Ⅳ. 「蠍の火」とは何か
ⅰ. 『銀河鉄道の夜』における「蠍の火」
あらかじめ言ってしまえば、『ピンドラ』で運命の呪文を唱えるとそれに燃やされるとされるものが「蠍の火」に当たる。では「蠍の火」とは何か。
『銀河鉄道の夜』において、「蠍の火」は、ジョバンニたちと一緒に列車に乗っていた女の子がお父さんから聞いた話として語られる。少し長いが、重要なのでご一読願いたい。
「そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯(こ)う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(みつ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押さえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの。
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰おっしゃったわ。ほんとうにあの火それだわ。」(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫)より引用)
今までいろんな生き物をエサにしてきた蠍は、いざ自分が命を狙われる側になると、井戸に落ちてあっけなく死んでしまう。そこで蠍は、こんな無駄に命を捨てるくらいなら、他の生き物に命をあげた方がましだったと考える。そうして「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と祈ると、自分の体がまっ赤に燃え、闇夜を照らすようになった、それが「蠍の火」というわけだ。
ここでのポイントは、蠍が「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と申し出た点にある。なぜなら『銀河鉄道の夜』の主題の一つが、主人公のジョバンニのセリフにある「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」に答えることにあると考えられるからだ。
Ⅴ. 「子供」は『銀河鉄道の夜』をどう解釈したのか
ⅰ. 「愛の話」
ここまでくると、『ピンドラ』の「子供」が『銀河鉄道の夜』をどう解釈したのかがわかる。確認すれば「子供」は、
- 「苹果は愛による死を自ら選択した者へのご褒美」と考えている
- 「死んだら全部おしまい」ではなく、「むしろそこから始まるって賢治は言いたい」と考えている
- それらは「愛の話」だと考えている
のだった。
なぜ「死んだら全部おしまい」ではなく、「むしろそこから始まる」のかといえば、自ら死を選択したとしても、そこで示される愛が、愛する者たちを「さいわい」にするからだ。
それはちょうど、「みんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい」と願った蠍が、自分の体が燃え続けたとしても、他者たちを明るく照らし続けていることと重なる。
そう考えているから、「子供」はこれを「愛の話」と捉えているのではないか。つまり「子供」は、『銀河鉄道の夜』を、自己犠牲を伴ったとしても、自ら死を選んだ者の愛が愛する者に降り注ぎ、その愛する者を「さいわい」にする物語だと解釈した、と考えられる。
ⅱ. 自己犠牲を伴うほどの「愛」は「さいわい」なのか?
「子供」はそう解釈していると考えられるが、納得のいかない側面もある。というのはやはり、自分の大事な人が死んだら全然「さいわい」ではないという考えもあり得るからだ。
同級生のザネリを助けて死んでいったカンパネルラも、作中で同じようなことを気にしている。
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」
(中略)
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸(さいわい)になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫さけびました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(青空文庫)より引用)
愛する「おっかさん」は、自己犠牲をして死んでいった自分を「ゆるして下さるだろうか」と、カンパネルラは思い悩む。だが最終的には「ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸せなんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」と結論付ける。
カンパネルラはそう思っている(あるいはそう自分に言い聞かせようとしている)が、本当にそうだろうか。自己犠牲をして犠牲になった人にとって良いことをしたとして、それは「さいわい」なのだろうか。
それは『ピンドラ』にも当てはまる。はたして『ピンドラ』で描かれるような自己犠牲は「さいわい」なのか。そこでわれわれはもう一度、ジョバンニの疑問に立ち戻る。「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という疑問に。
この疑問に答えるのには、まだ考察を重ねる必要がありそうだ。
Ⅵ.「苹果」と「蠍の火」に残された解釈の余地
ⅰ. 『ピンドラ』という眼鏡を通じてみた『銀河鉄道の夜』
ここまでは、1st station における「子供」の言葉を手掛かりに「苹果」と「蠍の火」について考えた。
大事なことは、『ピンドラ』でされている『銀河鉄道の夜』の解釈はあくまで『ピンドラ』なりの『銀河鉄道の夜』の解釈であって、一般的な『銀河鉄道の夜』の解釈ではないということである。
つまり、いささかややこしいが、『ピンドラ』を考える上では、あくまで『ピンドラ』を介した『銀河鉄道の夜』の解釈を考えなければならないのである。
ⅱ. 「苹果」と「蠍の火」に残された解釈の余地
ただ、そうは言ってもある程度『銀河鉄道の夜』を読み込むことは必須で、「苹果」と「蠍の火」に関してはもちろんのこと、「ほんとうのさいわい」についてもっと考える必要があるように思われる。
たとえば、「リンゴ」が文学作品や映像作品に出てきたら、だれしも真っ先にアダムとイヴ、「エデンの園」の話を想起するだろう。
『銀河鉄道の夜』でも、作中に十字架が出ていることなどから、キリスト教的な解釈が可能なのだが、それを書いている余裕は今回はなかったので、必要ならまた次回以降書いていきたい。
ⅲ. 『ピンドラ』という原罪の物語
『ピンドラ』自体を見ても、「リンゴ」はあながち「エデンの園」と無関係ではない。なぜなら『ピンドラ』は両親が背負った「原罪」を子が贖う話だと読むことができるからだ。
第一話でもかなり気になるカットがあり(上画像)、24話で「ピングドラム」だと言われるものに似た赤い球体を、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルが冠葉の胸から引き出している。
単純に「原罪」を引き出したということのメタファーなのか、と思われるかもしれないが、これについてはまだまだ検討の余地がある。
Ⅶ. おわりに
今回は『銀河鉄道の夜』を中心に、「苹果」と「蠍の火」について考えた。『ピンドラ』が『銀河鉄道の夜』から引き出していることはこれだけにとどまらないが、まずは基本的なモチーフについて語ることに終始した次第だ。
ともあれ、これで『ピンドラ』の奥深さは十分看取できたように思われる。1~3話だけでも考えることがたくさんあるのに、あと約20話分……いつまでかかることやら。
とはいえ、弱音を吐いていても始まらないし、何よりこうして『ピンドラ』を読み解いてゆくことは楽しい。読者の方々におかれても、長い道のりかもしれないが、その旅路をいっしょに楽しんでいただけたら幸いだ。
今回も読んでいたみなさまに感謝しつつ。
【次回】
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本考察が紙の本になりました。内容はネットで見られるものとほぼ同じですが、加筆修正のうえ、「あとがき」を書き下ろしで追加しています。ご興味のある方はぜひ。