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【ピンドラ 考察】ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑪「タワー」と「呪い」——時籠ゆりについて——【14~15話】

はじめに——「嘘つき姫」——

14-15話は、主に時籠ゆりの話になっている。

とりわけ15話は、ゆりの過去が明らかになるとともに、桃果のもつ「運命の乗り換え」の能力とその代償の説明となっているという点で重要である。

そのほかにも細かい伏線はあるのだが、今回は時籠ゆり(以下「ゆり」とする)に対象を絞って、簡単にではあるが、ゆりその人について考えてみたい。

 

 

1.0. ゆりと桂樹の位置づけ

1.1. 80年代生まれ

まずはゆりと多蕗桂樹(以下「桂樹」)の位置づけを確認しておこう。

そもそもゆりと桂樹がセットになっていることにポイントがあるわけで、つまり、2人には世代という共通点がある。

ではゆりと桂樹はどの世代なのか。作中の描写に従えば、95年時点で桃果は10歳であり*1、その桃果とゆりが同級生であることを考えれば*2、桃果とゆりは85年生まれとなる。

加えて、桃果の母が桂樹と桃果は同級生であると言っていたことに鑑みれば*3、結局、桃果もゆりも桂樹も85年生まれとなる*4

要するに言いたいのは、ゆりと桂樹が桃果と同世代、冠葉や晶馬、陽毬らより上の世代、80年代生まれの世代として位置付けられているということだ。

 

1.2. なぜ世代が重要か?

ではなぜわざわざゆりと多蕗の世代を確認したかといえば、ひとつには、『ピンドラ』の監督である幾原邦彦が、70年代に起こったことは経験していないから、歴史としては知っていても実感としてはわからない、と前置きしたうえで、以下のように言っていたからだ。

一方で90年代を取り巻いていた空気について、僕は肌で感じて知っている。これを表現できるのは、僕らしかいない。同時に、95年の事件に関して同世代的な罪の意識を感じていたこともあります。その罪に対して懺悔したい思いがあった。たかがアニメとはいえ、なんで誰もここに近づかないのか?そうやって見ないふりを続けることで、今の若い人にどんな影響があるのかという関心があったんです。

(「スペシャル対談 幾原邦彦×辻村深月」『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』より*5

以上のように、『ピンドラ』のテーマを選び取るに際し、幾原監督は自らが「90年代を取り巻いていた空気」を「肌で感じて」いたことを自称し、そこに近づくことにある種の使命感を感じているように読み取れる。

そうだとすれば、それは『ピンドラ』の内部でも言えるはずだ。つまり、事件を実際に経験した桂樹やゆりと、ちょうどそのときくらいに生まれた冠葉・晶馬・陽毬とでは、事件にかける想いや、そこに抱く「罪の意識」も、異なるはずである。

 

1.3. 「あらかじめ失われた子ども」たち

そして実際、事件を直接経験した桂樹やゆりが、事件、とくにその被疑者である高倉家に抱く感情は、明らかに冠葉・晶馬・陽毬らのそれとは異なるように描かれている。

つまり、桂樹やゆりに仮託されているのは、95年以降の世代的な悩みというよりは、少なくとも95年以前から生きながら95年の事件を当事者として経験した者の悩みであるように思われるのだ。

たとえば、ゆりと桂樹が口にする「あらかじめ失われた子供達」という文句も、それを象徴するような言葉であるように思われる。というのは、「あらかじめ失われた子ども」は、80年代から90年代にかけて活躍した岡崎京子のマンガ『リバーズ・エッジ』(1993-94年連載)「ノート・あとがきにかえて」の冒頭に登場するフレーズであるからだ。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

岡崎京子が「年を生きる少女・女性をリアルに描写し、80年代から90年代にかけての時代を鋭敏に表象していった」*6と評されてきたことを考えれば、「あらかじめ失われた子ども」を自称する桂樹やゆりは、少なくとも95年以前から生きる人間として、「80年代から90年代にかけての時代」の苦悩を背負っていると見ることができよう。

とはいえ、これについては議論の余地がある。桂樹やゆりが本当に80年代生まれとしてそうした「苦悩」を背負っているのか、あるいはそうした「苦悩」があるとして、「あらかじめ失われた子ども」とはどういう意味なのか、それを考える必要がある。

具体的なことは今回以降で考えてゆくとして、さしあたって「ゆり回」を考察する今回は、ゆりの抱えた「苦悩」について考えてみよう。

 

2.0. 時籠ゆりについて

2.1. 象徴としての「タワー」

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象徴としての「タワー」. 付近を飛行するヘリコプターの羽は「こどもブロイラー」の扇風機を思わせる(『輪るピングドラム』15th station, ピングループ・MBS, 2011年).

「あのタワーがあるかぎり、私は自由になれない」

(『輪るピングドラム』15th station より)

この一言から始まる時籠の過去は、けっして生易しいものではない。というより、かなり厳しいものである。

本編を見れば明らかであるが、ゆりは父親から虐待を受けており、その傷跡は無数に身体に残されている(14話で時籠と一夜を共にした結城が別れ際に言った「身体の秘密」とはこのことだ)。

これも言うまでもないことかもしれないが、14-15話では、そうした「父親」の象徴が「タワー」や「ノミ」など、棒状のもので表象されている。

それは「運命の乗り換え」が行われ、ゆりの父親が消えたあとでも、「東京タワー」として残り続ける。まるでゆりの心のなかに、父親から受けた心の傷が残り続けるかのように。

 

2.2. 『みにくいアヒルの子』

以上のような境遇のなかでも、ゆりはとりわけ美醜という価値観に付き纏われている。

それは父親が「美しいものしか愛せない」という思想でゆりを洗脳したからであり、だからこそゆりは『みにくいアヒルの子』が嫌いだと言う。みにくいものは美しくなるためにはいろいろなことを——傍から見れば虐待であるようなことも——我慢しなければならないと思っていたのだ。

それに対し桃果は、「みにくいアヒルの子なんているのかな?」と問いかける。桃果によれば、そもそもみにくい子なんておらず、「みんなきれいだと思う」、「ゆりはそのままできれいだよ」というのだ。そうして桃果は、ゆりにとって大切な人となった。

だがその桃果は消えてしまう。その後ゆりが選んだのは、歌劇団の役者という、良くも悪くも美醜と切り離せない道。象徴として残った「タワー」のように、ゆりのなかではまだ、子供時代に植え付けられた価値観がまだ残存しつづけているのだ。

 

2.3. 「愛」

だがゆりがとらわれているのは美醜の価値観だけではない。なぜ美醜が問題になるかといえば、美しいものしか愛されないと吹き込まれていたからだ。つまり、そこで問題なのは「愛」なのだ。ゆりもまたその「愛」に飢えている。

そんなゆりの心情を、真砂子は的確にもこう表現していた。

幼いころにあなたは必要だって言われたことがないんです。だから大人になって自分の生い立ちに復讐しようと躍起になる。「あなたじゃなくっちゃダメなの」、そんな言葉をいつも求めている。

(『輪るピングドラム』15th station より)

舞台では巨大な白鳥のオブジェに乗り、裏では男役を抱き、「女が快楽を得るのに男が必要なんて誰が決めたの」と喝破する*7。そうしたふるまいは、たしかに生い立ちへの「復讐」なのかもしれない。

あるいはそのふるまいを、先に述べたような世代的な問題につなげることもできるかもしれない——とりわけ「あらかじめ失われた子供達」という表現はこの「愛」の問題に結びつく——。だがそれはまた、もう少し大きな枠組みでも考えられる。

 

3.0. 家族という「呪い」

その「枠組み」とはすなわち「家族」である。「家族」について、眞悧は以下のように言っていた。

家族というのは一種の幻想、呪いのようなものだと思わない?考えてもみなよ。「家族」という名に縛られて暮らす子供がどれだけいるか。愛と言う名目で子どもを私物化する親、殴る親……彼らが愛しているのは自分自身だけだというのに、子どもはただ、家族という理由で親を愛し、兄弟愛さなければならない。

(『輪るピングドラム』15th station より)

眞悧のこの言葉は現実においても十二分に効力を発揮しうるが、これはとりわけ『ピンドラ』の登場人物たちに刺さる言葉だ。

冠葉・晶馬・陽毬は言うまでもなく、真砂子や桂樹もまた、「家族」にとらわれている。

「呪いのメタファー」である眞悧がこれを言っていることがいっそう意味深いのだが*8、では果たして彼ら彼女らはその「呪い」にどう立ち向かっていったのだろうか。

次回はそれを真砂子の視点から、つづいて次々回は桂樹の視点から考えてみたい。

 

 

おわりに——「呪い」と「代償」——

今回は本当に簡単にではあるが、時籠ゆりという人について、本編をなぞる形で考えてみた。

ゆりの境遇をまとめるというのは難しく、それを類型化してしまうことが暴力であるように思われるが、しかしそれらを80年代的なものや「家族」というテーマに結び付けてゆくことは有効ではあるように思われる。

そうした大きな文脈については稿を改めて考察したいが、今回改めて思ったのは、そうした「呪い」を、「運命の乗り換え」によって変えてしまおうというのは単純にすぎるということだ。

つまり、「家族」のような「呪い」というのは、現実的にはそうやすやすと解けるようなものではないのであって、それを「呪文」によって取り払ってしまおうというのはさすがに虫が良すぎる。

だが『ピンドラ』は「呪い」をあまりにロマン主義的に取り払っているわけでもない。つまりそこには「代償」が伴うのであって、記号的な画面や芝居がかった演出によって、良く言えばマイルドにはなっているが、そこに描かれている実質としてはかなり辛いものがある。

とくに現実的な事件を想起させる場合には、(筆者としては)かなりグロテスクに思える部分もあるのだが、しかしそれを演出でマイルドにするというのは、アニメーションとして伝えることを考えたときの塩梅の問題であって、それを一面的に批判してしまうのは、以前考察したように*9、物語をあえて「寓話的、童話的」に仕立て上げた村上春樹に対してそれを改めて「寓話的、童話的」にすぎると批判してしまうのと同様の図式になってしまう。

むしろそれらをうまく切り分けて考えてゆくのが、視聴者、とりわけこうした記事を書いている者の役割であるように思われる。ので、私も『ピンドラ』の記事を頑張って書きたい所存……。

なんだか最後は勝手な反省になってしまい恐縮だが、ともかく、ここで請け負ったテーマ(80年代的なもの(?)(本当にそんなものがあるのか、あるとして、本当にそれを引き受けているのかも含め))、「呪い」について引き続き考えていきたい。

4月末には劇場版公開なので、それまでにはなんとかこのシリーズを終えたいですね(追記:終わらせると言ったな?あれは嘘だ!(すみません))。

それではまた。

 

【参考文献等】

・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.

・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年

・カトリーヌ・マラブー『抹消された快楽』西山雄二・横田祐美子訳, 法政大学出版局, 2021年.

・杉本章吾『岡崎京子論』新曜社, 2012年.

 

【次回】

【初回】

【お知らせ】

本考察が紙の本になりました。内容はネットで見られるものとほぼ同じですが、加筆修正のうえ、「あとがき」を書き下ろしで追加しています。ご興味のある方はぜひ。

『Malus——『輪るピングドラム』考察集』通販ページ

*1:輪るピングドラム | Story12話ストーリー参照

*2:『輪るピングドラム』14-15th station 参照.

*3:『輪るピングドラム』6th station 参照.

*4:ただし桂樹に関しては12th station の名札に「2年3組」と書かれており, それはつまり8歳になる年であるはずなので, 10歳という前述の記述と矛盾する. どちらかが間違っているのだろうが, いずれにしても80年代生まれなのはたしかであるように思われる.

*5:「スペシャル対談 幾原邦彦×辻村深月」『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年, 182頁.

*6:杉本章吾『岡崎京子論』新曜社, 2012年, 19頁. ただしこれは先行研究がそう評してきたというまとめの文言であり, 杉本自身はむしろそれを批判したうえで「岡崎のテクスト群には、少女・女性の〈内面》や「夢」や「欲望」と呼びうるものを自明化するのではなく、それが高度資本主義、高度消費社会・メディア社会として定義される社会状況のなかで、いかにして胚胎し、表象され、流通していくのか、あるいは、それに抵抗していくのかというメタ的な認識が孕まれている」(同上書, 22-23頁)と, あらかじめテクストに少女・女性の「リアル」が織り込まれ, それに対するメタ的な問題意識が貫かれている, と議論を展開している.

*7:そうした「快楽」に関する疑問に端を発してファロス中心主義に抗した著作として, 近年翻訳されたカトリーヌ・マラブー『抹消された快楽 クリトリスと思考』がある. 同書は, クリトリスという女性を自立した主体としうる器官に注目し, しかしそうすることで異性愛的な構図やファロス的な権力を再生産しないように十分に配慮しながら, 「女性的なもの」——「女性的」であって「女性」でない——の思考を描き出している. 同書にはそこから, 「女性的なもの」から切り開ける可能性について大切なエッセンスが散りばめられているため, 興味がある方はぜひ読まれるとよい.

*8:「僕は呪いのメタファーなんだ」(『輪るピングドラム』23th station).

*9:詳細は以下参照. ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑦物語にできることは ――「地下」・「状況」・「コミットメント」――【7~9話】 - 野の百合、空の鳥.