Ⅰ. はじめに
「僕は運命って言葉が嫌いだ」
(『輪るピングドラム』1st stationより)
『輪るピングドラム』は、ある種の「運命」の物語です。それもどちらかというと、幸せな「運命」に生まれた子供たちではなく、理不尽な「運命」に生まれ落ちた子供たちの物語です。
「ゼロから見直す『輪るピングドラム』」では、そんな『輪るピングドラム』をもう一度、ゼロから、じっくりと見て、考察していこうという試みです。じっくり見ていこうという企画なので、いつもより短めの分量で、しかし深く、『輪るピングドラム』を掘り下げていけたらと思います。
念のため言っておけば、「ゼロから」とはいえ、一応ひととおり全部見た方のことを念頭に記事を書くので、多少のネタバレは含みます。最近新しく見始めた方でネタバレが多少許容できる方のことも考え、非常に重大なネタバレなどは控えたいとは思いますが、無意識になにかネタバレしてしまうことがあるかもしれないので、そこはどうかご容赦ください。
と言いつつ前置きがすでに長くなってしまっているので、さっそく中身を見ていきましょう。
Ⅱ. 「苹果(リンゴ)」という表記の理由
ⅰ. 「苹果」の重要性
『輪るピングドラム』において「苹果」はとても重要です。
「苹果」をその名に冠した「荻野目苹果(おぎのめりんご)」は言うまでもなく重要人物ですし、タイトルにある「ピングドラム」も、見方によっては「苹果」だと見ることができます。
言い方を変えれば、『輪るピングドラム』を考えるに当たって、「苹果」について考えることは避けて通れない道だと言えます。
では「苹果」とは何なのでしょう?
ⅱ. なぜ「林檎」ではなく「苹果」なのか?
「リンゴ」と言えば、日本では「林檎」という漢字表記が一般的です。
しかし『輪るピングドラム』では「荻野目苹果」に見られるように、わざわざ「苹果」という表記を用いています。これはなぜなのでしょう?
結論から言うと、「苹果」という表記にしたのは、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』に出てくる「苹果」という表記を踏襲したからだと考えられます。
言うまでもなく、『銀河鉄道の夜』では「リンゴ」は「苹果」と表記されているのですが、『ピンドラ』と『銀河鉄道の夜』はこの「苹果」を通して深く関連しています。
Ⅲ. 1st stationで語られる「苹果」
ⅰ. 「子供」が語る「苹果」の解釈
『ピンドラ』で「苹果」が初めて出てくるのは初っ端の第一話です。そこでは「子供」の口を通して重要なことが語られています。
それは少年の口を通じて語られる、『銀河鉄道の夜』における「苹果」の解釈なのですが、重要なのでこれは全文引用しておきたいと思います。
子供A*1「だからさ、苹果は宇宙そのものなんだよ。手のひらにのる宇宙。この世界とあっちの世界をつなぐものだよ」
子供B「あっちの世界?」
A「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ」
B「それと苹果に何の関係があるんだ?」
A「つまり、苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」
B「でも、死んだら全部おしまいじゃん」
A「おしまいじゃないよ。むしろそこから始まるって賢治は言いたいんだ」
B「全然わかんねえよ」
A「愛の話だよ。なんでわかんないかなあ」
(『輪るピングドラム』1st stationより)
これはかなり『銀河鉄道の夜』に踏み込んだ話なので、内容を知らない人からすれば「何のこっちゃ」という感じなのですが、よくよく考えると、ピンドラの主題とかなり密接にリンクしています。
ここに関してはかなり考察の余地があるのですが、まずは確実に言える範囲で、子供たちの会話に注釈を加えていきたいと思います。
ⅱ. 「子供」の言葉の注釈
a. 「あっちの世界」
「あっちの世界」とは要するに「死後の世界」です。
「あっちの世界?」と聞き返す少年に、もう片方の少年は「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ」と説明しているのですが、『銀河鉄道の夜』では、「カンパネルラや他の乗客」たちは死者であることが示唆されています。
子供Aは、「苹果」を「この世界とあっちの世界をつなぐもの」=「生前の世界と死後の世界をつなぐもの」だと解釈しているわけですね。
ただし、『ピンドラ』では厳密には少し違って、「ピングドラム」と呼ばれるリンゴ状のものは、「運命の乗り換え」に用いられます。
したがって『ピンドラ』では、「苹果」は「運命と運命とをつなぐもの」、つまり、「運命の乗り換え」が起こる前の世界と後の世界をつなぐものだとも言えます。
この「苹果」の主題的な意味については、ゼロから見直す『輪るピングドラム』③カレーを食べるとはどういうことか?【4~6話】 - 野の百合、空の鳥で考察したので、詳しくはそちらを参照していただけると幸いです。ひとまず、今は「苹果」を『銀河鉄道の夜』から考えてみましょう。
b. 「苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美」
少年は「苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美」と言っているのですが、「愛による死を自ら選択した者」とは誰のことでしょうか?
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、それはカンパネルラです。作中で、カンパネルラはザネリという同級生を助けるために川に飛び込んで死んだことが示唆されています。
そして少年は、「苹果」は「死を自ら選択した者」への「ご褒美」だと言っているのですが、実際にカンパネルラは作中で苹果を受けっています。
ただし、そのとき苹果を受け取ったのはカンパネルラだけでなく、死んでいないジョバンニや、「愛による死を自ら選択した」かどうかわからない他の乗客も苹果をもらっているので、苹果をもらったすべての人が「愛による死を自ら選択した者」だとは限らないと考えられます。
しかしそれは『銀河鉄道の夜』自体の話であって、ここで確実に言えるのは、『輪るピングドラム』に出てくるこの子供は、「苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美」だと考えているという、その一点のみです。
そしてもちろん、『輪るピングドラム』で言えば「愛による死を自ら選択した者」とは冠葉や昌馬に値すると考えられるのですが、ここは大いに議論の余地があります。
そもそもその前に、「愛による死を自ら選択」することを考える際には、「蠍の火」の話を抜きにしては語れません。
「蠍の火」は大事な話なので、②の方で考えていきましょう。
②↓
*1:筆者による仮称。エンディングクレジットには「子供A」の表記はあるが、「子供B」の表記はない。子供は二人存在するのにクレジットの表記は一人分しかないことから、「子供B」に当たる声優が第一話で複数の人物の声を当てたか、もしくはクレジットの入れ忘れという可能性が考えられる。