<前編>からの続きです!
- Q4. 「未来」が漏洩したことには何の意味があるの?
- Q5. 「欲望の河を渡れ」ってどういう意味?
- Q6. どうして春河はケッピとサラを見て「星の王子さまとお姫さま」と言ったの?
- Q7. 最後の春河の言葉の意味って?
- Q8. 悠が河に飛び込んだことは何を意味するのか?
- Q9. 最後にカッパの姿の3人が流れていったのはどうして?
Q4. 「未来」が漏洩したことには何の意味があるの?
A4. 「つながり」はしんどいけど、それでもなお「つながり」を選び取ったことを強調している
a. 「つながり」ってしんどい
「つながり」って一口に言っても、そう簡単につながれるわけじゃないし、「つながる」ってしんどいんです。
つながりたいけど、偽りたい、奪いたい、報われない、そばにいない、許されない、裏切りたい、もう会えない、伝わらない……。
それが「可能性の一つ」として示された「未来」で漏洩したことであり、また、これまでのアニメ10話分を通して示されてきた「つながり」のしんどい側面です。
だから、「つながりたいけど、つながれない」。
「でも、それでも」、「つながりたいから、諦めない」。
そうして彼らは「つながる」ことを、「つながりたい」という欲望を選び取るわけです。
だからここで漏洩した「未来」は、「つながり」はしんどいけど、それでもなお「つながり」を選び取ったことを強調していると言えるでしょう。
b. 「サッカー」というモチーフの意味
言わずもがなですが、「サッカー」は「つながり」という主題にぴったりのモチーフです。
なぜなら「サッカー」は、ボール(=玉=尻子玉=欲望)を、パスで「つなげて」、ゴール(=「未来」)を目指すスポーツだからです。
でも、もちろん、いつもパスがつながるわけではありませんし、いつもゴールが決まるわけでもありません。
「つながる」こともあれば「つながらない」こともある、ゴール=「未来」に到達することもあれば到達しないこともある。
だから未来の漏洩でも、最後にゴールが決まったか否かはわからなくなっているのではないでしょうか。
「つながれる」かどうかはわからないけれど、それでも「つながりたい」と欲望する、そこに意味があると私は考えます。
Q5. 「欲望の河を渡れ」ってどういう意味?
A5.「欲望=命の流れに揉まれながら、過去の喪失を抱えつつも、それを超えて未来へ行け」という意味
a. 「欲望」=「命」
まず、すごくすごく大事なこととして、「欲望=命」という定式があります。
それはまず、「手放すな、欲望は君の命だ」という『さらざんまい』のキーフレーズからわかります。
さらに幾原監督は、読売新聞のインタビューでこんなことを言っていました。
「ゾンビの持つ欲望と、一稀たちの欲望は、基本的に同じもの。違いは、その欲望で人の輪とつながれるのかどうか。僕は、生きるってことは欲望を持つことだと思っているので、ネガティブにとらえたくないんです」
(石田汗太「生きることは欲望を持つこと」『読売新聞』2019年 5月20日夕刊 , 8面。太字は筆者による)
そう、「生きるってことは欲望を持つこと」なんです。
だから、尻子玉(≒欲望)を抜かれたカッパの姿の一稀たちは「生きていて死んでいる」のです。
b. 「河」=「命」の奔流
さらに言うと、「河」というのも「命」です。
「隅田川を見た時に、東京という都会に住んでいてこれだけの水の量を見ることってないなと思ったんですよ。その川の流れを見た時に、東京という都会に住んでいてこれだけの水の量を見ることってそうないなと思ったんですよ。その川の流れを見た時に、命を感じたんですよね。つながりも、欲望も、たぶん行き着くところは命なのかなと」
(尹 秀姫「さらざんまい anan SPECIAL」『an・an』No.2152(2019年5月29日号) p99。太字は筆者による)
幾原監督が言うように、「河」からは「命」を感じることができます。
ただし、それは単独の「命」ではないと考えられます。
「河」にはたくさんの水が流れていて、その水一粒一粒がたくさんつながって初めて「河」になっているのではないでしょうか。
だから「河」は、たくさんの命=欲望が、つながって流れて、生命の奔流となっているというイメージだと思います。
c. 「河」を超えていくと「未来」へたどり着く
じゃあそんな命の河を「渡る」とはどういうことでしょうか?
一般に、「渡る」というのはこちら側の岸(此岸)から向こう側の岸(彼岸)に渡ることを意味します。
ではこの場合、どこからどこへ「渡る」のでしょう?
この場合は、過去(此岸)から未来(彼岸)へと渡るのだと考えられます。
だから、「その河を渡れ。もう決して戻れないのだから」(PVより)なのです。
何かを失う前の「過去」、何かを喪失する前の「過去」には、もう戻れません。
じゃあそれを乗り越えて、「未来」へ行くにはどうすればいいのでしょう?
「未来」へ行くのには、欲望をつなげて、「命」の河を通り抜けて渡ってゆくことが必要なのだと考えられます。
なぜなら、サラが最後に言ったように、「喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」からです。
それが「欲望の河を渡れ」というメッセージの意味だと考えられます。
Q6. どうして春河はケッピとサラを見て「星の王子さまとお姫さま」と言ったの?
A6. ケッピとサラはもはや「カッパ」ではないから
a.なぜ「カッパ」じゃないのか?
春河が「わぁ!星の王子さまとお姫さま!」といったとき、ケッピとサラには「皿」はなく、見た目も人間のようで、もはや「カッパ」ではないように見えます。
直前には春河が持っていた「皿」が割れており、そのときサラは「皿は生命の器。形あるものはいつか割れて、失われてしまいます」と言っています。
これは幾原監督の「阪神大震災と東日本大震災、その後も続いた地震災害を経て、僕らは損なわれる物質の無常を知った。若い人は、モノへの欲望の代わりに、『つながりたい』という欲望があるんじゃないか」という言葉に呼応しています。
ケッピやサラに「皿」が見られないというのは、まずそのような「物質の無常」を表していると言えます。
加えて大事なのは、カッパというのは尻子玉を抜かれた「生きていて死んでいる」ような状態だということです。
ケッピやサラがもはや「カッパ」でないのは、「絶望」を受け入れて「尻子玉」(≒欲望)を完全体にして、「欲望」を持っている状態=「生きている」状態になったためだと考えられます。
b. なぜ「星の王子さまとお姫さま」なのか?
でもケッピやサラが「カッパ」でなくなっただけなら、別に春河が「わぁ!すごい!」とか、「王子さまとお姫さまみたい!」とか言うだけでも良かったと思うのです。
なぜわざわざ「 "星の" 王子さまとお姫さま」と、「星の」という文言をつけて呼ばせているのでしょう?
思うに、「星の王子さまとお姫さま」というのは「織姫と彦星」のことを言っているのではないでしょうか?
ではなぜ「織姫と彦星」なのかというと、彼らは1年で364日は「つながれない」けれど、1年でたった1日だけ、7/7だけは「つながれる」わけで、それこそが「欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という生き方を体現しているからだと考えられます。
絶望を捨てたカッパでもなく、独善的な欲望を貫くカワウソでもなく、喪失の絶望に耐え、「欲望」を「つなげる」生き方をする「星の王子さまとお姫さま」こそ、完全体の姿としてふさわしいのだと考えられます。
したがって春河が「星の王子さまとお姫さま」と言ったのは、そのような「欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という『さらざんまい』の主題を強調するためだと考えられます。
Q7. 最後の春河の言葉の意味って?
A.7 (旧来のイクニ作品における)「愛」が「つながり」をも取り込んだという意味
a. "春河が" 返事をするということの意味
未来の漏洩が終わった後、サラは「忘れないで。喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」と春河に呼びかけます。
「最後の春河の言葉」というのはその後の言葉です。
「分かったよ。僕が選ぶんだ。僕は、僕が選んだものを信じるよ。大切な人がいるから悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね。そうやって僕らはつながってるんだね」
(『さらざんまい』第十一皿より)
サラの呼びかけに "春河" が答えたことがとても重要なことだと思います。
というよりもむしろ、これに答えるのは春河でないといけない、春河しかこれに答えられないと言ってもいいかもしれません。
b. 春河が「選んだもの」とは?
そもそも春河は「僕は、僕が選んだものを信じるよ」というのですが、その「選んだもの」って何でしょうか?
それは「愛」だと思います。
春河は「欲望か、愛か」という選択で「愛」を選んだ、だから黒ケッピシステムに「判定 : 愛」と認定されたのだと考えられます。
しかし第六皿を見ればわかるように、「愛」と判定された人間は、その先にあるシュレッダーのようなものでバラバラにされて、透明な粉のようなものになってしまいます。
これこそが、過去のイクニ作品と異なる点です。
c. 今までは「愛」があるからこそ、「透明」にならないと説かれてきた
「愛」を選んだ人間が粉々にされて「透明」になるというのは、今までのイクニ作品とは様相を異にしています。
なぜなら、今までの作品では、透明な存在が救済されるために「たった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった」(ピンドラ)とか、「スキをわすれなければいつだって独りじゃない。スキを諦めなければ何かを失っても透明にはならない」(ユリ熊嵐)などと、むしろ「愛」を選ぶからこそ「透明」ではなくなると説かれてきたからです。
もちろん「愛」を選んだ人間が「透明」にされてしまうのは「カワウソ」という「敵」側の仕業に違いないので、一概に「愛」が否定されているわけではありませんが、『さらざんまい』における「愛」は、少なくとも、旧来のイクニ作品における「愛」の概念と異なっていると言えると思います。
では今までの「愛」と『さらざんまい』における「愛」とでは何が異なるのでしょう?
d. 「つながり」を引き受けたか否か
旧来の「愛」と『さらざんまい』の「愛」とでは、「つながり」を引き受けたか否かで異なるのだと考えられます。
ここで言う「つながり」とは何かと言えば、複数人の誰かと「欲望」を共有したり、交換しあったりすることだと思います。
それを、春河が引き受けたというのが重要です。
なぜなら春河は「愛」の象徴だからです。
e.春河=「愛」の象徴
第十一皿までの春河は、いわば旧来のイクニ作品における「愛」の象徴です。
すなわち春河がサラに応答するということは、旧来のイクニ作品の「愛」の象徴が、「つながり」(=誰かと欲望を共有したり交換しあったりすること)を引き受けたことを意味していると考えられます。
旧来のイクニ作品の「愛」にも、人とのつながりは含まれていなくはありませんでしたが(例えば「家族」とのつながりやたった一人の大好きな人とのつながり)、それはより狭い範囲に限られていました。
例えば『ユリ熊嵐』などはわかりやすく、同調を求めるクラスの大多数は「スキ」になれなくても、たった一人の誰か(銀子)を「スキ」でいれれば「透明にはならない」わけです。
だから『ユリ熊嵐』では、人間社会では生き延びることは諦めて、熊に成り代わることで、壁の向こう側で生きていくことが選択されたのだと考えられます。
f. 「愛」にプラスされた「つながり」
『さらざんまい』では、大切な誰か一人とのつながりだけでなく、もう少し広い範囲の「つながり」が引き受けられています。
なぜそれが選び取られたのかと言えば、「この世界はつながりにあふれている。血のつながり、街のつながり、想いのつながり。みんながつながっている世界」だからです。
幾原監督も「今って誰もがつながってる時代」ととらえていますし、だからこそ「このつながりというものが僕たちの人生にどういう変化をもたらすのかを表現したいと思った」わけで、その意味で春河(愛)が「つながり」が受容したのは必然と言えるでしょう。
だから春河の最後の言葉の意味は、(旧来のイクニ作品における)「愛」が「つながり」をも取り込んだということを意味しています。
つまりそれは、喪失の痛みを抱えながらも、しんどい「つながり」を、「愛」をもって受け入れるということです。
もっと単純に言えば、「大切な人がいるから悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね。そうやって僕らはつながってる」ということが理解できるようになるということです。
もちろん、すべての「つながり」を「愛」することは『さらざんまい』でも叶えられず、一稀たちが選んだのも、少ない仲間の中での欲望の「つながり」ですが、少なくとも、従来よりは「愛」をもった「つながり」の範囲が拡大したと言えるでしょう。
私はこれこそが、『さらざんまい』の主題だといってもいいと思っています。
Q8. 悠が河に飛び込んだことは何を意味するのか?
A8. 「行く先はつねに明るいとは限らない」し、喪失も絶望もあるかもしれない人生へと飛び込むこと
「河」とは何だったかというと、前述した幾原監督の言葉にあった通り、「命」を感じさせるものでした。
そこに飛び込むということは、「生きること」=「人生」に飛び込んでいくことを意味しているのではないでしょうか。
もちろん「生きること」というのは、単純に生物学的に生きていることではありません。
前述しましたが、「生きるってことは欲望を持つこと」です。
しかし『さらざんまい』においては、「生きる」ということは「独善的な欲望」だけで独で生きるということではありません。
だから一稀や燕太が「河」に飛び込んでくるのではないでしょうか?
すなわち、悠の「河」=人生に、一稀や燕太が飛び込んできて、一つの「河」の中でつながる、そういう「つながり」も「生きる」ことの範疇だと考えられます。
しかもそれは、偽りたい、奪いたい、報われない、そばにいない、許されない、裏切りたい、もう会えない、伝わらない……いろんな弊害のある「つながり」を引き受けて、欲望をつなぎながら、他者と欲望を共有したり交換し合ったりしながら、「愛」を持って生きることです。
だからこそ、「河」に一稀・燕太・悠が一緒に入るというのは、『さらざんまい』のエンディングとしてとてもふさわしいと思われます。
なぜならそれが、「行く先はつねに明るいとは限らない」し、喪失も絶望もあるかもしれない人生を引き受けた上で、「欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」という『さらざんまい』の主題を体現する出来事だからです。
Q9. 最後にカッパの姿の3人が流れていったのはどうして?
A9. 3人はもはや「生きていて死んでいる」状態ではなくなり、「つながりたい」という欲望をつなげているから
最後にカッパ姿の3人が河を下っていくのは、カッパ(=生きていて死んでいる存在)を流したということだと思います。
3人は、もはやカッパのように尻子玉(=欲望)を持っていないわけはなく、きちんと「つながりたい」という欲望を持っていて、欲望をつなげていると考えられます。
だから最後に「いざ、未来へ――。」と表示されるのではないのでしょうか?
なぜなら、「欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」のですから。
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