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「つながり」の話 (3.11を起点に)~『さらざんまい』のメッセージを受け取るために~ <後編>

<前編>

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<後編>では、「つながり」の切断、そしてつながりたいけどつながりたくないというアンヴィバレントな欲望について確認し、『さらざんまい』ではどのような欲望が描かれるのかという問題の核心に迫っていきます。

Ⅶ. つながりたくないから、たちきりたい ――つながりの切断――

「断捨離」、「ミニマリスト」といった「物」との切断も一時期流行りましたが、最近では「SNS離れ」あるいは「LINE離れ」といった「つながり」の切断も起きているようです。*1

 

Twitterのアカウント消したいなとか、LINEやめたいなと思うことは、少なからず多くの人にあることではないでしょうか。

 

前述したような「SNS疲れ」「LINE疲れ」のような事態が、そのような「切断」の動きを加速化しているように思います。

 

ただこのような「切断」の動きは、少し形を変えてより大きな規模でも起こってきているように思います。

 

例えば、「切断」という言葉は少し強すぎるかもしれませんが、女性専用車両の登場「ゾーニング」が声高に叫ばれるようになったことなどは(それが良いか悪いかは別として)、ある種の「切断」の動きだと捉えることができます。

 

あるいは、アメリカのトランプ大統領がメキシコとの国境に壁を建設する計画を立てたり移民の受け入れを一部制限するような政策をとろうとしたりしていることも、一種の「切断」の動きと捉えることができます。*2

 

同じように世界規模で言えば、イギリスがEUというヨーロッパの「つながり」を離脱しようとしたことも、「切断」の動きの一つだと言えるでしょう。*3

 

そのような世界規模の「切断」の動きは、「グローバル化」という世界規模の「つながり」が声高に叫ばれていた少し前の時期からは想像もしなかったような動きだと言えるでしょう。

 

以上のように、個人レベルではもちろんのこと、日本社会のレベルや世界規模でも、人々がどこか「接続過剰」の世界に疲れてきているような側面、「切断」へと動いていくような側面を読み取ることができます。

 

それぞれの問題にはそれぞれの文脈があるのですが、少なくとも所々で「切断」の動きが起こっていることは確かでしょう。

 

しかしながら、事はそう単純ではありません。

 

人間には、あるいは社会には、「つながりたくない」と言いつつも「つながりたい」、あるいは「つながりたくない」けれど「つながらざるを得ない」というような、アンヴィバレントな「つながり」の在り方があると考えられます。

 

Ⅷ. つながりたいけど、つながりたくない 

ⅰ. つながらざるをえない

「そんなにストレスになるならやめればいいじゃないか?」

 

SNSに関して、そのような意見を目にすることもあります。

 

しかし、やめたいけれどやめられない、あるいはやめたいという気持ちを持ちつつもやっていたい気持ちもある、そんな複雑な「つながり」の在り方があるのではないでしょうか?

 

例えばですが、仕事の連絡をLINEFacebook で行うという人は、都合上SNSを完全に断つことは難しいでしょう

 

学生にしても、前述したような人間関係の延長線上にあるツールとしてSNSがあるのなら、やめたら仲間外れにされるかも承認欲求が満たされないかもという不安から、「つながらざるをえない」ような状況が生まれるでしょう。

 

さらには、見たいものだけ見たいと思っていても、「つながっている」がゆえに見たくないものも目に入ってきてしまうという現状もあります。

 

例えば千葉雅也さんが『意味のない無意味』で描いているTwitterの風景は、そのような現状をよく物語っています。*4

 最近のツイッターは空気が厳しい。

 たとえば出勤途中の電車スケジュールを考えながらついついそのアプリに触れてしまうと、たいがい何かイライラさせられる議論を目にし、自分のやるべきことを始めるまえに、頭が気がかりの靄でおおわれてしまうのである。

(千葉雅也「批判から遠く離れて――二〇一〇年代のツイッター」『意味のない無意味』(河出書房新書,2018))

自分から見たいと思った情報ではないのに目に飛び込んでくるしかもそれにとらわれてしまう、そんな状況が今のTwitterにはあります。 

 

以上のように、「つながり」にはやめたくてもやめられない見たくなくても見えてしまうというような「つながらざるをえない」という在り方もあると言えます。

 

「つながらざるをえない」というのはやや消極的な言い方ですが、他方でその根底には、やはりどこか「つながっていたい」という人間の欲望も見え隠れしているように思います。

 

すなわち、人々がSNSを完全に断てない背景には、やはり「認められたい」という欲望「つながりたい」という欲望も根強くあるのではないかと考えられるのです。

 

ⅱ. つながっていたい

なぜそこまで人は「つながりたい」のか、震災以降に起点を置くなら、それには承認の重さが圧倒的に軽くなっているということが大きく影響しているのではないでしょうか?

 

土井隆義は『つながりを煽られる子どもたち』(岩波ブックレット,2014) の中で、「承認の耐えられない軽さ」*5と題して、「承認の重さが圧倒的に軽くなっている」ことを論じています。

 

その背景として、親と子、先生と生徒といった世代間のギャップが縮小していることを挙げられています。

 

つまりそれは、親と子、先生と生徒が友達付き合いのような感覚に近くなってきた、ということです。

 

しかし同時にそれは、親や先生から得られる承認の質が低下し、十分な充足感や安心感を得られることが難しくなることを意味しています。

 

つまりそれは、親や先生から褒められたり、認められたりしても、どこか満足な承認を得られないということです。

 

裏を返せば、自分よりはるかに偉い人から認められたり、すごく頭の良い人から褒められたりするほうが、充足感・安心感を得られるということです。

 

圧倒的な他者に認められる充足感・安心感、そういうものはSNSでどれだけ友達と会話しても「いいね」をもらっても満たされない、だからこそ、若い人たちは「つながり」を求め続けているのかもしれません。

 

その若者の「つながり」への欲望が垣間見れるような出来事が、近年起こっているように思います。

 

例えば、何かというと渋谷のスクランブル交差点に集まるあの現象は、「つながり」への欲望が垣間見られる瞬間なのではないでしょうか。

 

ハロウィン、年越し、年号の転換……何かと理由をつけて若者があの場所にあつまるのは、一人だと寂しいからつながっていたい、「お祭り」を共有していたいという、「つながりたい」という欲望の体現の場なのかもしれません(もちろんそれもまた、軽薄な「つながり」なのかもしれませんが……)。*6

 

渋谷の例はより活発な若者の例ですが、よりひかえめな若者たちもどこか「つながり」を求めている側面を感じます。

 

例えば、コンテンツ自体を楽しみながらも、同時にそこで行われるコミュニケーションを楽しんでいる例というのは多く見られます。

 

例えば、コメントが書き込める動画サイトやTwitterで行われる「実況」、ゲーム中のチャット、同じ「界隈」に属する人たちのオフ会などは、コンテンツ自体を楽しみながらも、その楽しみを他の誰かと「つながって」、共有したい、そんな気持ちがあるように思います。

 

このように、人々(とくに若い人)にはある部分(見たくないもの、嫌いなもの)とは「つながりたくない」と思いつつも、ある部分(見たいもの、好きなもの)とは「つながっていたい」という両面的な思いがあるように思います。

 

それはある意味当たり前のことですが、すべてが「つながって」しまっている状況が、「つながりたいもの」と「つながりたくないもの」の取捨選択を難しくしていると言えるでしょう。

 

以上、広く浅くではありますが、震災を起点として「つながり」の変遷、そして現在の「つながり」のあり様について確認しました。

 

では、以上のようなことを踏まえて、『さらざんまい』で描かれる「つながり」とは、どのようなものだと言えるでしょうか?

 

Ⅸ. 『さらざんまい』で描かれる「つながり」とは?

今一度、幾原監督の言葉を引用してみよう。

 今って誰もがつながってる時代じゃないですか。SNSをやってない人を探すほうが難しいくらい、つながってるということ自体が日常になってる。このつながりというものが僕たちの人生にどういう変化をもたらすのかを表現したいと思ったんですよね。

(尹 秀姫「さらざんまい anan SPECIAL」『an・an』No.2152(2019年5月29日号) p99)

ここで幾原監督が注目しているのは、「誰もがつながってる時代」、つまり前述したような「つながらざるをえない」ような世界です。

 

まず、『さらざんまい』ではそのような「つながらざるをえない」ような世界の「つながり」が、「僕たちの人生にどういう変化をもたらすのか」をメッセージとして伝えてくると言えます。

 

さらにまた引用しましょう。

「ゾンビの持つ欲望と、一稀たちの欲望は、基本的に同じもの。違いは、その欲望で人の輪とつながれるのかどうか。僕は、生きるってことは欲望を持つことだと思っているので、ネガティブにとらえたくないんです」

(石田汗太「生きることは欲望を持つこと」『読売新聞』2019年 5月20日夕刊 , 8面)

「つながり」に絡んでくるのが、「欲望」というもう一つのテーマです。

 

カパゾンビも一稀たちも、同質の「欲望」を抱えている、そこで違うのは「人の輪とつながれるかどうか」だと幾原監督は言います。

 

この場合、人の輪とつながれるのが一稀たちつながれないのがカパゾンビだと考えられますが、それってどういうことでしょうか?

 

つまり、同質の「欲望」でも、なぜそこにつながれる「欲望」とつながれない「欲望」があるのでしょうか?

 

それはごくごく簡単に言ってしまえば、カパゾンビたちの「欲望」は、より多くの他人に迷惑をかけてしまうくらい禍々しいから「人の輪とつながれ」ないのだと考えられます。

 

箱田も猫山も、キースも、ありあまるほどの欲望を抱えている、だけどその欲望は過剰すぎて、人と共に生きる(=共生する)ときにいろいろな人を不幸にしたり、不利益を生じさせたりしてしまう、だから「人の輪」から排除されてしまうのです。

 

では一稀たちの「欲望」はどうでしょう?

 

よく考えると、一稀たちも危ういラインの「欲望」を抱えています。

 

箱田や猫山、キースらほど多くの人に迷惑をかけているのではないにしても、誰かを傷つけてしまうような、一歩踏み外すと危ない「欲望」を抱えていると言えます。

 

ではそんな禍々しい「欲望」を抱えたまま生きる彼らの「つながり」はどのように変化してゆくのでしょうか?

 

「つながらざるをえない」ような世界の中で、一稀たちの「つながり」がどうなっていくのか、彼らがどうやって生きていく(あるいは死んでいく)のか、そんな「つながり」のあり様が、今後描かれていくことになるのでしょう。

 

 

Ⅹ. 『さらざんまい』を超えて

今回は「つながり」の話をしました。

 

「『さらざんまい』のメッセージを受け取るために」という副題にはなっていますが、広く浅くではあるものの、かなり一般的な話になったと思います。

 

『さらざんまい』の「つながり」についてはもちろんのこと、何か身の回りの「つながり」について考え直すきっかけになったなら、私は嬉しく思います。

 

いろいろと思うところがあって、今回はこのようなお話を書かせていただいたのですが、まずお伝えしたいのは、以上のような文脈を踏まえて、『さらざんまい』から発せられるメッセージを批判的に見る必要があるのではないかということです。

 

『ダ・ヴィンチ』のインタビュー*7で、幾原監督は「共感性」(より多くの共感を得ること)を優先して求めるクリエイターに対して違和感を持っているという趣旨の事を語っていましたが、私も同じように思う側面があります。

 

いろいろな作品の形があり、いろいろな楽しみ方をするのは、たいへん結構なことだと思うのですが、作品を批判的に見る姿勢というのは大切だと思います(もちろんこの記事自体に対してもまた然りです)。

 

私も、若い人が「物」の代わりに「つながり」を求めるようになったという幾原監督の考えには、部分的に納得できる側面もありながら、部分的に納得できない側面もあります

 

「つながり」と一口に言っても、強いつながりや弱いつながりなど、いろいろと種類があります。

 

思うに、若い人々がより強く欲しているのは、「強いつながり」なのではないでしょうか。

 

もちろん、承認されることは大事だから軽い承認、軽いつながりも重んじる、けれどその背後に透けて見えるのは、絶対的な他者からより重たい承認を得るという経験を求めているのではないかということです。

 

これは私の経験則にすぎないのですが、やはりそのような軽いつながりには疑問を抱き、文学であったり、哲学であったり、映画であったり、宗教であったり、何か物質的な側面を持ちつつも、圧倒的な「つながり」・圧倒的な「承認」がありそうなものに惹かれている人たちも少なからずいるように思います。

 

しかしでは文学や哲学や映画に圧倒的な「承認」があるかと言われれば、はっきり言ってないようにも思います。

 

そこには、自分の痛みを素朴に共有できる他者や、自分の存在を観察してくれる他者がいるだけなのかもしれません。

 

私自身、何か多くの人と「つながりたい」という欲望はさらさらなく、ここにある、ここにいる=実存していると思える何かを欲しているだけのように思います。

 

もちろん、人間ははじめから十人十色だと思うので、十人いたら十人なりの「つながり」に対しての考えがあることでしょう。

 

もちろん幾原監督の言葉は部分的にしか伝わってきていないので、より深く理解するためにもアニメやインタビューをじっくりと読み込んでいく必要があると思います。

 

これを読んでいる方も、『さらざんまい』が発するメッセージについて、あるいは「つながり」について、批判的に、自分なりに考えていただけたなら幸いです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

 

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<カテゴリ : さらざんまい の記事>

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<参考文献>

 『an・an』No.2152(2019年5月29日号,マガジンハウス)

『読売新聞』2019年 5月20日夕刊

『ダ・ヴィンチ』2019年6月号(KADOKAWA,2019)

土井隆義 『つながりを煽られる子どもたち』(岩波ブックレット,2014)

斎藤環『承認をめぐる病』(日本評論社,2013)

小林啓倫『災害とソーシャルメディア』(マイコミ新書,2011)

*1:高年層のSNS利用が増える一方で、若中年層のSNS離れが始まったのか , なぜ? LINEからも逃げ出し始めた若者たち : 深読み : 読売新聞オンライン 参照

*2:トランプ政権、移民受け入れに新方針 能力主義に基づく受け入れを大幅拡大(1/3ページ) - 産経ニュース , トランプ、国境の壁建設へ86億ドル要請 20年度予算 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト 参照

*3:どうなる イギリス EU離脱|NHK NEWS WEB参照

*4:詳しくは千葉雅也「批判から遠く離れて――二〇一〇年代のツイッター」『意味のない無意味』(河出書房新書,2018)参照

*5:この題はミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』をもじっていると考えられます。簡単に言うと、とある三角関係を描いた恋愛小説なのですが、「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとっては軽い。私はその軽さに耐えられない」という言葉は、圧倒的な重みを持って伝わってきます。「つながり」に関係するといえばするのでおすすめです。

*6:時代は移れど一人じゃない安心感 若者の街・渋谷は不変 [令和]:朝日新聞デジタル 参照

*7:「"つながり" と "欲望" を描く4年ぶりの最新作 TVアニメ『さらざんまい』監督・幾原邦彦インタビュー」『ダ・ヴィンチ』2019年6月号(KADOKAWA,2019)p48~53