1.0. 『ピンドラ』と村上春樹のつながり
陽毬「あの、『かえるくん、東京を救う』って本はどこにありますか?」
(『輪るピングドラム』第9駅「氷の世界」より)
『かえるくん、東京を救う』は村上春樹の短編だ。陽毬(ヒマリ)はその短編を、図書館で探していた。
でもどうして陽毬は『かえるくん、東京を救う』を探していたのだろう?というより、どうして『ピンドラ』に、一見すると関係ないような村上春樹の短編が登場するのだろう?
今回はそれについて考えたい。『ピンドラ』と村上春樹というのは一見無関係なように思えるが、あるひとつの事件において密接に結びついている。そればかりか、考察を進めてゆくと、村上春樹の世界観は、『ピンドラ』の世界観に大きな影響を及ぼしていることがわかるだろう。
2.0. 『かえるくん、東京を救う』とは?
2.1. 連作「地震のあとで」のうちの一作
『かえるくん、東京を救う』は1999年に発表された村上春樹の短編だ。
ポイントはこの物語が「地震のあとで」と題する連作として発表されたということである。「地震」というのは、1995年の阪神淡路大震災のことであり、要するにその地震がこの作品の背景にはある(ただし、後で見るように、地震だけでなく地下鉄サリン事件も大きく影響している)。
実際、『かえるくん』も、地震から東京を救うという筋になっている。簡単なあらすじは以下の通りだ。
2.2. 『かえるくん、東京を救う』あらすじ
片桐がアパートの部屋に戻ると、巨大な蛙が待っていた。
自ら「かえるくん」と名乗るその蛙が片桐の部屋にやってきたのは、「東京を壊滅から救うため」らしい。
その「壊滅」とは、かえるくんによれば「とてもとても大きな地震」のことで、片桐にはいっしょに東京安全信用金庫新宿支店の地下に降りて、そこで「みみずくん」と戦ってほしいのだと言う。
片桐はかえるくんの頼みを聞き入れ、当日地下で待ち合わせることを約束する。
しかしその前日、片桐は何者かに狙撃されてしまう。
目が覚めると、彼は病院のベッドに横たわっており、かえるくんとの約束の時間も、地震が起こると言われていた時間も、過ぎてしまっていた。
片桐はあわてて看護婦に事情を聞くが、東京に地震などなかったと言う。
その日の夜中、かえるくんが病室に現れる。
かえるくんは、地震を阻止することはできたが、なんとか引き分けに持ち込むことができただけで、みみずくんを打ち破ることはできなかったと言う。
するとかえるくんは、「ぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもある」、「ぼく自身の中には非ぼくがいます」と、なにやら謎めいたことを口に出す。その直後、突然かえるくんの体に「こぶ」ができはじめ、それがはじけて、内側から大小さまざまな蛆虫やむかでがうじゃうじゃと這いだしてきた。
悲鳴をあげて目を覚ますと、片桐は再び、病院のベッドに横たわっていた。
「また悪い夢を見ていたのね。かわいそうに」。そう語りかけてきた看護婦と二、三言葉を交わすと、片桐は眼を閉じ、夢のない静かな眠りに落ちていった。
3.0. 『かえるくん』と『ピンドラ』
3.1. 地下鉄サリン事件というつながり
さて、では『かえるくん』と『ピンドラ』はどう関係しているのだろう?
まず言えるのは、両方ともその背景に地下鉄サリン事件があるということだ。
前述したように、『かえるくん』の背景には1995年1月の阪神淡路大震災があるのだが、それに加えて、同年3月に発生した地下鉄サリン事件からも影響を受けている。
このことについて、村上春樹は以下のように述べている。
これらの六編の短編小説*1においては1995年2月に起こった出来事が描かれている。ご存じのように、1995年1月に神戸の大地震があり、同じ年の3月には地下鉄サリン事件が起こった。つまり1995年2月というのはそのふたつの大事件にはさみこまれた月なのだ。不安定な、そして不吉な月だ。僕はその時期に人々がどこで何を考え、どんなことをしていたのか、そういう物語を書きたかった*2。
(村上春樹『村上春樹全作品1990~2000③』「解題」より。強調筆者。)
このように、『かえるくん』には阪神淡路大震災だけでなく、地下鉄サリン事件も影響している。
そしてもちろん、『ピンドラ』も地下鉄サリン事件を題材としているので(一応言っておけば、高倉家の両親が地下鉄サリン事件をモチーフにした事件の加害者となっていた)、まず単純に、地下鉄サリン事件というひとつの事件に、『かえるくん』と『ピンドラ』のつながりがあると言えるだろう。
(あるいは『ピンドラ』が放映された2011年には東日本大震災があった。『ピンドラ』が制作されていたのはそれ以前からだろうから、地震が直接『ピンドラ』に反映しているとは言えないかもしれないが、地震の直後という点では、『かえるくん』とも共通している。)
とはいえ、では地下鉄サリン事件を背景にした両者は、いったいどのように結びついているのだろうか?
3.2. 見かけ上の二項対立
まず注目したいのは、『かえるくん』も『ピンドラ』も、見かけ上は二項対立になっているということである。
つまり、『かえるくん』であれば「かえるくん vs みみずくん」、『ピンドラ』であれば「桃果(モモカ) vs 眞悧(サネトシ)」という二項対立の図式が大枠としてある。
しかしながら、『かえるくん』にしても『ピンドラ』にしても、肝心なことは、物語がそのような単純な二項対立に回収されないということにある。
3.3. 表裏一体の善と悪
『かえるくん』も『ピンドラ』も、表向きは、善悪がはっきり分かれているように見える。つまり、『かえるくん』だったら、かえるくん=善、みみずくん=悪、『ピンドラ』だったら、桃果=善、眞悧=悪、というふうに。
しかし事はそう単純ではない。というのは、『かえるくん』にしても『ピンドラ』にしても、善悪というのはそんなにはっきり分けられるわけではない、ということを伝えているように思われるからだ。
3.3.1. 『かえるくん』における善悪
まず『かえるくん』のことを考えてみよう。『かえるくん』では、物語の終盤で、かえるくんの内側から「蛆虫」や「むかで」がうじゃうじゃわいてくる描写があったが、これはかえるくん(善)の内側にみみずくん(悪)が宿っているということを表現していると考えられる。
かえるくんの言っていたことを思い出してほしい。かえるくんは「ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります」、「ぼく自身の中には非ぼくがいます」と言っていた。
つまり、かえるくんはここで、かえるくんはみみずくん(敵)でもあり、かえるくんの中にみみずくんも宿っているということを言っているのである。かえるくん(善)とみみずくん(悪)は表裏一体なのだ。
3.3.2. 『ピンドラ』における善悪
『ピンドラ』でも、善と悪は複雑に入り乱れている。
一見すると、眞悧は「悪」のように思えるが、陽毬にリンゴを渡して「大切な人」を思い出させたり、(冠葉を試すためではあるが)陽毬を生き返らせたりして、「善」ともとれるふるまいをしている。
あるいは9話で描かれている陽毬の過去でも、善悪が交錯している。とくに鯉の生き血のエピソードはグロテスクだ。陽毬の母親を助けるという「善」のために、少女たちは鯉を殺すという「悪」を、無邪気にも成し遂げようとする(これは余談だが、いくら母親を助けるためとはいえ、あるいは、いくら小学生だとはいえ、学校にいる動物を殺そうとする、というのはかなり「怖い」話である)。
ほかにも、冠葉や晶馬、多蕗やゆり、真砂子など、ほかの登場人物たちを考えてみても、それぞれがそれぞれなりの「善」をなそうとしているが、それは「悪」と表裏一体の側面がある。
以上のように、『かえるくん』と『ピンドラ』では、善と悪は表裏一体であり、善と悪は単純に切り分けられないというメッセージそれ自体が共通している。
そして、まさにこのことに、陽毬が『かえるくん』を探しに行った理由がある。
4.0. 陽毬が『かえるくん』を探していた理由
4.1.「最後に学校へ行った日」
陽毬は『かえるくん』を探して、「そらの孔分室」へとたどり着くわけだが、結局そこで何を見つけたのだったか?
陽毬が「本当に読みたかった」のは、「最後に学校へ行った日」の物語、ランドセルに消しゴムを投げつけられた物語だった。
様子から察するに、陽毬は仲間はずれにされた(あるいはいじめられた)のだろうが、これはおそらく、陽毬の両親が事件の実行犯として指名手配されたことが周りに知られたからなのだろう*3。これにより、陽毬は「トリプルH」のほかの2人とも離れ離れになってしまう。
しかしどうして陽毬はこのことを思い出したかったのだろう?
4.2. 善悪がひっくり返る瞬間
陽毬はその記憶を探しに来たことについて、こう語っていた。
眞悧「ではなぜ君はこの物語を探していたのかな?いじましい自己憐憫にひたるため?」
陽毬「違う。もう終わったのだということを確認したかっただけ」
眞悧「本当?実は彼女たちを恨んでいたりして」
陽毬「恨んでなんかいない。だってあのとき、2人は私の本当の友達だったから。今だって心から2人を応援している」
眞悧「君は素敵な女の子だね。でもそれなら、どうしてそんな心映えの良い女の子があんなことになってしまったのだろうね」
陽毬「わからない」眞悧「君はそれを探しに来たんじゃなかったのかい?」
陽毬「いいえ、わからない。わからないわ」
(『輪るピングドラム』第9駅「氷の世界」より)
自己憐憫にひたりたいわけでも、2人を恨んでいるわけでもないが、陽毬は心の奥底で、「最後に学校へ行った日」のことが引っかかっていた。それはどうしてなのか。
そこで思い出したいのが、さきほどの善悪の話だ。すなわち、陽毬が上記の記憶を探しに来たのは、最後に学校に行ったあの日に、陽毬は人間の善悪が簡単にひっくり返る瞬間を体験したからではないだろうか。
昨日まで友達だった2人が急に、しかも自分の罪ではなく両親の罪のせいで、自分を仲間はずれにするのに加担するというのは、かなり心のわだかまる話(俗っぽく言えば「モニョる」)話だ。
もちろん、あの2人が急に「悪」となったわけではないだろうが、ほかのクラスメイトや周囲の人間たちが、事件のことで急に「悪」に転じたという体験を陽毬がしたであろうことは想像に難くない。
自分は何も悪くないのに、途端にまわりから悪者扱いされる、その体験がうまく噛み砕けなくて、陽毬はその記憶を抑圧していたのだろう。だからその記憶は、深層心理の奥深く、「そらの孔分室」にしまってあったのだ。
以上のことから、最初の疑問=どうして陽鞠が『かえるくん』を探していたのかという疑問に答えが与えられる。すなわちそれは、『かえるくん』という物語が、陽毬が抑圧していた善悪の入り乱れる瞬間というのを、ひとつの物語として体現していたからなのだ、と考えられる。
4.3. 陽毬の精神分析
いま「抑圧」と、あえて精神分析的な言葉を使ったが、これはけっしていわれないことではない。
というのは、「そらの孔分室」で行われていること自体が、極めて精神分析的なプロセスをたどっているからだ。
精神分析の治療は、さまざまあるが、一番オーソドックスなものは、分析主体(患者の側)が分析家(医師の側)に導かれながら、分析主体が無意識に抑圧しているものなどを明るみに出すというプロセスをたどる。
これとまったく同様に、『ピンドラ』でも、陽毬(分析主体≒患者)が眞悧(分析家≒医師)に導かれながら、陽毬が無意識に抑圧しているものを明るみに出していた。
以上のことは、翻って、前回考察した「そらの孔分室」=「深層心理のような場所」という説を補強しているとも言えるだろう。
5.0. 地下へ
さて、今回はどうして陽毬は『かえるくん、東京を救う』を探していたのか?ということを考えた。
まとめればそれは、陽毬が抑圧していた人の善悪が入り乱れる瞬間を『かえるくん』という物語が体現していたからだと言えよう。人の善悪は簡単にひっくり返るというその記憶を、陽毬は「そらの孔分室」に探しに来たのだ。
しかし『かえるくん』が果たす役割はそれだけではない。『かえるくん』は、地下鉄サリン事件というひとつの事件で『ピンドラ』と結びつき、一見すると「善 vs 悪」という二項対立の構造に見えるということ、しかし善悪はそんなに単純に切り分けることができないというメッセージを同じくしていた。
そのような点において、『かえるくん』は『ピンドラ』という作品に大きな影響を及ぼしているということができよう。あえて言えば、『かえるくん』は『ピンドラ』の簡易版だと言ってもいいかもしれない。
そういうわけなのだが、目ざとい読者の方ならあることに気づいているだろう。あることというのは、前回話してた「エレベーター」とか「id イド」の話とかどこいったん?ということである。
それについてはもうごめんなさいとしか言いようがない。なんかその話をしようと思っていたのだけれど、ふたを開けたら全然違う話してしまっていた、申し訳ない……。
ということなので、もう9話の話は終わってもいいかな……とも思うのだけれど、しかしやっぱりその話もしたいし、村上春樹と「地下」の話というのは、フィクションはどうして存在するのか?、ひいては『ピンドラ』があえて地下鉄サリン事件をフィクションの中で正面から扱う意味はなんなのか?という大事な話にもつながってくることなので、あと一回だけ、その話をさせてほしい。
というわけで、とりあえずつづく。もう9話でだいぶ足踏みしてしまっているわけだけれどもうちょっとだけ、お付き合いいただければ幸いである。
もちろんそれが終われば、ちゃんと中身の話に戻る。たとえば、先走って言えば、『ピンドラ』は本当に「自己犠牲」についてそこまで良いというふうに描いているのかな?なんてことも考えたい。
それについてはたとえば、9話で高倉母が陽毬をかばって一生消えない傷を顔に負ってしまう、というのも意義深いわけなのだけれど……なんて言ってるとまた止まらなくなってしまう……。
ともかく、今回もお読みいただきありがとうございました。それではまた。
【参考文献等】
・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS、2011年。
・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎、2012年。
・村上春樹『村上春樹全作品1990~2000③ 短編集Ⅱ』講談社、2003年。
【次回】
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本考察が紙の本になりました。内容はネットで見られるものとほぼ同じですが、加筆修正のうえ、「あとがき」を書き下ろしで追加しています。ご興味のある方はぜひ。