
ただこの漫画、1話の後も衝撃の連続です。
ただ内容的な頭のおかしさや、展開の読めなさが相まってか、「意味不明」、「よくわからなかった」という感想も見受けられます。
今回はそんな「意味不明」な『ファイアパンチ』を考察して、読み解いていきたいと思います。
『ファイアパンチ』の切り口としては、いろいろあると思うのですが、今回は技術面や細かい作風などの考察はせずに、真正面から物語(特にその主題・テーマ)について考察したいと思います。
(以下、全巻のネタバレを含むのでご注意ください。)
- 意味不明? 予測不能なマンガ『ファイアパンチ』
- 『ファイアパンチ』の主題
- 3人の主人公
- トガタの人生
- ユダ(ルナ)の人生
- アグニの人生
- 「自分は何者か」
- 主題をどう解釈するのか
- 『ファイアパンチ』の哲学
『ファイアパンチ』の主題
結論から言うと、『ファイアパンチ』の主題(テーマ)とは、「自分は何者か」という言葉にまとめられます。
「自分は何者か」、それを探るために『ファイアパンチ』の登場人物たちはそれぞれがそれぞれの物語を紡いでいきます。
しかしいきなり「自分とは何者か」が主題だと言われても抽象的すぎますし、ピンとこないと思います。
では、なぜ「自分とは何者か」が主題だと言えるのでしょう?
その理由を読み解くカギは、『ファイアパンチ』の3人の主人公にあります。
その3人の主人公とは、アグニ、トガタ、そしてユダ(ルナ)です。
3人の主人公
主人公はアグニだけではない?
え?『ファイアパンチ』の主人公ってアグニじゃないの?と思う方もいらっしゃるかと思います。
もちろん、一番重要なキャラクターがアグニであることは間違いありませんが、物語の主題に関わってくると、物語の主人公はアグニ、トガタ、ユダ(ルナ)の3人だと言えます。
そう言える根拠はこれから詳しく見ていきますが、コミックスの表紙が3人で飾られていることや、作者の藤本タツキが複数のキャラクターの物語をきちんと描き切ることを意識していること*1も、上記の3人が主人公だということを示唆していると言えるでしょう。
3人の主人公に共通する「演技」
3人の主人公から『ファイアパンチ』の主題を探るにあたって、重要となるキーワードがあります。
そのキーワードとは、「嘘」と「演技」と「なりたい自分」です。
3人の主人公たちは、「嘘」をつきながら、あるいは「演技」をしながら、自分が何者なのかを探りつつ、「なりたい自分」に最終的になっていきます。
では、3人の主人公たちはそれぞれどんな「嘘」をつき、どんな「演技」をし、その果てにどんな「なりたい自分」を見つけたのでしょうか?
以下で詳しく見ていきましょう。
トガタの人生
トガタの「嘘」
トガタの「嘘」は、「トガタ自身が女である」という「嘘」です。*2
「心を読める」という祝福をもった覆面の男によって、トガタのこの「嘘」は暴かれ、その夜、トガタはアグニの元からこっそりと抜け出します。
それを追いかけ、トガタに追いついたアグニは、そこでトガタがどのような思いを抱え、そのためにどんな「演技」をしていたのか聞かされることになります。
トガタの「演技」
「男なのに体も声も女でっ…! 意識すると…すっげえ気持ち悪いんだよ‼」と、トガタはその鬱々とした心情を吐露します。
そのような思いを抱え、「男になる手術」を受けたいと望みながらも、再生の祝福のせいで手術もできません。
したがってトガタは、「ひょうきん」で「イカれて」る「女のトガタ」を演じるしかありません。
トガタの言葉を借りれば、「もう自分が自分を女だと思うしかない」のです。
トガタの「なりたい自分」
「女である」という「嘘」をつき、「女のトガタ」の「演技」をしたトガタは、どのような結末を迎えたのでしょうか?
湖に落ちたアグニを引上げ、その炎を浴びてしまったトガタは、最期に「なりたかった自分」を思い出します。
それは、「映画の主人公みたいに誰かを助けたかったんだ…」というものです。
アグニを助けたトガタは、最期に「映画の主人公みたいに誰かを助け」、「なりたかった自分」になって死んでゆきます。
ユダ(ルナ)の人生
ユダの「嘘」
ユダの「嘘」は、「神の声が聞こえる」という「嘘」です。
幼いころ、父とおぼしき人物に言い聞かせられ、ユダは「神の声が聞こえる」預言者として生きることになります。
そうしてユダは、ベヘムドルグで国民のために、預言者として「神の声が聞こえるフリ」を「終わるまで」し続けます。
ユダの「演技」
ユダの「演技」には様々あります。
1つ目は「神の声が聞こえる」預言者の「演技」で、預言者としてのユダはベヘムドルグを治める役割を果たします。
その後、紆余曲折あり、(故意ではないけれど)アグニの妹である「ルナ」の「演技」して生き、最後には記憶を取り戻し、「人はなりたい自分になってしまう…」という言葉を残します。
では、ユダの「なりたい自分」とは何なのでしょうか?
ユダの「なりたい自分」
アグニの炎を除いた後、ユダは自ら進んで「木」となり半永久的に「一人の男のために地球を暖め」ます。
ここから、ユダの「なりたい自分」とは、最終的には「アグニのために生きる自分」だったと言えます。
その思いの大きさは、曰く「せめて彼が幸せになってくれないと私はこの暇を永遠後悔してしまう」というほどです。
こうして結局、ユダも「なりたい自分」を実現することになります。
アグニの人生
アグニの「嘘」と「演技」
トガタやユダと異なり、アグニのつく「嘘」と「演技」は複数存在し、しかもそれぞれが複雑に入り乱れています。
そこでアグニについては、彼の「演技」ごとにその特徴をまとめたいと思います。
アグニの「演技」は、主に以下の5つに分けられます。
①復讐者
②主人公
③神様
④ファイアパンチ
⑤兄さん
それぞれがどのような「演技」で、どのような役割を持っていたのか、以下で簡単に確認します。
①復讐者
1つ目の「演技」は「復讐者」です。
妹ルナの仇であるドマを殺すため、復讐者として旅に出たアグニでしたが、その途中で、「復讐者を演じる自分」を自覚します。
妹が最期に残した「生きて」という言葉を受けて、アグニは「ルナが幸せに生きる事だけが俺の糧だったから ドマが残酷に死ぬことを俺は糧にするしかなかった」というわけです。
そしてベヘムドルグに幽閉された一人の奴隷に「助けて」と声をかけられ、復讐したい自分ではなく、誰かを「助けたい」自分を自覚することで、「復讐者」としての自分は破綻します。
②主人公
2つ目の「演技」は「主人公」です。
トガタからユダを救出し、ドマを殺す手助けをするという申し出を受け、アグニは「主人公」になることを誓います。
ところが「主人公」としてのアグニも、「復讐者」が破綻した場面と同様の場面で破綻します。
しまいにはトガタに「これは…!オマエが考えたお話じゃねえんだ! 俺が決める!」と言い放ち、お話の中の「主人公」を否定します。
③神様
3つ目の「演技」は「神様」です。
誰かを「助けたい」と願い、ベヘムドルグの奴隷たちを解放したアグニは、今度は「神様」を演じることになります。
しばらくは「神様」として振る舞い、ドマと再会した後も、人々を「助けたい」という思いが継続するものの、次の「演技」である「ファイアパンチ」となってドマとその子供を殺すことで、消極的な形でこの「神様」という演技は破綻します。
④ファイアパンチ
4つ目の「演技」は「ファイアパンチ」です。
直前まで人々を「助けたい」と思っていたはずのアグニでしたが、突然、心の中のルナが「ファイアパンチになって」と語りかけてきて、その結果ドマとその子供たちを虐殺します。
この無意識的な衝動のような「ファイアパンチ」という「演技」は、正気に戻るとすぐに破綻し、アグニは湖に飛び込んで自死を図ります。
⑤兄さん
5つ目の「演技」は「兄さん」です。
ユダの「木」を破壊した後、記憶喪失になったユダを妹のルナだとみなしたアグニは、自ら「兄さん」だと「演技」することで、疑似的な兄妹を演じます。
しかし結局、サンとの決戦の後、アグニは記憶を失い、「兄さん」の「演技」も破綻します。
以上のように見ると、アグニの「演技」にはある共通点があることがわかります。
その共通点とは、どの「演技」も最後には破綻して終わっているということです。すなわちアグニは、「復讐者」、「主人公」、「神様」、「ファイアパンチ」、「兄さん」のどれにもなれずに終わっているのです。
それでは結局、アグニは何者にもなれなかったのでしょうか?トガタやユダのように、「なりたい自分」になることはできなかったのでしょうか?
アグニの「なりたい自分」
「貴方のなりたい貴方になって」


最後の決戦を終え、記憶も曖昧になってしまったアグニに、ユダ(ルナ)がある願いをかけます。
その願いとは、「貴方のなりたい貴方になって」というものです。
こうしてアグニはやっと「なりたい自分」になれる……と思いきや、ここでもアグニは結局、おそらくネネトの影響で「サン」を演じることになってしまいます。
それでは結局、アグニは「なりたい自分」になれなかったのかというと、どうやらそうとも言い切れなさそうです。
アグニは「なりたい自分」になれた……?
アグニが「なりたい自分」になれたかどうかは、作中では明言はされません。
ただし、 そのヒントとなりそうな手掛かりはいくつかあります。
その一つが、死ぬことができる薬の存在です。
なぜこれがヒントになるかというと、この薬の存在が、アグニは死ぬこともできたのに死ななかったということを示唆することになるからです。
ネネトが死に、もはや「サン」を演じる必要もなくなり、さらに地球が枯渇するという状況に置かれたアグニには、もはや生きる意味がないように思われます。
しかしそれでも死を選択しなかった、ということは、アグニにはまだやり残したこと、生きる意味があるということを示しているのではないでしょうか?
ではアグニがそんな絶望的な状況で見出した生きる意味とは何だったのでしょうか?
アグニが見出した生きる意味
結論から言えば、アグニが見出した生きる意味とは、ユダ(ルナ)に出会うということだと考えられます。
ネネトが死んだ後、アグニはトガタが撮っていた「ファイアパンチ」の映像を見ます。
そこで過去の自分の記憶を思い出したかどうかは定かではありませんが、「俺はいつの間にか拳を握っていた」という描写からは、何らかの影響を受けたことが考えられます。
そしてその影響のおかげか、アグニは死を選択せず、生き延びて、最後には宇宙を漂うユダ(ルナ)に再会します。
ポイントは、二人は再会すると眠りに落ち、最後に映画館の描写が描かれるという点にあります。
「映画館」と言えば、第4巻で「人は死んだらどこへ行くんだ?」というアグニの質問に対してトガタが「映画館」と答えたことが想起されます。
これを踏まえれば、二人は出会ったあとすぐに死んだ、と解釈できます。
さらにこれを素直に解釈すれば、二人が出会うことが、それまで2人が生きてきた目的だったと考えられます。
さらにこれをアグニの「なりたい自分」と絡めれば、以下のような解釈ができます。
まず一つ目の解釈は、アグニの「なりたい自分」=「ユダ(ルナ)と再会する自分」だったという解釈です。
二つ目の解釈は、アグニの「なりたい自分」は複数あって、いくつかは地球が滅びるまでに成し遂げて、最後のユダ(ルナ)を救済する自分をユダ(ルナ)と再会したときに成し遂げたという解釈です。
ただその2つの解釈ならどちらにせよ、アグニは「なりたい自分」になることができたということになります。
もちろん「なりたい自分」をかなえられなかったという解釈もできるのですが、以上のような手掛かりと、3巻で明示されたアグニ自身の「この世界に負けたくなかったんだ」という思いを考慮すると、アグニは「なりたい自分」を叶えたと考えるのが無難だと思われます。
「自分は何者か」
以上のように、『ファイアパンチ』の3人の主人公の人生をたどってみると、皆「嘘」と「演技」を駆使しながら、「自分は何者か」を探りつつ、最期には「なりたい自分」を見出すことができていると言えます。
そのように、全編を通して「自分は何者か」ということを問い続けた漫画、それが『ファイアパンチ』だと言えるのではないでしょうか。
したがって、以上のことをまとめれば『ファイアパンチ』の主題(テーマ)とは、「自分は何者か」だと考えられます。
しかし、ざっくり「自分は何者か」が主題だ、とは言っても、だから何なのでしょう?
「自分は何者か」を問われたその先に、何か答えはないのでしょうか?
主題をどう解釈するのか
『ファイアパンチ』自身が用意した答え
①「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかるのです」
実は、『ファイアパンチ』自身に、「自分は何者か」の答えとなるような箇所があります。
その一つが、上の画像の「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかるのです」というセリフです。
これは「自分は何者か」に対する答えになっています。
この言葉はアグニにかけられた言葉ですが、作中でもアグニは、他人に評価されることによって何者かになっていることが多いです。
例えばアグニは、トガタに「主人公」になれと言われれば「主人公」になり、ユダ(ルナ)に「兄さん」と呼ばれれば「兄さん」になり、信者たちから「アグニ様」と呼ばれれば「神様」になっています。
よく他人は自分を映す鏡だということがありますが、それがまさにこの「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかるのです」という答えと一致します。
②「人はなりたい自分になってしまう」
もう一つ、作中には「自分とは何者か?」の答えとなるようなセリフがあります。それは「人はなりたい自分になってしまう」です。
どんな演技をしたって、トガタやユダのように、結局は「なりたい自分になってしまう」。
つまり、他人からはどう評価されても、結局のところ自分は「なりたい自分になってしまう」というのが作中にある二つ目の答えです。
『ファイアパンチ』の哲学
今回は『ファイアパンチ』の主題、「自分は何者か」について考察しました。
こうして見ると、一見「意味不明」で「よくわからない」『ファイアパンチ』も、一貫したテーマを貫いているのだとも考えられます。
「自分は何者か」というテーマは、私自身たいへん興味深いと思います。
例えばこの「自分」を「主体」と解釈すれば、問題は哲学にすり替わります。
「自分が何者かは 他人に評価されて初めてわかる」が真なら、主体は自己の外側にあるし、「人はなりたい自分になってしまう」が真ならば、主体は自己の内側、あるいは自己の内側とは言い難いどこか(無意識)にあると言えるのかもしれません。
あるいはもっと穿って、主体なんてどこにもないと言ってもよいかもしれません。自分なんてどこにもない、と考えることは可能です。
このような話に興味のある方は、例えば以下のような本を読むとおもしろいかもしれません。
今回は「自分は何者か」という視点から『ファイアパンチ』にメスを入れましたが、『ファイアパンチ』にはほかにも様々な切り口があると思います。
特に、作中で何度も発せられる「生きて」という言葉は、『ファイアパンチ』の根幹にかかわる言葉だと思います。
時間があれば、もっといろいろな角度から『ファイアパンチ』を考察したいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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*1:藤本タツキ×沙村広明奇跡の対談において『無限の住人』の各キャラの物語がきちんと描かれ切っていることに注目する言及から推測
*2:厳密に言うと、トガタの自認は「女」なので嘘ではないのかもしれませんが、身体的な性別がいわゆる「男」であることを全面的に隠しているという点が「嘘」ではあると言えます。コメントでご指摘いただきました通り、トガタのいわゆる身体的な性別は「女」でした。お詫びして訂正します。したがって、ここでの「嘘」というのは、心も体も男なのに「ひょうきんな女を演じている」という「嘘」ということになります。