はじめに
今回はとりわけ真砂子の「愛」についてのセリフを検討したい。
というのは、それが真砂子の「愛」について語る数少ない機会だから、という理由もあるのだが、それよりも、『ピンドラ』が「愛」の物語であるからには、そのセリフは『ピンドラ』全体においても重要であるはずだからだ。
加えて、真砂子の「愛」を考えていくと、「嫌だわ、早くすり潰さないと」という彼女の口癖の意味も垣間見える。今回明らかになるのはその口癖の一側面にとどまるかもしれないが、しかしそれは、『ピンドラ』という「愛」の物語を考えるうえで重要になってくると思うのだ。
1.0. 真砂子の「愛」
1.1. 「キャンバスに描かれたもの」
さて、まずは真砂子のセリフを確認してみよう。
冠葉の肖像を描く真砂子は、それを描く理由に関して以下のようにつづける。
キャンバスに描かれたものこそ、あるがままのものといっていい。生きている人間は平気で嘘をつく。わたくしも、そしていまのあなたも。だからわたくしは描く。アートのなかの高倉冠葉こそが、わたくしのほんとう。甘い愛のささやきなど、わたくしには何の意味もない。愛というのはただの言葉、単なる概念。人が恋だと信じる一時の激情も、しょせん脳内を駆け巡るホルモンの影響にすぎない。*1
なるほどたしかに、アートのなかの人物は裏切ることはあるまい。だからそれは理想――真砂子のいう「ほんとう」――たりえるのだし、その理想をこそ、真砂子は「愛」する。
いや、「愛する」というのも厳密には違う。真砂子は、「愛」を「ただの言葉、単なる概念」として批判しているのだから、アートのなかに描かれたものを理想とするということは、一般にいわれる「愛」とは違った、なにか真砂子に特有の愛のかたちである、といったほうがよいか。
それはたぶん、片思いを理想の恋愛とする人のことを思い浮かべればわかりやすい。片思いが理想の人はたいてい、理想的な恋に破れている。そういう人は現実に疲れて、自分のなかのイメージが愛する理想であって、現実はグロテスクであり、なんなら、現実で相手に求愛されると冷めてしまう。そこ(現実)に理想はないからだ。
よくある話だし、上の真砂子の言葉も、なんならギリシア哲学などに元ネタがありそう、なんて思ったのだけれど、探してもめぼしい成果があげられなかったので、代わりに似た話をとある小説から引っ張ってこようと思う。
ちょっと遠回りにはなるが、この小説には真砂子に特有の「愛」のかたちを理解する助けになると思うのだ。
その小説は、名前を『暗い春』という。
1.2.0. 『暗い春』
1.2.1. 「イメージ」を愛する
『暗い春』は、ドイツの作家ウニカ・チュルンによって書かれた自伝的短編小説だ。それは彼女の幼年時代の思い出なのだが、当然いくらかのフィクションも含まれている。
注目したいのは、主人公の少女ととある男とのエピソードである。少女はある夏、プールでその男を見とめ、「この男の人を、深い、ひそかな愛の対象に選び出す」のだが、「彼は彼女を見ないし、彼女を知らない」*2。
つまり、少女は男をまなざすのだけれど、それは男が少女をまなざさないかぎりでのことでしかない。少女は男にまなざされるところを想像すると、「彼女は彼のまなざしに堪えられないのではないかと思う」*3ほどだ。だから彼女が彼に近づくときには「注意をひかないように用心深く」するし、「彼は彼女にとって到達できないものだ」と感じる*4。
つまり、少女は男を愛しているのではなく、男の「イメージ」を愛しているのだ。だから彼女は男の絵を描いて「この絵は彼女が一生懸命に画いたので、この肖像はよく似ている」と思う*5。
ここなんて、まさに真砂子の言っていることそのまんまだ。真砂子のなかの「ほんとう」の冠葉は、あくまで真砂子のなかの理想のイメージとしての冠葉である。だから一生懸命それを想像して絵に描けば、当然それは自分のなかのイメージの冠葉に「よく似ている」。というより「似ている」という仕方でしか目の前にあらわせない(このことがあとでポイントになる)。
1.2.2. 理想と心中する
極めつけは終盤のとある場面である。
やっとのことで男の写真――まさに男の「イメージ」である――を手に入れた少女は、その写真が(家族などの)誰にも見つからない方法についてあれこれ思考する。机のなかでは見つかってしまうし、壁紙の裏も、張り直したり塗り直したりすれば見つかってしまう。
そこで彼女は、たったひとつの冴えたやり方を思いつく。
彼女は写真を口に入れ、たんねんに噛んで呑み下す。彼女は彼と合一したのだ。
(ウニカ・チュルン「暗い春」より*6)
その後、家族にプールへ行くことを禁止され、男を垣間見ることができなくなった少女は、自らの命を絶つことを決意する。
そうして彼女は部屋の窓から飛び降り、「まっさかまさまに落ちて頸を折る」*7。
1.3. 「相手のほんとうのかたちを所有すること」
こうして少女は、いってみれば「理想を抱いて溺死」したわけだが、ここで真砂子のもうひとつの「愛」についてのセリフを見てみよう。
この世界は愛の狩猟区。いうならばわたくしは愛の狩人。見返りを求めない真実の愛、それは相手のほんとうのかたちを所有すること。それができぬものは自らの銃で己が身を打ちて滅びるだけ。わたくしは愛の勝利者。そしてあなたはわたくしの獲物。[…]この狩りは運命。
ここまでくると、このセリフでいわれている「相手のほんとうのかたちを所有すること」の意味がわかってくる。
「相手のほんとうのかたち」、それはもちろん、体の構造などの物理的な「かたち」ではない。そうではなくて、それはもっと観念的なものだ。
そこで次のように考えてはどうだろうか。つまり、「相手のほんとうのかたち」とは、自分のなかで思い描く、「相手」の理想的な「イメージ」なのではないか、と。
1.4. 理想という虹の端
しかし逆説的なのは、理想的な「イメージ」というのはどこまでいっても現実化しないということだ。
たとえば理想の「イメージ」を一生懸命「かたち」にしようとして絵を描いてみる。けれど絵に描いた途端、それは「現実」になってしまう。つまり、それが「現実」であるからには、どうしても「イメージ」とは隔たってしまう。鼻のかたちが違う、眼の感じが違う、まとっている雰囲気が違う、とても感覚的な違いでうまく説明できないのだが、どこかが違うのだ。
だからその「違い」を生めるため、人は愛する対象の解像度をもっと高くしようとする。そのために真砂子は「狩り」をするのではないか。現実の冠葉を追いかけて、「狩り」をして、「イメージ」のなかの冠葉に近づけるよう周りの女を排除したり、あるいはキスで感触を確かめてみたりするのではないか。
そうして、すでに自分のなかに理想の「イメージ」があるという意味でははじめから「勝利」が決まっているその「狩り」は、理想へと接近する。しかしそれは、永遠に理想と一体となることはない、かぎりない漸近の道のりなのだ。
2.0. 「嫌だわ、早くすり潰さないと」の意味
2.1. なにを「すり潰す」?
真砂子の「愛」が以上のようなもの、つまり自分の理想のイメージに対する、ある種の自己愛だったとすると、「嫌だわ、早くすり潰さないと」の意味がほの見えてくる。
単純に考えてみてほしい。「すり潰す」という独特の言い回しは、なにを連想させるだろう?
真っ先に思い浮かぶのは、「ごま」とか「豆」とか、なにか食材を「すり潰す」ということではないだろうか。
しかしこれが『ピンドラ』であること、『ピンドラ』のキャラクターたちの口癖がテーマになにかしら関係していることを想起すれば、「すり潰す」ものはひとつのはずだ。
リンゴだ。
2.2. リンゴを「すり潰す」ということ
ではそうだとして、「リンゴ」を「すり潰す」とはどういう意味だろう?
確認しておけば、『ピンドラ』でリンゴは「愛」の象徴だった。となると、真砂子が「すり潰す」のは「愛」ということになる。
そうすると真っ先に思い出されるのは、真砂子が単なる「愛」を否定していたことだ。繰り返せば真砂子は、「甘い愛のささやきなど、わたくしには何の意味もない。愛というのはただの言葉、単なる概念。人が恋だと信じる一時の激情も、しょせん脳内を駆け巡るホルモンの影響にすぎない」と言っていたのだった。
とすれば、真砂子はそういう「甘い愛のささやき」だとか「一時の激情」だとかを経験する、いってみれば「大衆的な」「愛」を「すり潰さないと」と言っているのだと読める。
しかしそうだとして、その愛と、真砂子の「イメージ」としの「愛」とのあいだに、どれほどの距離があるのだろうか。
2.3. 愛の差異
もう一度真砂子が否定していた愛について考えてみよう。それは具体的には、「甘い愛のささやき」とか「一時の激情」とか、いってみればロマンチックな愛、「きれいごと」のような愛だった。
真砂子はそういう、理想主義的な愛をこそ、否定しているのではないか。だから世間でいわれているような愛なんてまやかしで、そんなきれいごとのような愛なんて信じない。だから「(世間でいわれているような)愛というのはただの言葉、単なる概念」にすぎないと、切り捨てるのではないだろうか。
ここでもう一度、片想いを理想としている人、のことを思い浮かべることは無駄ではあるまい。というのは、やっぱり上のような真砂子の態度というのはまさに理想的な恋愛に破れたあとに片想いしている人のイメージにぴったりだからだ。最初はロマンチックな恋とか愛にあこがれていたけれど、現実はそんなに甘くなく、生身の人間との衝突に疲れて、結局片想いが一番楽しいわ、というところに落ち着く、そういう人のイメージに真砂子はぴったり当てはまる。
だからそんな簡単に「愛」なんて信じないし、そんなきれいごとに誤魔化されない、という立場が真砂子なのだろう。ただ真砂子の場合、おそらく背景にあるのは過去の恋愛などではなく、幼いころからの環境だったと考える点では上の片想いを理想としている人のイメージとも少し違う。
そこでここからより「嫌だわ、早くすり潰さないと」の意味を掘り下げていきたいのだが、そうするためには、もうすこし話が進むのを待たねばならない。
おわりに
今回は真砂子の「愛」について、「嫌だわ、早くすり潰さないと」の意味について考えた。
見ての通り、後者に関してはまだ未完成だ。というのは、真砂子の掘り下げがまだ半分くらいしかこの段階(11話)では行われていないからだが、それに併せてリンゴの意味も半分になっている。
つまりリンゴには「愛」だけでなく、「罪」も分有する意味があったはずだ。真砂子の口癖がリンゴを「すり潰す」ことを意味するのなら、それは「罪」すら「すり潰」してしまうのではあるまいか。これが今後の課題となるだろう。
それからわりとなんの留保もなく書いてしまったけれど、『ピンドラ』のキャラクターの口癖が、『ピンドラ』の主題と関係しているであろう、というのはけっこう大事なことのように思う。
たとえば、今回の例にならうなら、眞悧の「シビレるねぇ……」は「毒リンゴ」、ということになるだろうか。
でも、それはそうではないのか。だって眞悧は麻薬のような「愛」をばらまく人、「愛」の「毒」の側面をあらわにしようとする人なのだから――
などと言っていたらこれから書くことまで書いてしまいそうなので今回はこのへんで。
次はいつになるかわからないのだけれど、とにかく気持ちはある、ということだけ。
それでは。
参考文献等
・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.
・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年.
・ウニカ・チュルン「暗い春」『ジャスミンおとこ』みすず書房, 1975年.
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