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【ピンドラ 考察】ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑩メリーさんの羊とは?【12~13話】

はじめに. 「メリーさんの羊」を中心に……

12~13話で起こった出来事をまとめるのは簡単だ。つまり、陽毬がまた倒れて、眞悧がそれを助けた。それだけだ。

しかしながら、12~13話には、起こった出来事としてまとめられないエッセンス——それも非常に重要なエッセンス——があまりにも多い。それこそ、あるエッセンスがほかのエッセンスとつながって、ぐるぐる輪るほどには(あえて特記するならば、16年前、つまり1995年の事件の主犯格が高倉家の父剣山であったという事実は12話で初めて分かった)。

だから今回は、「メリーさんの羊」という、12~13話に特異なエッセンスを中心に据えて、そこから輪を広げるようにして12~13話について考察してみたい。突如として晶馬の口から語られる寓話めいたその話は、いろいろなこと(物語のレベルにおいても現実のレベルにおいても)を示唆しているように思われるのだ。そして最終的には、13話のサブタイトルの一部にもなっている「罪と罰」について、少し——というのはそれは12~13話だけで片付くような簡単な問題ではないから——解明することを目標にしたい。

 

 

1.0. 「メリーさんの羊」について

1.1. 「メリーさんの羊」要約

さしあたって、「メリーさんの羊」の物語を見てみよう。作中で語られる物語を要約すると以下のようになる。わりとすべてが大事な要素だったりするので、あえて太字などにはしない。

  1. メリーさんは美しい三匹の子羊を飼っていた
  2. ある朝メリーさんが目覚めると、庭のリンゴの樹が枯れていた
  3. それは世界で最初の樹で、黄金色の実をみのらせる樹だった
  4. かつてリンゴの樹はその輝きで世界の未来、夢、愛を照らしていた
  5. メリーさんは泣き出し、子羊たちの慰めも耳に届かないほどだった
  6. そのとき二匹のウサギがメリーさんに語りかけた
  7. ウサギたちはメリーさんに、神殿で燃える松明の灰を取ってくればリンゴの樹が元気になると伝えた
  8. メリーさんは首を振った。女神の火には人は触れてはならないと掟で決まっていたからだ
  9. それでもウサギはメリーさんをそそのかし、メリーさんはついに灰を盗んで、リンゴの樹にまいた
  10. はたしてリンゴの樹は生き返り、メリーさんは大喜びでダンスばかりするが、それは三匹の子羊たちも眼に入らないほどだった
  11. しかし女神様は激怒し、罰をあたえることにした
  12. 罰は女神様の気まぐれで、選ばれたのは一番小さな幼い羊だった
  13. どうして「陽毬」を選んだのか、と聞く「兄弟羊」に、女神様はこう答えた
  14. 「だって罰は、一番理不尽じゃないとね」
  15. だが女神様は「死の罰」をあたえることはやめる。それは子羊たちを憐れんだり、メリーさんに情けをかけたりしたわけではない
  16. 「だって、これで罰が終わりじゃ、つまらないでしょ?」

 

1.2. 元ネタはあるか?

「メリーさんの羊」と言えば、童謡(ナーサリーライム、ないしはマザー・グース)の「メリーさんの羊」、つまり ”Mary Had a Little Lamb” を思い浮かべる人もあるかもしれない。

だがその「メリーさんの羊」の内容は、残念ながら『ピンドラ』の「メリーさんの羊」の内容と関係があるとは思えない。童謡の「メリーさんの羊」の内容は、少女メリーが学校に子羊を連れて行って大騒ぎになった、というだけの話だからだ。

『ピンドラ』の「メリーさんの羊」は、内容的にはむしろほかの物語を連想させる。世界最初のリンゴの樹ということからは当然アダムとイヴの話が想起されるし、神殿の火の灰を盗むというくだりはプロメテウスの逸話を想わせる。

ほかにもいろいろ連想させるものはあるし——それこそ、意図的に攪乱させようとしているのか?と勘繰りたくなるほどには——、『ピンドラ』の「メリーさんの羊」は、そうしたものが集積した、いわば説話の悪魔合体といった様相を呈している。

結論から言えば、あんまり連想しすぎてもわからなくなってしまう。そこでひとまずは『ピンドラ』の「メリーさんの羊」をオリジナルなものとして素直に受け取ってみて、『ピンドラ』の物語に沿ってそれを解釈してみたい。いろいろ気にはなるけれど、いったん措いて、まずは「メリーさんの羊」の登場人物たちと『ピンドラ』の登場人物たちの対応を考えてみよう。

 

1.3. 対応表

結論から言えば「メリーさんの羊」の登場人物と『ピンドラ』の登場人物は以下のように対応すると考えられる。

  • 三匹の子羊=冠葉、晶馬、陽毬
  • メリーさん=高倉剣山(高倉家の父)
  • 二匹のウサギ=シラセ、ソウヤ(眞悧のおつきのウサギたち)
  • 女神様=眞悧

(以下理由を簡単に書くが、結果だけで納得できるなら読み飛ばしてよい。)

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冠葉・晶馬・陽毬の顔で描かれる子羊(『輪るピングドラム』第12駅、ピングループ・MBS、2011年)

まず三匹の子羊と二匹のウサギの対応については明らかだろう。子羊たちは作中で冠葉、晶馬、陽毬の顔で描かれているし、(シラセとソウヤとは眞悧のおつきのウサギたちのことだが)ウサギたちに関してはシラセ、ソウヤと声が同じだ——ちなみに、「シラセ」と「ソウヤ」という名前は、南極観測船の「しらせ」と「そうや」に由来する——。

メリーさんについては、剣山が犯した16年前の地下鉄事件で晶馬が罰を受けていることが、メリーさんが犯した罪で子羊たちに罰があたえられたことになぞらえられていると考えれば、メリーさん=剣山と対応すると考えられるだろう。

女神様については、女神様のまとっている衣のピンク色が眞悧の髪の色と同じであること、一番小さな羊=陽毬を一度は罰するも、その後死の罰をあたえるのをやめた=陽毬が生き返ったのが眞悧のおかげである、という対応を考えれば、女神様=眞悧と言えるだろう。

 

2.0. 「メリーさんの羊」をめぐる考察

では上のように対応するとして、そこから何が言えるか。

ここではわかりやすく、「リンゴの樹」、「メリーさん」、「女神様」という3つの軸を中心に考察する。そのさい、以下の3つの疑問に答える形で考えてみよう。

  1. 「リンゴの樹」とは何か(その輝きが世界の未来、夢、愛を照らしていたとはどういうことか)?
  2. メリーさんがとった行動(リンゴの樹が枯れているのを嘆き、灰を盗んだ)の意味は?
  3. 女神様とは何者か(なぜ罰は「一番理不尽じゃないと」いけないのか、なぜ「これで罰が終わりじゃつまらない」のか)?

 

2.1. 「リンゴの樹」とは何か(その輝きが世界の未来、夢、愛を照らしていたとはどういうことか)?

リンゴと言えば、第一回目で考察したような『銀河鉄道の夜』に由来する「愛による死を自ら選択した者へのご褒美」としてのリンゴ*1、あるいは最終話で「ピングドラム」と呼ばれるような「愛」と「罪」を分け合う象徴としてのリンゴのことを思い浮かべられるかもしれないが、「メリーさんの羊」のリンゴをそれらと同様のものとするのはいささか早計である。

というのは、「メリーさんの羊」のリンゴは、「黄金色の実」だからだ。「黄金のリンゴ」と言えば、ただちにいくつかの説話が想起される。たとえばギリシア神話でヘラクレスが課せられた十二の功業のうちのひとつは黄金のリンゴを盗むことであったし、北欧神話でイズンがその守護を務めるのは、永遠の若さを約束する(不老不死の源)黄金のリンゴである。

リンゴを「黄金」にするだけでほかにも多くの説話と連関し、それが寓話めいた「メリーさんの羊」をいっそうそれらしくしている。そのような数々の「黄金のリンゴ」の文脈を呼び込んでいるというのはまずおさえておくべきだろう。だがそれに加えて考えるべきなのは、リンゴの樹が「世界最初の樹」とされていること、その輝きが世界の未来、夢、愛を照らしていたことの二点だろう。

 

まず「世界最初の樹」であるということからは、エデンの園におけるアダムとイヴの物語を想起せずにはいられない。そもそもその説話が「世界の始まり」を語る『創世記』に由来すること、アダムとイヴが口にした禁断の果実、善悪を知る知恵の実がしばしばリンゴであるとされることを考えれば、「メリーさんの羊」におけるリンゴがその禁断の果実を示唆すると思うのは無理のないことだろう。

とすればそれは、人間が最初に犯した罪、すなわち原罪を象徴するような実でもあるのだが、しかし「メリーさんの羊」ではそれが同時に、世界の未来、夢、愛を照らしていたとも語られる。それはどう考えればよいのか。

たとえば素朴に考えて、善悪の知識の実を人間が食べたことで、つまり知識がついたおかげで人間の未来、夢、愛が芽生えた、と考えても別によいだろう。それを食べたことはたしかに「罪」なのだが、その「罪」のおかげでいまある人間の在りようになっている、というのもまちがいではないはずだ。

だが、さらにそうだとすれば、ある朝メリーさんが目覚めるとリンゴの樹が枯れていた、というのは示唆的だ。なぜなら、以上の仮説に沿えば、善悪の知識の実が枯れたことが、人々において善悪の判断がつかなくなってきたことを示唆しているように思われるからだ。

それは具体的にどういう事態を指しているのか。それは「メリーさん」の視点で見るとわかりやすいだろう。そこで次に「メリーさん」について考えてみよう。

 

2.2. メリーさんがとった行動(リンゴの樹が枯れているのを嘆き、灰を盗んだ)の意味は?

ある朝メリーさんが目覚めるとリンゴの樹が枯れていた、というのは、結論だけ言えば、1995年当時——なぜ1995年かといえば、剣山が世界に嘆いて事件を起こしたのが1995年だから(ちなみに、ややこしいが、剣山らが容疑者として指名手配されたのは2008年)——の時代観(実際の「状況」というよりはひとつの「観方」)を反映していると推測される。バブル崩壊後からつづく不況と、それにともなって人々が「生きづらさ」を抱えるとされる、よく言われるような時代観が、「世界の未来、夢、愛」を照らしていたリンゴの樹の枯死で表現されているのだろう*2

というよりそもそも、リンゴの樹がメリーさん「の」庭にあるということも示唆的かもしれない。つまりリンゴの樹が枯れているというのは、ひいては人々が善悪の判断を失ってきているというのはメリーさん=剣山から見てそう思えたということにすぎないかもしれないからだ。

実際のところ、そもそもメリーさんには周りが見えていない。リンゴの樹が枯れて泣いているときには子羊たちの慰めは耳に入らないし、リンゴの樹が復活して喜んでいるときには子羊に眼もくれない

このことは、メリーさん=剣山が子供たちのことを本当には考えていなかったことを象徴しているのではないか。剣山は世界を変えるために、自身の「生存戦略」として地下鉄事件を起こしたが、残された子供たちがどういう処遇を受けるかを、本当には考えていなかったように思われる。

そのことは「灰を盗む」という「罪」のかたちでリンゴの樹をよみがえらせたことにも読み取れるだろう。結局はその「罪」が、子供たちの世代の方に、「罰」をあたえることになるのだから。

しかしその「罰」をあたえる女神様とは、いったい何者なのだろうか。

 

2.3. 女神様とは何者か(なぜ罰は「一番理不尽じゃないと」いけないのか、なぜ「これで罰が終わりじゃつまらない」のか)?

女神様が女神様であるからには、いったんそれは神様のような存在(「超越者」といってもいいかもしれない)として受け取っておくのがよいだろう。だいたい神様のような存在でなければ、自由に人を生かしたり、罰をあたえたりできないだろう。

そしてそうだとすれば、女神様になぞらえることのできる眞悧も、神様のような存在ということになる。たしかに一面的にはそうである。死にそうだった陽毬を生き返らせることができたのも、神様のような存在だから、と片付ければなんとなく納得できなくもない。

だが眞悧はもっと謎めいている。12~13話で察せるように、16年前の地下鉄事件の真の首謀者は眞悧であるわけで、そのとき敵対していた桃果の意志をひきつぐ陽毬たちは、なんなら眞悧にとっては敵・邪魔者であるはずなのだが、ではどうして眞悧は陽毬を生き返らせたのだろう?

 

それは、罰は「一番理不尽じゃないと」いけないし、罰が「これで終わりじゃつまりない」からだ。それがどういうことかは、文字通り受け取ればわかる。つまり、「陽毬が生きながらえること」=「罰」なのだ。

そう、陽毬は生きながらえたほうが「罰」になるのだ。なぜなら、陽毬は生きていたほうが陽毬自身も罪の意識に苛まれるし(実際陽毬は「生きるってことは罰なんだね」と口にする)、陽毬が生きていたほうが冠葉や晶馬が苦しむ側面がある(その後の二人の葛藤はつづく話で見られる通り)からだ。

そのような意味においては、——ひどい言いぐさかもしれないが——陽毬が苦しむことが「一番理不尽」だし陽毬がそのまま死んでいったほうが「つまらない」というのはわかるだろう。

 

だがそれだけではない。眞悧はこうも言っていた。「僕はね、運命っていう概念が人の世界に存在するのか、そのルールが人の生涯を支配しているかどうか、それを確認したいんだ[…]そいつが〔ピングドラム〕が本当に存在するかどうか」。

つまり眞悧は試しているのだ。陽毬を、冠葉を、晶馬を。彼ら彼女らが「運命」に抗えるのか、背負った「罪と罰を」乗り越えられるのかどうかを。

では彼ら彼女らが背負った「罪と罰」とは何なのか、それを最後にすこし考えて、今回は論を終えよう。

 

3.0. 「僕と君の罪と罰」

親の「罪」は子の「罪」なのか?

『ピンドラ』を見てはじめよくわからなかったのは、どうして晶馬がことさらに剣山と千江美ら「親」の罪を負っていることを強調するのか、ということだった。

まぬけな考えかもしれないが、親の罪は親が犯した罪なのだから、晶馬は関係ないじゃないか、と思っていたのだ。

今改めて考えてみると、その考えは一方では正しく、一方では正しくないように思われる。というより、正しい正しくないということでもないような気がしている。

 

一口に「罪」と「罰」といえども……

ここで「責任=応答可能性(responsabilité)」に関する一連の議論を呼び寄せる気はない。もちろんそうすることはできるのだろうが、込み入った議論を呼び寄せるまでもなく、まずは素朴に整理した方がよいように思われるからだ。

まず一口に「罪」といっても、それは地下鉄事件を起こし、多くの人に被害をもたらしたことだけを指すものでもない。地下鉄事件から家宅捜索までの間(95年から08年までじつに13年の猶予がある)に、もし冠葉や晶馬、陽毬が親が犯したことを知っていて黙っていたなら、それも「罪」かもしれないし、なんなら必要以上に「罪」の意識に苛まれることさえ「罪」である、と言えるかもしれない(かもしれないにすぎないが)。

それは「罰」についても同様である。陽毬が「生きるってことは罰なんだね」と言ったことは印象的だが、何が「罰」たりうるのか、というのはそのときどきによって、あるいは人によってさまざまである。

 

『ピンドラ』という作品が負う「罪」

あるいはもう一段外から眺めれば、『ピンドラ』という作品自体、何か「罪」を背負っているようにも思われる

幾原邦彦監督は、「罪」に関して以下のように述べていた。


『輪るピングドラム』公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて (一般書籍)

一方で90年代を取り巻いていた空気について、僕は肌で感じて知っている。これを表現できるのは、僕らしかいない。同時に、95年の事件に関して同世代的な罪の意識を感じたこともありますその罪に対して懺悔したい思いがあった。たかがアニメとはいえ、なんで誰もここに近づかないのか? そうやって見ないふりを続けることで、今の若い人にどんな影響があるのかという関心があったんです。[…]あの時代を今こそ自分が描くべきだと思ったんです(「スペシャル対談 幾原邦彦×辻村深月」『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』より)*3

95年の事件に関する「同世代的な罪の意識」とは何か。それをどう「懺悔」しようと言うのか。

それを考えるには、もうすこし先の話を見る必要がありそうだ。

 

おわりに

今回は『輪るピングドラム』12~13話について、「メリーさんの羊」を中心に考察した。

要諦すれば、「メリーさんの羊」自体が『ピンドラ』の物語の一部を寓話化したようなものであるわけだが、寓話化することによってさまざまな文脈を呼び込み、召喚された文脈がいろいろな議論を呼び込み、さらに翻って『ピンドラ』という物語について考えさせているように思われる。

それはとくに「罪と罰」という議題を考えさせるのだが、それは当然12~13話という狭い範囲で考え切れるようなことではない。今回は「罪」と「罰」について、すこしだけ整理するにとどまったが、この問題は引き続き考えていきたい。

 

ということで本論はこれでひとまずおしまいなのだが、久しく更新できなかったことを申し訳なく思う。それを言い訳にするわけではないが、どことなくぎこちない箇所もあったかもしれない。

ともかく、できる範囲で、楽しく書いていきたい。今年はいよいよ劇場版も公開されるので、それまでには、このシリーズを書き終えたいと思う。

最近はやはり、劇場版では何をするのだろう?と思わずにはいられないのだが、註に記したように、「あらかじめ失われた子供達」という文句が岡崎京子『リバーズ・エッジ』「ノート・あとがきにかえて」の冒頭部分とまったく同じ表現となっていることなどに象徴されるように、『ピンドラ』は引き受けているものがとても多いし、大きい。

いろいろなことを考えてみても、やはりいま、2022年に何を問うてくれるのか、ということは楽しみだし、大切であるように思う。公開を心待ちにしているが、その前に筆者は自らを省みたい……。

 

今回も読んでいただいた皆さまに感謝申し上げたい。Youtubeで無料配信していたおかげか、当ブログにたどり着いてくださった方も増えたようで、喜ばしく思う。

と同時に、身の引き締まる思いでもあるわけだが、ともかく、完結に向けてひとつずつ、書き進めてゆければ。

それではまた近いうちに。

 

参考文献等

・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.

・『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年.

イズン - Wikipedia

黄金の林檎 - Wikipedia

知恵の樹 - Wikipedia

ヘーラクレース - Wikipedia

・『聖書』新共同訳, 日本聖書協会, 1996.

 

【次回】

【初回】

*1:詳細は以下を参照. ゼロから見直す『輪るピングドラム』①「苹果」とは何か【1~3話】 - 野の百合、空の鳥.

*2:こうした「時代観」についてはさらなる検討が必要であろう. こと『ピンドラ』に関しては, 登場人物たちそれぞれの年代の時代観, つまり剣山・千江美たち親世代, 桂樹やゆりたち年長世代, そして冠葉・晶馬・陽毬らの子ども世代のいわゆる「時代観」がそれぞれ分けられているように思われる. その一例として, 桂樹が口にする「あらかじめ失われた子供達」という文句は, 岡崎京子『リバーズ・エッジ』「ノート・あとがきにかえて」の冒頭部分とまったく同じ表現となっていることが挙げられる. このことに関してはつづくシリーズで詳しく検討したい.

*3:『「輪るピングドラム」公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて』幻冬舎, 2012年, 182頁. 強調筆者