野の百合、空の鳥

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直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え①―

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1. 「僕が神だ」

 人は死ぬとどこへ行くのだろうか。
 天国に行くのか、地獄に行くのか、はたまた死んだら何もないのか。古今東西、死後の世界はいろいろな作品で描かれてきた。そんな死後の世界を舞台にしたアニメーションの一つが『Angel Beats!』だ。

 『Angel Beats!』の描く死後の世界は、学園(天上学園)だ。しかし誰もがそこに行けるわけではない。「ひどい人生」を、「理不尽な人生」を送った者たちだけがそこに辿り着ける
 なぜ「ひどい人生」を送った者だけが、「理不尽な人生」を送った者だけが、その死後の世界に行けるのだろうか? 直井文人は、その問いにこう答える。

「生きていた記憶がある。皆一様にひどい人生だったろう。なぜ? それこそが神になる権利だからだ。生きる苦しみを知る僕らこそが神になる権利を持っているからだ」
(『Angel Beats!』EPISODE.06 Family Affairより)

 そう、それこそが「神になる権利」だからだ。「生きる苦しみを知る」者だけが「神になる権利」を持っているからだ
 いうまでもなく、直井文人も「ひどい人生」を、「理不尽な人生」を歩んだうちの一人だ。誰に頼んでいないのに「陶芸の名手の家」に生まれ、しかし彼は頭角を現すことなく、不慮の事故で兄は死に、結局、「直井文人」としての自分は認められずに生涯を終える。
 したがって彼は名乗りを上げる、「僕が神だ」と。

 放送当時、私は彼の言っていることがよくわからなかった。なんなら、あやしい宗教にハマった友人からの勧誘を聞いているくらいの気持ちだった。なぜ彼が「神」なのか、なぜ「生きる苦しみを知る」者だけが「神になる権利」を持っているのか、さっぱりわからなかった。
 あれから9年。先日ふと『Angel Beats!』を見返して見ると、私の考えは180度変わっていることに気がづいた。

 直井文人は「神」だ。まぎれもなく彼こそが「神」だった。

 これは彼、直井文人の物語への、一つの答えだ。9年越しの、私なりの『Angel Beats!』への返答だ。
 なぜ直井文人は「神」なのか? なぜ「生きる苦しみを知る」者だけが「神になる権利」を持つのか? それに対する、私なりの答えだ。

 

2. 神は平等で、愛に満ちている?

 私は、神というのは善なる存在だと思っていた。神というのは平等で、人間を救うものだと思っていた。
 おそらくキリスト教的なイメージが強かったのだろう(もっとも、それも間違ったイメージなのかもしれないが)。キリスト教についても、神についても、詳しく知っていたわけではないが、神は人間に無償の愛を、救済を、与えてくれるものだと思っていた。悪人を罰するのはもちろんのこと、「善いこと」をした人は、たとえ現世でひどい目に遭ったとしても、天国に行かせてくれるなどして、帳尻合わせをしてくれるものだと思っていた。

 だから直井文人が「神」だと言ったとき、私は彼をまったく神らしいとは思わなかった。というのは、彼はあの学園にとどまるために、影でNPC (non player character) に暴力を振るっていたからだ。
 暴力を振るう神など、どこにいるだろうか? あまつさえ自分の人生で理不尽な目に遭ってきたのに、他人を理不尽な目にあわす神がどこにいるというのか? そう、私は思っていた。

 しかしそのような善なる神のイメージは、のちに覆されることになる。というより、そもそも神というのは理不尽なものだったのだ

 

 

3. 神は理不尽である

 神の理不尽を知るのにうってつけな書物がある。
 その書物の名は『旧約聖書』だ。より正確に言うと、その中に入っている『ヨブ記』という書物だ。
 『ヨブ記』は一般に、正しい人が悪いことをしていないのに苦しむ「義人の苦難」の物語として知られている。有名なのでどこかで聞いたことがあるかもしれないが、以下に簡略化したあらすじを記しておく。

 ウヅという地にヨブという名の人がいた。ヨブは正しい人間で神に忠実であった。彼は子宝にも恵まれ、財産も多く、豊かに暮らしていた。
 ある日神のところにサタンがやってきて、ヨブは所有物を失えば、簡単に神を裏切り神を呪うだろうと指摘する。サタンの指摘を受けて神はヨブの家畜や息子・娘たちを皆殺しにした。しかしヨブはそれでも信仰を失わなかった。
 サタンはなお諦めず神のところにやってきて、今度はヨブの肉体を痛めつければ神を呪うだろうと指摘する。そこで神はヨブの全身をひどい皮膚病にしてしまった。しかしそれでもなお、ヨブは信仰を失わなかった。
 その後、ヨブの災いを聞きつけたヨブの三人の友人が、彼を慰めようと訪ねてきた。声を挙げて泣き叫ぶヨブに、初めは言葉を失っていた三人だったが、やがてヨブがこんなにもひどい目に遭うのは、何か悪いことをした報いなのではないかと、ヨブを交えて議論を始める。
 非常に長い議論を交わした後、言葉を尽くしたヨブの前に、嵐の中から神が現れる。この期に及んで神はヨブを試そうとするが、ヨブは神に悔い改めることを誓う。すると今度は神はヨブの友人たちに怒りを向けるが、ヨブが友人たちのために祈りを捧げ、神はこれを受け入れる。
 ヨブが友人たちのために祈ると、神はヨブの繁栄をもとに戻し、財産を二倍にして返す。ヨブの仲間は彼をいたわり、結局ヨブは百四十年生き長らえた。そうしてヨブは年老い、死んだ。

 言うまでもなく、ここに出てくる神(ヤハウェ)はとても理不尽だ。
 何も悪いことはしていないのに、ヨブは財産も、家族も奪われ、肉体的にも苦しむ。こんなに理不尽なことがあってもよいのだろうか?
 しかもこれのもっとも理不尽なところは、神が全知全能であるというところだ。そう、神は全知全能なのだ。神はヨブがどこまでも正しいことも、神にとても忠実であることも、知っていたはずなのだ。神はヨブが裏切らないことを知っていて、その上で、彼を試したのだ。

 こんなに理不尽な神があっていいのだろうか? 許されないのはむしろこの神の方なのではないだろうか? 考え出すと、疑問は尽きない。

 もちろんこの物語は、いろんなふうに解釈されてきた。というより『旧約聖書』という書物に載っているからには、この理不尽な神になにか説明を加えざるを得ない。
 想像に難くないが、いろいろ解釈されたとはいえ、それはもちろん、キリスト教(あるいはユダヤ教)の都合の良いように解釈されてきた。
 それらの解釈はそれぞれ尊重すべきであり、人によってはそれが「答え」なのかもしれないが、私が注目したいのは、神学者でも宗教家でもなく、ある一人の心理学者の解釈だ。
 その心理学者は名をカール・グスタフ・ユングと言う。

(続く)

 

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