Ⅰ. どこにも行けないモルモット
「デンジ君はさ 田舎のネズミと都会のネズミ どっちがいい?」 ――夜の学校でそう尋ねる彼女は、どこか遠くを見つめていた。
数日後、デンジからの逃亡の誘いもむなしく、彼女は路地裏ではかなく散る。結局、レゼは「田舎のネズミ」にも「都会のネズミ」にもなりきれない。
なぜなら彼女は「田舎のネズミ」でも「都会のネズミ」でもない、実験用の「モルモット」だったからだ――
本稿では、『チェンソーマン』における「田舎のネズミと都会のネズミ」について考察する。
『チェンソーマン』5巻および6巻には主に2つの物語がある。2つの物語とは、「天使とアキの物語」と「レゼとデンジの物語」だ。
作中では、この2つの物語が『イソップ童話』を元ネタとする「田舎のネズミと都会のネズミ」の話とうまく絡み合いながら進行する。
はたして彼らは田舎のネズミと都会のネズミ、どちらになることを望んだのだろうか? あるいは彼らはネズミたちと同様に、自分なりの「幸せ」をつかめただろうか?
- Ⅰ. どこにも行けないモルモット
- Ⅱ. 『田舎のネズミと都会のネズミ』
- Ⅲ. 『チェンソーマン』における「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」
- Ⅳ. レゼとデンジの物語
- Ⅴ. 天使とアキの物語
- Ⅵ. それぞれの幸せ
Ⅱ. 『田舎のネズミと都会のネズミ』
まず『イソップ寓話』における『田舎のネズミと都会のネズミ』について簡単に確認する。
作中で天使の悪魔(以下「天使」と表記)が語っているように、「都会のネズミと田舎のネズミ」の元ネタは『イソップ寓話』だ。
あらすじを簡単にまとめれば以下のようになる。
- 田舎のネズミが都会のネズミを田舎に招いてご馳走をふるまうが、都会のネズミは田舎の暮らしを「退屈だ」と言い、田舎のネズミを都会へ招待する。
- パンやチーズ、肉といったご馳走に目がくらむ田舎のネズミだったが、いざ食事を始めようとすると何者かが扉を開けて入ってくる。そこで都会のネズミと田舎のネズミは穴に身を潜める。
- その後も都会で危ない目にあった田舎のネズミは、結局田舎暮らしが性に合っているからと、田舎へと帰ってゆく。
以上のような内容から、一般的にこの話の教訓は「幸せは人それぞれ」だとされている。
田舎のネズミにとっては、都会でビクビクして暮らすより、田舎でのどかに暮らして方が幸せ、都会のネズミにとっては、田舎で退屈に暮らすより、多少危険はあってもおいしいご飯が食べられる都会で暮らす方が幸せ、ということだろう。
ではこの寓話は『チェンソーマン』ではどのように生かされているだろうか? あるいはその教訓(「幸せは人それぞれ」)は『チェンソーマン』でも当てはまるだろうか?
Ⅲ. 『チェンソーマン』における「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」
ⅰ. 田舎のネズミ(天使・レゼ)× 都会のネズミ(アキ・デンジ)
まず注目したいのは、登場人物たちが「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」どちらの方がよいかという議論をしているところである。
結論から言えば、天使・レゼは「田舎のネズミ」派であり、アキ・デンジは「都会のネズミ」派である。


まず、天使が「僕は田舎のネズミがよかった」と言っていることと、レゼが「田舎のネズミのほうがいいよ~」と言っていることから、2人は「田舎のネズミ」派だと言うことができる。
次に、デンジについては「俺ぁ都会のネズミがいーな」と語っていたことから彼は「都会のネズミ」派だと言える。
アキについては、彼自身の言及はないが、天使が「都会のキミに付き合って危険な目はごめんだね」とアキを都会の危険といっしょに語っていることから、アキはひとまず「都会のネズミ」派に当てはめられる(ただし、アキについてはあくまで天使と対置した場合「都会のネズミ」と位置付けられるだけで、彼は「田舎のネズミ」とも言える。これについては後述する)。
ⅱ. 「天使×アキ」、「レゼ×デンジ」という対比
ここから、2つの対比が見えてくる。すなわち、「天使(田舎派)×アキ(都会派)」、「レゼ(田舎派)×デンジ(都会派)」という対比である。
『チェンソーマン』5巻および6巻では、この2つの対比がそのまま2つの物語となり、それぞれの物語が「田舎のネズミと都会のネズミ」の話と絡み合いながら進行していくことになる。
ではこの2つの物語、「天使とアキの物語」、「レゼとデンジの物語」は「田舎のネズミと都会のネズミ」の話とどのように絡み合っているのだろうか? 彼らは『イソップ寓話』のネズミと同様にそれぞれの「幸せ」をつかめただろうか?
Ⅳ. レゼとデンジの物語
ⅰ. レゼの場合
1. 「モルモット」
レゼは「モルモット」と呼ばれる面々の一人だ。「モルモット」とは、ソ連が国家に尽くすために作った戦士の総称で、みな「秘密の部屋」で育てられた。
そこには親のいない子供たちが詰め込まれ、彼らは「物のように扱われ 死ぬまで体を実験に使われる」のだと言う。
まさに実験動物、「モルモット」だ。
2. 「田舎のネズミ」に憧れる「モルモット」
「モルモット」として育ったレゼは、「田舎のネズミ」に憧れる。
曰く、「田舎のネズミのほうがいいよ~ 平和が一番ですよ」とのこと。「モルモット」として育った背景を知っていれば、「平和が一番」というのも本心なのではないかと思えてくる。
では、そのように平和を望むレゼは、憧れの「田舎のネズミ」になれただろうか?
3. 花
デンジとの死闘後、「今日の昼に…! あのカフェで待ってるから‼」と叫ぶデンジを尻目に、レゼは浜辺を立ち去る。
その後、レゼは街頭で一輪の花を受け取る。その花はデンジが5巻で受け取っていた花と同じ花だ。


この花は、デンジが最初にレゼにプレゼントしたのと同種の花であり、そして「悪魔被害にあった子供達」への募金活動のお礼として受け取れる花でもある。
花を受け取ったレゼは、どこか物憂げにそれを見つめている。
4. 田舎へ行けないモルモット
花を受け取ったレゼは、新幹線のホームへと赴く。
その新幹線は「山形行き」。これに乗れば、あるいは「田舎」で平和に暮らせるかもしれない。
しかしレゼはその新幹線を見送る。目線の先にある一輪の花が、彼女を約束の場所へと駆り立てたのだろう。
5. カフェへ


駅から出たレゼは歩みを進める。
セリフのない描写でレゼの足取りが描かれているが、この光景は見覚えがある。そう、これはカフェへの道のりだ。
彼女は結局、一人で逃げることよりもデンジと逃げることを選んだのだろう。だから彼女は約束の場所であるカフェへ行こうとする。
しかし路地を抜ける一歩手前で、行く手を魔女が阻む。そこでレゼの淡い逃避行の夢は、彼女の命ともども息絶えてしまう――
6. 「モルモット」は都会のネズミの夢を見るか?
結局、「モルモット」であるレゼは「ネズミ」にはなれなかったのだろうか?
まず確実に言えるのは「田舎のネズミ」にはなり切れなかったということだ。彼女は最終的にデンジのことを捨てきれず、カフェへ赴こうとする。そのとき、独りで「田舎」へ行くことは諦めている。
では「都会のネズミ」はどうだろう?
ひとつ考えられるのは、あのカフェが、都会にひっそりそびえるあのカフェが、レゼの一時の居場所だったのではないかということだ。
もちろん最初は隠れ蓑にすぎなかったのだろう。ただ、曲がりなりにも接客ができるくらいには馴染んでいるし、カフェのマスターとも親し気である。
本当かどうかはわからないが、デンジと行った「花火が一番見えて誰も人来ないマル秘スポット」は「カフェのマスターに教えてもらった」のだと言う。
加えてレゼは、そのカフェで「勉強」をしていた。そこから「学校」の話題が出るくらいだから、おそらくレゼは学校の勉強っぽいことをしていたのだろう。
しかし、後に告白されるようにレゼは学校に行ったことがない。その事実に鑑みれば、あのカフェは唯一レゼが「普通」に暮らせる場所だったとも考えられる。
とするならば、彼女が時折口にする、デンジが学校に行っていないことへの「おかしい」という追及は、実はデンジだけに向けたものではないかとも思えてくる。
「16歳ってまだ全然子供だよ? ふつうは受験勉強して部活がんばって友達と遊びに行って…」。
はたしてそれは、誰に向けた言葉だったのだろうか。
7. 「なんで…初めて出会った時に殺さなかったんだろう」
レゼはいつだってデンジを殺せたはずだ。出会った当初でも、カフェに行った後でも、機会はいくらでもあったはずだ。
しかし彼女はデンジを殺さなかった。そればかりか夜の学校に忍び込み、夏祭りもいっしょに楽しんでいた。
「なんで…初めて出会った時に殺さなかったんだろう」。
死ぬ間際につぶやいたその言葉に対する答えが、都会にまぎれた「モルモット」のつかの間の「幸せ」を物語っているのではないだろうか。
ⅱ. デンジの場合
1. 「犬」と「ネズミ」の狭間で
デンジは「都会のネズミ」の方がいいと言う。その理由は「都会のほうがウマいモンあるし楽しそうじゃん」というもの。
デンジがそう言うのも納得できる。なぜなら、デンジは「田舎」での借金まみれの極貧生活から逃れて公安に勤め、「都会」で働いているおかげで満足できるレベルの衣食住を確保できているからだ。
だからデンジは「犬」として扱われても満足できた。むしろデンジは喜んでマキマの忠犬となり、悪魔を狩る。
しかしレゼとの戦闘後、事情は変わる。デンジは「素晴らしき日々」を送っているが、レゼを公安に引き渡せば「魚の骨がノドに突っかかる気がする」のだと言う。
だからレゼに関してだけは、デンジは「犬」にはなれない。今度ばかりは、マキマが言うような土の中の「田舎のネズミ」を駆除する「犬」にはなり切れない。
だからレゼに対しては「魔女」が直接手を下す。魔女の忠犬であるデンジは、ただ待ちぼうけを食わされるしかなかった。
しかしそれでもデンジはデンジなりに幸せなのだろう。レゼのことは不幸だったかもしれないが、彼自身仕事も「だんだん楽しくなってきてんだ」と言っているし、衣食住にも困らない。
命を狙われる日々ではあるが、デンジなりに満足のいく暮らしはできている。彼は今まさに「都会のネズミ」のような、幸不幸が隣り合わせの生活を送っているのではないだろうか。
Ⅴ. 天使とアキの物語
ⅰ. 天使の場合
1. 田舎に憧れる天使
天使は「田舎のネズミがよかった」と語る。それは田舎なら都会で危険な目にあうこともないし、せわしない仕事に追われることもないからだろう。
実際天使は、「働くくらいなら死んだほうがマシかな…」と述べているし、「怠け癖」もひどい。
だったら仕事なんてやめて、田舎に帰ればいいじゃないかとも思うが、そういうわけにもいかない。
なぜなら彼は「自分が産まれた場所の村人を全員殺している」からだ。
2. 「僕の心は田舎にあるのさ」
マキマ曰く、天使は「自分が産まれた場所の村人を全員殺している」。まずこのせいで天使は田舎には帰れないのだと考えられる。
そしてそれが直接の原因となっているかどうかはわからないが、彼は「マキマにつかまって都会に連れて来られ」る。
しかし都会に天使の居場所はない。
それはまず、前述したように彼に「怠け癖」があって、都会で仕事をするのには向いていないからだが、もっと大きな理由がある。
それは彼に、触れた人の寿命を奪って武器に変換するという能力があるからだ。触れると寿命が減るのだから、天使に近づく者も減る。必然的に孤独になっていく。
だから彼は言うのだろう、「僕の心は田舎にあるのさ」と。
3. 「都会」でアキに救われる
そんな天使にとって、都会でアキに出会ったことは大きい。
思えばアキは最初から躊躇がなかった。最初に出会ったときも、アキは血まみれの天使に、(触れる可能性があるのに)なんのためらいもなくハンカチを渡す。*1
そして6巻では、天使を助けるために寿命が縮まることもかえりみずにアキは天使の手を握る。「なんで僕の手を触った⁉ 死にたいのか⁉」と言う天使に、アキは「目の前で死なれるのだけは…もう御免だ……」と答える。


田舎にも帰れず、都会でも孤独だった天使は、ここでアキに救われる。
4. 「ねえ…都会はいいトコかい?」
だから6巻のラストの天使のつぶやきはすごく示唆的だ。
独りでレゼを殺しに来た天使は、マキマから「アキ君に女の子を殺させたくなかったんだ 優しいね」と言われるが、「…まあ天使ですから」と軽くあしらう。
その後、天使は都会のネズミに向かって「ねえ…都会はいいトコかい?」と尋ねる。
無難に解釈すればこのセリフは、都会でアキに救われたからこそ、天使は都会に居場所を見つけ始めた、都会も「いいトコ」かもしれないと思い始めた、そう解釈できるだろう。
そうだとするならば、天使はここで彼なりの「幸せ」の形をつかみ始めているのではないだろうか。
「田舎のネズミ」にも戻れず、「都会」でも孤独だった天使は、アキという存在のおかげで、都会における「幸せ」を見出し始めたのかもしれない。
ⅱ. アキの場合
1.「都会のネズミ」にならざるをえなかった「田舎のネズミ」
以上のように、天使は都会に居場所を見つけ始めたかもしれないが、アキの場合は相変わらず都会で幸せをつかみきれない。
というのも、アキの心はずっと田舎に囚われたままだからだ。
今のアキは「都会に住むネズミ」ではあるが、彼は自ら進んで「都会のネズミ」になったのではない。
彼もまた、やむを得ず「都会のネズミ」にならざるをえなかった「田舎のネズミ」なのだ。
2. 置き去りの心
アキは家族もろとも「田舎」を奪われた。その日は、奇しくも彼の弟(タイヨウ)が『田舎のネズミと都会のネズミ』を読み聞かせられていた日だった。
病弱な弟のせいで、アキは親と十分に遊べなかったかもしれないが、彼は工夫して弟も遊びに連れ出す。そのようにして彼は、彼なりに幸せな日々を送っていたはずだ。
しかしそこに銃の悪魔がやってくる。「田舎」を家族もろとも奪われた彼は、復讐のために「都会」へとやって来る。
彼は二度と目の前で大切な人を死なせまいとするが、結局大切な先輩である姫野も目の前で失ってしまう。そうしてアキは公安を辞めるか否かの選択を迫られる。


しかしアキの決意は固い。結局、「家族を殺した奴も…バディを殺した奴もまだ生きてる なのになんでやめれるんですか…?」と言う始末。
そのように、アキの心はずっと田舎に囚われたままだ。悪魔との契約で寿命は残り少なく、「最悪な死に方」をすると予言されているアキ。
はたして彼の行く末に「幸せ」などあるのだろうか。
Ⅵ. それぞれの幸せ
ⅰ. パティスリーとお菓子作り同好会
米澤穂信の小説にこんな一節がある。
「小鳩くん。そういうことじゃないの。素敵なパティスリーとお菓子作り同好会を同列に並べて比較するなんて、つまらないことよ。百円の板チョコを食べてゴディバの方がおいしいだなんて考えるのは滑稽だわ」
[……]
「パティスリーにはパティスリーにふさわしく、ホームメイドはホームメイドなりに、駄菓子は駄菓子として素敵ならそれでいいのよ。いつだって最高のものを求めるのは求道者っぽくて恰好よく見えるかもしれないけど、実際は何を食べても『あれに比べればね』なんて言っちゃうスノッブに過ぎない」
(米澤穂信『巴里マカロンの謎』(創元推理文庫、2020)p.89)
文脈は異なるが、「幸せ」というのもこれと同じような話ではないだろうか。
すなわち、パティスリーとお菓子作り同好会を単純に比較することができないように、自分の幸せと他人の幸せは同列に比較することはできない。
天使もアキも、レゼもデンジも、それぞれがそれぞれなりの「幸せ」の形をもっていて、その善し悪しを他人が決定づけることはできない。
ⅱ. 「幸福は小鳥のようにつかまえておくがいい」
それに「幸せ」の形なんて時と共に変わってしまう。デンジも最初は最低限の衣食住が確保できればよいと思っていたが、それが叶うと、今度は違う目標を探し始める。
デンジは今、「都会のネズミ」として幸せかもしれないが、それもいつまで続くかわからない。
世の中にはこんな言葉がある。「幸福は小鳥のようにつかまえておくがいい。 できるだけそっと、ゆるやかに。 小鳥は自分が自由だと思い込んでさえいれば、 喜んでお前の手の中にとどまっているだろう」。
デンジはまだ、誰かの手の中で限られた幸福を享受しているにすぎないのかもしれない。
【参考文献】
藤本タツキ『チェンソーマン1-6』(集英社、2019-2020)
【関連記事】
*1:『チェンソーマン4』(集英社、2020)p.182-183参照