4. 『ヨブへの答え』
カール・グスタフ・ユング (1875-1961) はスイスの心理学者・精神科医で、「ユング心理学」の創始者として有名だ。
ユングは著書『ヨブへの答え』で、どう考えても非合理的で、非道徳的なヨブの物語に、ある種の「答え」を与えている。
ヨブへの「答え」というからには、それは何かしらの「問い」への「答え」ということになる。もちろんそれは、ヨブ、ないし『ヨブ記』が発した「問い」であるわけだが、ではその「問い」とはなんだろうか?
それは端的に言うなら、『ヨブ記』をどう解釈したらよいのか? という「問い」である。
あるいはヨブの言葉を借りるならば、「『ヨブ記』の中に顕わになっている神の暗黒面に対して、どのように対決するのか、あるいはそれが彼 [現代人 ※筆者註] に対してどのような影響を与えるのか」(C・G・ユング『ヨブへの答え』林道義 訳(みすず書房,1988)p13より。以下引用はすべて同書により、頁数のみを記す) という「問い」である。
ユングはこの「問い」に返答する形で、『ヨブへの答え』を記してゆく。
5. 神 (ヤハウェ) の無意識
ではユングはどのような「答え」を記したのだろうか?
ユングはまず、『ヨブ記』の神、ヤハウェに注目する。そこでユングは、神であるヤハウェに、ある驚くべきものを見出す。
それは、ヤハウェの無意識である。ユングは人間だけに限らず、神にも無意識があるというのだ。しかも、前述したように、神は全知全能であるはずなのにもかかわらず、だ。
ではヤハウェの無意識とは何か? それは端的に言えば、自分が非合理で非道徳的な振舞いをしているという意識がない、ということである。それはつまり、ヤハウェが自己反省しないということに等しい。
そう、ヤハウェは自己反省しないのである。ユングによれば、主体が自己反省しないということは、客体を通してしか自分の存在感をもてないということに等しい。
つまり、ヤハウェは神であるにもかかわらず、自分でない誰かを通してしか反省することができないし、自分が存在しているということすらわからないのだ。
したがってヤハウェは、客体を介してしか、自分の無意識、つまり自分が非合理で非道徳な振舞いをしているということを意識できない。
しかしあるとき、ヤハウェは自分が非合理で非道徳的な振舞いをしていることを意識する。もちろん彼は自己反省しないのだから、誰かを介してしかそれを意識できない。
ではその「誰か」とは誰か。それはもちろん、ヨブである。
6. 神をも超えるヨブ
驚くべきことに、ヤハウェはヨブに対したときに初めて自分が非道徳であったことを「意識した」のだと言う。
もちろんヤハウェは、神であるがゆえに全知全能ではある。だから彼は自分が非道徳的であることには「気づいている」。しかし、この<気づいている状態>と「意識している状態」は異なる状態だ。
ユングによれば、<気がついている状態>というのは「単に知覚するだけで、行為は盲目的である」(p67) 。つまり<気づいている状態>は、無意識なのである。言い方を変えれば、ただ単に「気づいていること」は意識しているうちには入らないのである。
したがって、ヤハウェが初めて自らの振舞いの非道徳さを意識するのは、やはりヨブと対峙したときということになる。
ではなぜヤハウェがそれを意識できたのだろうか? それは、『ヨブ記』においてヤハウェはヨブと対峙し終わったとき、ヨブがヤハウェよりも「道徳的に上に立った」(p68) からである。
ヨブは、非合理な苦痛を与え続ける神に対して、信仰をけっして裏切らず、義を貫き、友人のためにも祈りをささげた。この点において、ヨブはヤハウェよりも道徳的に優れていると言える。
ヤハウェは自分よりも道徳的に優れたヨブを見ることによって初めて、自分を客観的に見、自分がいかに非道徳的であったのかを自覚することになったのである。
こうして、「被造物が創造主を追い越」(p68) すという極めて奇妙な事態が起こる。すなわち、ここでヨブは神をも超えてしまうのである。
ここで話は最初に戻る。
まずもってここにこそ、「生きる苦しみを知る」者だけが「神になる権利」を持っていることの理由の一つがある。
理不尽を「意識していない」、生きる苦しみを知らない神であるヤハウェは、ある意味では人間にも劣っている。
神が「完全な存在」であるのでなければいけないのならば、神は「生きる苦しみ」をも意識していなければならないはずである。したがって真の神になるには、「生きる苦しみ」を意識していなければいけないはずである。
しかし逆説的なことだが、劣っているはずのヤハウェもまた、神ではある。
ただヤハウェは、神でありながら、ヨブと対峙したときに初めて自分が非道徳的な振舞いをしているのだと知る。
しかしヤハウェはやはり神なのだ。彼は神であるがゆえに、自分が不完全であることでは満足しない。
したがってヤハウェは、自ら理不尽さを、「生きる苦しみ」を味わおうとするのである。
7. 神の人間化
では神が理不尽さを、「生きる苦しみ」を味わうにはどうすればよいのだろうか?
この問いに関しても、ユングはまた驚くべき回答を示す。
ヨブは人間だからこそ神の理不尽を知り、限りある生の苦しみを知ることができたのだ。では神が理不尽を知り、生きる苦しみを知るにはどうするればよいか?
答えは簡単だ。人間になればよいのである。
こうしてヤハウェは「人間化」することになる。
しかし彼も神だ。ただの人間にはなろうとしない。
彼がなった人間は、人間は人間でも、イエスという人間であった。
(続く)
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