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【劇場版ピンドラ 感想】「きっと何者にもなれないお前たち」から「きっと何者かになれるお前たち」へ

 

 

 

 

 

 

※ネタバレ注意。本記事は劇場版ピンドラのネタバレ、およびアニメ放映版本編のネタバレを含みます。

※また、筆者は一度しか劇場版を見ておらず、記憶だけを頼りに書いているため、本編と齟齬をきたしている可能性があります。

※基本的にはアニメシリーズ視聴済みで劇場版を見られた方をターゲットとしていますが、はじめてピンドラを見たという方にも、何か得るところがあるようには書こうと心掛けましたので、ネタバレされても構わないよという方には、ぜひお読みいただければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに——きっと何者かになれるお前たちに告げる——

——「きっと何者かになれるお前たちに告げる」

そう高らかに謳う桃果に、ひとしおの感動を覚えないわけにはいかない。

「きっと何ものにもなれない」。そう言われ続けた冠葉や晶馬、陽毬たちと物語をともにしてから早10年。待ち望んだファンほど、このセリフの差異に繊細に反応したことだろう。

だが、それと同時に筆者のこころに浮かんだのは、私は果たして、「きっと何者かになれる」に足る人物になれたのだろうか、という疑念である。私は「透明」にならずにすんだのか、「選ばれた」のか、「愛してる」と言う/言われることができたのか。

「あなたたちは誰なのか、なすべきことは何なのか」「でなけば、『運命の乗り換え』は完了しない」――そう問う桃果は、翻って私にも、「存在証明」を問うてきているように思えた。

 

 

1. 実写パートの意味

物語は静けさとともに幕を開ける。

そうした静けさも印象的だったが、それを際立たせていたのは美麗な実写パートだろう。

ピンドラにまつわる街、駅、施設(かえる公園や杉並区中央図書館など)といった風景に、実際にキャラクターが「いる」ということを際立たせるその手法は、『さらざんまい』などでも見られた手法だ。

それがどれほど効果的であるかは、正直はかりかねる。物語がそこに「ある」んだぞ、キャラクターは実際に「いる」んだぞ、と主張する以上のことがそれで示されているかは、各々の解釈に委ねられる気がする。

が、少なくとも、直近のインタビューでは監督が以下のように述べていた。

幾原: […]SNSが登場して、さらに広い客層にとっての体験になっていったように感じます。

ーーその感覚が、作品作りに反映されていることはありますか?

幾原:「一斉に見られているんだ」という意識はありますね。『さらざんまい』では、「知ってる風景が出てくると良いんだな」という感触がありました。浅草のランドマークもそうだけど、もっとご当地的な、「このスーパーの裏口を知ってる!」という喜びがあるんだなと。*1

この「知っている風景」が出てくる「喜び」を生かした手法が、ここでも使われていると考えてよいだろう。実際感想を見ていると、実写パートを褒めるツイートが散見されたので、その意味では成功していると言えるだろう。

だが繰り返すようだが、実写パートを組み込むことが物語にとって意味があることか、と詰められれば私としては積極的な意義を言えそうにはない。

 

2. 「そらの孔分室」の意味

そこから物語の舞台は「そらの孔分室」へと移る。

以前書いたように、「そらの孔」は『銀河鉄道の夜』に由来する言葉で、要するに、あの世とこの世の境い目のことだった(詳細は以下を参照されたい  ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑤「そらの孔分室」とは何か【7~9話】 - 野の百合、空の鳥)。あるいは「地下」へ降りてゆくことに着目して、それを深層心理に行き着く場所、と受け取ってもかまわないだろう。

そこを冠葉や晶馬が訪れる、ということは、2人は少なくとも、現世と冥府とのあわいをさまようような存在であるようだ。無難に考えれば、テレビシリーズの結末のあと、「世界の風景から失われ」た2人がそこへたどり着いた、と解するのが自然だろう。

では2人はそこに何をしに来たのか。

 

3. 『かえるくん、東京を救う』を探しに

冠葉や晶馬は、そこに『かえるくん、東京を救う』を探しに来たのだった。

『かえるくん、東京を救う』は、これもまた以前書いたように、ピンドラがモチーフのひとつとする地下鉄サリン事件に関係する作品であり、それをアニメシリーズでは陽毬が探しに来たのだった(詳細は以下を参照されたい ゼロから見直す『輪るピングドラム』⑥村上春樹の影響──『かえるくん、東京を救う』を中心に──【7~9話】 - 野の百合、空の鳥)。

陽毬の場合は、そこに抑圧された記憶の鍵を見ていた、と解釈したが、今回の場合は、抑圧された記憶というよりは、強いて言うなら、『かえるくん、東京を救う』にまつわるあれこれ、つまり、10年前のピンドラそのものであったりとか、95年当時の問題意識とかを掘り起こしに来たとか、そういった解釈のほうが適切だろうか。

そこまで無理に意味づけするような場面ではないかもしれないが、ともかく、結局のところ冠葉や晶馬は、そこで『かえるくん、東京を救う』ではなく、『かえるくん、ピングドラムを救う』という自分たちの物語を「読む」ことになるのだった。

 

4. 総集編パートについて

そこから、冒頭に述べた桃果の言葉があり、TVシリーズをパワーアップさせた総集編が始まる。

劇場版ではTVシリーズ版にはなかったキャラクターごとのチャプター分けがなされており、記憶が正しければ、苹果→冠葉→晶馬→真砂子→陽毬の順だったかと思われる。そのため、一応各キャラに焦点を当てたまとめ方にはなっており、TVシリーズより明らかに各々の目的意識がわかりやすい構成になっているが、基本的にはアニメ1-12話をなぞった形となる。

前半はほぼ苹果のはちゃめちゃな犯罪パートが繰り広げられており、コミカルな描写でマイルドに仕上げているものの、辟易しなかったかと言えば嘘になる(隣の人は笑っていたが)。

音楽もパワーアップして「壮大」、「豪華」になった感があり、TV版と同じ場面でもけっこう印象が変わるのでは?と感じた。たとえば、ペンギン帽を追うチェイスの場面はかなり疾走感あふれるものになっていてかなりの高揚感を覚えた。個人的に印象的だったのは、陽毬たちが生き血を取るために鯉を殺そうとするシーンで、あれはそもそも怖い場面だと思うのだが、壮大な音楽により、私にはいっそう怖く感じられた(隣の人は笑っていたが)。

画面的に明らかに変わっているとわかるのは、ゆりが婚約発表するパーティーの前の謎の題字や、苹果が多蕗を襲おうとするシーンで「M」が「マタニティーのM」だと明かされる題字で、要するに「題字」のようなものが挿入されるシーンなのだが、正直少し寒く感じてしまった……(隣の人は笑っていたが)。

正直私はあまりにも見過ぎてしまっているので参考にならない感想なのかもしれない。その意味ではきっちり見返していくよりは気軽に復習せずに行くのがよいかもしれない。だがそんな私でもやはり、プリクリのバンクシーンは劇場で見られて良かったと思った。

 

5. 透明のガラスで傷つくということ

あえてもうひとつ総集編パートで印象的だったことを取り上げるとすれば、高倉家の父・剣山や母・千江美が子どもをかばうシーンをカットしなかった、ということになるだろうか。

「運命」に関する冠葉・晶馬のナレーションがカットされないことなどは当然のこととして受け取れるが、それに比べれば重要度に劣ると思っていた剣山および千江美が子どもをかばって傷つくシーンを入れたのは、やはりそれが大切なのだということを示唆しているように思われた。

このシーンは以前あまり取り上げることがなかったので、反省も兼ねて補足的に解釈しておくと、「透明」なガラスで傷つくことに、意味を見出せるように思う。

「透明」というのは、ピンドラにおいては、社会から見捨てられた子ども、「選ばれなかった」子どもが行き着く「こどもブロイラー」で粉々にされると「透明」になるということに象徴されるように、「何者にもなれない」ということ、他者と区別がつかないほどに愛されないことを意味する。したがって、剣山や千江美は、そうした属性をもつ「透明」のガラスで子ども(冠葉・陽毬)を守ることによって、たとえ疑似家族であっても、「透明」にならないよう、子どもたちを「選んで」いる、と解釈できる。

要するにそれは、(括弧つきの)「家族」であることを象徴するような場面であり、この自己犠牲をもいとわない「愛」がピンドラ全体のテーマともなるために、必要であるし、重要な場面なのだろう。と、改めて受け取った。

 

6. プリンチュペンギンについて

さて、以上で総集編パートのことはよいとして、追加パートでほかに大きいのは桃果、そしてプリンチュペンギンの存在だろう。

小動物としての可愛さを振りまく以外にはそれほど活躍はないのか、と思いきや、後半で唐突にしゃべり出すのには驚いた。しかも「幽霊」を自称し、「呪い」について語る。これは、同じく「幽霊」/「呪い」である眞悧の成り代わりと考えて相違ないだろう。

そこでプリンチュペンギンが謂うのは、要するに「呪い」からは逃れられないということだが、「呪い」とは何だったか。TVシリーズで眞悧はこう言っていた。

「家族というのは一種の幻想、呪いのようなものだと思わない?考えてもみなよ。『家族』という名に縛られて暮らす子供がどれだけいるか。愛と言う名目で子どもを私物化する親、殴る親……彼らが愛しているのは自分自身だけだというのに、子どもはただ、家族という理由で親を愛し、兄弟愛さなければならない」

(『輪るピングドラム』15th station より)

つまり「呪い」とは「家族」である。が、一口に「家族」と言ってもピンドラが想定しているのは血のつながった家族だけではありえない。つまり疑似家族もそこに含まれるわけだが、それをいま、新キャラクターのプリンチュペンギンに言わせる狙いはどこにあるのか。

直近のインタビューでは、監督がこれについても触れていた。

幾原:生きづらさは当時からあったと思うんだけど、それぞれがよりどころにしている、学校だったり、会社だったり、家族のコミュニティの強度が弱くなっている。周辺のコミュニティの強度が弱くなっているから、なおさら家族というコミュニティを守ろうとする……というのは、今の若い人にとってより切実なんじゃないかな。*2

これに続けて監督はシェアハウスの例を出し、「家に帰ったら誰かがいる。そういうのがいいんだろうな」と述べる*3。つまりそこで想定されている「家族」は、やはり血縁関係だけではないのであって、さまざまなコミュニティの強度が(おそらくコロナの影響なども念頭に)失われ、その代わりに「家(ステイホーム)」のプレゼンスが高まっている、それが監督のいう「若い人」の見方なのだろう。

たしかに、コロナなどで、血縁関係から逃れづらくなり、その意味で本当に家族に縛られる若い世代、というのは十分に想定されうる。したがってそのような人達にピンドラが本当に「すっと入ってくる話」になっているならば、それは喜ばしいことなのかもしれない。が、私はそれが実感できるような環境からは、時間的にも空間的にも、ずいぶん遠くへ来てしまった。

はたして本当に、「若い人」のなかでピンドラで表象されるような「家族」の切実さは増しているのか、そういう人たちに、ピンドラは届くのだろうか。

 

おわりに——きっと何者にもなれないお前たちに告げる——

そういうことを滔々と考えているうちにエンディングを迎える。クレジットにはお金を払ったクラウドファンディング支援者の名前が羅列されていた。そこに刻まれた人々は、少なくともそこに名を残していることによって、「存在証明」を果たしたのだろうか。

EDテーマとして流れる「ノルニル」は、「どうして僕はここにいるんだろう」と謳っている。どうして僕はここにいるんだろう。

 

明天し、真っ先に聞こえてきたのは「いや、初見の人はさすがにわかんないんじゃないかなあ」という、おそらくTVシリーズを見たであろう人の声だった。あるいは「昨日予習してきたけど泣いちゃった」とか、「やっぱピンドラいいわ」という声だった。

初日だからそうかあ、と思う反面、思い出したのは、同じくインタビューのなかで、10年前の作品に携わるのは「同窓会のような」感覚か?と聞かれ、「そんな余裕なかったです」とピシャリと答えた監督の在りようだった*4。そこで監督は、ピンドラを「今の若い人に見てもらいたい」とも言っていた。

 

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」――

どうしてもその言葉が頭をよぎる。あれから10年、私は、私たちは「きっと何者かになれる」に足る人物になれたのだろうか。

「あなたたちは誰なのか、なすべきことは何なのか」「でなけば、『運命の乗り換え』は完了しない」――そう問う桃果は、翻って私にも、私たちにも「存在証明」を問うてきているように思えた。

劇場にて(筆者撮影)

【参考文献等】

・幾原邦彦『輪るピングドラム』ピングループ・MBS, 2011年.

・——劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』イクニチャウダー/ピングローブユニオン, 2022年.

劇場版『RE:cycle of the PENGUINDRUM』幾原邦彦監督インタビュー【連載第1回】 | アニメイトタイムズ

 

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