ダリフラ感想
感想を述べたい
今回は『ダーリン・イン・ザ・フランキス』というアニメ全体を通しての自分自身の純粋な感想を書いていこうと思います。
これまでの考察では基本的に『ダリフラ』から読み取れることを考えたり、あるいはそこに描かれたモチーフからの派生による考察を行ってきました。
今回はそのような「ダリフラが少しでもより楽しくなるように」というスタンスとは異なる視点から、純粋な感想としての文章を書きたいと思います。
なぜ感想を述べるのか?
何のために感想を述べるのか?というと、まず第一に、これまで『ダーリン・イン・ザ・フランキス』というアニメを半年間真面目に見続けた身として、自分なりの感想を述べたいからです。
そして第二に、アニメ『ダリフラ』を自分自身が、そしてこれを読んでくださる方がどう受容するか、ということの一つの参考になればよいなという思うからです。
そして第三に(これが重要なのですが)、声を上げるべきなのではないか、という思いがあるからです。
良くも悪くもインターネットやSNSが発展したこの世界で、わずかながらも、声を上げることが、どこかの誰かに何かしらの影響を与えることもあると私は考えています。
この場合は大げさに言えば、アニメーションに対して、ということになるのですが、もちろんアニメーションだけにとどまらず、小説であったり、漫画であったり、個人の内的な活動であったり、その何かしらに資するものがわずかでもあればよいなと思っています。
「物語」としての『ダリフラ』
その上で一点、注意していただきたいのは、ここでは主に「物語」としての『ダリフラ』についての感想を述べる、ということです。
総合芸術であるアニメーションの「絵」の部分、「動画」の部分、「音」の部分には触れず、24話にわたって「物語」を考察してきた身として、「物語」の部分を主として考えていきます。
『ダーリン・イン・ザ・フランキス』という物語をどう受け取ればよいのか、あるいは『ダーリン・イン・ザ・フランキス』とは何だったのか、以下で考えていきます。
中途半端な物語
私は『ダリフラ』を中途半端な物語だと感じました。
「中途半端」には、主に二つの意味があります。
一つは、様々なモチーフがうまく噛み合わなかったというという点で「中途半端」だったという意味です。
もう一つは、それぞれのモチーフ、テーマ自体が深く掘り下げられるような表現がされていなかったという点で「中途半端」だったという意味です。
では具体的に何が「中途半端」だったのか、以下で述べていきます。
ちぐはぐなモチーフたち
「ロボット」×「群像劇」
「性」、「不老不死」、「生物」、『ダリフラ』には多くのモチーフと呼ぶべきものが登場しました。
中でも『ダリフラ』の最大の特徴は、「ロボット」と「群像劇」とを融合させようとした点にあると言えます。
この点について、錦織敦史監督はインタビューでこう述べていました。
――キャラクターっぽいロボットも出てきますからね。錦織:あれも最初から女の子型にしたわけではなかったんです。「別にこのアニメ、ロボット要らないよね」って言われたら終わりだと思っていて。じゃあいかにそのロボットが、物語であったり構造に関わっていくのかを考えたときに、女型のロボットというアイディアをもらって腑に落ちたというか。
これは今石さんだったと思うんですけど、見透かされたと思いました。「お前ロボットには興味なくて、こっちなんでしょ」って言われた気がして(笑)。最初はイヤだったんですよ。「ロボットもの」って事に拘っていたんだけれど……考えれば考えるほど、あぁ、これだなっていうのがあって。みんなのほうが僕を理解しているんだなと思いましたね。
なので、アクション部分とドラマ部分を分けたいわけではないけど、その2つをTRIGGERとA-1 Picturesで出し合って、僕のほうでまとめて形にして、両者がやれるくらいの幅で振りつつ振られつつ、2つのスタジオの化学反応を作っていけたらいいなと思ってやっています。*1
"TRIGGER"と"A-1 Pictures"、2つのスタジオのもつ特色の化学反応、アクションとドラマの同時進行、「群像劇」をやりたいながらも「ロボットもの」を織り交ぜて挑戦するという試み、それが『ダリフラ』だったわけです。
しかしながら、この「ロボット」×「群像劇」という試みは、最終的にうまく噛み合わず、ちぐはぐになってしまったと私は感じました。
「ロボット」/「群像劇」
物語の序盤、「ロボット」もといフランクスは、例えば第2話ではヒロとイチゴとの心の不調和の顕現として、第9話ではゴローとイチゴの和解のための一つのギミックやメタファーとして、あるいは第11話の「パートナーシャッフル」ではコドモたちの心の変化のあり様を体現するものとして、描かれていました。
以上のように、物語の序盤では「ロボット」が「群像劇」とうまく噛み合っていたと言えなくはありませんが、中盤から終盤にかけて、「ロボット」は「群像劇」と分離していきます。
特にミツルとココロの関係性が描かれた後半部分では、フランクスを介することなく、「群像劇」だけが進行していきます。
もちろん、これは「性」の問題に重きを置いて丁寧に描こうという試みだったのかもしれませんが、それに関して重要な「男女ペアでしかフランクスを起動できない理由」はうやむやにされ、早い段階でセックスを知識として知っているだろうココロからもフランクス操縦時の感覚や体勢について全く触れられることなく、ここでも人間模様は「ロボット」と切り離されてゆきます。
また終盤においても、フランクスは戦う装置としてだけ用いられ、「女型のロボット」という設定はほとんど掘り下げられることなく、ゼロツー自身がフランクスと一体化するという単純な物理的解法の提示だけで物語は幕を閉じました。
以上のように、序盤はこだわっていたであろう「ロボット」と「群像劇」の同時進行も、終盤には結局ばらばらに分離してしまったと考えられます。
「性」/「群像劇」
分離したのは「ロボット」と「群像劇」だけでなく、他の様々なモチーフも同様です。
先ほども少し触れましたが、「性」と「群像劇」もうまく噛み合っていなかったと考えられます。
こちらも、例えば第5話においてイチゴがヒロへの言いようのない感情を吐露する場面や、それに続くゴローがかすかに赤面するシーンなど、物語序盤では「恋心」の概念を知らないであろうコドモたちの感情が丁寧に描かれていました。
しかしながら、本編後半では、例えばイクノの性に対する「めんどくさい」という思いはイチゴに肯定されることで「生きている」ことに還元され、ココロの生殖に対するハードルは、子供が未来に対する「希望」であるという漠然としたイメージで語られることで、なんとなく乗り越えられてしまいます。
「群像劇」の極致とも言えるセックスは、恋愛感情の究極な形という精神的要素とも言い切れず、明確な理由の見えない出生のための行為として、「群像劇」と関係をちぐはぐにしたまま行われたように感じられました。
「生物」/「ロボット」
また、「ロボット」は『ダリフラ』に登場した叫竜・叫竜人やVIRMといった多様な「生物」たちともうまく噛み合わず、ばらついた関係性をとったまま終わってしまいます。
例えば、「ロボット」であるフランクスは、叫竜人が開発した兵器、そして叫竜人自身が変形した叫竜がモデルになっているということでしたが、結局それが種明かしとして語られるだけで、なぜ叫竜人の女性は兵器となったのか、なぜ男性はコアに魂としてやどったのか、叫竜になぜXX染色体が含まれていたのか、説明はなされませんでした。
もちろんそれを説明する義務はないのですが、設定として「ロボット」と「叫竜人・叫竜」という二つのモチーフをうまく調和して生かしきれたとは到底言えないように思います。
フランクスが叫竜を元につくられたことを示唆する「スタンピード・モード」や「竜化値」も、例えば「13部隊の誰かが暴走して「竜化値」を高めることで叫竜化しかけることでフランクスの秘密が露呈する」など、生かしようはあったはずですが、設定として提示されるだけの「中途半端」なものとなってしまいました。
「ロボット要らないよね」?
以上のように、『ダリフラ』に登場したモチーフたちはそれぞれが分離したゆく格好となり、ちぐはぐな物語が進行していきます。
もちろん、それらすべてのモチーフをうまく調和させるのは非常に難しい問題です。
例えば「ロボット」×「群像劇」という試みについては、「ロボット」を「群像劇」に生かそうにも、突き詰めれば人間の問題は「人間」の次元で解決しなければいけないわけで、「ロボット」は心の反映や葛藤の一つ原因として機能するしかありません。
もちろん、『ダリフラ』に限っては「ロボット」=フランクスは「彼女自身」であり、その意味でフランクスは単なる「ロボット」ではなく、インタビューにもあったように、そこにこそ「群像劇」をうまく絡める突破口があったはずですが、上でに見てきたようにモチーフたちがちぐはぐであった以上、結果的には「ロボット要らないよね」という話にならざるを得ません。
「群像劇」を掘り下げるため?
しかし、このようなモチーフたちのちぐはぐさはなぜ起こったのでしょう?
監督のインタビューからも見受けられるように、制作側ももちろん、このような様々なモチーフの融合の難しさに対して危機感を抱いていたはずです。
理由の一つとして、これには監督の「群像劇」に対する思い入れとそれに共感するスタッフの存在があったと思います。
「群像劇」をやり続ける理由として、監督はこう述べています。
どんな世界観で描こうとも、僕らが今生きているところで共感するのって、人との距離感や立ち位置の変化、そこに対する気持ちの変化だと思うんです。それを複合的に描くことが好きで、その中に自分が求めているテーマが含まれていると思うんですね。*2
ではその肝心の「群像劇」は、あるいは個々のモチーフは深く掘り下げられていたでしょうか?
長くなってしまったので、それぞれのモチーフ、テーマ自体については後編で見ていくことにします。
<↓後編>
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