はじめに
〈セカイ系〉っていう言葉がある。
定義としては、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』にあるような「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している」*1というものが広く知られている。
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
本稿ではこの定義をいったん引き受け、『ピンドラ』は〈セカイ系〉か?と問うてみたい。〈セカイ系〉という語自体、多義的であるし、これまでも毀誉褒貶さまざまな評価があったことは承知している。当然ながら、そうしたすべての文脈をふまえて、ここで〈セカイ系〉と呼ばれるものそれ自体について、なにか甚深な議論を展開できるわけではない。
加えて、あらかじめ断っておけば、本稿では〈セカイ系〉を棄却してゆく『ピンドラ』像に触れるため、どうしても批判的な向きにはなる。だが他方で〈セカイ系〉の想像力で担保されている二者関係に、ある種素朴な倫理のための、大切な萌芽があるとも筆者は思う。
とはいえ、繰り返し言えば、ここでそうした論を展開するつもりはなく、本稿では『ピンドラ』をメインに据えた議論に終始する。『ピンドラ』という物語を考えるために、これまで見てこなかった視点から、『ピンドラ』を眺めてみたいのだ。
1 セカイ系とは何か
本論に入る前に、先の定義に補足して説明が必要であろう。
前島賢『セカイ系とは何か』に従えば、〈セカイ系〉とは一般に、次のような要素をもつものだとされているという*2。
- 少年と少女の恋愛が世界の運命に直結する
- 少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている
- 社会の描写が排除されている
そしてその代表として挙げられるのが、新海誠『ほしのこえ』、高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』の三作である*3。
多少例が古いかもしれないため、もう少し広く知られていそうな作品を挙げれば、『新世紀エヴァンゲリオン』や『涼宮ハルヒの憂鬱』などもセカイ系とされる。それらの作品を思い浮かべてもらえれば、だいたい、どのような作品が〈セカイ系〉とされているのかについてはイメージが掴めるのではないか。
とはいえ、やはりきちんと要素に当て嵌まりきらないのでは? と言いたくなる気持ちもわかる(とりわけ上の要素の「2 少女のみが戦い、少年は戦場から疎外されている」に当て嵌まらないものは少なくない)。が、こうした疑問はひとまず措き、本稿では「はじめに」で引用した広く知られている定義(=主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している)に『ピンドラ』が当て嵌まるかどうかを検証してゆくことにしよう。
2 『ピンドラ』はセカイ系か?
そもそもなぜこうした問いを立てるかといえば、一見すると『ピンドラ』が〈セカイ系〉の定義に当て嵌まりそうだからだ。
それはとりわけ、冠葉と陽毬の関係を中心に見るとそうである。終盤になると冠葉は、急に「世界」という言葉を口にし始める。
「世界が壊れても、俺は陽毬を助けたい」(『輪るピングドラム』22nd stationより)
「今の世界は、絶対俺たちに実りの果実を与えたりしない。だから俺たちは世界を変える」(『輪るピングドラム』22nd stationより)*4
こうして冠葉は、テロリズムに走り、陽毬を救うべく、世界の破壊工作に打って出る。が、企鵝の会の内実は描かれないし、それにより社会や国がどう変わるのか/変わっているのかの具体的な描写もない。
こうして、冠葉と陽毬との小さな、感情的な二者関係が、組織や社会が具体的に描写されることなく、世界を壊す、という巨大な話に結びつく。これはまさに、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」であり、〈セカイ系〉の定義そのものではないか。
2.1 冠葉×陽毬、晶馬×苹果
とはいえ、だからといって『ピンドラ』=〈セカイ系〉と決めてしまうのはいささか早計である。というのは、先の話は、冠葉と陽毬の関係に焦点を当てれば、という条件つきの話だからだ。
たとえば晶馬と陽毬の関係性を取り出してみても、それはセカイ系とは言えない。晶馬は別に陽毬と〈セカイ〉を天秤にかけているわけではないからだ。
が、同じ晶馬に着目してみても、晶馬と苹果の関係性はむしろ〈セカイ系〉に近くなる。というのは晶馬は〈セカイ〉の犠牲になろうとする苹果の代わりに自己犠牲を払うからだ。が、そこはやや複雑で、狭義の〈セカイ系〉のように、ヒロインか世界か、という二択が発生しているのではなく、結果的にはヒロインも世界も救われてしまう。
そこから察するに、『ピンドラ』は〈セカイ系〉の様相を呈しつつも、どうもその枠組みには当て嵌まらないところがあるらしい。そもそも『ピンドラ』は別に、〈セカイ〉をキーワードとして始まったわけではない。初めはもっと「運命」というワードが強調されていたはずだ。思えば「世界」というワードは、21話以降、急に強調されるようになってきていた。それはなぜなのか。
おそらく、それには一人の登場人物の存在が大きく関与している。その人物とは、眞悧だ。
2.2 眞悧のセカイ
冠葉が「世界」という主語を使い始めるのは、眞悧に感化されてのことではないのか。
クライマックスが近づくにつれ、眞悧の登場機会が増え、場合によっては自らの思想をモノローグなどで開陳するようになる。そのとき眞悧は、「世界」を主語に掲げて、以下のように言っていた。
「ある朝、気がついたんだ。僕はこの世界が嫌いなんだって。世界はいくつもの箱だよ。人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。自分がどんな形をしていたのか。何が好きだったのか、誰を好きだったのか。だからさ、僕は箱を出るんだ。僕は選ばれし者。だからさ、僕はこれからこの世界を壊すんだ」
(『輪るピングドラム』23rd station)
つまり君たちは亡者に呪われているんだ。僕は呪いのメタファーなんだ。今度こそ見せつけてやりたいんだ。帽子の彼女に。世界が壊れるところをね」
(『輪るピングドラム』23rd station)
「愛の力ではどうにもならないこともあるさ。[…]呪文を使えば、その代償として、呪いの炎にその身のすべてを焼かれちゃうからね。世界の風景から失われるってことさ」
(『輪るピングドラム』23rd station)
「人間っていうのは、不自由な生き物だね。なぜって? だって自分という箱から一生出られないからね。その箱はね、僕たちを守ってくれるわけじゃない。僕たちから大切なものを奪っているんだ。たとえ隣に誰かいても、壁を越えてつながることもできない。僕らはみんな独りぼっちなのさ。その箱の中で、僕たちが何かを得ることなんて、絶対にないだろう。出口なんてどこにもない。誰も救えやしない。だからさ、壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を……!」
(『輪るピングドラム』23rd station)
「真に純粋な生命の世界は、利己的なルールが支配している。そこに人の善悪は関与できない。つまり、もう何者もこの運命を止められないのさ。桃果ちゃん、見せてあげるよ。世界が壊れるところを」
(『輪るピングドラム』24rd station)
「君たちは決して呪いから出ることはできない。僕がそうであるように、箱の中の君たちが何かを得ることはない。この世界に何も残せず、ただ消えるんだ。塵一つ残さないのさ。君たちは絶対に幸せになんかなれない!」
(『輪るピングドラム』24rd station)
並べてみても、眞悧がいかに「世界」という言葉を用いているかがわかる。それほどに「世界」に囚われている、と言ってもいいかもしれない。
だが「世界」のほかにも、目立つワードがある。「箱」だ。曰く、「世界はいくつもの箱」であって、人は一人一人その箱の中に閉じ込められ、けっして出ることは出きないという。だから、出れないのなら、箱=世界を壊すしかない、それが眞悧の言い分だ。
要するに眞悧は、きわめて独我論的な世界観を持っている。「たとえ隣に誰かいても、壁を越えてつながることもできない」という言葉に象徴されるように、他人とつながることができない、他者のいない「独りぼっち」の世界が、眞悧の世界なのだ。
だからその「世界」は、〈セカイ〉と表記するにふさわしい。きわめて小さな関係性、どころか、個人が「世界の命運」に直結してしまっている。だから当然、その中間に社会や国家が挟まる余地などない。言ってみれば眞悧の〈セカイ〉は、きわめてラディカルな〈セカイ系〉なのである。
2.3 眞悧のセカイの系譜
そうした眞悧の思想に多かれ少なかれかぶれたため、冠葉はしきりに「世界」と口にするようになったのではないか。そう考えることは無理のないことのように思われる。
だが待て、眞悧の思想に導かれたのは、おそらく冠葉だけではない。冠葉の父――と言っても義理の父だが——剣山もまた、「世界」という言葉を用い、それを変革せんとしていた。
この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか、認められたとか認めてくれないとか、選ばれたとか選ばれなかったとか——。
奴らは人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界は、そんなつまらないきっと何者にもなれない奴らが支配している。もうここは、氷の世界なんだ。
しかし幸いなるかな、われわれの手には希望のたいまつが燃えている。これは聖なる炎、明日われわれは、この炎によって世界を浄化する。今こそ取り戻そう。ほんとうのことだけで、人が生きられる美しい世界を!これがわれわれの生存戦略なのだ!
(『輪るピングドラム』20th stationより)
剣山や冠葉の世界は、眞悧の〈セカイ〉ほど、つまり個人=世界と言いうるほどにはラディカルではないかもしれないが、いずれにせよ、自分に都合の良い世界以外の人間のことは傷つけることを厭わない。
その意味では、つまり、自分に都合の良いような世界しか見ていないという意味では、それもまた独我論的であり、本当に自分の外部であるところの他人、すなわち「他者」を見ようとしてはいない。
このように、「他者」を見ずに、世界の命運が小さい個人的な問題と直結する世界観、そしてそれゆえに世界という檻を破壊することを試みるのが、眞悧の〈セカイ〉の系譜とまとめられよう。
2.4 〈セカイ〉を棄却し、「世界」を取り戻す
しかしだとするとやはり、『ピンドラ』は狭義のセカイ系に属するような、少なくとも「小さく感情的な人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力」を部分的には描いている作品だ、とは言えそうである。つまり『ピンドラ』は、部分的にはセカイ系なのである。
だが、やはりそう断ずるのも早計である。なぜなら『ピンドラ』は結局、物語のなかでは、眞悧の〈セカイ〉の系譜を棄却するからである。「運命」は乗り換えられ、冠葉の試みは失敗し、世界は破壊されず、陽毬も救われる。
かくして、〈セカイ〉は破壊される。「選ばれた」のは、いわば〈セカイ〉ではなく「世界」なのである。「ピングドラム」は閉じた二者関係である「個人=セカイ」という檻を越えて、隣人にリンゴを、「愛」を手渡す。それは23~24話における挿話に象徴されている。
そこでは、「檻」を越えて、冠葉が晶馬にリンゴを分け与える。「檻」という、眞悧の言う個人という名の「箱」を越えて/超えて、つまり個人の「檻」を突破して、リンゴという「愛」の象徴を分け合って、〈他者〉とつながるのである。
だからその点においては、『ピンドラ』は眞悧のようなラディカルな〈セカイ〉は棄却する。たしかに冠葉は陽毬と〈セカイ〉を天秤にかけるし、晶馬も〈セカイ〉を賭けて苹果の犠牲になる。
だが取り戻されるのは「世界」である。感情的で小さな人間関係のみに終始するような〈セカイ〉ではなく、多くの人を、他人を思いやって、「愛」と「罰」を分け合う「世界」なのである。だからその意味においては、『ピンドラ』は〈セカイ系〉を棄却し、「世界」を取り戻すまでの物語なのだ、と図式的に見ることはできるかもしれない。
そしてもうひとつ、『ピンドラ』が〈セカイ系〉かを見分けるリトマス紙として、重要な要素がある。
2.5 中間項としての政治性
それは「社会や国家のような中間項」だ。
『ピンドラ』は、一方で、ストーリー的には「社会や国家のような中間項」を詳細に描いているとは言い難い。「16年前の事件」は明らかに存在感があるし、〈企鵝の会〉なる怪しげな組織も、ある種の中間項的なものとして登場しはする。だがしかし、「16年の前の事件」や〈企鵝の会〉がいかに「社会や国家」に影響を与えたか、などはまったく描写されない。
だが他方で、これまでの考察でもさんざん見てきたように、『ピンドラ』は明らかに現実の事件――地下鉄サリン事件や神戸児童殺傷事件――を参照項としている。それらは明確に政治性を帯びており、その意味で、『ピンドラ』には〈中間項〉への志向性はある。物語という抽象的なものを用いて、現実の社会や国家について考えさせるようには作られているのだ。
だからその意味では、『ピンドラ』はセカイ系のように、「社会や国家のような中間項」をまったく排除しているとは言い切れない。
2.6 改めて、『ピンドラ』はセカイ系か?
まとめよう。
まずセカイ系とは、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している」と(狭義には)定義され得た。
この定義に則れば、『ピンドラ』は部分的にはセカイ系であり、部分的にはセカイ系でないと考えられる。
一方で『ピンドラ』はセカイ系である。冠葉は陽毬とセカイを天秤にかけ、社会や国家の描写を欠いたまま、世界を破壊しようとする。こうしたセカイ観は眞悧から引き継いだものと見ることができ、眞悧によれば、「きみとぼく」のような二者関係どころか、個人=世界=箱であり、世界は箱の中に閉じ込めた個人から「大切なものを奪っている」ため、世界は破壊するしかない。言ってみれば眞悧は、ラディカルなセカイ観を有しているのだ。
しかし他方で、『ピンドラ』はそうした小さなセカイを棄却する物語でもあった。冠葉は結局のところ陽毬から承認されるものの、透明なガラスの破片となって「世界の風景から消える」。代わりに選ばれるのは、「愛」と「罰」を他者と分有する世界である。「ピングドラム」は個人=箱という檻を超えて手渡され、人から人へ輪る。閉じたセカイを開放し、他者が生きる世界を回復するのが『ピンドラ』のストーリーだ。
加えて、そこには中間項への志向がある。たしかに、社会や国家といった〈中間項〉は直接には描写されない。しかしむしろそれを抽象化することにより、特定の事件を参照項としつつも、アクチュアリティをもった事件をそこに読み込むことを可能にする。それはある意味、強烈な〈中間項〉の志向でもある。どんな時代、どんな地域の〈中間項〉も、あるいは導入可能なのだから。
――ピンドラはセカイ系か? だからその問いに対しては、答えとしては穏当だが、豊かな内実をもって、『ピンドラ』はセカイ系であり、セカイ系ではないと、改めてそう答えられよう。
おわりに――「ものすごい近いところと、ものすごく遠いところ」
『ピンドラ』の監督・幾原邦彦は、かつてこんなことを言っていたことがある。
「何をもって漫画というのかっていうのははっきり言えないんだけど、ひとつには、ものすごい近いところと、ものすごく遠いところしか描かないってことが挙げられる。最近の歌謡曲って、みんなそうじゃない。彼のYシャツがどうとかという身近なところか、あとは宇宙の果てとかっていう、創造でしか語れない遠いところしか言わない。中間の、かかわると大変そうな距離の部分は絶対に言わない。それは漫画の世界だろうって思う」
(「戯作者たちの言い分。庵野秀明×生原邦彦」より)*5
この発言はまったくセカイ系の文脈でなされたものではないし、それどころか一九九八年という、「セカイ系」という言葉すらなかった頃の述懐である*6。
あえて補足すれば、この発言の後、幾原は「つくりもののアニメをずっとやってるかたわら」で、「肉体に対するコンプレックス」を感じるとしつつ、しかしアニメを「イリュージョンのままでおいておきたい」というところがあるとしている*7。
この逆説的な態度が、『ピンドラ』に至るまで反映されているように思われる。つまり、『ピンドラ』におけるまで、幾原監督は「肉体」のような生のもの、あるいは「中間」=「かかわると大変そうな距離の部分」と呼ぶにふさわしい「社会や国家」に関わる政治性を作品に取り入れると同時に、「イリュージョン」のようなフィクション性も忘れていない。だから『ピンドラ』は、地下鉄サリン事件という生々しい事件を明らかに志向していながらも、作中では直接的な言及を絶対にすることなく、フィクションの次元へと昇華しているのである。
ともすると幾原は、セカイ系のものすごく近くに接近しつつ、ものすごく遠くへ離脱しているのではないか。セカイ系に束の間帯同し、離反して見せる、そのメタ・セカイ系的な運動が、『ピンドラ』なのではないか。
そうだとして、しかしメタ・セカイ系的な態度を、むしろわれわれは『ピンドラ』に対してとらなければならない。『ピンドラ』に「ものすごい近いところ」に行けば、桃果の「呪文」に説服され、「愛」で何でも解決できると、手放しに「信仰」してしまい、「ものすごく遠いところ」に行けば、眞悧の「呪い」を引き受け、あるいはテロリズムに走ってしまうかもしれない。
「ものすごい近いところ」と「ものすごく遠いところ」の中間へ。「信仰」でもない「呪い」でもないその〈あいだ〉へ。その志向性を示す試みが、あるいは批評に賭けられているのかもしれない。
お知らせ――本になりました
当シリーズ、ゼロから見直す『輪るピングドラム』シリーズを同人誌として、紙の本にしました。タイトルは『Malus——『輪るピングドラム』考察集』です。
こちらには、当サイトで公開している(これからされる)TVシリーズ全24話分の考察と劇場版前後編の考察、そして書下ろしとして、「あとがき――あるいは「考察」という言葉をめぐって」を収録しております。
本サイトで公開しているものと内容が異なるわけではありませんが、紙の本で出したいという思いが強く、昨年末のコミックマーケットを機会に、頒布を始めました。
現在好評につき、品切れ中ですが、第2版の予約が開始されております。販売は少し先の2/9になる予定ですが、よろしければぜひお手に取ってくださると幸いです。素敵な表紙を漫画家の白井もも吉先生(@s_momokichi)に手掛けていただき、装丁もとても良いものになったと自負しております。
以上お知らせでした。本シリーズも次回でいよいよ最終回です。ここまで読んでくださった方には改めて感謝の言葉を申し上げたいです。たくさんの方に読んでいただけたからこそ、こうして本にすることもかないました。改めて、本当にありがとうございます。
また、コミックマーケット101でも多くの方にご購入いただき、ありがとうございました。改めて、たくさんの方にご愛読いただけているのだということを実感し、本当に出店してよかったと心から思いました。もうしばらく時間が経ってしまいましたが、改めてお礼を言わせてください。ありがとうございました。
とはいえ、ひとまず、あと1回は更新が残っているので、最後までお読みいただければ幸いです。後のことは正直分かりませんが、もう少し『ピンドラ』で書きたいことはあるので、「ゼロから~」シリーズとは別に、何か書くかもしれません。
ほかの幾原邦彦作品についても、やはり何か書きたいという思いがあるので、『ピンドラ』ほど時間をかけることができるとは言えませんが、何か書けたらな、と思っています。
もちろん、ほかのコンテンツについても、相変わらずマイペースに更新していきたいと思うので、これからも当ブログをご覧いただけますと幸いです。なんか最終回っぽくなってしまいしたが、これからもつづくので、よろしくお願いします。
それでは。
【次回(最終回)】
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【お知らせ】
本考察が紙の本になりました。内容はネットで見られるものとほぼ同じですが、加筆修正のうえ、「あとがき」を書き下ろしで追加しています。ご興味のある方はぜひ。
*1:東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社、2007年、96頁。とはいえ、セカイ系という用語はインターネットから自然波及的に普及したものであり、定義も含め、その語が示すところはたいへん曖昧である。たとえば前島賢は、そうした定義が「必ずしもセカイ系と呼ばれる作品の内実を正しく捉えていない」とし、その語の起源まで遡って詳細な検討を加えている。セカイ系という語が発生してきた経緯も含め、詳細は前島賢『セカイ系とは何か』(星海社、2014年)を参照されたい。
*2:前島賢『セカイ系とは何か』前掲書、9頁。
*3:注意しておけば、前島はこの3作が一般にセカイ系として挙げられることに言及したあと、むしろこの3作が先の3つの要素に必ずしも当て嵌まるわけではないと論を展開してゆく。
*4:以上のセリフは筆者の書き起こしによるため、実際の表記とは異なる可能性がある。とりわけここでは一般的な表記を用いて「世界」を漢字表記としたが、実際台本にどう表記されていたかは分からない。以下同様に、アニメのセリフからの引用はすべて筆者の書き起こしによる。また、とくに断りがなければ太字強調は筆者によるものである。
*5:「戯作者たちの言い分。庵野秀明×生原邦彦」『月刊ニュータイプ』一九九八年一〇月号、角川書店、六七頁。
*6:東浩紀は、おそらく以上の幾原の対談を受けて、以下のように発言している。「それでぼくが今日強調したいのは、ぼくたちのこの社会においては、その「象徴界」の力が著しく減退しているのではないかということです。それは、『美少女戦士セーラームーン』というメガヒット・アニメを作った幾原邦彦という監督が言っているのですが[…]それで彼の話によると、最近の若い子は、すごく近いこととすごく遠いことしかわからない。それは小室哲哉の曲の歌詞からもわかることで、恋愛か世界の終わりか、いまの一〇代はそのどちらかにしか興味がない。言い換えれば、恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とか、彼らの感覚ではペタッとくっついてしまっていると言うんです」(東浩紀「郵便的不安たち――『存在論的、郵便的』からより遠くへ」『郵便的不安達β』河出書房、二〇一一年、六〇―六一頁)。この発言は、もとは『存在論的、郵便的』の発刊を記念して一九九八年に行われた講演によるものであり、言うまでもなく、これもまた「セカイ系」という言葉が登場する以前のものである。だが他方で、ここには明らかに、東が「セカイ系」という言葉を用いて展開する主張の萌芽が見られる。したがってむしろ、東が後に「セカイ系」という言葉で展開してゆくような議論の発想はそもそも東のなかにあり、むしろそれに最適な想像力を「セカイ系」に「発見」した、と見るのが妥当か。
*7:「戯作者たちの言い分。庵野秀明×生原邦彦」、前掲書、67頁。