7. 神の人間化
こうしてヤハウェは「人間化」することになる。
しかし彼も神だ。ただの人間にはなろうとしない。
彼がなった人間は、人間は人間でも、イエスという人間であった。
ただし、ここで注意したいのは、ユングはヤハウェという神がイエスという神に物理的に、直接変化したとは語っていない点である。
ここで語られている「神の人間化」とは、あくまで人々の心の中の神のイメージの変化の話である。
要するにこれは、『ヨブ記』に登場する、人間以上に道徳的に劣った神ヤハウェを都合よく解釈するためには、完全であるはずの神自身は理不尽を知らないと矛盾してしまうので、この矛盾を解決するため、理不尽を知っている神イエスというものを新たにたてようとした、というイメージの変遷なのである。
簡単に言えば、ヤハウェだけだと完全な神のイメージが崩れてしまうから、イエスという理不尽を被った神もつくっとこう、という話だ。
結局、早い話が人々の神のイメージは、ヤハウェからイエスへと移っていったわけだが、イエスはヤハウェが意識できなかった理不尽さ・生きる苦しみを意識しなければならない。
ではイエスはどのような理不尽を、どのような生きる苦しみを味わったのだろうか?
8. 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」
イエスといったらどのようなイメージだろうか?
例えばイエスは、十字架に架けられることで、人類の罪を贖った(贖罪)とされている。
しかしはっきり言って、ここでイエスという一人間が犠牲になる必要は全くないはずである。なぜなら、そんなことをしなくとも、全知全能の神ならば人類を救済することができるはずだからだ。
ユングはこの、イエスの死への意味付けの欺瞞を暴いていた。
その証拠としてユングは、イエスの十字架上の最期の言葉に注目する。
その最期の言葉とは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という言葉だ。
ユングはこの言葉にこそ、「ヨブへの答え」が、すなわち『ヨブ記』をどう解釈したらよいか? という問いへの答えがあるのだと言う。
イエスは自分の生の最期の瞬間に、十字架に架けられた最期の瞬間に、神の理不尽を嘆いたいたのである。
死刑の前日、ゲッセマネで祈りを捧げていたときも、ユダが裏切り逮捕されていたときも、ゴルゴダの丘を登っているときも、彼は神を信じ、祈り続けていた。
しかも彼が信じていたのはユダヤ教の神ヤハウェだ。なぜならイエスはユダヤ教の厳しい律法主義を改革しようとした、一人の信者にすぎなかったからだ。
そうして最期の瞬間、初めて彼は神の理不尽を嘆く。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と。
ここにおいて、神は理不尽を知る。生きる苦しみを知る。
いや正確にはまだ「神」は知っていない。ここで理不尽を知ったのはイエスという人間である。
すなわち、ここで神が理不尽を知るためには、人間が神にならなければならない。
9. 人間の神化
イエスは後に、「キリスト」として、人類の救済者になる。すなわち彼は人間でありながら神になるのである。
ユングが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という言葉に「ヨブへの答え」があると言う理由は、ここにある。
すなわち、イエスという神が十字架の上で理不尽な目に遭うのは、ヨブを理不尽な目に遭わせた神の償いなのである。神の犯した罪は、神によって贖われるのである。
ここで話はもう一度最初に戻る。
つまりこれが、なぜ「生きる苦しみを知る」者だけが「神になる権利」を持っているのかのもう一つの理由なのである。すなわち、なぜ直井文人が「神」であるのかの、第二の理由なのだ。
すなわち、理不尽を被るという行為は、神の罪を贖う行為であり、それこそが神である証でもあるのだ。
しかしユングによれば、人間の神化はここでは終わらない。
ユングのおもしろいところは、すべての人間が神になる可能性を秘めていると考えているところだ。
10. 元型 (Archetyp)
ユングによれば、イエスに起こったことは、イエスという一個人に一度だけ起こった出来事ではない。それは誰にでも、何回でも繰り返し起こりうることなのである。ユングの言葉を借りれば、「まさに人間ならだれでもそうした人生を持ちうることを表している」(p74) のである。
一見すると、かなりオカルト的なことを言っているように思えるが、これはユング心理学をご存知の方には納得できる話かもしれない。
人間が誰でもイエスになりうるという話は、ユング心理学の「元型 (Archetyp) 」という考え方に関わってくる。
元型とは、簡単に言えば、集合的無意識の中で生み出される、時代や地域を越えて繰り返される夢や象徴を生み出す源である。
例えば、元型の一つに「太母 (グレートマザー) 」というものがある。
この「太母」という元型は、神話において普遍的に見られるものである。
分かりやすく言えば、例えば、日本神話で言えば「イザナミ」がこれに当たるし、ギリシア神話では「ガイア」が、あるいはケルト神話では「ダヌ」がこれに当たる。そしてキリスト教も一種の神話というならば、キリスト教の「太母」は「マリア」ということになる。
このように、人類には「太母」という元型が普遍的に存在していることがわかる。
したがって、キリスト教を一種の神話とみなせば、そこに登場するイメージは、元型として、人類に普遍的に繰り返される可能性があるのである。
そして、ユングは「キリストがこの種の人間であったと推測している」(p75) 。すなわち、前述したように人類は普遍的にキリストという「元型」を繰り返すことになるとユングは考えているわけである。
誤解のないように言っておくと、これはひとりひとりの人間が物理的にイエス・キリストになるという意味ではない。これは極めて心理学的な事態なのである。
つまり、誰しもが心理的にイエス・キリストと同じような目に遭う可能性を帯びているということなのである。
そして我々は、少なくとも一人、イエス・キリストと同じような目に遭っった人物を知っている。
そう、直井文人である。
(続く)
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