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さらざんまい考察②「吾妻橋」から読み解く『さらざんまい』――吾妻橋の歴史と由来・「巴」に関する試論――

Ⅰ. はじめに

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『さらざんまい』の吾妻橋(『さらざんまい』第1皿より ©イクニラッパー/シリコマンダーズ)

この記事では、作品のキープレイスの一つとなっている「吾妻橋」から、『さらざんまい』について考察していきます。

 

概略を述べると、まず初めに現実の吾妻橋に関する事実をまとめ、そこから「吾妻橋」に関連すると考えられる「吾妻サラ」について考察していきます。

 

例によって初めに簡単な要約を述べておきます。

 

まず、「Ⅱ. 吾妻橋について」では、現実に存在する吾妻橋についての歴史的事実や物語との関連、吾妻橋の由来などについてまとめ、考察します。

 

次に「Ⅲ. 吾妻サラについて」においては、作中のキャラクター「吾妻サラ」に関する情報をまとめて、それについて考察します。

 

そして「Ⅳ. 『さらざんまい』における吾妻橋と吾妻サラ」では、「Ⅱ」や「Ⅲ」でまとめたことを踏まえて、『さらざんまい』における「吾妻橋」と「吾妻サラ」について検証・考察していきます。

 

さらに「Ⅴ. 吾妻橋と吾妻サラから見えてくる『さらざんまい』の世界観」では、吾妻橋と吾妻サラについて考える過程で浮かび上がってきた『さらざんまい』の世界観について、今のところの推測をまとめておきます。

 

「吾妻サラ」に関しては作中でもまだ登場場面が少なく、情報が少ないことから、今回は特に、「事実」「推測」の区別に注意しながら考察したいと思います。

 

具体的には、「Ⅱ」「Ⅲ」では「事実」を重点的に、「Ⅳ」では「Ⅱ」と「Ⅲ」から今の時点で「推測」できることを重点的に考察をしていきます。

 

②の方では主に吾妻橋に関する「事実」を述べていくので、直接『さらざんまい』に関する考察をご覧になりたい方は先に③からご覧になった方がおもしろいかもしれません。

③↓

 

それでは本論に入ります。

 

 

Ⅱ. 吾妻橋について

ⅰ. 吾妻橋の歴史

a. 「復興橋」としての吾妻橋

吾妻橋の歴史は深く、その成立は徳川10代将軍家治の時代、安永3年(1774)にまで遡ります。

 

それから幾度となく架け替えが行われてきましたが、現在の三連アーチの形に架け替えられたのは、関東大震災 (1923) の後のことで、1931年に現在の形が完成しました。*1

 

吾妻橋には、まずそのような「復興橋」としての側面があります。

 

震災とそれによる火災で仮橋が燃え落ちた吾妻橋は、関東大震災の復興の一環として架け替えられたのでした

 

また、橋への被害はもちろんのこと、震災では吾妻橋の付近で多くの人々が亡くなりました

 

そのような震災による犠牲者を供養するために、吾妻橋の墨田区側のたもとには「あづま地蔵尊」が建てられています。

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あづま地蔵尊(左)。関東大震災で遭難した霊のための卒塔婆もおかれている(右)。

地蔵尊の傍に刻まれた「震火災水難殉難者各霊」の文字からは、震災によって隅田川に追いやられた人々の惨状を察することができます。

 

実際に、吾妻橋のかかる墨田川は、震災直後は火の粉が直接降りかかってくるほど火の勢いが強かったり、川の水がお湯のように熱かったそうで、川には何体もの死体が浮かんでいたようです*2

 

まず以上のように、関東大震災によって吾妻橋の付近では多くの命が失われたという事実は特記すべきことだと言えるでしょう。

 

しかし吾妻橋付近の惨劇は、関東大震災だけには収まりませんでした。

 

b. 東京大空襲

関東大震災からの復興も間もない1945年3月10日、今度は「東京大空襲」が吾妻橋の近辺を襲いました。

 

言うまでもなく、ここでも多くの犠牲者が生まれ、吾妻橋近辺の道路や川べりには焼死者の屍がるいるいと横たわっていたそうです*3

 

前述した「あづま地蔵尊」には、私が行ったときにはなかったのですが、東京大空襲の犠牲者のための卒塔婆が置かれていたという情報もいくつか目にしました*4

 

ちなみに、この東京大空襲では1649年以来およそ300年にもわたって不思議と火災を免れてきた浅草寺の本堂も焼け落ちてしまったそうです*5

 

東京大空襲というのは、それほどまでに凄まじい出来事だったと言うことができます。

 

以上のように、吾妻橋の歴史は決して明るいものではなく、震災や空襲によって多くの人が犠牲となった地であったと言うことができるでしょう。

 

ところで、上述したように吾妻橋では様々な惨状が引き起ったわけですが、震災でも空襲でも、吾妻橋では特に「火災」という災難に見舞われたと見ることができます。

 

その「火災」と吾妻橋との関連について、『さらざんまい』とも関係があることで少し気になることがあります。

 

ⅱ. 吾妻橋欄干の「巴紋」に関する試論

a. 吾妻橋の欄干にはなぜ「巴紋」が刻まれているのか?
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吾妻橋の欄干(左)と『さらざんまい』での欄干(右)(『さらざんまい』第2皿より©イクニラッパー/シリコマンダーズ)

それは吾妻橋の欄干に刻まれた「巴紋」のことについてです。

 

この巴紋つきの欄干は、『さらざんまい』の作中でも「カワウソイヤー」の場面の背景に登場します(上画像参照)。

 

巴紋つきの欄干と『さらざんまい』との関係については別のところで考察することにして、まずは現実の吾妻橋の欄干の巴紋について考察したいと思います。

 

すなわち、ここでは「現実の吾妻橋の欄干にはなぜ巴紋が刻まれているのだろうか?」ということについて考察します。

 

b. 「巴紋」の意味

巴紋には様々な意味があると言われているのですが、一説によれば、巴紋は「火よけ」の意味を担っているとされています。

 

なぜ巴紋が「火よけ」の意味をもつのかというと、それは巴紋の模様が水が渦巻く様を表していると解釈されているからです。*6

 

まさにそれこそが、吾妻橋の欄干に巴紋が刻まれている理由なのではないのでしょうか?

 

すなわち、吾妻橋の欄干に巴紋が刻まれているのは、「火よけ」のためではないのでしょうか

 

そう考える理由は、前述したように、吾妻橋自体が、そしてその周囲が関東大震災や東京大空襲による火災の悲劇に見舞われてきたからです。

 

この巴紋が刻まれた欄干がいつ造られたものなのかは明確にはわからなかったのですが、少なくとも、今の橋の形となった関東大震災の復興時より後のことであるのは間違いがなさそうです。

 

とするならば、欄干の巴紋に「火よけ」という願いが込められていても不思議ではないように思えます。

 

欄干に巴紋が刻まれた理由は、今のところ調べてもわからなかったのですが、上記のように考えれば一応、筋は通っているように思えます(これに関して、もし詳しいことをご存知の方がいらっしゃればコメントなどでご教授いただけますと幸いです)。

 

この「火よけ」という意味が『さらざんまい』にどう関わるのか、あるいは関わらないのかはわかりませんが、巴紋はほかにも「カワウソイヤー」の太鼓など、特にカワウソ側の陣営によく見られる象徴なので、その意味を考えるためにも、ひとまず以上のような考察をしておいた次第です。

 

カワウソ陣営側の「巴紋」には、おそらく「火よけ」以上の意味合いが込められているとは思うのですが、これについてはまた別のところで考察することにしましょう。

 

ⅲ. 物語の中の「吾妻橋」――自殺の名所――

吾妻橋は、上述してきたように歴史的にも「死」との関わりが深かったと言えますが、落語や文学の中でも「死」と結びつくことが多くありました。

 

物語の中でも、特に落語の世界では、吾妻橋は自殺の名所として語られることも多かったようです。*7

 

例えば、『文七元結』『辰巳の辻占』『星野屋』といった作品では吾妻橋が、特に身投げと関連して登場します。*8

 

また、文学においても吾妻橋は多く登場します。

 

例えば夏目漱石の『坊ちゃん』では、「寒月君」が身投げを仕損じた場所として吾妻橋が登場します。*9

 

さらに、『さらざんまい』と関連があると思われる『河童』を書いた芥川龍之介も、自身の作品に吾妻橋を登場させていました。

 

というのも無理はなく、吾妻橋が橋渡しをしている区のうちの片方である墨田区の両国は、芥川龍之介生育の地として知られています。

 

吾妻橋と両国とは距離的にも近く、『ひょっとこ』という小説では吾妻橋付近の様子が、生き生きとした様子で描かれています。*10

 

ちなみにこの『ひょっとこ』という小説は、川を下る船の上で「ひょっとこ」の面をかぶって踊っていた男が転げ落ちて頓死する様子を、吾妻橋の上から目撃するというあらすじになっており、ここでも一つの「死」が題材となっています。

 

以上でみてきたことをまとめると、吾妻橋は歴史的にだけでなく、物語の中でも「死」と結びついてきたと言うことができるでしょう。

 

吾妻橋はそのように、橋として「死」と関わってきたのですが、極めつけには橋の名の由来までも「死」と関わっていると言うことが出来ます。

 

 

ⅳ. 「吾妻橋」という名の由来

a. 由来

「吾妻橋」の由来は諸説あるのですが、大きく分けて以下の二つの説があるようです。*11

  1. 江戸の東にあるために町民たちからはもともと「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説
  2. 東岸方面にある「吾嬬神社」へと通ずる道すじであったことから転じて「吾妻」とされた説

今回の考察では、考察の価値が十二分にあると考えられる2つ目の説、「吾嬬神社」に関する説の方を考えていきたいと思います。

 

b. 吾嬬神社と「吾妻」

吾嬬神社は、吾妻橋を東の方へ渡った墨田区側の、スカイツリーを超えて少し行ったところにあります。

 

「吾妻(吾嬬)」と名の付く神社は日本全国にいくつか存在するのですが、その多くは『古事記』や『日本書紀』に登場する「弟橘媛(おとたちばなひめ)」にゆかりがあると言われています。

 

そもそも日本語の「吾妻」という言葉自体、この弟橘媛に関する逸話に由来していると言われています。

 

ではその弟橘媛とはいったい何者なのでしょう?

 

c. 弟橘媛

弟橘媛とは、『古事記』や『日本書紀』に登場する「日本武尊(ヤマトタケル)」の妃(配偶者)です。

 

弟橘媛には、日本武尊(ヤマトタケル)が相模より房総へ渡る際、荒れ狂った海を鎮めるために生贄となり、海中に没したという逸話があります。

 

その後、弟橘媛を忘れられない日本武尊(ヤマトタケル)が(『日本書紀』によれば碓日の嶺で、『古事記』によれば足柄の坂本で)、「吾妻はや」と嘆いたことが、「吾妻」という言葉の由来だと言われています。*12

 

以上のことをまとめると、まず吾妻橋の名の由来の一つは吾嬬神社にあり、「吾妻」という言葉の由来は、荒れ狂った海を鎮めるため犠牲となった弟橘媛に由来していると言えます。

 

すなわち、吾妻橋の源流を弟橘媛に見るならば、吾妻橋はここでも一つの犠牲、一つの「死」と関わっていると見ることができます。

 

また、弟橘媛は吾妻サラとも関連していると考えられるのですが、これについてはまた後で考察したいと思います。

 

以上、「Ⅱ. 吾妻橋について」では、吾妻橋に関してその歴史的事実や物語との関連、そしてその由来を見てきました。

 

総じて言えるのは、関東大震災や東京大空襲といった史実にしても、自殺の名所とされた物語との関連にしても、弟橘媛との関連にしても、吾妻橋が「死」と深く結びついてきたということです。

 

長くなってしまったので、以上のことがどう『さらざんまい』に関わってくるのか、あるいは関わってこないのかについては、次回の考察で見ていきたいと思います。

 

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<主要参考文献>

吾妻橋 - 道路WEB

吾妻橋 - Wikipedia