野の百合、空の鳥

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【俺ガイル完 12話】考察・解説「終わったのなら、また始めればいいじゃない」

Ⅰ. 『俺ガイル完』は完結した。

『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』は最終回を迎え、完結した。

当然、いくらかの疑問が残った。例えば、以下のような疑問だ。

  • 奉仕部の「鍵」を渡した意味とは?
  • 以前掛けていなかった眼鏡を掛けたことが意味するのは?
  • 雪乃の髪型が意味するところとは?
  • 「差し伸べられた手」の比較
  • 「彼女がいる人好きになっちゃいけないなんて法律ありましたっけ?」のもたらした意味
  • 「諦めないでいいのは女の子の特権です!」とはどういうことか?
  • 「本物」は見つかったのか?
  • 平塚の「リア充爆発しろ」がもたらす意味とは?
  • 奉仕部がまた始めることができるのはどうしてか?
  • 由比ヶ浜の最後の依頼の意味とは?
  • 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」とはどういうことか?

これはアニメ12話の考察なので、ひとまずそれらの疑問に答えることを目ざす。

 

ところで私の見立てによれば『俺ガイル』は完結しており、同時に未完でもある。「作品(œuvre)」は「おとり(leurre)」であり、その後に「無為(déœuvré)」が続き、その間に永遠の「さまよいーまちがい(erreur)」がある。

そもそも彼らの送ったそれを「青春」と名付ければ、それは初めから全部「嘘」になってしまう。あるいは「青春」であることが「嘘」ならば、それは「まちがっていない」ことになる。

だから私は『俺ガイル』を完結したとは絶対に言わない、言わせてはならない。

『俺ガイル』を閉じた「青春」にさせないために。

私にできることは、なんだ。

 

Ⅱ. 「鍵」と「眼鏡」と「ツインテール」

ⅰ. 「鍵」

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2話タイトルと「鍵」に触れる八幡(『俺ガイル完』2話/12話より, 渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, TBS, 2020)

八幡と雪乃は人生を分け合った。

だから「鍵」も、「眼鏡」も、「ツインテール」も、その証であると読み取るのが無難であろう。

つまり、今まで触れてこなかった「鍵」(2話のタイトルが「今日まで、その鍵には一度も触れたことがない。」だったことを思い出されたい)に触れられたのは、人生を分け合ったからである。

「鍵」は雪乃のひそかな自立性の担保であったと同時に、雪乃の「世界」そのものでもあった(『俺ガイル完』2話考察参照)。したがって「鍵」に触れるのが許されるのは、人生を分有し、これから支え合い、雪乃の「世界」をも受け持つことの表れだと読める。

 

ⅱ. 「眼鏡」

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「眼鏡」を掛けようとして止める雪乃と「眼鏡」を掛けている雪乃(『俺ガイル完』5話/12話, 渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, TBS, 2020)

あるいはあのとき(完5話)掛けなかった「眼鏡」を掛けたのも、彼と彼女が人生を分け合ったからではないだろうか。

あのとき(完5話)雪乃が「眼鏡」を掛けなかったのは、自立を目指し、もはや八幡には頼らまいとする意志の表れであった。

しかし人生を分け合った今、もはやその必要はない。これからは共に生きていくのだから。

 

ⅲ. 「ツインテール」

その髪型を久しぶりに見たと伝える八幡。それに対し雪乃は「……休みの日でも、あまりしないけれど」*1と言う。

これもまた人生を分け合ったからだと、部分的には言えるが、これだけは少し内実が違ってくる

というのは「休みの日でも、あまりしない」というのが本当ならば、アニメ1期6話(③)でしたあのツインテールはなんだったのか?という話になるからだ。つまり素直に読めば、そのころから雪乃にとって八幡は特別だったのではないかという可能性まで読み取れるのである

しかしそうすると、そのときの「付き合ってくれないかしら」*2というセリフも、というかそれ以前のこともそれ以降のことも、まったく違う景色に見えてくる。しかも雪乃は由比ヶ浜の想いを知っているのに、だ(最初の依頼のこと)。

ただそれも「休みの日でも、あまりしない」が本当だったらという仮定の話。あるいはそのセリフは、ただの強がり(可愛げのあるセリフ)かもしれない。

これ以上の解釈は、読者にゆだねることにしたい。

 

 

Ⅲ. 差し伸べられた手

ⅰ. 雪ノ下雪乃の場合

そしてまた、八幡は雪乃と人生を分け合ったからこそ「手を差し出す」*3

「一人で立てるのに……」

「知ってる」

彼女が一人で立てることも、彼女がそう言うだろうということも、知っている。

だが、それでも俺は手を差し出すのだ。

たぶん、これからも。*4

プロムを通して、あるいは「この一年」を通して、八幡は雪乃が一人で立てるということを「知って」きた。

だから彼が手を差し出すのはあえてであり、お互いが自立した上で、独立したそれぞれの人生を分け合っているのだから、それは「他者に必要とされることで自分の存在価値を見出し、満足感や安心感を得ている」=「共依存」とは違う。

だから端的に言えば、これは「共依存」の否定としてなされた表現である。

 

ⅱ. 雪乃は結局「依存」を脱することができたのか?

ただし、以上は言葉の上ではそうなるというだけのことだ(言葉の上でさえそうなっているかどうかにも議論の余地があるように思うが。あるいは、あえて陽乃風にいえば「形だけ、言葉だけこねくり回して」*5いるだけだ)。

だからはっきり言って、以上のことだけで雪乃が完全に「自立」したと言い切れないだろう。そもそも合同プロムもまだ続くのだし、彼女が本当に一人でやれるのかどうかというのは、今後の行動を見ないとわからない話だ。

筆者自身もこの問題を何度も考え直し、複数の答えを提示しているが、そもそも今までの雪乃の態度が「依存」かどうかさえも疑問であるし、最終的に、以上の問題は明確な答えを提示できるような問題ではないように思った(反対に言えばどうとでも言えてしまう問題だと思う)。

ありていに言えば、その解釈は読者にゆだねられ、読者それぞれで異なるということになる。投げやりな形になってしまい申し訳ないが、これまでの考察がご一助になれば幸いである。

 

ⅲ. 平塚静の場合

ところで手を差し伸べられるのは雪乃ばかりではない。八幡もまた、手を差し伸べられる側であった

平塚先生とダンスをした後、こんな一幕があった。

いよっと勢いをつけて立ち上がると、平塚先生は俺に手を差し出す。引き上げてくれようというのだろう。

それに笑顔で、首を振り、俺は自分の力で立ち上がった

平塚先生は、少しだけ寂しそうに笑うと、差し出していた手を下ろそうとする。だが、それより先に、俺はその手をぎゅっと握りしめた。

そして、一礼する。

「お世話になりました」*6

どうして八幡は平塚先生の手を取らず、「自分の力で立ち上がった」のか。

言うまでもなく、それは恩師からの「卒業」を意味している。たくさんのことを教えてくれたこの恩師に、もはやすがることなく、「独り立ち」する。

あえて手を取らないその態度こそが、これまでの教えを体現していると言えるかもしれない。

 

 

Ⅳ. では「本物」は。

ⅰ. 「君の本物は見つかったか?」

以上のように見ると、『俺ガイル』は本格的に「終わった」ように思えてくる。

しかしでは「本物」は? 肝心の「本物」は手に入ったと言えるだろうか?

八幡はこう答えた。

「……君の本物は見つかったか?」

今度は答えるまでに長い時間は必要なかった。それは、先生に教えられたことだから。

考えてもがき苦しみ、あがいて悩み……、俺の答えは決まっている。だから、こつりと頭をぶつけ返して、俺ははっと口の端で笑う。

「どうでしょうね。そうそう見つかるほど簡単なものじゃないでしょう」*7

すなわち八幡は、厳密には、見つかったとも見つかっていないとも答えていない

これについては、「部分的に見つかった」とか、「見つかっていない」とか、そもそも「『本物』なんてない」とか、いろいろなことを言ってもいい(し、読者の方々においても答えが千差万別であると思う)のだが、筆者はひとまず以下のような答え方をしておく。

 

ⅱ. 「本物」とは何だったのか

「本物」だけでいくつも記事が書けるし、その余裕は今はないので、差し当たり、今必要なことだけをここに書く。

すなわち、「本物」とは原理的に到達不可能な、永遠に続く運動である。

まず、「本物」は初出の際、こう語られていた(長いが大切なので今一度じっくり読んでいただきたい)。

俺は言葉が欲しいんじゃない。俺が欲しかったものは、確かにあった。

それはきっと、分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、話したいとか、一緒にいたいとかそういうことじゃない。俺はわかってもらいたいんじゃない。自分が理解されないことは知っているし、理解してほしいとも思わない。俺が求めているものはもっと過酷で残酷なものだ。俺はわかりたいのだ。わかりたい。知っていたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。わからないことはひどく怖いことだから。完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。本当に浅ましくておぞましい。そんな願望を抱いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

けれど、もしも、もしもお互いがそう思えるのなら。

その醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら。

そんなこと絶対にできないのは知っている。そんなものに手が届かないのもわかっている。

手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない。

でも、嘘みたいに甘い果実なんかいらない。偽物の理解や欺瞞のある関係ならそんなものはいらない。

俺が欲しいのはその酸っぱい葡萄だ。

酸っぱくても、苦くても、不味くても、毒でしかなくても、そんなものは存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても。

「それでも……」

[……]

「俺は、本物が欲しい」*8

ここだけでも、いくつかの理由から、「本物」は到達不可能だと言える。

まず互いが「完全に理解したい」という「醜い自己満足を押しつけ合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性」が「本物」なら、他者を「完全に理解」というのは不可能なので、その点で「本物」には到達できない

次に、「手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない」のなら、その「葡萄」、すなわち「本物」というのは「手が届かない」限りで「酸っぱい」のであり、反対に「手が届く」ものは「酸っぱ」くもなく「本物」でもないので、「本物」とは必然的に「手が届かない」もの、すなわち到達不可能なものとなる。

ほかにもあるが、ひとまず以上のように「本物」とは到達不可能なものだと言える。

 

ⅲ. 永遠に続くということ

加えて、この到達不可能という性質は、それを追い続けなければいけないという性質、つまりそれが「永遠に続く運動」であるということにつながる。

このヒントを八幡に与えたのは平塚先生であり、そして12話から言えるのはその態度が純粋に引き受けられているということだ。

まず「ヒント」というのは以下のセリフだ。

考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。――そうでなくては、本物じゃない。*9

 すなわち、「考えてもがき苦しみ、あがいて悩」まなければ「本物」ではないのなら、「考えてもがき苦しみ、あがいて悩」むことをやめた途端、それは「本物」ではなくなってしまう

この点で、まず「本物」は永遠に続く運動である。

そして八幡はこの思想を引き継いでいる。それは⑭以前の複数の巻、複数の記述からわかることだが、差し当たっては⑭の最後の記述のみを記す。

「……君の本物は見つかったか?」

今度は答えるまでに長い時間は必要なかった。それは、先生に教えられたことだから。

考えてもがき苦しみ、あがいて悩み……、俺の答えは決まっている。だから、こつりと頭をぶつけ返して、俺ははっと口の端で笑う。

「どうでしょうね。そうそう見つかるほど簡単なものじゃないでしょう」

[……]

「だから、ずっと、疑い続けます。」*10

こうして、八幡は「ずっと、疑い続け」ることを宣言し、「本物」を求める運動は、永遠に続いてゆくことになる

 

以上をふまえてまとめると、結局「本物」は手に入っていない、というより永遠に手に入らないが、しかしそれを求め続けることが「本物」への真摯な態度であると言えるだろう。

そしてそれは必然的に、「奉仕部」が継続することを意味する。なぜなら「奉仕部」はその点において「本物が欲しい」という「八幡の依頼」を残したままだからだ。

またそれだけではなく、「奉仕部」は由比ヶ浜によっても「また始め」られることとなる

 

 

Ⅴ. 「終わったのなら、また始めればいいじゃない」*11 

ⅰ. 助言

11話の「待たなくていい」、あるいは「あたしは、あたしたちは、初めて本当に恋をした」という発言で、由比ヶ浜との関係は一度終わったかのように見えた。

しかし12話で由比ヶ浜は助言をもらうことで、「また始める」ことになる。

その助言とは、すなわち「彼女がいる人好きになっちゃいけないなんて法律ありましたっけ?」「諦めないでいいのは女の子の特権です!」という助言である。

 

ⅱ. 「諦め」

まず「彼女がいる人好きになっちゃいけないなんて法律ありましたっけ?」という助言は、これまで「なんか……ずるい気がする」*12と言っていた由比ヶ浜の気持ちをいくらか打破したと考えられる*13 。

次に、「諦めないでいいのは女の子の特権です!」というのは、『俺ガイル』という作品の文脈的には「諦めたい」*14「そうやってたくさん諦めて大人になっていくもんよ」*15への応答である。

 「諦め」るのが「大人」の所業なら、当然「諦めない」のは「女の子」であり、そこは対称になっている。そして「諦めない」ことを由比ヶ浜が引き受けることが、「諦めたい」という雪乃に対峙し、また「大人」ではなく「女の子」を続けることにもなるので、「奉仕部」は存続する(付言するなら、「本物」を求めるという行為は「諦め」に至れない行為でもあるので、「本物」を求めるということは「諦め」ないということでもあり、結局「本物が欲しい」と依頼された「奉仕部」が存続する)。

 

ⅲ. Re : 最初の依頼(あるいは最初の「お願い」)

また、そうでなくとも、由比ヶ浜には最初の依頼があり、それが「奉仕部」を継続させていると見ることもできる。

最初の依頼(あるいは「お願い」)が完全なブラックボックスであるところに「奉仕部」(あるいは『俺ガイル』)の核心はある*16つまりそれは「秘密」であり、「決定不可能」なものである。

したがって、「奉仕部」がやり残した依頼というのは、11巻末で言われていた「最後の依頼」だけでないのかもしれず、つまり最初の依頼、つまり由比ヶ浜の依頼も解決していない可能性がある。そこに「奉仕部」が終わらない余地が生まれる。

それだけで「奉仕部」は存続の理由になりうるのだが、由比ヶ浜はそこに「依頼っていうか、相談」を重ね、「奉仕部」を「ずっと続く」ものにまで押し上げる。

「えっと……依頼っていうか、相談なんだけどね?」[……]

「あたしの好きな人にね、彼女みたいな感じの人がいるんだけど、それがあたしの一番大事な友達で……。……でも、これからもずっと仲良くしたいの。どうしたらいいかな?」[……]

「どうぞ掛けて。長くなりそうだから」

「……うん、長くなるかも。今日だけじゃ終わんなくて、明日も明後日も……ずっと続くと思うから」[……]

「そうね。……きっと、ずっと続くわ」*17

 こうして、「奉仕部」は「ずっと続く」

 

Ⅵ. 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」とはどういうことか

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『俺ガイル完』はタイトルで幕を閉じる(『俺ガイル完』12話, 渡航, 小学館, やはりこの制作委員会はまちがっている。完, TBS, 2020)

ああ、やはりだ。

やはりと言わざるを得ない。

――やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。*18

アニメ『俺ガイル完』はタイトル「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」で幕を閉じる。

では、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」とはどういうことだろうか?

 

例えば、「正しい」青春というのがあったとすれば、それはどういうものだろう?

それはきっと、「ふつうの」ラブコメのように、冴えない主人公が、ささいなことをきっかけに美少女とお知り合いになり、最初は対立するのだが、しかし最後には結ばれる、そういうものだろう。

 

しかし『俺ガイル』はそうではない。

いや、もちろん結果だけ見ればそれは「青春」かもしれない。冴えない主人公が結果的に美少女と結ばれる、まごうとなきラブコメだ。

しかし過程は決定的に異なっている。どうしようもなくひねくれていて、どこまでも素直ではなく、すんなりいくはずのところで躓く。

その点で、一筋ではいかない彼ら彼女らの青春を、やはりこう形容せざるを得ないのだろう。

――やはり彼ら彼女らの青春ラブコメはまちがっている、と。

 

 

Ⅶ. おわりに

まずはいろいろな方にお礼が言いたい。

何よりもまず、こんな素敵な作品をアニメーションにして、そこに息吹を吹き込んでいただいたスタッフ、関係各位様方に、僭越ながら感謝申し上げたい(いえ、本当に僭越ながらという感じで、まったく感謝できるような立場にはないのだけれど……)。

それからこれを読んでくださった読者の方々にも改めて感謝申し上げたい。「完」の考察を始めてから様々な方と交流できて、本当に嬉しかったし、たいへん刺激を受けた(これは本当に本当のこと)。

 

『俺ガイル』との出会いはもう10年近く前になる。

身バレは避けたいのでやや濁すが、出会った頃はそれこそ思春期(幅の広い言い方)で、『俺ガイル』の影響で友達をつくらなかったり、あるいは自己紹介で「趣味は人間観察」と言ったり、それはそれはまごうとなきクソガキだった。

それが『俺ガイル』にのめり込むうち、そのスタンスが本当にリアルの人間関係ともリンクし、また、『俺ガイル』を頑張って読み込んでいくうちにめちゃくちゃ国語の成績が伸びたこともあった(センター試験(死語)の成績が2倍くらいになった)。

そしてこれも詳しくは言えないが、『俺ガイル』は今の自分のなりわいにも影響している。端的に言って、『俺ガイル』にめちゃくちゃ影響を受けた人生である。

そんな『俺ガイル』がひとつの「終わり」を迎えようと言うのだから感慨深いことこの上ないのだが、どうしても実感はわかない。

それにまだ仕事は残っている。「この模造品に、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に」*19

 

これからも『俺ガイル』の記事は書く。差し当たっては書いていなかった12-14巻の考察、それから「新」の考察(「新」が完結してからになるかもしれないが)を書きたい。

というわけで、ただでさえまだ続くので、またお読みいただけたなら、本当に嬉しい限りである。

普段はTwitter*20にいる(と思う)ので、細かい挙動が知りたい方はそちらにアクセスしていただければ幸いである。

それでは。

 

<参考文献等>

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。①-⑭』(小学館 ガガガ文庫、2011-2019)。 

アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2013)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続』(2015)、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』(2020)。

<『俺ガイル』記事一覧>

 

∞. おわりに ――これはおわりではない――

ところで、これまでのすべては「嘘」である。

なぜなら、彼ら彼女らのそれが「まちがっている」ことまで含めて「青春」だと呼べるのなら、「青春とは嘘であり、悪である」ために、それは「嘘」になるからだ。

 

ところが「嘘」であるはずの彼ら彼女らのそれは、実際「青春」だと規定されている。

まずそれは平塚によって規定される。彼女は八幡の「この一年」を「君なりの青春の過ごし方だとはいえるのかな」*21と言い、それを「青春」だと規定する。

極めつけは彼女の最後のセリフ「リア充爆発しろー!」*22である。「リア充爆発しろ」というのは、「青春とは嘘であり、悪である」から始まる「レポート」*23の結論(「結論を言おう。リア充爆発しろ。」)であったはずだ。そうだとすれば、その「レポート」で「リア充」とされていたもの、すなわち「青春を謳歌せし者たち」は、まさしく比企谷八幡たちだということになるはずである。

 

あるいはそれは比企谷八幡自身によっても規定されている。⑭において、物語は「なるほど、これが青い春か、俺はまた新たな季節が訪れたことをひしひしと実感していた。/ああ、やはりだ。/やはりと言わざるを得ない。/――やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」*24という地の文で幕を閉じる。

そしてこれは「だから、比企谷八幡はそう言った」と題された章の終わりである。それならば、その最後の地の文は、比企谷八幡のモノローグということになり、したがって八幡は彼ら彼女らのそれを「青春」だと規定していることになる。

したがって以上のことから、彼ら彼女らのそれが「青春」になるのだが、そうだとするとやはり「青春とは嘘であり、悪である」ために、それは「嘘」になる。

――ここで話はまず一巡する。

 

しかし実際、彼ら彼女らの「青春」はそこに、物語の中に、文章の中に(あるいはモニターの中に)現前しており、それは「嘘」ではないはずである。

いや、本当にそうだろうか? なぜなら、「青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺く」*25からだ。

もしその言葉が本当なら、彼ら彼女らは我々を「欺」いていたことになり、すなわち、やはりそこに現前していた「青春」は「嘘」だということになってしまう。

――こうして話は二巡する。

 

しかしそうだとすれば、いったい何を信じればよいのか?

彼ら彼女らの言葉が「嘘」ならば、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』はすべて「嘘」なのか?

あるいは、実は①の巻頭に付された「レポート」は警告なのか?「青春とは嘘であり、悪である」から始まる文章は、これから描かれる「青春」がすべて「嘘」であるという勧告なのか?

いや、むしろ①-⑭すべてが「レポート」なのか? ①11頁の用紙はクリップでそこに止められている。ということは、そのクリップに止められたそれ以降にある用紙、つまり①-⑭のすべてが「レポート」であり、そのすべてが「嘘」だと訴えられているのか?

 

いやいや、冷静になれば、その「レポート」こそ「嘘」なのだ。つまり、「青春とは嘘であり、悪である」ということが「嘘」なのだ。

しかしそうだとすれば、「青春とは嘘ではない、あるいは悪ではない」ということになりはしないか?

それもおかしい。なぜなら彼ら彼女らの「青春」は「嘘」だらけだし「悪」だらけだからだ。八幡のモノローグは、モノローグという体をとっているのにも関わらず、そこには本心など記述されておらず、どれも「嘘」で、大事な部分は「秘密」にされている。

あるいは雪乃の、由比ヶ浜の言葉や態度が、どこまで「嘘」でないと言い切れるのか? 八幡の一人称で語られた物語は、八幡の一人称であり、雪乃や由比ヶ浜のどこまでが本当だかわからない。

そもそもそうして語られた雪乃や由比ヶ浜だって「嘘」をついている。あるいは「悪」を隠している。

 

それに、もし「レポート」が「嘘」だとするならば、テクストそのものが「嘘」だということになるので、以降続くテクスト、すなわち①-⑭も「嘘」に値するものになってしまう。

そうだとすれば、やはり、彼ら彼女らの「青春」は「嘘」になってしまう。

――ここで話が三巡する。

 

あるいは、そもそもタイトルからして『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』と、「まちがっている」ことを伝えてくれているのか?

ただそれを伝えているのは渡航という人物、作者であって、しかしこの作者も信用できるかたしかでない。渡航も、八幡と同じで、大事なことはひた隠しにして、(Twitterで)あるいは「嘘」を言っている。

しかし作者さえ信用ならないなら、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』すらも「嘘」になる。

――こうして話は巡回し続ける。

 

では、いったい何が「本物」か。

ここから問い直しが始まる。「本物」を探す旅が始まる。

しかしそれは果てしのない旅(「夜の果てへの旅」)であり、終わりのない旅だった。というのは、「本物」というのは原理的に到達不可能なものなのだから。

 

ならば結局そこにあるのは何なのか。

「青春」なのか、「青春」ではないのか。「まちがっている」のか、「まちがって」いないのか。「完結」なのか、「未完」なのか。

こう答えよう。それは「青春」であり「青春」でない、「まちがっている」のであり「まちがって」いない、「完結」であり「未完」である、と。

なぜなら、「完結」はしていないと唱えるのは当然のこととして、しかしまた「未完」であると断ずることは、「未完」という名の「完結」というお馴染のロジックに陥ってしまうからだ。

 

とするならば、私がここで言えるのは、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』は完結しており、同時に、未完でもあるということである。

この「さまよい(erreur)」に真の「まちがい(erreur)」がある。私は、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の言う「まちがい」とは、この「まちがい(erreur)」であると解く。

しかしそれはまた「さまよい(erreur)」であるために、「問い直し」を始める。

「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め。――そうでなくては、本物じゃない。」*26

それさえ「問い直し」つつ、「私は何度でも繰り返す」。

もしも、願うものが与えられるのなら、欲しいものが貰えるのなら。

やはり俺は何も願わないし、欲しない。

与えられるものも、貰えるものも、それはきっと偽物でいつか失ってしまうから。

願うものには形がない、欲しいものには触れられない。あるいは、手にしたら最も素晴らしい宝物を台無しにしてしまうのかもしれない。

輝く舞台で目にしたあの『物語』の結末。

その先を俺はまだ知らずにいる

だから、きっと求め続ける。*27

                      

*1:⑭414頁。以下アニメ『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完』11話について考えるために、その原典である小説『俺ガイル』を適宜引用する。なお小説『俺ガイル』からの引用は巻数を丸数字で略記し、頁数のみ記す。

*2:③97頁。なおこのセリフはアニメと原作とでそのセリフが発される時系列が異なるため、そこにも異なる意味が生じてしまう恐れがある。

*3:⑭470頁。

*4:⑭470頁。

*5:⑭287頁。

*6:⑭506頁。太字は筆者による。

*7:⑭504頁。

*8:⑨253-255頁。

*9:⑨235頁。

*10:⑭504-505頁。太字は筆者による。

*11:③239頁。

*12:⑪222頁。

*13:ただし、由比ヶ浜がどれほど倫理的かということについては詳しく吟味する必要がある。そもそも⑤の時点で、由比ヶ浜は八幡に想いを告げようとしていた節があり(⑤208-212頁)、その時点でフェアではない。したがって由比ヶ浜はむしろ、八幡と雪乃、両人への想いを日々積み重ねていった結果「ずるい気がする」と発言するに至ったと考えられる。さらに言えば雪乃は②で由比ヶ浜の想いを知っているのであり、その時点で最初から雪乃と由比ヶ浜は非対称である。

*14:⑫49頁。

*15:⑫88頁。

*16:これに関しては以下サイト様(やはり俺の俺ガイル考察はまちがっている。 | やはり俺の俺ガイル考察はまちがっている。  )、とくに結衣の依頼は「クラスのヒッキーと仲良くしたいの」であった。 | やはり俺の俺ガイル考察はまちがっている。を参照されたい。上記サイト様はこの核心から出発して、たいへん優れた考察を展開されている。

*17:⑭523頁。

*18:⑭526頁。

*19:⑭309頁。

*20:才華@俺ガイル (@zaikakotoregail) | Twitter

*21:⑭503頁。太字は筆者による。

*22:⑭507頁。

*23:①11頁。

*24:⑭526頁。太字は筆者による。

*25:①11頁。

*26:⑨235頁。

*27:⑨429頁。原文ママ。